第33話 待ってるって言った手前、待たない方が変だろ
翌朝、白石透は駅の柱の前で、スマホの画面を見つめていた。
時間は、いつもより少し早い。
昨日、自分で言った。
――同じ時間に来るなら、待ってる。
言った。
確かに言った。
だから今、ここにいる。
早く着きすぎたとか、たまたま電車がよかったとか、そういう言い訳は今日も一応できる。けれど、もう自分でも分かっていた。
今日は、待つつもりで来た。
それを認めると、朝の駅前の景色が少しだけ違って見える。
改札から流れてくる人。
眠そうに歩く学生。
急ぎ足の会社員。
柱の影に立つ自分。
その中で、透は玲央を探している。
完全に探している。
「……何やってんだろ」
小さく呟いたところで、スマホの画面が黒くなった。
反射的にもう一度時間を確認しようとしたが、やめる。
見たところで玲央が早く来るわけではない。
それに、たぶん自分は時間を見たいんじゃない。
玲央が来るまでの落ち着かなさを、何かで誤魔化したいだけだ。
その事実に気づいて、余計に落ち着かなくなる。
改札の向こうで、見覚えのある制服姿が見えた。
玲央だった。
今日は少しだけ急いでいるように見えた。
いつもより歩幅が大きい。人の流れを抜けて、改札を出るとすぐに透の方を探すように視線を動かす。
目が合った。
その瞬間、玲央の表情が少しだけ変わる。
驚いたような、安心したような。
それから、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「おはよう、透」
「……おはよ」
「待っててくれた」
「昨日、言ったからな」
言ったあと、自分で少し驚いた。
言い訳しなかった。
たまたまだとも、早く着いただけだとも言わなかった。
玲央も一瞬だけ黙る。
「……うん」
「何だよ」
「いや」
「何」
「嬉しすぎて、普通に返事できなかった」
「朝から重い」
「でも本当」
「知ってる」
自然に返した。
玲央がまた少し笑う。
その笑い方を見て、透は今日も待っていてよかったと思ってしまう。
かなりまずい。
でも、もうそこまで嫌ではなかった。
「行くぞ」
「うん」
二人で並んで歩き出す。
文化祭の余韻は、もうほとんど通学路には残っていない。
でも、玲央と駅で会って学校へ向かうことだけは残っている。
それが今、透には少しだけ誇らしいような、恥ずかしいような、変な感覚だった。
◇
「今日、少し急いでた?」
歩きながら、透はふと聞いた。
玲央が横を見る。
「分かった?」
「いつもより歩くの速かった」
「透が待ってると思ったから」
「……そういうのを毎回まっすぐ言うな」
「遅れたくなかった」
「別に、少しくらい待つ」
言ってから、また少しだけ後悔した。
少しくらい待つ。
今のはかなり、自然に出た。
玲央が黙る。
「何」
「今のも嬉しい」
「もういい。おまえの嬉しいポイント多すぎる」
「透が増やすから」
「俺のせいかよ」
「うん」
悪びれもせずに言われて、透は小さくため息をついた。
でも、そのため息はもう本気の抵抗ではない。
玲央も分かっているのだろう。
少しだけ楽しそうに、けれど大事そうに隣を歩いている。
「透」
「何」
「名前、今日は呼ばない?」
「朝から要求するな」
「要求じゃない」
「じゃあ何」
「少し期待」
「もっと悪い」
玲央が小さく笑う。
透は前を向いたまま、しばらく黙った。
名前で呼ぶだけ。
それだけのことが、こんなに大きい。
昨日は呼べた。
教室でも、帰り道でも。
でも、だからといって今日も簡単に呼べるわけではない。
いや、呼べるのかもしれない。
呼べるからこそ、余計に意識してしまう。
「……玲央」
小さく呼んだ。
玲央がすぐにこちらを見る。
「何?」
「呼んだだけ」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「だろうな」
たったそれだけで、朝の空気が少し変わる。
名前で呼ぶ。
返事をされる。
隣を歩く。
その全部が、昨日より少しだけ自然になっている気がした。
◇
教室に入ると、予想通り高城が反応した。
「おはよう、待ち合わせ組」
「もう少し別の挨拶を覚えろ」
「おはよう、名前呼び組」
「悪化した」
高城はけらけら笑った。
直は席に座ったまま、こちらを見て少しだけ頷く。
「おはよ。今日はどっちが待ってた?」
「朝から取材するな」
「日課みたいになってきたから」
「するな」
玲央が鞄を置きながら、さらっと答える。
「透が待っててくれた」
「おい」
「昨日、待ってるって言ってくれたから」
「そこまで言うな!」
透の声に、近くの女子がちらっとこちらを見る。
最悪だ。
いや、もう最近は最悪の頻度が高すぎる。
高城は机に肘をついて、心底面白そうに透を見る。
「白石、おまえ本当に変わったな」
「何が」
「前なら絶対、待ってたこと認めなかっただろ」
「……昨日言ったから」
「約束守るタイプだもんな」
「そういう言い方するな」
直が横から静かに言う。
「でもそこ、白石らしい」
「おまえまで何だよ」
「いや、いい意味で」
いい意味で、と言われると返しにくい。
透は無言で自分の席に座る。
玲央も自分の席へ向かうかと思ったが、その前に少しだけ透のそばで立ち止まった。
「透」
「何」
「今日、ありがとう」
「……駅で待ってただけだろ」
「それが嬉しかったから」
「もういいって」
「うん」
玲央はそれだけ言って、自分の席へ行った。
その背中を見送りながら、透は机に肘をついて小さく息を吐く。
高城がにやにやしている。
直も笑っている。
でも、もう以前ほど腹は立たなかった。
からかわれているのに、胸の奥は少しだけ温かい。
自分でも、どうしようもないくらい変わってきている。
◇
一時間目と二時間目の間の休み時間、透は廊下で水を飲んでいた。
文化祭の片付けも終わり、校舎は完全に日常へ戻っている。
廊下の壁には何も貼られていない。床にも紙片は落ちていない。昨日までの騒がしさが嘘みたいだった。
その普通の廊下で、玲央と待ち合わせた朝のことを思い出している自分がいた。
文化祭じゃない。
特別な行事でもない。
普通の日に、玲央を待った。
それが一番、逃げ場がない。
「白石くん」
声をかけられて振り向くと、同じクラスの女子がプリントを持って立っていた。
「あ、これ先生が配ってって。後ろの列の分」
「うん、分かった」
プリントを受け取る。
それだけのやり取りだった。
その時、少し離れたところから玲央が歩いてきた。
「透」
「何」
「次の授業、移動だっけ」
「いや、教室」
「そっか」
会話は短い。
だが、さっきの女子が二人を見比べて、少し笑った。
「榊原くん、ほんと白石くんのこと名前で呼ぶよね」
透は固まった。
もう今さらの話題なのに、第三者に改めて言われるとやっぱり照れくさい。
玲央は平然としている。
「うん」
「白石くんは?」
「え?」
「榊原くんのこと、何て呼んでるの?」
それは聞かないでほしかった。
透が返事に詰まる。
玲央がこちらを見る。
期待するな。
今ここで期待するな。
そう思うのに、玲央の目が少しだけ静かに待っているのが分かる。
「……玲央」
小さく言った。
女子は「へえ」と楽しそうに笑う。
「仲いいね」
「……まあ」
否定しなかった。
玲央も何も言わなかった。
ただ、横で少しだけ嬉しそうにしている。
女子が去ってから、透は玲央を睨んだ。
「何でそんな顔するんだよ」
「今、普通に呼んだから」
「呼ばされたんだろ」
「でも呼んだ」
「……そうだけど」
玲央が少し近づく。
「透」
「何」
「ありがとう」
「名前呼んだだけで毎回礼を言うな」
「嬉しいから」
「知ってる」
また自然に返した。
それがもう、完全に染みついてきている。
◇
昼休み。
いつものように玲央は透の隣に座った。
今日はもう、周りもそこまで騒がない。
高城が「定位置」とぼそっと言ったくらいで、直も軽く笑っただけだった。
それがまた、少し変な感じだった。
からかわれすぎるのも困る。
でも、周りが慣れてくると、それはそれで関係が固定されていくみたいで落ち着かない。
「透」
「何」
「今日、朝から少し元気ない?」
「そうか?」
「考えごとしてる」
「……まあ、少し」
「俺のこと?」
直球だった。
透は箸を止める。
「何でそうなる」
「最近、俺のこと考えてる時の顔、少し分かる」
「最悪だな」
「嫌?」
「……嫌ではないけど、恥ずかしい」
「そっか」
玲央は少しだけ笑う。
高城が横から口を挟んだ。
「榊原、もう白石表情検定一級じゃん」
「変な検定を作るな」
「でも合格だろ」
直が淡々と頷く。
「たぶん満点」
「おまえも乗るな」
玲央は、否定するでもなく透を見ている。
「透のことは、分かりたい」
静かにそう言った。
高城が「うわ」と小さく声を漏らす。
直も一瞬だけ黙った。
透は、何も言えなかった。
最近の玲央は、こういう言葉を変に隠さない。
重い。
でも、嫌ではない。
その「嫌ではない」が、もうすっかり口癖みたいになっていることに透は気づいていた。
「……そういうの、昼休みに言うな」
「じゃあ帰り道?」
「どこでも言うな」
「無理」
「知ってる」
まただ。
また自然に返してしまう。
玲央が少し嬉しそうにする。
それを見て、透も少しだけ嬉しくなる。
完全にまずい。
◇
放課後、透は珍しく先生に呼ばれた。
文化祭の後片付けの確認で、書類を職員室へ届けてほしいというだけの用事だった。
大したことではない。
「悪い、先帰っててもいい」
教室で玲央にそう言うと、玲央は少しだけ考えてから頷いた。
「待ってる」
「いや、職員室行くだけだし」
「待ってる」
「……聞く気ないな」
「透が嫌なら帰る」
そこでそう言われると、困る。
透は鞄を持ったまま、少しだけ視線を逸らした。
「……別に、嫌じゃない」
「じゃあ待ってる」
「本当に待つの好きだな」
「透を待つのは好き」
「言うと思った」
「うん」
玲央は穏やかに笑った。
透はそれ以上言うのを諦め、職員室へ向かった。
用事はすぐに終わった。
書類を渡し、先生から明日の連絡を聞き、廊下へ出る。
戻る途中、透はふと思った。
玲央は待っているだろうか。
待っている。
たぶん、間違いなく。
そう思うと、足が少しだけ早くなった。
教室の前まで戻ると、廊下の窓際に玲央が立っていた。
鞄を肩に掛け、窓の外を見ている。
透の足音に気づいたのか、ゆっくり振り向く。
「おかえり」
その一言に、胸の奥が小さく鳴った。
「……ただいま、って言う場面じゃないだろ」
「じゃあ、お疲れ」
「それでいい」
「早かったね」
「大した用じゃなかったから」
「そっか」
玲央が少し笑う。
待っていてくれた。
ただそれだけのことに、透は安心している。
朝は自分が待った。
放課後は玲央が待った。
それが自然になりかけている。
「……待たせたな、玲央」
名前を呼んだ。
今度は、わりと自然に。
玲央が一瞬だけ黙る。
「……うん」
「何」
「今の、いい」
「何が」
「待たせたな、玲央って」
「そこまで復唱するな」
「ごめん。でも、よかった」
「何がいいんだよ」
「普通っぽくて」
普通っぽい。
その言葉に、透は少しだけ黙った。
普通に名前を呼ぶ。
普通に待つ。
普通に一緒に帰る。
それが玲央にとって嬉しいのだとしたら。
そして自分にとっても、少し嬉しいのだとしたら。
それはもう、かなり大きな変化だった。
◇
帰り道、二人はいつもより少し静かだった。
沈黙が苦しいわけではない。
むしろ、今日の沈黙は落ち着いていた。
駅へ向かう途中、玲央がふいに言った。
「透」
「何」
「明日の朝も、同じ時間?」
「……うん」
「待ってる?」
透は玲央を見た。
昨日までなら、そこで少し迷ったかもしれない。
でも今日は、言葉が思ったよりすぐ出た。
「待ってる」
玲央の足が少しだけ止まる。
透は前を向いたまま続ける。
「おまえも来るんだろ」
「行く」
「なら、待ってる」
言ってしまってから、じわじわ恥ずかしくなる。
でも、撤回はしなかった。
玲央はしばらく黙ったあと、静かに言った。
「明日、早く行きすぎないようにする」
「何で」
「透が待ってるところ、ちゃんと見たいから」
「……重い」
「でも、本当」
「知ってる」
また同じ返事。
でも今日は、その言葉が少しだけ優しく出た気がした。
名前で呼ぶ。
待つ。
待たれる。
それだけで、普通の日の景色が変わっていく。
透はまだ、それに完全には慣れていない。
けれど、慣れないままでもいい気がしていた。
玲央が隣で笑う。
透は前を向いて歩く。
明日の朝、また駅で会う。
その約束があるだけで、今日の帰り道は少しだけ温かかった。




