第37話 隠してほしいのに、隠されると寂しい
翌朝、駅の柱の前に立った透は、改札の向こうを見ながら少しだけ息を吐いた。
もう、言い訳を考えるのはやめた。
待っている。
自分は今、榊原玲央を待っている。
昨日の帰り道、自分で言ったのだ。
同じ時間で、待ってる、と。
言った手前、待つのは自然だ。
ということにしておく。
改札から出てくる人の流れを眺めていると、ほどなくして玲央の姿が見えた。
いつも通り、制服はきちんとしていて、髪も大きく乱れていない。けれど透を見つけた瞬間だけ、表情がほんの少し変わる。
その変化を見つけるたびに、透は胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
もう名前で呼ぶこと自体には、少し慣れてきた。
慣れてきたはずなのに、朝一番で口にするとまだ少しだけ照れる。
玲央も、前ほど露骨には反応しなくなった。
ただ、目元がほんの少し柔らかくなる。
それが逆に分かりやすい。
「今日も待っててくれた」
「言ったからな」
「うん」
「そこで嬉しそうにするな」
「してる?」
「してる」
「じゃあ、してる」
「開き直るな」
二人で歩き出す。
朝の通学路は、文化祭の気配を完全に失っていた。
ただの学校へ向かう道。眠そうな生徒、急ぎ足の自転車、信号待ちの列。
その中に玲央と並ぶことが、少しずつ普通になっている。
それが怖いようで、でも嫌ではない。
「透」
「何」
「昨日の写真」
「またその話か」
「今日は、学校で見えないようにする」
透は少しだけ横を見る。
玲央は何でもないことのように言った。
でも、その声には昨日のやり取りをちゃんと覚えている響きがあった。
ロック画面に、二人の写真。
重い。
さすがに重い。
そう思った。
思ったのに、結局「見せびらかさないならそのままでいい」と言ったのは自分だ。
「……まあ、その方がいいだろ」
「うん」
「高城に見つかったら、しばらく面倒だからな」
「直にも」
「あいつは見つけても直接騒がない分、余計面倒」
「分かる」
玲央が少し笑う。
そこで会話は終わるはずだった。
だが、透の胸の中に、小さな引っかかりが残った。
見えないようにする。
自分がそう言ったくせに、玲央が素直にそうすると、少しだけ寂しい。
自分勝手だ。
見られたら困る。
でも、隠されすぎると、それはそれで落ち着かない。
面倒くさいにもほどがある。
「何?」
玲央が聞く。
「……何でもない」
「今、何か考えてた」
「考えるくらいするだろ」
「俺のこと?」
「何でそうなる」
「最近、当たるから」
「外れろ」
「外れた?」
透は答えなかった。
玲央はそれを見て、少しだけ表情を緩める。
「透」
「何」
「隠すけど、なかったことにはしない」
透は足を止めそうになった。
「……何の話だよ」
「写真」
「……」
「見えないようにはする。でも、大事じゃなくなるわけじゃない」
朝の道で、そういうことを言う。
この男は本当に、心臓に悪いところを正確に突いてくる。
「……分かったならいい」
「うん」
「本当に、学校では気をつけろよ」
「うん」
「でも」
「うん」
「……別に、消せとは言ってないから」
玲央は黙った。
それから、少しだけ嬉しそうに笑う。
「うん。消さない」
「その顔も隠せ」
「それは難しい」
「頑張れ」
「少し頑張る」
少しなのかよ、と言いかけて、透はやめた。
どうせ言っても、玲央は嬉しそうにするだけだ。
◇
教室に入ると、高城がいつものようにこちらを見た。
「おはよう、待ち合わせ組」
「毎朝それ言わないと気が済まないのか」
「うん」
「即答するな」
高城は笑いながら、自分の席から身を乗り出した。
「で、今日も白石が待ってた?」
「……待ってた」
透は短く答えた。
もうごまかす方が面倒だった。
高城が大げさに目を丸くする。
「おお、成長」
「だから何の成長だよ」
「恋愛偏差値?」
「適当なこと言うな」
直が前の席から振り返る。
「高城、それはちょっと雑」
「え、そう?」
「白石の場合、恋愛偏差値というより、認める筋肉がついてきた」
「もっと嫌だ」
透が低く言うと、直は笑った。
玲央は隣で静かに鞄を下ろしている。
その時、スマホを取り出して机に置いた。
画面は下向きだった。
透は、それを見てしまった。
昨日まではどう置いていたかなんて、気にしたこともなかった。
でも今日は、分かる。
玲央は本当に、写真が見えないようにしている。
自分が困らないように。
それは正しい。
間違いなく正しい。
なのに、胸の奥がまた少しだけ引っかかった。
「白石?」
直が気づく。
「何」
「今、榊原のスマホ見てた?」
「見てない」
「見てたな」
「見るな」
「いや、おまえが見てたから」
高城がすぐに反応した。
「何、スマホ? もしかして例の写真?」
「例のって言うな」
「いや、俺まだ見てないから気になってるんだよ」
「見せない」
透と玲央の声が重なった。
高城がにやっと笑う。
「はい、また同時」
「わざとじゃない」
「息ぴったりじゃん」
「うるさい」
玲央は何も言わず、ただ少しだけスマホを鞄の中へしまった。
その動きが、やけに丁寧だった。
透はまた、複雑な気分になった。
隠してほしい。
でも、隠されると寂しい。
そんなこと、口が裂けても言えない。
◇
午前中の授業は、わりと普通に進んだ。
文化祭後の浮つきもさらに薄れ、先生たちもいつもの調子に戻っている。高城は一時間目こそ眠そうだったが、二時間目には復活していたし、直は相変わらず淡々とノートを取っていた。
透も今日は比較的集中できた。
ただ、休み時間になるたびに、玲央のスマホが気になる。
いや、スマホそのものが気になるわけではない。
そこに入っている写真が気になる。
そして、それをちゃんと隠している玲央の態度が気になる。
面倒くさい。
本当に、自分で自分が面倒くさい。
二時間目の休み時間、透は廊下に出た。
水を飲むため、ということにした。
少し遅れて、玲央が来る。
「透」
「何」
「今日、少し静か」
「そうか?」
「うん」
「授業中は普通静かだろ」
「休み時間も」
「……文化祭終わったし」
「それだけ?」
また、静かに待つ。
透は廊下の窓の外を見る。
何の変哲もない校庭。体育の準備をしている別クラスの生徒が何人か見える。
「……おまえ、ちゃんと隠してるなと思って」
「写真?」
「うん」
「透が困ると思ったから」
「それは、そうなんだけど」
「うん」
「……いや、何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「本当に何でもない」
「透」
名前を呼ばれる。
その声は、急かしていない。
でも逃がしてもくれない。
ずるい。
「……自分で言っといてあれだけど」
「うん」
「隠されると、それはそれで変な感じがする」
言った。
言ってしまった。
玲央は少しだけ目を見開く。
透はすぐに顔を逸らした。
「だからって見せろって意味じゃない。学校では隠してていいし、高城とかに見られたら面倒だし」
「うん」
「でも、その……」
「うん」
「……ちゃんと大事にされてるって分かってたから。急に隠されると、何か」
言葉が続かない。
かなりめちゃくちゃなことを言っている自覚があった。
玲央はしばらく黙っていた。
その沈黙が不安になり、透は思わず横を見る。
玲央は、困った顔をしていた。
嬉しそうでもあり、何かをこらえているようでもあった。
「何」
透が言うと、玲央は静かに答えた。
「今、嬉しいって言うと怒られそうだと思って」
「怒る」
「でも、言いたい」
「我慢しろ」
「少しだけ」
「少しだけならいいと思うな」
玲央は小さく笑った。
「透がそういうこと言ってくれるの、嬉しい」
「結局言った」
「我慢できなかった」
「弱い」
「うん」
玲央は素直に頷いた。
それから、自分の胸ポケットではなく、鞄の方を軽く叩く。
「隠してるけど、大事にしてる」
「……うん」
「見せびらかさないけど、消さない」
「分かった」
「透が嫌じゃないなら」
「……嫌じゃない」
その言葉は、もう何度目か分からない。
でも今日の「嫌じゃない」は、少しだけ違った。
◇
昼休み。
玲央は今日も透の隣へ来た。
「ここ、いい?」
「……うん」
「ありがとう」
座る前に聞く。
許可を得てから座る。
その丁寧さが、今日は妙に胸に残った。
高城は購買で買ったパンを開けながら、二人を見ている。
「なんか今日のおまえら、いつもより静かじゃない?」
「おまえが騒がしいだけだろ」
透が返す。
「いや、白石も榊原も何か落ち着いてるっていうか」
「文化祭の疲れが抜けてきたんだろ」
「違うな。これはたぶん、また何かあった顔」
高城が自信満々に言う。
直が弁当箱を開けながら頷いた。
「高城にしては鋭い」
「俺だって鋭い時はある」
「月一くらいで」
「少ないな」
透は二人の会話を聞き流そうとした。
だが、高城はしつこかった。
「で、何があったんだよ。写真?」
「何で全部そこに戻るんだよ」
「最近の二人の中心に写真があるから」
「勝手に中心にするな」
玲央が隣で静かに言う。
「見せないよ」
「分かってるって」
高城は手を振る。
「さすがに無理には言わない。ただ、気にはなる」
「気にするな」
「気になるだろ。白石がこんなに守る写真とか」
透は箸を止めた。
守る。
そんなつもりではなかった。
でも、確かに見せたくない。
誰かに茶化されるのも嫌だし、軽く扱われるのも嫌だ。
玲央と自分だけが持っているものとして、残しておきたい。
それは、守っていると言えるのかもしれない。
「……別に、守ってるわけじゃない」
透は小さく言った。
高城は「そう?」と首を傾げる。
直は少しだけ笑った。
「白石がそう言う時は、だいたい守ってる」
「おまえまで」
「いいんじゃない? 二人だけの写真があっても」
直はさらっと言った。
透は返事に詰まる。
二人だけの写真。
その言い方が、また胸に残った。
玲央は何も言わなかった。
けれど、隣の空気が少しだけ柔らかくなる。
それだけで、透には伝わった。
嬉しいのだ。
たぶん、玲央も。
◇
午後の授業が終わる頃、透は少しだけ疲れていた。
大したことはしていない。
ただ、朝から写真のことを考えすぎた。
ロック画面。
隠すこと。
隠されると寂しいこと。
二人だけの写真。
こんなに一枚の写真に振り回されるとは思わなかった。
放課後、帰り支度をしていると、玲央が近づいてきた。
「透」
「帰る?」
「うん」
「一緒に?」
玲央が聞く前に、透が言った。
玲央が一瞬だけ止まる。
「……うん。一緒に帰りたい」
「そういう返しをするな」
「でも、聞く前に言ってくれた」
「毎回聞かれるから先に言っただけだろ」
「嬉しい」
「知ってる」
もう、ほとんど反射だった。
高城が遠くから「出た」と言い、直が「安定」と続ける。
「聞こえてるぞ」
透が言うと、高城は笑った。
「いや、もうその『知ってる』聞くと安心する」
「するな」
「二人の平常運転って感じ」
平常運転。
それもまた、否定しにくい言葉だった。
◇
帰り道、二人はいつもの写真を撮った場所を通り過ぎた。
今日は立ち止まらなかった。
けれど、二人とも少しだけ歩く速度が落ちた。
透はそれに気づき、苦笑しそうになる。
「……ここ、通るたびに意識するな」
「うん」
「写真一枚で変わりすぎだろ」
「でも、悪くない」
「……悪くはない」
玲央が隣で少し笑う。
「透」
「何」
「今日、隠されると寂しいって言ってくれたこと」
「蒸し返すな」
「嬉しかった」
「言うな」
「一回だけ」
「もう言った」
「うん」
玲央は前を向いたまま、静かに続けた。
「隠すのは、透を困らせたくないから」
「うん」
「でも、俺は隠したいわけじゃない」
「……うん」
「写真も、待ち合わせも、名前も」
透は少しだけ横を見る。
玲央はまっすぐ前を向いていた。
「隠したいわけじゃないけど、大事だから軽く扱われたくない」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
自分が思っていたことと、同じだったからだ。
「……それは」
「うん」
「分かる」
素直に言った。
玲央がこちらを見る。
「分かる?」
「写真を見せたくないのも、たぶんそういうことだし」
「うん」
「別に恥ずかしいだけじゃなくて」
「うん」
「……軽く扱われたくない、のかもしれない」
言葉にすると、少しだけ楽になった。
玲央は静かに頷いた。
「俺も」
「おまえは分かりやすい」
「透も最近、少し分かりやすい」
「うるさい」
「でも、嬉しい」
「またそれ」
「言いたい」
「……知ってる」
夕方の道で、二人は少しだけ笑った。
隠してほしい。
でも、隠されると寂しい。
そんな自分勝手な気持ちを、今日は少しだけ言葉にできた。
玲央はそれを笑わなかった。
面倒だとも言わなかった。
ただ、大事にしているからだと受け取ってくれた。
それが、透には少し嬉しかった。
「明日も」
透は小さく言った。
「うん」
「同じ時間」
「うん」
「待ってる」
玲央は、今日は大げさに嬉しいとは言わなかった。
ただ、隣で静かに頷いた。
「俺も行く」
「知ってる」
「うん」
二人で駅へ向かう。
写真も、待ち合わせも、名前も。
どれもまだ少し恥ずかしい。
けれど、もうなかったことにはしたくない。
その気持ちだけは、少しずつ確かになっていた。




