第35話 写真一枚で、こんなに逃げ道がなくなるとは思わなかった
その夜、白石透はベッドの上でスマホを見ていた。
別に、何か特別なことをしていたわけではない。
明日の時間割を確認して、天気予報を見て、なんとなくメッセージアプリを開いただけだ。
ただ、その画面の中に、一枚の写真があった。
夕方の帰り道で撮った写真。
透と玲央が並んで写っている。
背景は、駅へ向かう途中の何の変哲もない道だった。文化祭の看板があるわけでも、特別な景色が広がっているわけでもない。ただの道。夕方の光が少しだけ差していて、二人の制服がその色を受けている。
透の顔は少し硬い。
緊張しているようにも、照れているようにも見える。
玲央は、その隣で静かに笑っていた。
嬉しそうに。
「……顔に出すぎだろ」
小さく呟く。
けれど、すぐに思う。
自分も、人のことは言えない。
写真の中の透は、嫌そうではなかった。むしろ、どこか困ったようにしながらも、隣にいることを拒んでいない顔をしている。
それが、妙に恥ずかしい。
文化祭では写真を撮らなかった。
焼きそばを半分にした時も、しおりを選んだ時も、占いをした時も、撮らなかった。
なのに、文化祭が終わって普通の日に戻った帰り道で、二人の写真を撮った。
そのことが、なんだかとても大きく感じる。
スマホの画面を消そうとして、指が止まった。
消すのではなく、画像を保存する。
もう送ってもらった時点で保存されているはずなのに、なぜか改めて確認してしまう。
消えていないか。ちゃんと残っているか。
「……何やってんだ、ほんと」
自分でも呆れる。
けれど、写真は消さなかった。
むしろ、しばらく見てから、ようやくスマホを伏せた。
その瞬間にもまだ、写真の中の玲央の顔が頭に残っていた。
◇
翌朝、駅の柱の前に立った透は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
待っている。
その自覚はもうある。
今日は、そこまで言い訳しなかった。
早く着いただけとか、たまたまだとか、そういうことを考えるのも少し疲れてきた。
玲央が来るのを待つ。
ただ、それだけだ。
改札の向こうに玲央が見えた時、透は昨日より少し自然に顔を上げられた。
玲央もこちらに気づく。
そして、同じように表情をやわらげた。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
口から出たあとで、透は少しだけ固まった。
自然だった。
自然すぎた。
玲央も一瞬だけ目を見開いた。
それから、すぐには何も言わず、ゆっくり笑った。
「……何」
透が低く言うと、玲央は少しだけ首を振った。
「いや」
「今、絶対何か言おうとしただろ」
「言うと、透が嫌がりそうだから」
「もう遅い。顔に出てる」
「嬉しい」
「結局言うのかよ」
「我慢できなかった」
いつもの返しだった。
でも、今朝はそれが嫌ではなかった。
二人で歩き出す。
駅から学校までの道は、もう完全に日常だった。
文化祭の気配はどこにもない。
それでも、玲央と並んで歩く朝は、普通の朝とは少しだけ違う。
「昨日の写真」
玲央がふいに言った。
透は肩を揺らしかけた。
「……何」
「保存した?」
「普通するだろ」
「普通?」
「送られてきた写真くらい、普通に保存されるだろ」
「消してない?」
「消すわけないだろ」
言ってから、しまったと思った。
言い方が、強すぎた。
玲央は少しだけ黙る。
透は横を見ない。
見たら絶対に、嬉しそうな顔をしている。
「……透」
「何」
「今の、かなり嬉しい」
「言うと思った」
「消すわけないって言った」
「そこだけ抜き出すな」
「大事だから」
「写真一枚で大げさだろ」
「透との写真だから」
朝の通学路で、さらっとそういうことを言う。
透は前を向いたまま、耳のあたりが熱くなるのを感じた。
「……こっちも、消せとは言ってないだろ」
「消さない」
「知ってる」
「大事にする」
「だから大げさだって」
「大げさじゃない」
玲央の声は静かだった。
からかいでも、冗談でもなく、本当にそう思っている声だった。
透は言い返せなかった。
◇
教室に入ると、高城がいつものように反応した。
「おはよう、待ち合わせ組」
「そろそろ普通におはようって言え」
「おはよう。で、今日も待ち合わせ?」
「結局聞くのかよ」
「日課だから」
「日課にするな」
高城は笑いながら机へ寄りかかる。
直も前の席から振り返った。
「今日はどっちが待ってた?」
「俺」
透は短く答えた。
もう、ここでごまかす方が面倒になっていた。
高城が少し驚いた顔をする。
「おお、認めるの早い」
「聞かれたから答えただけ」
「成長してる」
「だから何の成長だよ」
直が静かに言う。
「素直さ」
「昨日も聞いた」
「じゃあ定着してきたな」
「やめろ」
玲央は隣で静かに笑っていた。
その顔を見て、高城がふと思い出したように言う。
「そういや、おまえら昨日写真撮ったんだっけ?」
透は固まった。
「……何で知ってる」
「昨日、帰り際に榊原がスマホ見てめっちゃ嬉しそうだったから」
「玲央」
思わず名前で呼んだ。
玲央は少しだけ目を見開く。
それから静かに言った。
「見てた」
「それは分かった。何で見せるような顔するんだよ」
「見せるつもりはなかった」
「顔に出すぎなんだよ」
「透に言われると少し納得いかない」
「何でだよ」
直が横から身を乗り出す。
「写真、見せて」
「見せない」
透が即答する。
高城が「えー」と不満そうな声を出した。
「いいじゃん、別に。文化祭の記念だろ?」
「文化祭じゃなくて帰り道」
「もっと見たい」
「逆効果だ」
直が少しだけ笑う。
「まあ、白石が嫌なら見せなくていいけど」
「珍しくまとも」
「でも榊原の顔でだいたい分かる」
「何が」
「かなり大事な写真なんだろうなって」
玲央は否定しなかった。
透はそれを見て、また少しだけ顔が熱くなる。
「……ただの写真だろ」
そう言うと、玲央が静かにこちらを見た。
「ただの写真じゃない」
教室のざわめきの中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
高城が「うわ」と小さく言う。
直は何も言わず、でも少しだけ笑っていた。
透は鞄を机に置きながら、視線を逸らす。
「……朝から重い」
「ごめん」
「謝るな」
「でも本当だから」
「知ってる」
また自然に返してしまった。
◇
一時間目の休み時間、透は廊下でスマホを確認していた。
別に写真を見るつもりはなかった。
通知を確認しただけだ。
でも、画面を開くと、昨日玲央から送られてきた写真がメッセージ欄に残っている。
見てしまう。
透は周囲を確認してから、ほんの数秒だけ写真を開いた。
夕方の道。
並んでいる二人。
ぎこちない自分。
嬉しそうな玲央。
やっぱり、妙な写真だった。
特別な背景は何もない。
けれど、自分にとっては文化祭の写真よりもずっと残る。
「透」
背後から声がして、透は反射的にスマホを伏せた。
振り返ると、玲央が立っている。
「……何」
「今、見てた?」
「何を」
「写真」
「見てない」
「伏せるの早かった」
「見てない」
「見てた」
「見るな」
「俺も見たい」
「おまえは自分のスマホで見ろ」
「透が見てるところが見たかった」
「意味分かんないこと言うな」
玲央が少しだけ笑う。
透はスマホをポケットにしまった。
「……たまたま開いただけ」
「うん」
「本当に」
「うん」
「納得してないだろ」
「でも、嬉しい」
「おまえの嬉しいはもう聞き飽きた」
「まだ言うと思う」
「知ってる」
その返事に、玲央はまた少しだけ嬉しそうな顔をした。
廊下には他の生徒もいる。
だから玲央は、それ以上近づいてこなかった。
でも、距離が近くなくても伝わるものがある。
今の玲央は、明らかに機嫌がいい。
そしてその理由が自分だと分かってしまう。
それが透の胸をまた少し落ち着かなくさせた。
◇
昼休み、高城はまだ写真のことを諦めていなかった。
「白石、ほんとに見せてくれないの?」
「見せない」
「何で」
「何でも」
「もしかして、めちゃくちゃいい写真なんじゃないの?」
「……普通」
「普通って言う時だいたい普通じゃないんだよな」
高城がパンをかじりながら言う。
直は横で弁当を食べながら、少しだけ考えるように言った。
「まあ、見せたくないなら、それは二人のものってことでいいんじゃない?」
二人のもの。
透は箸を止めた。
「……言い方」
「でも合ってるだろ」
「合ってない」
「じゃあ誰のもの?」
「……写真撮ったやつの」
「二人じゃん」
そう言われると返せない。
玲央は隣で弁当を食べながら、少しだけ静かにしていた。
「玲央は何とか言えよ」
透が言うと、玲央は少しだけ目を上げた。
「俺は、透が見せたくないなら見せなくていい」
意外とまともな返しだった。
そう思った次の瞬間、玲央は続けた。
「俺も、二人だけで持ってたい」
高城がまた「うわ」と声を出す。
直は笑いをこらえるように肩を揺らした。
透は完全に固まった。
「……おまえさ」
「うん」
「そういうのを昼休みに言うな」
「ごめん。でも本当」
「もうそれ禁止にしたい」
「本当だから?」
「そう」
「困る」
「こっちが困ってる」
高城がしみじみと言った。
「いや、榊原ほんと強いな。白石を黙らせる言葉を知ってる」
「知りたくて知ってるわけじゃない」
「透のことだから」
「ほら、それ」
高城が指を鳴らす。
「その一言でだいたい白石が黙る」
「分析するな」
透は顔を背けた。
否定できないのが一番悔しい。
◇
午後の授業が終わる頃には、写真の話題もようやく落ち着いていた。
だが、透の中では落ち着いていなかった。
二人だけで持っていたい。
玲央の言葉が、ずっと残っている。
写真一枚。
ただの帰り道で撮っただけのもの。
でも、それを誰にも見せたくないと思っている自分がいる。
玲央も、同じように思っている。
それが妙に嬉しかった。
放課後、帰り支度をしていると、玲央がいつものように近づいてきた。
「透」
「何」
「帰る?」
「帰る」
「一緒に?」
「うん」
もう流れるようだった。
高城が少し離れたところから見ている。
「なんかそのやり取り、完全に日常になったな」
「見るな」
「聞こえるんだって」
「聞くな」
直が鞄を肩にかけながら言う。
「写真は見せなくていいけど、白石がその写真大事にしてるのは分かった」
「分からなくていい」
「分かるだろ。今日何回もスマホ確認してたし」
「してない」
「してた」
「……おまえも見るな」
直は軽く笑って、それ以上は言わなかった。
玲央は何も言わない。
だが、廊下へ出たあと、ぽつりと言った。
「透、写真見てくれてたんだ」
「……直の話を信じるな」
「信じる」
「信じるな」
「でも、見てた?」
「……少し」
認めた。
もう否定しきれなかった。
玲央は隣で静かに笑う。
「そっか」
「何」
「俺も見てた」
「……何回」
「数えてない」
「それは多いやつだろ」
「うん」
「認めるな」
夕方の廊下を歩きながら、透は小さく息を吐く。
同じ写真を、別々の場所で見ていた。
それだけで、妙に胸が温かくなる。
◇
帰り道、二人は昨日写真を撮った場所を通った。
何の変哲もない道。
夕方の光。
昨日とほとんど同じ景色。
透は思わず足を緩めた。
玲央も気づいて止まる。
「ここ」
「うん」
「昨日の写真の場所だな」
「うん」
しばらく、二人でその場所を見た。
本当にただの道だ。
写真を撮るような名所ではない。
でも、昨日からここは少しだけ違う場所になった。
「……写真一枚で、こんなに逃げ道なくなるとは思わなかった」
透は小さく言った。
玲央がこちらを見る。
「逃げ道?」
「だって、残るだろ」
「うん」
「文化祭は片付いたし、看板も外したし、教室も戻ったのに」
「うん」
「あの写真だけ、普通に残ってる」
玲央は静かに頷いた。
「残したかった」
「……俺も」
言ってから、透は目を伏せる。
でも、もう撤回はしなかった。
玲央の声が、少しだけ近くなる。
「透」
「何」
「また撮りたい」
「……写真?」
「うん」
「毎日撮る気か」
「毎日は透が嫌がりそう」
「分かってるなら言うな」
「でも、またいつか」
またいつか。
その言葉は、今日だけで終わらないという意味に聞こえた。
透は少し考えてから、小さく頷いた。
「……そのうちな」
玲央が本当に嬉しそうに笑う。
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
夕方の道で、二人はまた歩き出した。
写真一枚で、こんなに逃げ道がなくなるとは思わなかった。
けれど、逃げ道がなくなることを、今の透はそこまで嫌だと思っていない。
むしろ、その写真が残っていることに、少し安心している。
それがたぶん、一番まずかった。




