第34話 待ってる姿を見たいとか、言う方も言われる方もおかしい
翌朝、白石透は駅に早く着きすぎないように歩いた。
いつもより少しだけゆっくり。
信号が青でも、走らない。
改札へ向かう階段も、無駄に急がない。
理由は分かっている。
昨日、玲央が言ったからだ。
――透が待ってるところ、ちゃんと見たいから。
そんなことを言われたせいで、早く着いたら負けみたいな気分になっている。
いや、別に勝ち負けではない。
待つと言ったのは自分だ。
だから早く着いて待っていればいいだけの話だ。
なのに、玲央に「待ってるところを見たい」と言われた途端、待っている自分を想像されることまで意識してしまった。
おかしい。
言う方もおかしいし、意識する方もおかしい。
「……ほんと、何なんだよ」
改札を抜ける少し前、透は小さく呟いた。
そして、結局いつもより一分早く着いた。
早い。
でも、早すぎるほどではない。
透は柱の近くへ向かう。
ここ最近、すっかり待ち合わせ場所になってしまった場所だ。
まだ玲央はいない。
透は鞄の肩紐を握り直して、改札の方を見る。
待っている。
今日はもう、ごまかしようがなかった。
昨日、自分で言ったのだ。
――待ってる。
言った手前、待たない方が変だろ。
そう考えると、少しだけ気が楽になる。
けれど、玲央が来るのを探している自分に気づくたび、やっぱり胸の奥が落ち着かなくなった。
数十秒後、改札の向こうに玲央の姿が見えた。
今日は昨日より少しだけ落ち着いた足取りだった。
けれど、改札を出て透を見つけた瞬間、明らかに表情が変わった。
柔らかくなる。
少し驚く。
それから、嬉しそうになる。
もう見分けられる。
そのことが透をさらに困らせた。
「おはよう、透」
「……おはよ」
「待ってた」
「昨日そう言ったからな」
透がそう返すと、玲央は一瞬だけ黙った。
「何」
「今、普通に認めた」
「……言った手前、待たない方が変だろ」
「うん」
「何でそんな嬉しそうなんだよ」
「嬉しいから」
「知ってる」
また自然に返してしまった。
玲央が少し笑う。
「今日は、我慢して言わないようにしようと思ってた」
「何を」
「嬉しいって」
「もう言っただろ」
「うん。無理だった」
「弱すぎる」
「透のことだと、だいたい弱い」
「朝から重い」
「でも嫌じゃない?」
その聞き方はずるい。
透は少しだけ視線を逸らした。
「……嫌ではない」
「そっか」
「そこで満足するな」
「する」
「するな」
玲央は笑った。
朝の駅前。
普通の通学日。
特別な行事なんて何もない。
それなのに、ここで玲央と会うだけで、朝の空気が少し違って感じる。
透はそれをもう、完全には否定できなかった。
◇
学校へ向かう道で、玲央はいつもより少し静かだった。
別に機嫌が悪いわけではない。
むしろ、かなり機嫌はいいのだと思う。
ただ、言葉を選んでいるように見えた。
「……何で黙ってるんだよ」
透が聞くと、玲央は少しだけこちらを見た。
「透が待っててくれたから」
「それと黙るの、関係あるか?」
「ある」
「何で」
「何言っても、嬉しいって言いそうになる」
「もう何回も言ってるだろ」
「でも、まだ言いそう」
「我慢しろ」
「してる」
「できてない」
「少しは」
そんなやり取りをしながら歩く。
通学路はいつも通りだった。
前を歩く生徒の鞄についたキーホルダーが揺れている。自転車通学の生徒が横を通り過ぎる。少し遠くで、誰かが昨日の小テストの話をしている。
日常。
完全な日常。
その中に、玲央がいる。
文化祭が終わったら全部元に戻るのかもしれないと思っていた。
でも戻らなかった。
それどころか、文化祭の後の方が、少しずつ進んでいる気がする。
「透」
「何」
「名前、今日は自然に呼んでくれる?」
「要求が直接的すぎる」
「期待」
「だからそれが悪い」
「でも、昨日は何回か呼んでくれた」
「数えるな」
「数えてないけど、覚えてる」
「もっと悪い」
透は前を向いたまま、小さく息を吐いた。
呼ぶのはまだ照れくさい。
でも呼べないわけではない。
その事実がまた、呼ぶ前の妙な緊張を作る。
「……玲央」
小さく呼ぶ。
隣の玲央が、すぐにこちらを見る。
「何?」
「呼んだだけ」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「それは無理」
「知ってる」
また同じ返し。
でも、今日はもうそれでいい気がした。
◇
教室へ入ると、高城が机に突っ伏していた。
珍しく朝から元気がない。
「……どうしたんだ、あれ」
透が小声で言うと、直が前の席から振り返った。
「昨日、夜更かししたらしい」
「何で」
「文化祭の写真整理してたって」
「高校生活を満喫してるな」
「白石がそれ言う?」
「何で俺に返ってくるんだよ」
直はにやっと笑った。
「最近のおまえも、だいぶ青春してるから」
「してない」
「駅で待ち合わせして、一緒に登校して、昼は隣で弁当食べて、帰りも一緒に帰ってるのに?」
「……並べるな」
「並べると強いな」
高城が机に突っ伏したまま、かすれた声で言った。
「起きてたのかよ」
「白石と榊原の話なら起きる」
「寝てろ」
高城は顔だけ上げて、二人を見た。
「で、今日はどっちが待ってた?」
「俺」
透は短く答えた。
言ってから、教室の空気が止まったことに気づく。
高城の目が覚めた。
直も少しだけ目を丸くする。
玲央は隣で静かに透を見ている。
「……何だよ」
透が言うと、高城がゆっくり起き上がった。
「白石が、自分で、俺って言った」
「待ってたか聞かれたから答えただけだろ」
「いや、前なら絶対ごまかしてた」
「そうか?」
「そうだよ。『早く着いただけ』とか『たまたま』とか言ってた」
完全に言っていた。
反論できない。
直が少し笑う。
「成長したな」
「何の成長だよ」
「素直さ」
「いらない成長だな」
「榊原は嬉しそうだけど」
透は横を見た。
玲央は、かなり嬉しそうだった。
「……そんな顔するなって言ってるだろ」
「無理」
「知ってる」
「白石、その返しも定着してきたな」
高城が笑う。
透は鞄を机に置いて、椅子に座った。
からかわれるのは相変わらず面倒だ。
でも、今日はそこまで悪くなかった。
待っていたことを認めても、世界は別に終わらない。
むしろ玲央が嬉しそうにするだけだ。
それを見て自分も少し嬉しくなるのが、最大の問題ではある。
◇
午前の授業は、思ったより普通に進んだ。
文化祭の余韻も薄れ、クラスはすっかり日常へ戻りつつある。
高城は一時間目の途中で本当に寝かけ、先生に軽く注意されていた。直はそれを見て笑っていたし、玲央はいつも通り静かにノートを取っていた。
透も今日は比較的集中できた。
ただ、休み時間になるたびに、玲央がこちらを見る。
何か言いたそうで、でもすぐには来ない。
最近の玲央は、前より少し慎重になっている。
近づきたいけれど、透を困らせたくない。
その両方が見える。
それに気づいてしまうと、透の方から声をかけたくなる。
昼休み前の休み時間、透はついに席を立った。
玲央の方へ行く。
ほんの数歩。
それだけなのに、直が気づいて小さく笑ったのが視界の端に見えた。
無視する。
「玲央」
呼ぶと、玲央が顔を上げた。
「何?」
「次の昼休み、購買行く?」
「透が?」
「いや、パン買うわけじゃないけど、水買いに」
「行く」
「即答」
「透が誘ったから」
「誘ったって言うな。ただ聞いただけだろ」
「一緒に行く?」
「……行くなら」
玲央の表情がまたやわらかくなった。
透はそれを見て、言ってよかったと思ってしまう。
「じゃあ、昼休み」
「うん」
たったそれだけの会話だった。
でも自分から玲央の席へ行き、名前を呼び、昼休みに一緒に購買へ行く話をした。
その事実が、じわじわ胸に残る。
席へ戻ると、直が小声で言った。
「白石、自分から行ったな」
「水買うだけだ」
「はいはい」
「その返事やめろ」
「いや、いいと思うよ」
直はそう言って、軽く笑った。
◇
昼休み、透と玲央は教室を出て購買へ向かった。
購買は相変わらず混んでいた。
パンを買う生徒、飲み物だけ買う生徒、友達の分まで抱えている生徒。文化祭が終わっても昼休みの購買だけは騒がしい。
透は人の多さに少しだけ眉を寄せた。
「混んでるな」
「やめる?」
「いや、水だけだし」
「俺が買ってくる?」
「子ども扱いするな」
「してない」
「してるだろ」
「透扱い」
「またそれか」
玲央が少し笑う。
結局、二人で並んだ。
列が少しずつ進む間、透は周囲のざわめきを聞いていた。
誰かがパンの種類で迷い、別の誰かが友達に頼まれた飲み物を忘れて慌てている。
普通の昼休み。
文化祭じゃない。
特別でもない。
それなのに玲央と並んでいるだけで、少し特別に感じる。
「透」
「何」
「今日、自分から誘ってくれた」
「水買いに行くだけだって」
「それでも」
「……おまえ、細かいことで喜びすぎじゃないか」
「透のことなら細かくても嬉しい」
「重い」
「うん」
「否定しないのかよ」
「最近、否定しても意味ない気がして」
透は思わず笑いそうになった。
「開き直るな」
「透は、嫌?」
「……嫌じゃない」
「うん」
「また満足そうにする」
「する」
列が進む。
透は水を一本取り、玲央も同じものを取った。
「また同じ」
「水だから」
「前も同じ会話したな」
「コンビニで」
「覚えてるのかよ」
「透と買ったから」
「そういうところだぞ」
会計を済ませ、廊下の端へ移動する。
ペットボトルの蓋を開けて水を飲む。
玲央も隣で同じように飲んだ。
それだけのことなのに、なぜか少し落ち着いた。
「誘ってよかった?」
玲央が聞く。
「……水飲めたからな」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
「うん」
「……よかったよ」
玲央は少しだけ黙った。
それから、嬉しそうに笑う。
「そっか」
「また嬉しそうに」
「嬉しいから」
「知ってる」
透はもう、その返事をすることに抵抗しなくなっていた。
◇
放課後、帰り支度をしていると、高城が眠そうな顔で言った。
「今日、なんか一日中眠かった」
「夜更かしするからだろ」
直が即座に返す。
「文化祭の写真、見返すと止まらなくなるんだよ」
「分からなくはないけど」
「白石も写真とか撮った?」
「ほとんど撮ってない」
「え、もったいない」
「別にいいだろ」
「榊原とは?」
高城が何気なく聞いた。
透は手を止める。
「撮ってない」
「そうなの?」
高城は少し意外そうだった。
「一緒に回ってたのに」
「……撮ってないな」
確かに、写真は撮っていない。
焼きそばも、しおりも、占いカードも、看板も、玲央と一緒に回った廊下も。
写真には残していない。
でも、全部覚えている。
そう思った瞬間、何となく言葉が出なかった。
玲央が隣で静かに言う。
「残ってるから」
透は玲央を見た。
「何が」
「写真なくても」
あまりにも自然に言われて、透は返事を忘れた。
高城が「おお」と小さく言う。
「榊原、たまにすごいこと言うよな」
「たまに?」
「いや、けっこう言うか」
直が笑う。
透は少しだけ顔を逸らした。
残ってる。
写真がなくても。
確かに、残っている。
それがまた、胸の奥を温かくした。
◇
帰り道、二人はいつものように並んで歩いた。
夕方の風は昨日より少しだけ穏やかだった。
駅へ向かう道の途中、透はふと思い出したように口を開く。
「写真」
「うん」
「撮ってなかったな」
「うん」
「……撮ればよかった?」
言ってから、少しだけ後悔した。
何を聞いているんだ。
玲央は横を見た。
「今から撮る?」
「今?」
「うん」
「何を」
「二人」
透は立ち止まりかけた。
「……いきなり何言ってるんだよ」
「透が撮ればよかったって顔したから」
「してない」
「してた」
「してないって」
「嫌なら撮らない」
その言い方が、また少しだけ引く準備をしている声だった。
透はそれに弱い。
「……別に、嫌ではない」
玲央の表情が少し変わる。
「じゃあ、撮る?」
「……一枚だけ」
言ってしまった。
自分で言った。
玲央はスマホを取り出した。
駅へ向かう途中の、少し人通りが少ない道の端。背景としては何の変哲もない。
でも、文化祭の後の普通の帰り道としては、むしろそれでよかった。
「近づかないと入らない」
「分かってる」
二人で並ぶ。
距離が近い。
でも、もう逃げなかった。
玲央がスマホを少し上げる。
「撮るよ」
「うん」
画面の中に、二人が映っていた。
透は少しだけ硬い顔をしている。
玲央は、いつもより柔らかく笑っている。
シャッター音。
一枚。
それだけで終わった。
「……撮れた?」
「うん」
「見せろ」
玲央が画面を見せる。
写真の中の自分は、思ったより変な顔ではなかった。
少し照れているようにも見えるが、嫌そうではない。
隣の玲央は、本当に嬉しそうだった。
「……おまえ、顔に出すぎ」
「嬉しかったから」
「知ってる」
透は写真から目を逸らした。
「送って」
「うん」
「……消すなよ」
玲央が一瞬止まる。
「消さない」
「ならいい」
「透」
「何」
「これ、今日一番嬉しいかも」
「おまえの今日一番、多すぎる」
「でも本当に」
「……知ってる」
夕方の道で、二人だけの写真が一枚できた。
文化祭では撮らなかったのに、普通の日の帰り道で撮った。
それが、なぜかとても自分たちらしい気がした。
写真がなくても残っていた。
でも、写真があれば、また別の形で残る。
透はスマホに届いた写真を見ながら、小さく息を吐いた。
待ってる姿を見たいとか。
名前を呼ぶだけで嬉しいとか。
水を買いに行くだけで特別になるとか。
写真一枚でこんなに胸が落ち着かなくなるとか。
普通の日なのに、普通じゃないことばかり増えていく。
それでも、嫌ではなかった。




