第38話 待つのが当たり前になる前に、ちゃんと言えればよかった
翌朝も、透は駅で玲央を待った。
もう、早く着いただけとは言わなかった。
言わない方が楽だった。
改札の向こうから玲央が来て、透を見つけて、少しだけ表情を緩める。
その一連の流れを見ているだけで、朝の眠気が少しだけ薄くなる。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前で呼ぶのも、前よりは慣れた。
もちろん、完全に何とも思わないわけではない。
呼ぶたびに、胸のどこかが小さく跳ねる。けれど、その跳ね方が少しずつ嫌なものではなくなっていた。
「今日も待ってた」
玲央が言う。
「言っただろ。同じ時間って」
「うん」
「……何だよ」
「嬉しい」
「知ってる」
言ったあとで、透は少しだけ笑いそうになった。
この会話も、もう何度目か分からない。
玲央が嬉しいと言い、透が知ってると返す。
それが当たり前になりつつある。
かなり危ない。
でも、やめる気にはなれなかった。
◇
教室に入ると、高城がいつものように顔を上げた。
「おはよう、待ち合わせ組」
「そろそろ名前変えろ」
「じゃあ、朝から安定組」
「もっと嫌だ」
直が前の席から振り返る。
「おはよう。今日も白石が待ってた?」
「待ってた」
透は短く答えた。
高城がにやっとする。
「もう完全に認めるんだな」
「毎回ごまかす方が面倒になった」
「おお、大進歩」
「進歩じゃない」
「榊原、よかったな」
高城が玲央を見る。
玲央は鞄を置きながら、いつもの静かな声で答えた。
「うん。かなり」
「おまえも朝から素直すぎる」
透が言うと、玲央は少しだけ笑った。
「透が認めてくれたから」
「そういう返しをするな」
「したかった」
「……知ってる」
高城が机を叩くふりをした。
「出た。朝の定番」
「定番にするな」
教室の空気は、もう完全にいつものものだった。
文化祭の装飾はない。
看板もない。
机も元通り。
それなのに、透と玲央の距離だけは、文化祭前には戻らなかった。
戻らないまま、日常に馴染み始めている。
◇
午前中の授業は普通に終わった。
普通に板書を取り、普通に先生の話を聞き、普通に休み時間になったら水を飲む。
その普通の中で、玲央が時々透を見る。
そして透も、気づけば玲央の方を見ている。
何をするでもない。
ただ、目が合う。
合ったら、どちらかが少しだけ目を逸らす。
それだけで一時間が少し違って感じるのだから、かなり重症だった。
昼休み、玲央はいつものように透の隣へ来た。
「透、ここいい?」
「うん」
「ありがとう」
もう、聞かれてもほとんど驚かない。
高城が購買のパンを開けながら言う。
「その確認、毎日やるの?」
「透が困らないように」
玲央が普通に答える。
「いや、もう困ってなさそうだけど」
「……困ってないわけじゃない」
透は弁当の蓋を開けながら言った。
「お、まだ困ってる?」
高城が面白そうに聞く。
「困る時はある」
「たとえば?」
「おまえがいちいち聞いてくる時」
「俺かよ」
「おまえだよ」
直が笑った。
「でも白石、最近は榊原が隣にいること自体には慣れてきたよな」
「……まあ」
否定しきれなかった。
玲央が隣で少しだけこちらを見る。
「何」
「いや」
「言えよ」
「嬉しい」
「知ってる」
「今日、もう三回目くらいじゃない?」
高城が言う。
「数えるな」
透は箸を持ったまま、軽く睨む。
しかし高城はまったく効いていない顔で笑っていた。
◇
放課後が近づく頃、少しだけ予定が狂った。
帰りのホームルームが終わった直後、女子の一人が玲央に声をかけたのだ。
「榊原くん、ちょっといい?」
透は鞄に教科書を入れながら、何となくそちらを見た。
声をかけたのは、文化祭の時にシフト表を管理していた女子だった。手には数枚のプリントを持っている。
「文化祭の振り返りシート、先生にまとめて出すんだけど、男子の分で確認したいところあって。少し手伝ってもらえる?」
玲央はすぐに頷いた。
「分かった」
それは、ごく普通のやり取りだった。
文化祭後の事務的な作業。
クラスの手伝い。
玲央が頼まれた。
引き受けた。
何もおかしいところはない。
なのに、透は一瞬だけ鞄のファスナーを閉める手を止めた。
今日は一緒に帰ると思っていた。
いつものように、玲央が「帰る?」と聞いてきて、自分が頷くと思っていた。
それが、少しだけずれる。
ただそれだけで、胸の奥が変に空いた感じがした。
「透」
玲央がこちらを見る。
「……何」
「少し待たせるかも」
「別に、先帰るし」
反射的に言った。
言った瞬間、自分で違うと思った。
先帰る。
それでいいはずだ。
でも、本当はそうしたいわけではない。
玲央の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「帰る?」
「……」
透は答えに詰まる。
周りにはまだ人がいる。
高城も直も近くにいる。
女子も玲央の隣でプリントを持って待っている。
ここで「待ってる」と言うのは、かなり恥ずかしい。
朝はもう言える。
駅では待てる。
でも教室で、放課後に、誰かの前で。
それはまた別だった。
「……いや」
透は鞄の持ち手を握り直した。
「待ってる」
言った。
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
でも、玲央には届いた。
玲央は一瞬だけ黙って、それから静かに頷いた。
「すぐ終わらせる」
「急がなくていい」
「でも、待たせたくない」
「……待つって言っただろ」
そこで、高城が小さく「おお」と声を出した。
透は睨んだ。
「何だよ」
「いや、今の白石、かなりよかった」
「何が」
「待つって言っただろ、が」
「復唱するな」
直は笑っていたが、からかうより少しだけ穏やかな顔だった。
「じゃあ白石、俺ら先に帰るから」
「え」
「榊原待つんだろ?」
「……まあ」
「なら邪魔しない」
直はそう言って、鞄を肩に掛けた。
高城も「じゃあなー」と手を振る。
「白石、待ちすぎて寝るなよ」
「寝ない」
「榊原も、白石を待たせすぎるなよ」
「うん」
玲央が真面目に頷いたので、高城はまた少し笑った。
◇
教室に残った透は、最初、自分の席に座っていた。
玲央は少し離れたところで、例の女子とプリントを確認している。
特別楽しそうなわけではない。
ただ普通に、頼まれた作業をしているだけだ。
なのに、透は時々そちらを見てしまう。
見ては、すぐ視線を逸らす。
面倒くさい。
自分でも本当にそう思う。
別に、玲央が誰かと話しているのが嫌なわけではない。
いや、少し嫌なのかもしれない。
でもそれ以上に、玲央が今、自分ではなく別の用事で残っていることが妙に落ち着かなかった。
待つと言ったのは自分だ。
だから待てばいいだけ。
なのに、待っている時間がこんなに長く感じるとは思わなかった。
透は鞄からスマホを出した。
何となく画面を開く。
昨日の写真が、メッセージ欄に残っている。
また見てしまった。
夕方の帰り道で並んでいる二人。
少し硬い自分。
嬉しそうな玲央。
今の教室で、少し離れたところにいる玲央とは違う。
あの写真の玲央は、完全に自分の隣にいる玲央だった。
そう思った瞬間、透は慌ててスマホを閉じた。
「……重症だな」
小さく呟く。
その時、作業を終えたらしい女子が玲央に礼を言っていた。
「助かった。ありがとう、榊原くん」
「うん」
「白石くん、待ってたんだ?」
突然話を振られて、透は顔を上げた。
「あ、まあ」
「仲いいね」
「……まあ」
否定しなかった。
女子は軽く笑って、「じゃあまた明日」と教室を出ていった。
残ったのは、透と玲央だけだった。
◇
玲央が近づいてくる。
「待たせた」
「……そんなに待ってない」
「スマホ見てた?」
「見てない」
「今のは嘘」
「見るな」
玲央は少しだけ笑った。
透は鞄を持って立ち上がる。
「終わったなら帰るぞ」
「うん」
「……何」
「待っててくれた」
「言っただろ」
「うん」
「何回も確認するな」
「確認したい」
「重い」
「でも、嬉しかった」
「知ってる」
いつもの返し。
けれど今日のそれは、少しだけ違った。
朝の駅で待つのとは違う。
放課後、玲央が別の用事をしている間、自分は教室で待った。
それは、もっとはっきりと「玲央を待つ」行為だった。
だからこそ、少し恥ずかしい。
教室を出て、廊下を歩く。
もう人は少なかった。
夕方の光が窓から差し込んでいる。
「透」
「何」
「先帰るって言った時、少し寂しかった」
「……おまえ、そういうの言うな」
「でも、待ってるって言ってくれた」
「言ったけど」
「嬉しかった」
「それはもう聞いた」
「何回でも言える」
「言わなくていい」
玲央が小さく笑う。
透は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「……俺も」
「うん?」
「先帰るって言った時、何か違うと思った」
玲央が隣で黙る。
透は続けた。
「朝は待ってるのに、放課後だけ待たないのも変だし」
「うん」
「それに……」
言葉が詰まる。
でも、ここまで言ってやめる方がもっと変だった。
「……一緒に帰ると思ってたから」
言った。
言ってしまった。
玲央は、すぐには返さなかった。
廊下の向こうで、誰かの笑い声が小さく響く。
夕方の学校の音だった。
「透」
「何」
「それ、今日一番嬉しい」
「おまえの今日一番は信用ならない」
「でも本当に」
「……知ってる」
玲央が笑う。
その笑い方を見て、透は胸の奥が少しだけ温かくなる。
◇
帰り道、二人はいつもより少し遅い時間に駅へ向かった。
夕方の光は薄くなり始めていて、通学路には部活帰りの生徒がちらほらいるだけだった。
「待つのって」
透が言う。
「うん」
「思ったより、落ち着かないな」
「そう?」
「おまえはいつも平気そうだけど」
「平気じゃない」
玲央はすぐに答えた。
「透を待ってる時、毎回ちょっと落ち着かない」
「……そうなのか」
「うん。でも、来た時に嬉しいから待てる」
ずるい。
本当に、そういうことを普通に言う。
透は顔を逸らした。
「……俺も、今日ちょっと分かった」
「何が?」
「待ってて、来た時に少し安心する感じ」
玲央が何も言わなくなる。
「何」
「いや」
「言えよ」
「嬉しいって言いすぎると、透が困るから」
「今さらだろ」
「じゃあ言う」
「やっぱり言うな」
玲央が笑う。
透も少しだけ笑った。
待つのが当たり前になる前に、ちゃんと言えればよかった。
先に帰るのは違うと思ったこと。
一緒に帰ると思っていたこと。
待っている時間が落ち着かなかったこと。
どれも、言うには少し恥ずかしい。
でも、言ったら玲央があんな顔をするのなら、言ってよかったのかもしれない。
「明日の朝」
玲央が言う。
「うん」
「待ってる?」
透は少しだけ考えた。
それから、もうほとんど迷わず答えた。
「待ってる」
玲央が静かに笑う。
「俺も行く」
「知ってる」
「うん」
二人で駅へ向かう。
待つことも、待たれることも。
少しずつ、二人の日常の中へ入り込んでいく。
それが怖いと思う気持ちは、まだ少しある。
でも今は、それよりも、明日の朝また玲央が来ることの方が大きかった。




