第40話 心配し返されると、思ったより逃げられない
翌朝、雨は上がっていた。
道路の端にはまだ水たまりが残っていて、街路樹の葉から時々しずくが落ちている。空は薄い灰色だったが、傘を差すほどではない。
白石透は、いつもの駅の柱の前に立っていた。
もう、ここに立つこと自体には慣れてきた。
慣れてきた、というより、認めた方が早い。
待っている。
玲央を待っている。
それを自分の中でごまかさなくなったぶん、少しだけ楽になった。
ただし、楽になったからといって照れなくなるわけではない。
改札の向こうから玲央の姿が見えた。
いつもと同じ制服。
いつもと同じ歩き方。
けれど、近づいてくる途中で、玲央が小さく咳をした。
透は眉を寄せた。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
返事をしてから、透はすぐに聞いた。
「……今、咳した?」
「少し」
「風邪?」
「たぶん違う」
「たぶんって何だよ」
「喉が少し乾いただけ」
「昨日、肩濡れてたからだろ」
透がそう言うと、玲央は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
「透、覚えてた?」
「覚えてるだろ。朝も帰りも濡れてたし」
「そこまでじゃない」
「俺が同じこと言ったら、おまえ絶対保健室だのタオルだの言うだろ」
「言う」
「じゃあ自分にも適用しろって昨日も言った」
「うん」
「うん、じゃなくて」
玲央が少しだけ笑う。
その笑い方がいつもより少し弱く見えて、透は余計に落ち着かなくなった。
「……本当に大丈夫か?」
「大丈夫」
「信用できない」
「透に言われると不思議」
「何で」
「いつも俺が言ってる側だから」
「今日は俺が言う側だ」
そう言った瞬間、玲央の表情がやわらかくなる。
「嬉しい」
「今、嬉しがる場面じゃない」
「でも嬉しい」
「風邪疑惑で喜ぶな」
「心配してくれてるから」
「普通だろ」
「透だから、普通より嬉しい」
朝から重い。
そう返そうとして、透はやめた。
たぶん言っても、玲央はまた嬉しそうにするだけだ。
「……とりあえず、学校着いたら水飲めよ」
「うん」
「あと、また咳出たら言え」
「うん」
「本当に分かってるか?」
「分かってる」
玲央はそう言って、少しだけ咳払いをした。
全然分かっていない気がした。
◇
学校へ向かう道で、透はいつもより何度も玲央を見た。
顔色が悪いわけではない。
歩き方も普通だ。
それでも、たまに喉を押さえる仕草をする。
昨日の雨のせいかもしれない。
自分と歩いていたせいで、傘を寄せたり外側を歩いたりして、玲央の方が余計に濡れたのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少し重くなった。
「透」
「何」
「見すぎ」
「……見てない」
「見てた」
「咳してたからだろ」
「心配?」
「だから、そうだって言ってるだろ」
言ってから、透は自分で少し驚いた。
あまりにも普通に認めてしまった。
玲央も少しだけ黙る。
「何」
「いや」
「何だよ」
「今、普通に心配って認めた」
「咳してるやつを心配するのは普通だろ」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「……知ってる」
またいつもの返し。
でも今日は、玲央が嬉しそうにするたびに少し困る。
嬉しがっている場合ではない。
喉が痛いなら休め。
濡れたならちゃんと拭け。
そんなふうに言いたくなる。
「透」
「何」
「今日、少し過保護」
「おまえが言うな」
「俺、そんなに?」
「自覚ないのか?」
「透のことになると、あまり」
「開き直るな」
玲央はまた小さく笑った。
そのあと、少しだけ咳をした。
透は無言で睨んだ。
「……ごめん」
「謝るなら大事にしろ」
「うん」
今度の返事は、少しだけ素直だった。
◇
教室に入ると、高城がいつものように顔を上げた。
「おはよう、待ち合わせ組」
「おはようだけでいいって何回言わせるんだよ」
「じゃあ、おはよう。で、今日も白石が待ってた?」
「待ってた」
「即答するようになったなあ」
高城がしみじみと言う。
直も前の席からこちらを見た。
「榊原、ちょっと声低くない?」
透が反応する前に、直が気づいた。
さすがというか、余計というか。
玲央は鞄を置きながら答える。
「少し喉が乾いてるだけ」
「昨日の雨?」
「かも」
「水飲めよ」
直が言う。
「さっき透にも言われた」
玲央が普通に返した。
高城が一気に目を輝かせる。
「白石が心配したの?」
「……普通だろ」
「普通って顔じゃない」
「顔で判断するな」
「白石、めっちゃ気にしてる顔してるぞ」
「してない」
「してる」
直まで頷く。
「朝から榊原の肩とか喉とか見てそう」
「何で分かるんだよ」
「当たってるのか」
「……」
沈黙が答えになった。
高城がにやにやする。
「いやあ、いいな。心配される榊原」
「茶化すな」
透が低く言うと、高城は両手を上げた。
「悪い悪い。でも本当に喉やばそうなら保健室行けよ」
「うん」
「白石、連れてってやれ」
「何で俺が」
「一番心配してるから」
「……」
言い返せないのが嫌だった。
玲央は隣で少しだけ笑っている。
「笑うな」
「嬉しくて」
「だから、嬉しがるところじゃない」
「でも、透が怒ってる理由が俺の心配だから」
「……そういう言い方するな」
玲央は喉を押さえながらも、少しだけ満足そうだった。
これは本当に、放っておくと無理するタイプだ。
透はそう確信した。
◇
一時間目の途中、玲央は一度だけ小さく咳をした。
教室の中ではほとんど聞こえないくらいの音だった。
先生も気づいていない。
高城などは完全に黒板を見ている。
でも、透には聞こえた。
自分でも嫌になるくらい、すぐに分かった。
授業が終わると同時に、透は席を立った。
玲央の席へ向かう。
「玲央」
「何?」
「保健室行くぞ」
「え」
「喉。さっきまた咳しただろ」
「そこまでじゃない」
「そこまでかどうかは先生が判断する」
言った瞬間、玲央が少しだけ目を丸くした。
「何」
「透が俺みたいなこと言った」
「おまえがいつも言うから覚えたんだよ」
「そっか」
「嬉しそうにするな。行くぞ」
玲央は少しだけ迷ったようだった。
けれど、透が本気で引かないと分かったのか、静かに立ち上がった。
「分かった」
高城が後ろから小さく言う。
「うわ、白石が榊原を保健室に連行してる」
「聞こえてるぞ」
「いや、いいと思う。行ってこい」
直も軽く頷いた。
「念のため見てもらった方がいい」
玲央は少し恥ずかしそうにしていたが、透は構わず廊下へ出た。
◇
保健室へ向かう廊下は、休み時間のざわめきで少し騒がしかった。
透は玲央の横を歩きながら、何度も言いたいことを飲み込んだ。
だから昨日濡れたままにするなと言った。
雨の日に無理するな。
自分のことになると雑すぎる。
全部言いたい。
でも、全部言うと本当に過保護みたいになる。
いや、今さらかもしれない。
「透」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってる顔」
「……心配してる顔だろ」
言ってから、透は足を止めそうになった。
また、かなり素直なことを言った。
玲央も一瞬黙る。
「透」
「何」
「今日、すごい」
「何が」
「ちゃんと言ってくれる」
「おまえが咳するからだろ」
「うん」
「喜ぶな」
「ごめん。でも嬉しい」
「本当に、嬉しがるところじゃない」
玲央は少しだけ笑って、また小さく咳払いした。
透は眉を寄せる。
「ほら」
「今のは咳じゃなくて」
「同じようなもんだろ」
「厳しい」
「おまえにはこれくらいでいい」
保健室の前に着き、透がノックする。
中にいた養護教諭は、玲央の喉を見て、体温を測り、軽い風邪気味かもしれないから今日は無理しないようにと言った。熱はなかった。
「乾燥と昨日の雨で少し喉をやられたのかもね。水分取って、今日は早めに寝ること」
「はい」
玲央が素直に返事をする。
透は隣で腕を組んで聞いていた。
養護教諭が少し笑う。
「白石くん、そんなに心配しなくても大丈夫そうよ」
「……別に、そんな」
「顔に出てる」
先生にまで言われた。
最悪だ。
玲央は横で笑いをこらえている。
「笑うな」
「ごめん」
全然反省していない声だった。
◇
保健室を出たあと、玲央はもらったのど飴を手にしていた。
「授業戻るぞ」
透が言うと、玲央は頷く。
「うん」
「今日は放課後、寄り道なし」
「してない」
「コンビニとかもなし」
「水は?」
「学校で飲め」
「厳しい」
「帰ったらすぐ休め」
「透、完全に保護者」
「誰のせいだ」
玲央が小さく笑う。
「でも、嫌じゃない」
「おまえが言うな」
「透に心配されるの、嫌じゃない」
「……」
それは、ずるい。
透は廊下の窓の外へ視線を逃がした。
雨は止んでいる。
けれど空はまだ灰色で、校庭には水たまりが残っていた。
「……心配するのも疲れるんだぞ」
「うん」
「だから、あんまり無理するな」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「信用できない」
「じゃあ、透が見てて」
心臓が、変な音を立てた。
透は横を見る。
玲央は、静かにこちらを見ていた。
からかっているようでいて、少しだけ本気の目だった。
「……そういうの」
「うん」
「軽く言うな」
「軽くない」
「余計悪い」
「ごめん」
玲央が少しだけ目を伏せる。
そこで引かれると、また困る。
透は小さく息を吐いた。
「……見てるよ」
言った。
言ってしまった。
玲央が顔を上げる。
「だから、ちゃんと休め」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
廊下で、いつもの言葉が返る。
でも今日は、いつもより少しだけ深く胸に残った。
◇
昼休み、玲央はちゃんとのど飴を舐めていた。
透が何度も見るので、最終的に玲央の方から言った。
「ちゃんと舐めてる」
「見れば分かる」
「水も飲んだ」
「足りない」
「透、厳しい」
「今日は厳しくする」
高城が弁当を食べながら、にやにやしている。
「白石、完全に看病モードじゃん」
「看病じゃない」
「いや、かなりそう」
直も頷く。
「保健室連れて行って、水分管理して、放課後の寄り道禁止。看病というより管理」
「言い方」
「でも榊原、嬉しそうだな」
「うん」
玲央は否定しなかった。
透は箸を止める。
「そこは少し否定しろ」
「嬉しいから」
「喉痛いんだろ」
「それはそれ」
「分けるな」
高城が笑う。
「榊原、具合悪いわけじゃなくて、白石に心配されて元気になってない?」
「あり得る」
直が淡々と言う。
「ないだろ」
透が言うと、玲央が少しだけ笑った。
「少しあるかも」
「おまえも乗るな」
「でも、朝より楽」
「それはのど飴と水のおかげだ」
「透のおかげもある」
昼休みの教室で、堂々とそれを言う。
透はもう箸を置きたくなった。
「……本当に、そういうことを言うな」
「ごめん」
「謝る気ないだろ」
「少しある」
「少しなのかよ」
玲央は小さく笑って、また水を飲んだ。
その仕草を見て、透は少し安心した。
やっぱり、見ている。
自分でも分かるくらい、玲央のことを気にしている。
もう否定する方が難しかった。
◇
放課後、雨は完全に止んでいた。
雲の切れ間から薄い光が差し、濡れた校庭が少しだけ光っている。
湿った空気の中、校舎の外へ出ると、朝よりもずっと歩きやすかった。
透は傘立てから傘を取りながら、玲央を見た。
「寄り道なし」
「分かってる」
「本当にまっすぐ帰れよ」
「透と一緒に帰る」
「そこはまあ……いつも通りだろ」
玲央が少しだけ笑う。
「いつも通り」
「何だよ」
「透が言った」
「別に普通だろ」
「うん。普通になってきた」
普通。
その言葉が、前よりずっと特別に聞こえる。
二人で校門を出る。
傘は持っているが、差さなくていい。
雨上がりの道を並んで歩く。
「透」
「何」
「今日はありがとう」
「何が」
「保健室連れて行ってくれたこと。心配してくれたこと」
「……体調悪そうだったら普通だろ」
「透の普通は、嬉しい」
「またそれ」
「うん」
「まあ、もう今日は言わせておく」
透がそう言うと、玲央は少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「喉痛いやつと口論しても仕方ない」
「明日なら?」
「明日は知らない」
「じゃあ今日だけ」
「そうしろ」
玲央が静かに笑う。
雨上がりの道は、いつもより少し空気が冷たかった。
透は隣を歩く玲央を見ないまま言う。
「……明日の朝」
「うん」
「無理そうなら、待たなくていい」
「行く」
「即答するな。喉、悪化したら休め」
「でも、行きたい」
「……」
行きたい。
待ち合わせたい、ではなく。
行きたい。
その言い方に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……じゃあ、無理しない範囲で」
「うん」
「俺も待ってるけど」
玲央が足を止めそうになった。
透は前を向いたまま続ける。
「来なかったら、体調悪いんだと思って先に行く」
「透」
「何」
「待ってるって言った」
「……言った」
「嬉しい」
「知ってる」
いつもの返し。
でも今日のそれは、少しだけ穏やかだった。
雨の日に傘を差し出されると、もう言い訳が苦しい。
そして、咳をした相手を心配して保健室へ連れて行くのも、もうただのクラスメイトの距離ではない。
透はそこまで分かっていた。
分かっていて、それでも隣を歩いた。
雨上がりの道を、いつものように。




