第31話 同じ時間に来ただけ、って言い訳がもう弱い
翌朝、白石透は家を出る前に時計を三回見た。
一回目は、起きてすぐ。
二回目は、朝食を食べ終えたあと。
三回目は、玄関で靴を履く直前。
見すぎだ。
自分でもそう思った。
いつもなら、時間なんて一度確認すれば十分だった。遅刻しない程度に家を出て、いつもの電車に乗って、いつもの時間に駅へ着く。それだけで何も困らない。
なのに今日は、やけに時間が気になった。
理由は分かっている。
昨日、玲央に言ってしまったからだ。
――早く着いたらな。
玲央が先に駅へ着いていたら、自分はそこへ行く。
自分が先に着いていたら、玲央を待つ。
それだけの約束。
たったそれだけなのに、普通の朝が少し変わってしまった。
「……ほんと、何やってんだろ」
透は小さく呟いて、玄関の扉を開けた。
外の空気は少し冷たい。文化祭の熱が完全に抜けた朝の町は、いつも通り静かだった。通学路を歩く生徒の足音も、車の音も、近所の家の前を掃く箒の音も、全部いつも通り。
その中で、自分だけが妙に落ち着かない。
駅へ着くまで、透はスマホを見ないようにした。
時間を確認したら、また余計に意識する気がしたからだ。
それなのに、改札を抜ける直前で結局見てしまう。
昨日より、二分早い。
早くない。
二分なら誤差だ。
電車の乗り継ぎと歩く速度で普通に変わる。
そう自分に言い聞かせながら改札を出る。
柱の方へ目を向ける。
玲央はいなかった。
その瞬間、透はほんの少しだけ息を止めた。
いないのは当然だ。
自分が少し早く来ただけなのだから。
なのに、いないことに少し落ち着かなくなる。
最悪だ。
完全に待つ気になっている。
透は柱のそばへ移動して、鞄の肩紐を握り直した。
スマホを出そうとして、やめる。
時間を見ると、さらに意識する。
改札から出てくる人の流れを見る。
眠そうな高校生。会社員。イヤホンをつけた大学生らしい人。
その中に、玲央の姿はまだない。
別に待っているわけではない。
ただ、約束の場所に少し早く着いただけだ。
そう思おうとした時、改札の向こうに見慣れた姿が見えた。
玲央だった。
透は一瞬、視線を逸らしかけた。
けれど、もう遅い。
玲央も透を見つけて、少しだけ目を見開く。
それから、ゆっくり近づいてきた。
「おはよう、透」
「……おはよ」
「今日も、透が先だった」
「だから、早く着いただけだって」
「うん」
「何だよ、その返事」
「嬉しいのを我慢してる」
「できてない」
「少しは」
「全然」
玲央は少し笑った。
朝の駅前で、そんなふうに笑うなと思う。
周りから見れば何でもない会話なのに、透の中ではいちいち意味を持ってしまう。
「おまえも遅くはないだろ」
「うん。いつもより少し早い」
「何で」
「透が待ってるかもしれないと思ったから」
「……そういうのを普通に言うな」
「普通に思ったから」
「返しが強いんだよ」
透は顔を逸らした。
文化祭の後から、玲央の言葉は前より少しだけ遠慮がなくなった気がする。
いや、もともと遠慮がなかったかもしれない。
ただ、自分がそれを前より受け取ってしまうようになったのかもしれない。
「行くぞ」
「うん」
二人で歩き出す。
朝の駅から学校までの道。
これが、少しずつ当たり前になり始めている。
その事実が、怖いようで、でも嫌ではなかった。
◇
教室に入ると、今日は高城より先に直が反応した。
「おはよう、待ち合わせ組」
「その呼び方やめろ」
透が即座に返す。
直は机に頬杖をついたまま、にやりと笑った。
「でも今日も一緒に来た」
「駅で会っただけ」
「まだそれ言う?」
「言う」
「榊原は?」
直が玲央を見る。
玲央は鞄を置きながら、いつもの落ち着いた声で言った。
「待ち合わせ」
「おい」
「昨日、待ってていいって言われたから」
「そこまで言うな!」
透の声が少し大きくなって、近くのクラスメイトがこちらを見た。
恥ずかしい。
本当に恥ずかしい。
高城が遅れて教室へ入ってきて、その空気を見ただけで事情を察したように笑った。
「何、今日も進展してる?」
「してない」
「白石の否定がどんどん早くなる時は、だいたいしてる時なんだよな」
「勝手な法則を作るな」
「でも当たってるだろ」
「当たってない」
高城は机に鞄を置きながら、玲央の方を見る。
「で、今日はどっちが先に待ってたんだ?」
「聞くな」
「透」
玲央が答えた。
「玲央!」
また呼んだ。
完全に勢いだった。
教室が、今度こそ分かりやすく止まった。
高城が固まる。
直が小さく口笛を吹くふりをする。
玲央は一瞬だけ驚き、それから信じられないくらい嬉しそうな顔になる。
透は自分の失言に気づいて、机に額をぶつけたくなった。
「……違う」
「何が?」
直が楽しそうに聞く。
「今のは、違う」
「名前は合ってるぞ」
「そういう意味じゃない!」
高城が笑いをこらえきれずに言う。
「いや、もう事故二回目は事故じゃないんだよな」
「事故だ」
「じゃあ連続事故」
「言い方」
玲央は何も言わない。
何も言わないのが逆に気になって、透はちらっと横を見る。
玲央はまだ嬉しそうだった。
「……そんな顔するな」
「無理」
「言うと思った」
「今、名前呼ばれたから」
「だから事故だって」
「でも嬉しい」
それを言われると、何も返せない。
玲央が嬉しそうにするたびに、失敗したはずなのに完全には後悔できなくなる。
そこが一番まずい。
◇
午前の授業は、いつも通りだった。
いつも通り先生が来て、いつも通り教科書を開き、いつも通り黒板に文字が増えていく。
だが、透の頭の中はいつも通りではなかった。
玲央。
また呼んだ。
しかも教室で。
しかも昨日に続いて。
もう完全に言い訳が弱い。
文化祭の空気でもない。
勢いだけと言い張るにも、二回目はさすがに無理がある。
透はノートに文字を書きながら、ため息を噛み殺した。
前の席から、直が小さく紙を回してくる。
『事故処理お疲れ』
透はその紙を無言で握り潰した。
直の肩が小さく震える。
本当に腹立たしい。
授業が終わると、高城がさっそく寄ってきた。
「白石」
「何」
「そろそろ認めたら?」
「何を」
「榊原のこと、名前で呼ぶの慣れてきてるって」
「慣れてない」
「でも出るじゃん」
「勢い」
「勢いで毎回出るなら、それはもう慣れだろ」
「違う」
すると横から玲央が静かに言う。
「無理に呼ばなくていいよ」
透は少しだけ玲央を見る。
「……昨日も言ってたな」
「うん」
「呼んでほしいんじゃないのかよ」
言ってから、しまったと思った。
玲央は一瞬だけ黙る。
それから、少しだけ目を伏せて言った。
「呼んでほしい」
「……」
「でも、透が呼びたい時の方が嬉しい」
高城が小さく「うわ」と声を漏らした。
直が遠くから「榊原、強い」と呟く。
透は顔を逸らすしかなかった。
「……そういうの、教室で言うな」
「ごめん」
「謝るなら言うな」
「でも言いたかった」
「知ってる」
また自然に返してしまった。
玲央はそれを聞いて、少しだけ笑う。
高城が机に肘をつきながら言う。
「白石、もう完全に慣れてるじゃん」
「何に」
「榊原がまっすぐ言ってくることに」
「慣れてない」
「いや、前ならもっと慌ててた」
直も頷く。
「今は照れてるけど、ちゃんと受け取ってる感じ」
「分析するな」
「でも合ってるだろ」
合っている。
だから余計に言い返せなかった。
◇
昼休み、透はいつものように弁当を開けた。
玲央は今日も、隣に座っていいか聞いてきた。
「透、ここいい?」
「……いい」
「ありがとう」
もうこの流れもかなり自然だ。
自然すぎて、逆に危ない。
高城が購買のパンを持って戻ってくると、二人を見て笑った。
「ほんと定位置だな」
「定位置じゃない」
「じゃあ何?」
「……空いてる席」
「榊原が座るために空いてる席?」
「勝手に意味を足すな」
玲央が弁当を開けながら、静かに言う。
「透が嫌じゃないなら、定位置でもいい」
「おまえも乗るな」
「嫌?」
「……嫌ではないけど」
言ってしまった。
高城が勝ち誇った顔をする。
「はい、出た」
「何も出てない」
「嫌ではない」
「復唱するな」
直が笑いながら水筒を置く。
「最近の白石、そればっかりだな」
「何が」
「嫌ではない」
「……」
「すごい便利な言葉だよな。否定はしないけど認めすぎもしない」
「おまえ本当にたまに嫌なところ突くよな」
「親切だろ」
「どこが」
玲央は隣で静かに聞いていた。
透は卵焼きを口に運ぶ。
その間も、玲央の気配が近くにある。
文化祭前なら、それだけでもっと落ち着かなかった。
今も落ち着かなくはあるが、少し違う。
隣にいることに、安心している。
それが一番まずい。
「透」
「何」
「今日の朝、待ってたの」
「待ってない」
「早く着いただけ」
「そうだ」
「でも、俺が来て安心したって言った」
「……昼休みに蒸し返すな」
「嬉しかったから」
「もう分かった」
「覚えておきたかった」
「覚えるな」
「無理」
そのやり取りを聞いて、高城がパンを持ったまま固まった。
「え、白石そんなこと言ったの?」
「言ってない」
「言ったんだな」
「言ってない」
直がにやにやしながら言う。
「白石、朝弱いんじゃなくて榊原に弱くなってきただけでは?」
「黙れ」
言い返しても、もう説得力がない。
◇
午後の授業が終わり、放課後になる頃には、朝の名前呼び騒動も少し落ち着いていた。
いや、落ち着いたというより、透が慣れた。
周囲がいちいち突っ込むのも、玲央が嬉しそうにするのも、全部まとめて流すしかないと悟った。
それでも、帰り支度をしていると少しだけ緊張する。
朝に待ち合わせて、一緒に登校した。
昼に隣で弁当を食べた。
放課後に一緒に帰る。
これを普通と言い張るには、さすがに無理が出てきている。
「透」
玲央が来る。
「帰る?」
「……帰る」
「一緒に?」
「うん」
短く答えると、玲央が少しだけ笑った。
前より、確認が減った。
でも、まだちゃんと聞いてくる。
透はそれが少しだけ嬉しかった。
「白石ー」
高城が後ろから声をかける。
「何」
「明日の朝も待ち合わせ?」
「おまえには関係ないだろ」
「まあないけど、気になる」
「気にするな」
「榊原は?」
「聞く」
「律儀だな」
「透が勝手に待つなって言ったから」
「でも白石、最近許可出すじゃん」
「許可って言うな」
直が鞄を持ちながら、さらっと言う。
「まあ、続けたいなら続ければいいんじゃない?」
透はその言葉に反応してしまった。
続けたいなら。
自分は、続けたいのだろうか。
朝、駅で会うこと。
昼、隣に座ること。
放課後、一緒に帰ること。
それを続けたいのか。
答えは、もうだいぶ出ている気がした。
ただ、口にするにはまだ少し怖い。
◇
帰り道、夕方の風は少し冷たかった。
二人で並んで歩く。
学校から駅までの、もう何度も歩いた道。
少し前までは、この道を一人で歩くことが普通だった。
今は、隣に玲央がいることの方が自然に近くなっている。
「透」
「何」
「明日の朝」
「……同じ時間なら」
「待っていい?」
「……いい」
また言った。
今日は昨日より少し早く答えた。
玲央もそれに気づいたらしい。
「返事、早くなった」
「うるさい」
「嫌じゃなくなってきた?」
「最初から嫌ではない」
「そうだった」
「嬉しそうにするな」
「無理」
玲央は本当に嬉しそうだった。
その顔を見ながら、透は思う。
同じ時間に来ただけ、という言い訳はもう弱い。
朝、玲央がいるか探している。
玲央が来ると安心する。
玲央が嬉しそうにすると、自分まで少し嬉しくなる。
これでまだ何も変わっていないと言う方が無理だった。
「……おまえさ」
「うん」
「毎朝、聞くつもりなのか」
「透が嫌じゃないなら」
「その言い方、本当にずるい」
「じゃあ、透から言ってくれる?」
「何を」
「明日も待ってていいって」
透は一瞬、言葉に詰まった。
玲央はまっすぐこちらを見ている。
からかっているわけではない。
たぶん、本当に聞いている。
だから透は逃げにくい。
「……明日も」
声が小さくなる。
「うん」
「待ってていい」
言った。
自分から。
玲央は足を止めなかった。
でも、隣の空気が明らかに変わった。
「ありがとう」
「礼はいらない」
「嬉しい」
「それも言わなくていい」
「でも、言いたい」
「知ってる」
知っている。
玲央が言いたがることも。
言われると自分が弱いことも。
もう、だいぶ知っている。
駅が近づいてくる。
別れる場所が近づいてくる。
透は何となく、歩幅を少しだけ緩めた。
玲央もそれに合わせる。
何も言わない。
でも、分かっている。
この沈黙が心地いいと思ってしまった時点で、もうかなり戻れない。
「じゃあ、また明日」
駅の手前で、透が言った。
「うん。また明日、透」
「……また明日、玲央」
言った。
今度は、勢いではなかった。
玲央が完全に固まった。
透はすぐ顔を背ける。
「……今のは」
「うん」
「事故じゃない」
小さく言う。
玲央は、しばらく何も言わなかった。
それから、本当に静かな声で言った。
「ありがとう」
「だから礼はいらないって」
「でも、言いたい」
「……知ってる」
夕方の駅前で、透は自分の顔が熱くなるのを感じた。
同じ時間に来ただけ。
同じ道を歩いただけ。
同じように明日を約束しただけ。
でももう、その言い訳はだいぶ弱い。
名前を呼ぶことまで、自然になり始めているのだから。




