第29話 普通の日の待ち合わせは、文化祭より照れくさい
翌朝、白石透はいつもより三分早く家を出た。
三分。
たった三分だ。
それだけなら、誤差で済む。靴紐を結ぶのが早かったとか、信号に引っかからなかったとか、そういう理由で簡単にずれる程度の時間だ。
だから別に、榊原玲央との待ち合わせを意識したわけではない。
――と、自分に言い聞かせながら駅へ向かった時点で、もうだいぶ負けている気がした。
文化祭は終わった。
昨日の午後には片付けも済み、教室もほとんど元通りになった。壁の装飾も、入口の看板も、受付の机も消えた。あの二日間だけの浮ついた空気は、学校の中から少しずつ剥がされていった。
それなのに、今朝も玲央が駅で待っている。
文化祭の延長ではない。
普通の日の朝だ。
だからこそ、透は落ち着かなかった。
改札を出る。
人の流れを見る。
柱の方へ視線を向ける。
いた。
昨日と同じ場所に、玲央が立っていた。
スマホを見ているわけでもなく、誰かと話しているわけでもない。朝の駅前の雑踏の中で、ただ静かに立っている。制服の着方も、表情も、いつも通りだ。
けれど、透を見つけた瞬間だけ、少しだけ顔が変わる。
そのわずかな変化を、自分がもう見分けられるようになっていることに気づいて、透は胸の奥がむずがゆくなった。
「おはよう、透」
「……おはよ」
「今日、少し早い」
「たまたま」
「そっか」
「何だよ」
「いや。嬉しい」
「言うと思った」
玲央は小さく笑った。
文化祭の廊下でも、帰り道でも見た笑い方。
それが普通の朝にも続いている。
それだけで、昨日までのことが夢ではなかったのだと分かってしまう。
「おまえはいつからいたんだよ」
「少し前」
「少しって?」
「五分くらい」
「早いだろ」
「待つって言ったし」
「五分前行動が真面目すぎる」
「透を待つなら、遅れるよりいい」
「……朝からそういうのやめろ」
「まだ慣れない?」
「慣れるわけないだろ」
言ってから、透は少しだけ後悔した。
慣れていないと認めたようなものだ。
つまり、意識していると認めたようなものでもある。
玲央はそこをちゃんと拾ったらしく、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、少しずつでいい」
「何が」
「待ち合わせに慣れるの」
「勝手に日課にするな」
「毎朝じゃなくていいって言っただろ」
「……言ったけど」
「今日はしてる」
「今日だけな」
「うん。今日は」
玲央は素直に頷いた。
その返しが逆にずるい。
強引に毎朝と言われたら反発できるのに、ちゃんと一日ずつ確認するような言い方をされると、拒みにくくなる。
透は小さく息を吐き、玲央の隣に並んだ。
「行くぞ」
「うん」
二人で歩き出す。
文化祭の飾りも、焼きそばの匂いも、呼び込みの声もない。
ただの通学路だ。
なのに、隣に玲央がいるだけで、昨日までの続きみたいに感じてしまう。
◇
学校へ着くと、現実は思ったより容赦なかった。
廊下にはもう文化祭のポスターはほとんど残っていない。教室に入っても、机はいつもの位置に戻り、黒板には普通の連絡事項が書かれている。昨日まで教室の後ろに積まれていた段ボールも、朝のうちに倉庫へ運ばれたらしい。
完全に、普通の学校だった。
ただし、クラスメイトたちは普通ではなかった。
「お、待ち合わせ組」
教室に入った瞬間、高城がそう言った。
透は鞄を机に置く前に顔をしかめる。
「朝からやめろ」
「いや、だって一緒に来たし」
「駅で会っただけ」
「まだそれ使うのかよ。昨日もう待ち合わせって認めてなかった?」
「……」
「沈黙は肯定」
「違う」
否定が一拍遅れたせいで、高城がにやっと笑う。
直も前の席から振り返った。
「榊原、今日も待ってたの?」
「うん」
「正直」
「待っていいって言われたから」
「おい」
透は思わず玲央を見た。
「そこまで言わなくていいだろ」
「事実だし」
「便利に使うな、その言葉」
「でも事実」
高城が腹を抱えるほどではないが、かなり楽しそうに笑っている。
「白石、もう無理だって。おまえが榊原に待っていいって言ったの、完全に進展じゃん」
「進展とか言うな」
「じゃあ何?」
「……普通の通学」
「普通の通学は、相手の許可取って駅で待たないんだよなあ」
直が淡々と言う。
その通りすぎて、透は言い返せなかった。
玲央は隣で静かに笑っている。
「おまえも笑うな」
「透が困ってる」
「誰のせいだと思ってる」
「半分くらい俺」
「九割だろ」
「残り一割は?」
玲央が聞く。
透は言葉に詰まった。
残り一割。
たぶん、自分だ。
待っていいと言ったのは自分で、今日も少し早く家を出たのは自分で、玲央が駅にいたことに安心したのも自分だ。
そこを突かれると弱い。
「……知らない」
「知らないんだ」
「うるさい」
高城と直が顔を見合わせて、また笑う。
文化祭が終わっても、こういう空気は残っている。
からかわれるのは面倒だ。
でも、完全に嫌ではない。
それがまた、透には悔しかった。
◇
一時間目が始まると、教室はさすがに普通の授業へ戻った。
黒板に文字が書かれ、先生の声が流れ、ノートを取る音が聞こえる。文化祭の余韻を引きずっていたクラスメイトたちも、少しずつ現実へ引き戻されていく。
透もノートを開いた。
今日はちゃんと集中するつもりだった。
けれど、前の席の直が小さく紙片を回してきた。
そこには、雑な字でこう書かれていた。
『朝の待ち合わせ、どうだった?』
透は無言でその紙を握り潰した。
直の肩が小さく揺れる。
笑っている。
授業中なので文句も言えない。最悪だ。
透はノートの端に黒板の内容を書き写そうとして、ふと手を止めた。
視界の端に、玲央が映った。
斜め後ろの席。
玲央は普通に授業を受けている。背筋は伸びていて、ノートを取る手も落ち着いている。
昨日まで文化祭で一緒に動き回っていた人間が、今日は普通にクラスメイトとして授業を受けている。
当たり前のことなのに、その切り替わりが不思議だった。
玲央がふと顔を上げる。
目が合った。
透は慌てて黒板へ視線を戻した。
数秒後、後ろから小さく息を漏らすような笑い声が聞こえた気がした。
笑うな。
心の中でだけそう言う。
でも、口元が少しだけ緩みそうになったのを、透は自分で気づいていた。
◇
昼休み。
文化祭後の教室は、ようやく本当の意味でいつもの空気に戻り始めていた。
弁当を広げる生徒。購買へ走る男子。昨日の写真を見返して笑う女子。机に突っ伏して寝ようとする高城。
透は弁当箱を開けながら、少しだけ肩の力を抜いた。
「透、ここいい?」
隣から玲央の声。
もう驚かない。
驚かないが、やっぱり少しだけ意識はする。
「……いいけど」
「ありがとう」
玲央は当たり前みたいに隣へ座る。
でも、ちゃんと聞いてから座るようになった。
その変化が、透には少しだけくすぐったい。
「榊原、最近聞くようになったよな」
直が言う。
「何を?」
「白石の隣座る許可」
「透が困らないように」
「……本当にそういうの、普通に言うな」
透が箸を止めて言うと、直が笑った。
「白石は困ってるの?」
「……前よりは困ってない」
言ってから、教室の空気が一瞬だけ止まった気がした。
高城が寝たふりをやめて顔を上げる。
「おお」
「何だよ」
「白石が自分から進展発言した」
「進展じゃない」
「前より困ってない、はだいぶ強いだろ」
玲央は何も言わなかった。
何も言わないので、透は逆に気になって横を見る。
玲央は、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
「……何」
「いや」
「言えよ」
「嬉しい」
「やっぱり言わなくていい」
「もう言った」
「分かってる」
透は卵焼きを口に入れた。
味はちゃんとする。
でも、それ以上に玲央の「嬉しい」が耳に残ってしまう。
直がそれを見て、どこか満足そうに頷いた。
「文化祭、ちゃんと残ったな」
「何が」
「距離感」
「残らなくていい」
「いや、残ってる方が面白い」
「面白がるな」
高城が横から笑う。
「でも実際、文化祭前と後でだいぶ変わったよな。白石が榊原に慣れた」
「慣れたって言うな」
「じゃあ馴染んだ」
「もっと嫌だ」
「でも合ってる」
合っている。
言い返したいのに、言い返せない。
たぶん自分は、玲央が隣にいることに馴染み始めている。
それがもう、かなりまずい。
◇
放課後、透は少しだけ迷っていた。
朝は駅で待ち合わせた。
昼は玲央が隣に来た。
放課後はどうするのか。
今までなら、玲央の方から「帰る?」と聞いてきた。
でも今日は、何となく自分から言うべき気がした。
文化祭が終わっても続くなら。
そう考えたところで、透はまた自分で自分に突っ込みたくなる。
続くって何だ。
何をどこまで続けるつもりなんだ。
鞄に教科書を入れていると、玲央が近づいてきた。
「透」
「……何」
「帰る?」
いつもの問い。
透は鞄のファスナーを閉めながら、少しだけ玲央を見た。
「帰る」
「一緒に?」
今朝と同じように、確認される。
透は数秒だけ間を置いた。
それから、小さく頷く。
「……うん」
玲央の表情がやわらかくなる。
その瞬間、言ってよかったと思ってしまった。
「じゃあ行こう」
「うん」
教室を出ようとすると、高城が後ろから声を飛ばした。
「お疲れ、待ち合わせ組」
「帰りは待ち合わせじゃないだろ」
「一緒に帰るなら同じようなもんじゃね?」
「違う」
「違うんだ?」
「……たぶん」
「たぶんになった」
「高城、追い詰めるな」
直が笑いながら言う。
「白石が自分で答え出すところだから」
「やめろ、その妙に分かった感じ」
「分かるだろ、見てたら」
「見るな」
高城と直の笑い声を背中に受けながら、透は教室を出た。
隣には玲央がいる。
文化祭の余韻が消えていく普通の廊下。
それでも、二人で歩く距離は昨日とあまり変わらなかった。
◇
昇降口で靴を履き替え、校門へ向かう。
壁にはもう文化祭の飾りはない。
校門の装飾も半分ほど片付けられていた。
普通の日に戻っている。
それなのに、透の中にはまだ何かが残っている。
「透」
「何」
「明日の朝は?」
「……またそれか」
「聞くって言ったから」
「律儀だな」
「透が勝手に待つなって言った」
「言ったけど」
透は少し考えた。
今日の朝、玲央が駅にいた。
それは嬉しかった。安心した。
明日の朝も、いたらたぶん同じように思う。
でも、毎日になったらどうなるのかはまだ分からない。
分からないけれど、嫌ではない。
「……明日も」
「うん」
「同じ時間なら、まあ」
「待っていい?」
「……いい」
玲央が静かに笑う。
「ありがとう」
「礼を言うようなことか?」
「うん」
「そうかよ」
「透と朝会えるから」
「本当に朝からそういうの言うな」
「今は放課後」
「そういう問題じゃない」
二人で校門を出る。
夕方の風が頬に触れた。
普通の日の放課後。
文化祭ではない。
特別な行事もない。
それでも、明日の朝の約束が一つ増えた。
そのことが、透には妙に大きかった。
「普通の日に待ち合わせる方が」
透は小さく呟く。
「何?」
「……文化祭より逃げ場がない」
玲央は少しだけ黙った。
それから、穏やかに言った。
「逃げたい?」
ずるい聞き方だ。
でも、今日の透は少しだけ正直だった。
「……今は、そこまで」
玲央が笑った。
「そっか」
「嬉しいって言うなよ」
「顔に出てる?」
「出てる」
「じゃあ言わない」
「十分伝わってる」
「ならよかった」
透はため息をついた。
でも、そのため息は以前のような抵抗ではなかった。
普通の日に待ち合わせる方が、文化祭より逃げ場がない。
それでも、自分は明日の朝も玲央が待っていることを許した。
その事実が、文化祭の後の日常を少しだけ特別なものに変えていた。




