第30話 待たれるより、待ってしまった方がまずい
翌朝、白石透は駅の改札前で立ち止まった。
時計を見る。
いつもより、五分早い。
「……早すぎた」
口に出してから、周囲の人に聞かれていないか確認してしまう。
朝の駅前はそこそこ人が多く、誰も透の小さな独り言など気にしていなかった。
助かった。
いや、助かるようなことを言ったつもりはない。
別に、玲央に会うために早く来たわけではない。
家を出る支度がたまたま早く終わった。信号に引っかからなかった。電車の乗り継ぎがよかった。そういう小さな偶然が重なっただけだ。
……と、昨日も似たようなことを考えていた気がする。
透は改札前の柱の近くへ移動した。
昨日まで玲央が立っていた場所。
今日も待っていい、と自分で言った場所。
だが、まだ玲央はいなかった。
それは当然だ。
透が早く着きすぎただけなのだから。
当然なのに、ほんの少しだけ落ち着かない。
スマホを取り出して、時間を確認する。
まだ五分ある。
何か見るものでもないかと画面を開いたが、特に用もない。ニュースを見る気にもならないし、SNSを開くほどでもない。
結局、すぐに画面を閉じた。
駅の改札からは、人が次々と出てくる。
スーツ姿の会社員、眠そうな学生、イヤホンをつけたまま歩く人。
その流れの中に玲央がいないか、透は無意識に見てしまう。
見てから、はっとする。
探している。
完全に探している。
「……いや、待ち合わせだからな」
小さく言い訳する。
待ち合わせなら、相手を探すのは普通だ。
普通のことだ。
別に何もおかしくない。
そう考えている時点で、だいぶおかしい気もするが。
その時、改札の向こうに見覚えのある姿が見えた。
黒髪。整った横顔。きちんと着た制服。
朝の人混みの中でも、なぜかすぐ分かる。
玲央だった。
透より少し遅れて改札を抜けた玲央は、いつもの柱のあたりへ目を向けた。
そして、先に立っている透を見つけた瞬間、足を止めた。
驚いた顔。
ほんの一瞬だったが、確かに分かった。
それを見て、透の胸が妙に跳ねた。
「……おはよ」
玲央が近づいてくる前に、透は先に言った。
先手を取ったつもりだった。
しかし玲央は、近づいてくるなり少しだけ笑った。
「おはよう、透」
「何だよ」
「今日は透が待ってた」
「待ってたわけじゃない」
「ここにいた」
「早く着いただけ」
「俺を待ってたんじゃない?」
「違う」
即答した。
だが、玲央はまったく傷ついた様子もなく、むしろ少しだけ嬉しそうだった。
「違うんだ」
「……たぶん」
「たぶん?」
「そこ拾うな」
「拾うよ」
玲央の声がやわらかい。
朝の駅前で、そんな声を出されると困る。
透は顔を逸らした。
「行くぞ。遅れる」
「まだ余裕ある」
「いいから行く」
「うん」
玲央が隣に並ぶ。
昨日までは玲央が透を待っていた。
今日は透が、先にそこにいた。
たったそれだけの違いなのに、歩き出した瞬間から妙に落ち着かなかった。
◇
学校へ向かう道は、完全にいつもの朝だった。
文化祭の名残はもうほとんどない。
生徒たちは眠そうに歩き、誰かが昨日の課題の話をし、別の誰かがコンビニで買ったパンを片手に急いでいる。
特別な日ではない。
だからこそ、隣に玲央がいることが少しだけ浮いて感じる。
いや、浮いているわけではない。
周りから見れば、ただ同じ学校の男子二人が並んで歩いているだけだ。
でも、透の中ではもうそういう単純なものではなくなっている。
「透」
「何」
「今日、早く来た理由」
「だから、たまたま」
「本当に?」
「本当」
「昨日より三分早かった」
「何で分かるんだよ」
「昨日の時間、覚えてる」
「怖いな」
「大事だったから」
まただ。
朝から、普通にそういうことを言う。
透は歩きながら、目線だけで玲央を睨んだ。
「何でも大事にするな」
「透とのことなら、大体大事」
「……言ってて恥ずかしくないのか」
「少しは」
「少しはあるのかよ」
「でも言いたい方が勝つ」
玲央は平然としているように見えて、実は少しだけ照れているのかもしれない。
そう思うと、透まで変に意識してしまう。
「……俺は、別に」
「うん」
「待ってたわけじゃないけど」
「うん」
「おまえが来た時、ちょっと安心した」
言ったあと、透は完全に口を閉じた。
何を言っているんだ。
朝から。
通学路で。
普通の日に。
自分からそんなことを言う必要はなかった。
隣の玲央が一瞬黙る。
透は横を見なかった。
見たら絶対に恥ずかしくなる。
「透」
「……何」
「今の、かなり嬉しい」
「言うな」
「我慢できなかった」
「もう少し頑張れよ」
「無理だった」
玲央の声が本当に嬉しそうで、透は余計に顔を上げられなかった。
待たれるより、待ってしまった方がまずい。
そんなことを、朝の通学路で思う。
待っていたと認めるのは、まだ無理だ。
でも、玲央が来て安心したのは本当だった。
◇
教室に入ると、当然のように高城がこちらを見た。
「お、今日も一緒」
「朝から確認するな」
透が先に言うと、高城は笑った。
「いや、もう確認っていうか、恒例になりつつあるなって」
「恒例じゃない」
「じゃあ何?」
「……通学」
「榊原は?」
高城は面白そうに玲央へ振る。
玲央は鞄を置きながら答えた。
「待ち合わせ」
「おい」
「だって今日は透が先に待ってた」
「待ってない!」
透の声が少し大きくなった。
教室の数人がこちらを見る。
最悪だ。
高城は目を丸くし、それからゆっくり口元を上げた。
「白石が先に?」
「違う。早く着いただけ」
「それを世間では待ってたって言うんじゃないか?」
「言わない」
「言うと思うぞ」
直が前の席から振り返り、さらっと言った。
「言うな」
「いや、今のはかなり言う。白石、とうとう待つ側になったか」
「だから違うって」
「でも榊原が来て安心した顔してた?」
直が玲央へ聞く。
玲央は一瞬だけ透を見る。
透は無言で睨んだ。
言うな。
絶対に言うな。
そんな目で訴えたつもりだった。
玲央は少しだけ考えるような顔をして、それから言った。
「嬉しそうではあった」
「玲央」
思わず名前で呼んだ。
呼んでしまった。
教室の空気が止まる。
高城が「お」と言い、直が片眉を上げた。
玲央本人も、少しだけ目を見開いている。
透は自分の失言に気づいて、耳まで熱くなった。
「あ、いや」
「今、名前」
玲央が静かに言う。
「違う。勢い」
「勢いで呼んだ」
「そこ拾うな」
「嬉しい」
「言うな!」
高城がとうとう笑い出した。
「いや、朝から濃いな。文化祭後の方が進んでないか?」
「進んでない」
「名前呼びしてたぞ」
「事故だ」
「事故って言うなよ。榊原ちょっと嬉しそうだぞ」
見るまでもなく分かる。
玲央はたぶん、かなり嬉しそうな顔をしている。
透は確認したくなかったが、結局見てしまった。
案の定だった。
玲央は嬉しそうだった。
静かに、でもはっきり。
「……おまえもそんな顔するな」
「無理」
「無理じゃない」
「透が名前呼んだから」
「事故だって言っただろ」
「もう一回事故って」
「するか」
直が肩を揺らして笑っている。
「白石、諦めろ。もうだいぶ自然に出てる」
「自然じゃない」
「自然だった」
「違う」
「じゃあ、またそのうち事故るな」
「事故らない」
そう言い切ったものの、自信はなかった。
自信がない自分が、かなりまずい。
◇
授業中、透は今日こそちゃんと集中するつもりだった。
つもりだったのだが、朝の一件が尾を引いていた。
玲央。
自分の口から、自然に出た。
正確には勢いだ。
言い返そうとして、つい名前が出てしまっただけ。
けれど、出たことは事実だ。
これまで何度か呼びそうになったことはある。
実際、文化祭のゲームコーナーでも一度呼んでしまった。
でも今日は違う。
教室で。
高城や直の前で。
普通の日の朝に。
それは、文化祭の浮かれた空気のせいにはできない。
「白石」
前から直が小声で言う。
「何」
「ノート、また一行遅れてる」
「……悪い」
「今日は榊原じゃなくて玲央のこと?」
「黙れ」
透が低く返すと、直は前を向いたまま笑った。
最悪だ。
先生の声は聞こえている。
黒板の文字も見えている。
でも、頭のどこかでずっと玲央の嬉しそうな顔が残っている。
あの顔を見ると、言ってしまったことを完全には後悔できなくなる。
それが本当に厄介だった。
◇
昼休み。
透が弁当を開けていると、玲央がいつものように近づいてきた。
「透、ここいい?」
「……いい」
「ありがとう」
玲央は隣に座る。
今日もちゃんと聞いてから座った。
その慎重さが、透にはもう分かる。
高城は購買へ行っていて、直は前の席で弁当を食べながらこちらを見ている。
見ているが、何も言ってこない。
それが逆に怖い。
「透」
「何」
「朝の」
「忘れろ」
「まだ何も言ってない」
「言う気だっただろ」
「名前呼んだこと」
「ほら言った」
透は卵焼きを箸で切りながら、玲央を見ないようにした。
「事故だって言った」
「うん」
「だから忘れろ」
「無理」
「だろうな」
「でも、無理に呼ばなくていい」
「……え?」
意外な言葉に、透は顔を上げた。
玲央は弁当箱を開けながら、静かに言う。
「透が呼びたい時でいい」
「……呼びたい時って何だよ」
「自然に出る時」
「今日みたいな事故か?」
「俺は事故でも嬉しいけど」
「じゃあ駄目だ」
「何で」
「おまえが嬉しそうにするから」
「嬉しいの、嫌?」
「……困る」
「嫌ではない?」
「その聞き方するな」
玲央は少しだけ笑った。
「じゃあ、困るだけ」
「……今は」
言ってから、また余計なことを言ったと思った。
今は、ということは、そのうち変わるかもしれないという意味になる。
玲央がそこを拾わないはずがなかった。
「今は」
「復唱するな」
「覚えておく」
「忘れろ」
「それは無理」
玲央の声が楽しそうで、透はもう反論するのを諦めた。
直が前からぽつりと言う。
「自然に会話してるなあ」
「聞くな」
「聞こえる位置だったし」
「おまえまでその言い方するな」
直は笑った。
でも、その笑い方はどこか穏やかだった。
◇
放課後になっても、朝の名前呼びの余波は地味に残っていた。
高城はことあるごとに「玲央って呼ばないの?」と聞いてきたし、直は何も言わない時ほど見守っている顔をしていた。
透は何度も「呼ばない」と言い返した。
言い返したはずなのに、心のどこかでその名前が残っている。
榊原ではなく、玲央。
ずっと玲央の方からは透と呼ばれていた。
それに少しずつ慣れて、自分もいつか呼ぶのだろうかと考えたことはある。
でも、実際に出てしまうと、思ったより照れくさい。
帰り支度を終えた透のところへ、玲央が来る。
「帰る?」
「帰る」
「一緒に?」
「……うん」
そのやり取りにも、もうだいぶ慣れてきた。
教室を出ると、高城が後ろから声を飛ばす。
「お疲れー。白石、帰り道でまた事故れよー」
「うるさい!」
玲央が少し笑う。
「笑うな」
「無理」
「今日そればっかりだな」
「透が名前呼んだから」
「忘れろって言っただろ」
「無理」
廊下を歩きながら、同じやり取りを繰り返す。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
でも、玲央が嬉しそうにしているのを見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
◇
駅へ向かう帰り道で、透は少しだけ歩く速度を落とした。
玲央もそれに合わせる。
もう何度も繰り返している動作。
自然に歩幅が合うことに、今日は少しだけ気づいてしまった。
「透」
「何」
「明日の朝」
「……待ってていいか、だろ」
「うん」
「言うと思った」
「聞くって決めたから」
「律儀」
「透が勝手に待つなって言ったから」
「言った」
「だから聞く」
こういうところが、玲央らしいと思う。
強引なのに、肝心なところはちゃんと確認する。
それが分かるから、透はもう逃げにくい。
「……明日も、同じ時間なら」
「うん」
「待っててもいい」
「ありがとう」
「毎回礼を言うな」
「嬉しいから」
「知ってる」
自然に返す。
もう何度目かの「知ってる」だった。
玲央が少しだけ笑う。
「透」
「何」
「明日の朝、もし透が先に着いてたら」
「……うん」
「待っててくれる?」
透は足を止めそうになった。
待っててくれる?
それは、待たれる側ではなく、待つ側になることを当たり前に含んだ言葉だった。
朝の駅で玲央を探す。
玲央が来るのを待つ。
来た時に、少し安心する。
今日もうやってしまったことだ。
そして、嫌ではなかったことだ。
「……早く着いたらな」
透は小さく言った。
玲央は、すぐに笑わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せて、静かに頷く。
「うん」
「何で黙るんだよ」
「嬉しすぎて、今言うと透が逃げそうだから」
「言ってるだろ、それ」
「また我慢できなかった」
「おまえ、我慢弱いな」
「透のことだと、少し」
透は顔を逸らした。
夕方の光が、駅へ向かう道を薄く染めている。
文化祭はもう終わった。普通の日常に戻っている。
それなのに、こんな普通の道で交わす約束の方が、ずっと逃げ場がない。
明日の朝、早く着いたら待つ。
それはもう、言い訳できないほど普通の約束だった。
「……待たれるより」
透は小さく呟いた。
「何?」
「待ってしまった方が、まずいなって」
玲央がこちらを見る。
透はすぐに付け足した。
「何でもない」
「聞こえた」
「じゃあ聞くな」
「まずい?」
「……まずいだろ」
「俺は嬉しい」
「そういうところがまずい」
玲央は少しだけ笑った。
でも、いつものようにからかう笑いではなかった。
「透が待ってくれるなら、俺も早く行きたくなる」
「張り合うな」
「じゃあ、同じくらいに行く」
「そうしろ」
「うん」
二人でまた歩き出す。
待たれるより、待ってしまった方がまずい。
だってそれは、自分から玲央を探しているということだから。
それを認めるには、まだ少し勇気が足りない。
でも、明日の朝も駅に向かう自分が、きっと少しだけ時間を気にするのだろうということだけは、もう分かっていた。




