第39話 雨の日に傘を差し出されると、もう言い訳が苦しい
翌朝、雨が降っていた。
窓を開ける前から、音で分かった。
細かい雨粒がベランダの手すりを叩き、道路を走る車の音がいつもより少し湿っている。
白石透は制服に着替えながら、少しだけ眉を寄せた。
雨の日は嫌いではない。
嫌いではないが、通学となると話は別だ。
傘で片手はふさがるし、靴は濡れるし、駅の床は滑りやすい。電車の中も湿った空気で少し重くなる。何より、傘を畳んだり開いたりするタイミングが地味に面倒くさい。
それでも、今日はいつもより早く家を出る気になっていた。
理由は分かっている。
駅で、玲央が来るのを待つからだ。
もうそこに関しては、言い訳をしなくなってきている。
待つ。
同じ時間に行く。
玲央が来たら、一緒に学校へ向かう。
それが少しずつ朝の習慣になりかけている。
傘立てから紺色の傘を取り、玄関を出る。
雨は思ったより細かかったが、風があるせいで横から吹き込んでくる。
「……面倒だな」
小さく呟きながら傘を開いた。
駅へ向かう道は、いつもより人の歩く速度が遅かった。
傘同士がぶつからないように距離を取り、信号待ちの列も少し広がっている。電車に乗る頃には、ズボンの裾が少し湿っていた。
それでも、改札を抜ける時には、透の意識は自然と柱の方へ向いていた。
いつもの場所。
玲央は、もういた。
黒い傘を閉じて、柱のそばに立っている。制服の肩が少し濡れていた。たぶん、駅に入る前に風で雨を受けたのだろう。
透は足を止めた。
今日は自分が待つつもりだったのに。
玲央の方が先だった。
「おはよう、透」
玲央がこちらに気づいて、いつものように言う。
「……おはよ、玲央」
「今日は俺が先だった」
「見れば分かる」
「雨だから、透が少し遅れるかと思って」
「遅れない」
「知ってる。でも、待ってたかった」
雨の日の駅前で、そんなことを普通に言う。
透は傘を軽く振って水滴を落としながら、顔を逸らした。
「……濡れてるぞ、肩」
「少し」
「少しじゃないだろ。何でそんなところで待ってるんだよ」
「いつもの場所だから」
「雨の日くらい、もうちょっと奥にいろよ」
「透が見つけやすいと思って」
言い返せなかった。
たしかに、自分はまずこの場所を見た。
ここに玲央がいたから、すぐ見つけられた。
それが分かるから、余計に困る。
「……風邪ひくぞ」
「平気」
「昨日もそういうこと言ってたら、絶対怒ってたよな、おまえ」
「透が濡れてたら怒る」
「自分にも適用しろ」
透が少し強めに言うと、玲央は一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「心配してくれた?」
「……普通するだろ」
「うん」
「そこで嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
また、いつものやり取りになった。
雨の音が、駅の屋根を薄く叩いている。
人の流れはいつもより少し急ぎ足で、傘を持った生徒たちが次々と外へ向かっていく。
透は玲央の肩をもう一度見た。
「……学校まで、傘ちゃんと差せよ」
「差すよ」
「風強いから、濡れたら言え」
「言ったら?」
「……こっち寄ればいいだろ」
言ってから、透は固まった。
玲央も黙った。
数秒、雨音だけが妙に大きく聞こえた。
「……今のは」
「うん」
「変な意味じゃない」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「嬉しい顔」
「最悪だ」
玲央は小さく笑った。
透は傘を握り直し、逃げるように外へ向かった。
◇
駅を出ると、雨はさっきより少し強くなっていた。
学校へ向かう道には、傘の列ができている。
透明なビニール傘、黒い傘、紺色の傘、女子の明るい色の傘。歩くたびに、傘の端から雨水が細い線になって落ちていた。
透と玲央は並んで歩いた。
ただし、普段より距離が近い。
傘があるからだ。
傘同士がぶつからないようにすると、肩の距離がいつもと少し変わる。
近い。
けれど、離れすぎると傘がぶつかる。
どうにも言い訳が立つ距離だった。
「透」
「何」
「傘、当たってる」
「そっちが寄ってるんだろ」
「透が壁側に寄りすぎ」
「人が多いからだよ」
「じゃあ、少しこっち」
玲央が自然に外側へ回る。
雨の日でも、やっぱりそうする。
人が多い側、車道に近い側を玲央が歩く。
それに気づいて、透は少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。
「……おまえ、ほんとそういうの自然にやるよな」
「何が?」
「外側歩くとか」
「雨の日は特に危ないし」
「俺、そんなに危なっかしいか?」
「危なっかしいっていうより、気になる」
玲央は前を向いたまま言った。
それがまた、ずるい。
「……朝から重い」
「でも本当」
「知ってる」
言ってしまってから、透は少しだけ笑いそうになった。
最近、この返しがあまりにも自然になっている。
玲央も同じことを思ったのか、少しだけ口元を緩めた。
「何」
「透が普通に返してくれるの、やっぱり嬉しい」
「雨の日にまで嬉しがるな」
「雨の日だから余計に」
「意味分かんない」
「一緒に歩いてる感じがする」
透は黙った。
雨の中、傘を差して並んで歩く。
文化祭の時のような騒がしさはない。
焼きそばも、占いも、写真を撮った夕方の光もない。
ただの雨の通学路。
なのに、玲央と歩いていると、その普通の景色まで少し変わる。
悔しいけれど、玲央の言ったことが少し分かってしまった。
「……まあ」
「うん」
「雨の日に一人で歩くよりは、ましかもな」
玲央が少しだけこちらを見る。
「それ、かなり嬉しい」
「言うと思った」
「うん」
「でも一回だけな」
「分かった」
玲央は本当に嬉しそうだった。
雨で少し暗い朝なのに、その顔だけははっきり分かった。
◇
教室に入ると、高城が机の上に突っ伏していた。
「雨の日、無理……」
朝からそれだった。
直が隣で淡々と教科書を出している。
「おまえ、雨じゃなくても朝はだいたい無理だろ」
「今日は湿気が敵」
「昨日は眠気が敵って言ってた」
「毎日敵がいるんだよ」
透は傘を畳んで傘立てに置き、鞄を机に掛けた。
玲央も隣で同じように傘をまとめる。
高城がようやく顔を上げた。
「あ、待ち合わせ組来た」
「雨の日くらいその呼び方休め」
「雨の日でも一緒に来るんだから、むしろ強化版だろ」
「何がだよ」
直が透と玲央を見比べる。
「二人とも肩、少し濡れてるな」
「雨だからな」
透が返すと、直は少し目を細めた。
「榊原の方が濡れてる」
「……風が強かっただけだろ」
「白石が気にしてる顔」
「してない」
「してる」
高城がにやっと笑った。
「榊原、白石に心配された?」
「された」
「おい」
透は即座に玲央を見る。
「そこ正直に言うな」
「でもされた」
「普通の注意だろ」
「風邪ひくぞって言われた」
「説明するな!」
高城は一気に目が覚めたようだった。
「うわ、いいな雨の日イベント」
「イベントじゃない」
「でも傘差して一緒に登校して、濡れてる肩心配して、って完全にラブコメじゃん」
「学園ラブコメの中に生きてるみたいな言い方するな」
「いや、今かなりそうだった」
直も少し笑っている。
「白石、もう否定にキレがないぞ」
「朝から雨で疲れてるだけだ」
「便利な言い訳」
「便利だから」
玲央が小さく笑う。
透はそれを見て、また顔を逸らした。
◇
一時間目が終わっても、雨は止まなかった。
窓の外は灰色で、校庭には水たまりができ始めている。体育の授業は中止になったらしく、別のクラスの生徒たちが少し残念そうに廊下を歩いていた。
透は休み時間、窓際に立って外を見ていた。
雨の日の学校は、音が少し違う。
廊下の足音も湿って聞こえるし、教室のざわめきも少し落ち着いている。窓を叩く雨音が一定で、眠気を誘うようでもあった。
「透」
隣に玲央が来る。
「何」
「眠そう」
「雨音が悪い」
「高城みたいなこと言う」
「やめろ」
玲央は少しだけ笑った。
透は玲央の肩をちらりと見た。
朝よりは乾いているが、まだ少し濡れた跡が残っている。
「……制服、大丈夫か?」
「平気」
「乾いた?」
「少し」
「保健室でタオル借りればよかったのに」
「そこまでじゃない」
「おまえ、俺が同じこと言ったら絶対借りろって言うだろ」
「言う」
「だから自分にも適用しろ」
玲央は少しだけ目を瞬かせた。
「透」
「何」
「今日、ずっと心配してくれる」
「濡れてたら普通に気になるだろ」
「俺だから?」
直球だった。
透は言葉に詰まった。
窓の外で、雨が強くなる。
「……そういう聞き方するな」
「ごめん」
「謝るな」
「でも聞きたかった」
「……」
透はしばらく窓の外を見ていた。
ごまかすこともできた。
普通、と言って流すこともできた。
でも、最近はそれが少しずつ下手になっている。
「……玲央だから、気になるんだろ」
声は小さかった。
それでも、玲央には届いた。
玲央が黙る。
透はすぐに付け足す。
「今のは、別に、変な意味じゃなくて」
「うん」
「いや、うんじゃなくて」
「嬉しい」
「言うな」
「無理」
「……知ってる」
まただ。
玲央が、本当に嬉しそうに笑う。
その顔を見て、透は思った。
雨の日に傘を差し出されるより、こういう顔をされる方がよほど心臓に悪い。
◇
昼休みも、雨は続いていた。
購買はいつもより混んでいたらしく、高城が戻ってくるなり「雨の日の購買は戦場」と言った。
「毎日何かと戦ってるな」
直が呆れた声で返す。
「今日は湿気と購買列」
「二正面作戦か」
「そう」
透は弁当を開けながら、少し笑いそうになった。
玲央は今日も隣に来た。
「ここ、いい?」
「うん」
「ありがとう」
高城がそれを見て、急に真面目な顔をする。
「なあ、榊原」
「何?」
「その確認、いつまでやるの?」
「透がもう聞かなくていいって言うまで」
透は箸を落としかけた。
「おまえ、そういうこと急に言うな」
「急?」
「急だろ」
「でも本当」
「禁止したい、その返し」
直が笑う。
「白石が聞かなくていいって言ったら、どうなるんだ?」
「普通に座る」
「おお」
高城が楽しそうに身を乗り出す。
「白石、言ってみれば?」
「言わない」
「即答」
「今言う流れじゃないだろ」
「じゃあいつ?」
「知らない」
玲央は何も言わずに隣へ座った。
その距離は、いつもの距離だった。
近すぎない。
でも遠くない。
透は弁当を食べながら、少しだけ考える。
毎回聞かれることに、最初はかなり困っていた。
でも、最近はそれが玲央なりの気遣いだと分かっている。
だから、聞かれなくなるのも少しだけ落ち着かない気がした。
本当に面倒くさい。
「……まだ聞け」
透は小さく言った。
隣の玲央がこちらを見る。
「え?」
「だから、まだ聞いていい」
「うん」
「今すぐ普通に座られたら、それはそれで困る」
「そっか」
「嬉しそうにするな」
「嬉しい」
「知ってる」
高城がパンを持ったまま固まった。
「白石、今のかなり素直じゃない?」
「雨のせい」
「雨すごいな」
「何でも雨のせいにするな」
直が笑う。
「でもまあ、雨の日って少し本音出る感じあるよな」
「おまえまで何かそれっぽいこと言うな」
「それっぽいだけ」
「認めるな」
玲央は隣で、静かに弁当を開けていた。
でも、表情は隠しきれていない。
嬉しそうだった。
◇
放課後になっても、雨は止まなかった。
むしろ、朝より少し強くなっている。
窓の外を見ると、校門のあたりで生徒たちが傘を開きながら詰まっていた。
「うわ、まだ降ってる」
高城が窓の外を見て言う。
「傘持ってきてよかった」
「天気予報見てれば分かるだろ」
直が返す。
「俺は朝の自分を信用してないから、折り畳み傘を常備してる」
「それは少し偉い」
「少しなのか」
透は鞄を肩に掛け、傘立てから自分の傘を取った。
玲央も黒い傘を手に取る。
「透」
「何」
「帰る?」
「帰る」
「一緒に?」
「うん」
自然に答えた。
高城がそれを聞いて、にやにやする。
「雨の日の相合い傘は?」
「傘あるだろ」
透が即座に返す。
「いや、そこはロマン的に」
「ロマンを持ち込むな」
「榊原は?」
「透が傘忘れたら入れる」
「入れるんだ」
「うん」
「おまえも真顔で言うな」
透は顔をしかめながら傘を持ち直した。
直が笑いながら手を振る。
「気をつけて帰れよ。雨強いから」
「おまえもな」
「白石、榊原の肩濡れてないかちゃんと見てやれよ」
「見るか!」
「朝見てたんだろ?」
「……直」
「はいはい、黙る」
直は笑って先に廊下へ出ていった。
◇
校門を出る頃には、雨はかなり強かった。
傘に当たる雨音が朝より大きい。
道路には水たまりができ、車が通るたびに少し水が跳ねる。
透と玲央は並んで歩いた。
傘と傘の距離が近い。
朝よりも人が多く、道も濡れているせいで、自然と肩の距離も近くなる。
「透、足元」
「分かってる」
「そこ、水たまり」
「見えてる」
「でも踏みそうだった」
「……ありがと」
玲央が少しだけ笑う。
「素直」
「雨の日くらいな」
「雨、毎日降ればいいのに」
「最悪なこと言うな」
透は思わず笑いそうになった。
けれど、すぐに横から風が吹き、傘が煽られる。
「うわ」
透の傘が少し傾いた。
その瞬間、玲央が自分の傘を少し寄せる。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「濡れた?」
「少し」
「こっち寄って」
「……」
朝、自分が言ったことが返ってきた。
こっち寄ればいいだろ。
今度は玲央がそれを言う。
透は少しだけ迷った。
でも、雨は強い。風もある。
傘同士が近づくのは仕方ない。
仕方ない。
それはかなり便利な言い訳だった。
透はほんの少しだけ玲央の方へ寄った。
肩が触れるほどではない。
けれど、普段より明らかに近い。
「……近い」
透が言う。
「雨だから」
「便利な言い訳」
「便利だから」
「俺の返しを取るな」
玲央が笑う。
傘の下で、その笑い声は少し近く聞こえた。
◇
駅の近くに着く頃、雨はようやく少し弱まってきた。
それでも傘を閉じるほどではない。
いつもの別れ道で、二人は少しだけ立ち止まった。
「明日」
玲央が言う。
「うん」
「雨でも?」
「待ってる」
透は、もう迷わず言った。
玲央が静かに笑う。
「俺も行く」
「知ってる」
「うん」
雨音が二人の間に落ちる。
透は少しだけ傘を持ち直した。
「……今日、朝も帰りも雨だったけど」
「うん」
「一人で歩くよりは、ましだった」
玲央の表情が、また柔らかくなる。
「それ、今日一番嬉しい」
「おまえの今日一番は多い」
「でも本当に」
「知ってる」
玲央が笑う。
透も、少しだけ笑った。
雨の日に傘を差し出されると、もう言い訳が苦しい。
傘があるから近い。
雨だから気になる。
濡れるから心配する。
そうやって理由を並べても、結局のところ、玲央だから気になるのだと、今日は何度も思い知らされた。
それがまだ少し恥ずかしい。
でも、嫌ではなかった。




