第36話 待ち受けにするのは、さすがに重いと思ったのに
翌朝、透は駅へ向かう電車の中で、スマホを開かなかった。
開けば、たぶん見る。
昨日の写真を。
ただの帰り道で撮った、何の変哲もない写真。
それなのに、昨日から何度も見てしまっている。
自分でもどうかと思う。
だから今朝は、意識してスマホを鞄の内ポケットにしまったままにしていた。
見るな。
朝から見るな。
どうせ駅に着けば本人がいる。
そう思ったところで、透は窓に映る自分の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「……本人がいるって何だよ」
小声で呟いたつもりだったが、近くにいた会社員が一瞬だけこちらを見た気がして、透は黙った。
最悪だ。
自分の中だけで済ませておくべき言葉が、最近たまに外へ漏れる。
これも玲央のせいだ。
たぶん。
駅に着き、改札を抜ける。
柱の方を見ると、今日はまだ玲央はいなかった。
透はもう、そこで言い訳しなかった。
待っている。
それでいい。
柱の近くに立ち、人の流れを見る。
数十秒後、改札の向こうから玲央が来た。
目が合う。
玲央の表情が少しだけやわらかくなる。
それだけで、朝の空気が変わる。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
今日は、最初から名前で呼んだ。
自分で言っておきながら、少しだけ耳が熱くなる。
玲央は一瞬だけ黙った。
「……何」
透が睨むように言うと、玲央は小さく笑った。
「朝から呼んでくれた」
「呼ぶだけで毎回そうなるの、そろそろやめろ」
「無理」
「だろうな」
もう、このやり取りにも慣れてきた。
慣れてきたことが、また少し恥ずかしい。
二人で歩き出す。
駅から学校までの道は、いつも通りだった。
特別なことは何もない。
けれど、玲央と並んで歩くことが、いつの間にかその“いつも通り”の中へ入り始めていた。
「透」
「何」
「写真、昨日も見た?」
「……何で朝一番にそれ聞くんだよ」
「気になってた」
「見るだろ、送られてきたんだから」
「何回?」
「数えてない」
「多いやつ?」
「おまえに言われたくない」
玲央が少し笑う。
それから、スマホを取り出した。
透は何となく嫌な予感がした。
「……何」
「見せたいものがある」
「嫌な予感しかしない」
「たぶん、透が思ってるほど変じゃない」
「その言い方がもう変だろ」
玲央はスマホの画面を軽く点けた。
ロック画面だった。
そこに、昨日の写真があった。
夕方の帰り道。
二人で並んで撮った写真。
透はその場で足を止めた。
「……おまえ」
「うん」
「待ち受けにしたのか」
「ロック画面」
「同じだろ」
「少し違う」
「違わない!」
思わず声が大きくなりかけて、透は慌てて周囲を見る。
朝の通学路。
何人かの生徒がこちらを見た気がする。
玲央はスマホを伏せるでもなく、ただ少しだけ困ったように笑った。
「嫌だった?」
その聞き方はずるい。
透はすぐに答えられなかった。
嫌か。
嫌なのか。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
もし誰かに見られたらどうするのかと思う。
でも、嫌かと言われると。
「……嫌、ではないけど」
言った瞬間、玲央の表情がほんの少し明るくなる。
「でも!」
透は慌てて続けた。
「でも、普通に重い」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「重いのは分かってる」
「分かっててやるな」
「見たかったから」
「写真なら普通にアルバムで見ろ」
「開くたびに見たかった」
「だから重いって言ってるんだろ」
玲央は少しだけ視線を落とした。
「透との写真だから」
ずるい。
本当にずるい。
その一言を言われると、透はそれ以上強く言いにくくなる。
重い。
たしかに重い。
でも、玲央がそれを大事にしていることが、嬉しくないわけではない。
むしろ、かなり嬉しいのがまずい。
「……人に見られたらどうするんだよ」
「見られないようにする」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、学校では別にする」
「え」
「透が困るなら」
またそれだ。
玲央は、こういう時だけちゃんと引こうとする。
透はそれに弱い。
少し黙ってから、透は小さく言った。
「……別に、そこまでしなくてもいい」
玲央が顔を上げる。
「本当に?」
「見せびらかさないなら」
「見せびらかさない」
「高城には絶対見せるな」
「分かった」
「直にも」
「うん」
「……あと、俺に毎回見せるな」
「それは少し難しい」
「そこも頑張れ」
玲央は笑った。
「頑張る」
その笑い方が本当に嬉しそうで、透はまた顔を逸らした。
待ち受けにするのは、さすがに重いと思った。
思ったのに。
完全にやめろとは言えなかった。
それが、いちばん重症だった。
◇
教室に入ると、高城は今日も元気だった。
昨日の眠そうな顔が嘘のように、朝から購買の新作パンの話をしている。
「おはよう、待ち合わせ組」
「おはよう以外の余計な部分を削れ」
透が言うと、高城は笑った。
「いや、もうセットで挨拶みたいなもんだろ」
「そんな挨拶はない」
「で、今日はどっちが待ってた?」
「俺」
透はもう普通に答えた。
高城が少し感心したように手を叩く。
「すごいな。白石が完全に認めるようになってきた」
「聞かれたから答えただけ」
「それが進歩なんだって」
直が前の席から振り返る。
「榊原もおはよう」
「おはよう」
「今日も嬉しそうだな」
玲央は少しだけ瞬きをした。
「そう?」
「そう」
「透が待っててくれたから」
「おい」
透は玲央を睨んだ。
「余計なことを言うな」
「余計じゃない」
「余計だろ」
「俺には大事」
高城が「朝から強いな」と笑う。
直はそのまま玲央のスマホへ視線を落とした。
「ところで榊原、今スマホの画面、ちらっと見えたんだけど」
透の心臓が嫌な音を立てた。
玲央も一瞬だけ止まる。
高城が即座に食いついた。
「え、何? 何が見えた?」
「いや」
直が少し笑う。
「写真っぽかったなって」
「写真?」
高城の目が輝く。
「まさか昨日の?」
「違う」
透が即答した。
即答したせいで、全員がこちらを見た。
最悪だ。
玲央は少しだけ困ったように透を見る。
直が口元を押さえながら言う。
「白石、否定が早すぎる時はだいたい当たりだぞ」
「違うって言ってるだろ」
「俺、まだ昨日の写真とは言ってない」
「高城が言っただろ」
「つまり昨日の写真なんだ」
「……」
高城が机を叩きそうな勢いで身を乗り出した。
「見せて!」
「見せない」
透が言うのと、玲央が言うのはほぼ同時だった。
高城がきょとんとする。
「二人して同時に拒否するじゃん」
「見せるものじゃない」
玲央が静かに言った。
透はその横顔を見た。
その言い方は、思ったより真剣だった。
「……玲央」
小さく呼ぶと、玲央がこちらを見る。
「何?」
「いや」
呼んだだけになってしまった。
でも玲央は、少しだけ表情を和らげた。
高城が「うわあ」と声を漏らす。
「何かもう、写真一枚が完全に二人だけのやつになってる」
「そういう言い方するな」
「でもそうだろ?」
直が笑いながら言う。
「高城、今日はそこまでにしとけ」
「えー」
「白石が本気で机に突っ伏す前に」
「俺は突っ伏さない」
「顔が突っ伏しそう」
「顔で判断するな」
からかわれているのに、以前より少しだけ空気が違う。
高城も直も、面白がってはいる。
けれど、写真を無理に見ようとはしなかった。
それが少しだけありがたかった。
◇
一時間目の休み時間、透は廊下へ出た。
ただ水を飲みに行くだけだった。
なのに、少し遅れて玲央がついてきた。
「透」
「何」
「さっき、嫌だった?」
「何が」
「ロック画面のこと、少し見えたかもしれないから」
「ああ……」
透は廊下の窓際で立ち止まった。
朝の光が廊下に差し込んでいる。
昨日までの文化祭の名残はもうどこにもない。
普通の廊下。
普通の休み時間。
その中で、玲央のスマホのロック画面の話をしている。
普通じゃない。
「……まあ、恥ずかしかった」
「うん」
「でも、嫌っていうより」
そこまで言って、言葉が止まる。
何と言えばいいのか分からない。
玲央は待っている。
急かさない。
最近、透はこの待ち方に弱くなっている。
「……本当に大事にしてるんだなって思った」
ようやく言えた。
玲央の目が少しだけ揺れる。
「うん」
「それが、何か」
「うん」
「……悪くなかった」
玲央は何も言わなかった。
何も言わないのに、表情だけで全部伝わってくる。
嬉しい。
かなり。
「……言うなよ」
透が先に言う。
玲央は少しだけ笑った。
「じゃあ、言わない」
「顔に出てる」
「これは無理」
「知ってる」
そう返すと、玲央はさらに嬉しそうな顔をした。
もうだめだ。
この返しは、完全に玲央を喜ばせるものになっている。
◇
昼休み、玲央はいつも通り透の隣に座った。
高城はまだ写真の話を引きずっていたが、直に一度睨まれて少しだけおとなしくなっている。
「でもさ」
高城がパンをかじりながら言う。
「文化祭終わってからの方が、おまえら距離近くなってない?」
「それ、何回目だよ」
透が返す。
「いや、本当にそう思うんだよ。文化祭中はイベントだから分かるじゃん。二人で回るとか、受付一緒とか。でも今って普通の日常だろ?」
「……まあ」
「普通の日常で待ち合わせして、一緒に帰って、写真大事にしてる方が強くない?」
透は箸を止めた。
それは自分でも思っていた。
文化祭という特別な時間だから近づいたのではない。
終わったあとも続いているから、余計に逃げ場がない。
直が静かに頷く。
「高城にしてはまともな分析」
「俺はいつもまともだろ」
「昨日、焼きそばの写真に十五分悩んでたやつが?」
「それは大事だろ」
「大事かな」
そんな二人のやり取りを聞きながら、透は隣の玲央を見た。
玲央は少しだけ真面目な顔をしていた。
「何」
透が聞く。
「いや」
「言えよ」
「文化祭が終わってからも続いてるの、俺は嬉しいと思った」
また、まっすぐだった。
昼休みの教室で、声は小さい。
けれど透にはちゃんと届く。
「……おまえは本当に」
「うん」
「そういうの、言うよな」
「言いたいから」
「知ってる」
高城が口を押さえる。
「出た、知ってる」
「うるさい」
「いや、もうそれ二人の定型句みたいになってる」
「定型句にするな」
でも、否定しきれない。
透は弁当へ視線を戻した。
文化祭が終わってからも続いている。
それが玲央にとって嬉しいように、自分にとってもきっと嬉しい。
まだ言えないだけで。
◇
放課後、透は少しだけスマホを見ていた。
写真を見ていたわけではない。
……つもりだった。
でも画面には、昨日の写真が開かれていた。
自分で開いたのだから、言い訳のしようがない。
「透」
玲央の声がして、透は反射的に画面を閉じた。
「……何」
「帰る?」
「帰る」
「今、写真見てた?」
「見てない」
「閉じるの早かった」
「見てない」
「そっか」
玲央はそれ以上追及しなかった。
それが逆にずるい。
「……少しだけ見てた」
透は小さく言った。
玲央がこちらを見る。
「うん」
「何でそこで嬉しそうにしないんだよ」
「今すると、透が言わなくなりそうだから」
「……ちゃんと考えてるのかよ」
「考えてる」
「いつもそれくらい考えろ」
「難しい」
玲央が少し笑う。
透も少しだけ口元が緩んだ。
「帰るぞ、玲央」
名前を呼ぶのが、少しずつ自然になっている。
玲央は、まだ少し嬉しそうにする。
でも前より静かに受け取るようになった。
「うん」
その返事だけで、透は少し安心した。
◇
帰り道、二人は昨日写真を撮った場所を通った。
今日は立ち止まらなかった。
ただ、少しだけ歩く速度が落ちた。
透も玲央も、たぶん同じことを思い出している。
「透」
「何」
「ロック画面、やっぱり学校では変える」
「え」
「透が困りそうだから」
「……別に」
透は少し考えた。
さっき、教室で直に見えかけた。
恥ずかしかった。
かなり。
でも、それを変えられると思うと、少しだけ寂しい。
自分でも勝手だと思う。
「……見えないようにできるなら、そのままでいい」
小さく言った。
玲央が立ち止まった。
透も少し遅れて止まる。
「何」
「いいの?」
「見せびらかさないなら」
「見せびらかさない」
「絶対だぞ」
「うん」
「……それに」
「うん」
「おまえがそこまで大事にしてるなら、無理に変えろとは言いにくいだろ」
言ってから、透は顔を逸らした。
また、かなり素直なことを言った。
玲央はしばらく黙っていた。
それから、本当に小さく言った。
「ありがとう」
「礼はいらない」
「これは言いたい」
「……好きにしろ」
「うん」
二人はまた歩き出す。
待ち受けにするのは、さすがに重いと思った。
今でも少し思っている。
けれど、その重さごと嬉しいと思い始めている自分がいる。
それが何よりまずい。
写真一枚。
普通の帰り道。
ロック画面。
そんな些細なものが、二人の距離をまた一つ変えていく。
透は隣を歩く玲央を見ないまま、小さく息を吐いた。
「明日も」
ぽつりと言う。
「うん」
「同じ時間で」
「うん」
「……待ってる」
玲央は今度、嬉しいと言わなかった。
ただ、隣で静かに笑った。
それだけで十分伝わった。




