第28話 普通の日に待ち合わせる方が、文化祭より逃げ場がない
午後の短縮授業は、いつもより眠かった。
文化祭の翌日だから、というだけではないと思う。
教室は一応、午前中の片付けで元の形に戻っていた。机はきちんと並び直され、黒板のチョーク絵も消され、壁の飾りもなくなっている。入口に立っていた看板も、もう後ろの段ボールの山に混じっていた。
それなのに、空気だけはまだ昨日の残り香を含んでいる気がした。
誰かが小声で「昨日のあの客、面白かったよな」と話している。
別の席では「写真撮っとけばよかった」と後悔している声がする。
先生が黒板に書いた内容を見ながらも、クラスの半分くらいはまだ文化祭の余韻から戻りきれていない。
白石透も、たぶんその一人だった。
ノートを取っているはずなのに、気づけば別のことを考えている。
朝、駅に玲央がいたこと。
昼休み、玲央が隣に来たこと。
鞄の内側に、青いビーズのキーホルダーをつけたことを見られたこと。
文化祭は終わった。
でも、残っているものがある。
その事実が、授業中なのに妙に胸の奥で引っかかっていた。
「白石」
隣ではなく、少し前の席から直が小さく声をかけてきた。
「何」
「ノート、一行飛んでる」
「え」
慌てて黒板を見る。
本当に一行抜けていた。
「……ありがと」
「珍しいな」
「何が」
「おまえ、こういうのちゃんと写すタイプなのに」
「文化祭疲れだろ」
「ほんとにそれだけ?」
直の目が少しだけ細くなる。
透は返事をしなかった。
すると直は、それ以上は追及せず、前を向いたまま小さく笑った。
「まあ、午後眠いしな」
「そういうことにしといてくれ」
「はいはい」
こういうところで直が引いてくれるのは、助かる。
助かるのに、全部見抜かれていそうで少し腹立たしい。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
先生が「今日は疲れてるだろうから、課題だけ忘れるなよ」と言って出ていくと、教室中から小さなため息が上がった。
「終わったー」
高城が机に突っ伏しながら言う。
「短縮なのに疲れた」
「午前中ずっと片付けだったからな」
直がそう返す。
「文化祭って、終わったあとが一番現実だわ。昨日まであんなに楽しかったのに、今日もう机戻して授業って」
「学校だからな」
「白石、冷静だな」
「冷静じゃなくても机は戻るだろ」
「そういうところだよ」
「どこだよ」
高城は顔を上げて笑った。
その時、教室の後ろから玲央が歩いてきた。
透は何もしていないのに、気配だけで少し意識してしまう。
最近、その感覚にもだいぶ慣れてきている。慣れてきているのが、相変わらず困る。
「透」
「……何」
「今日、帰る?」
「帰るけど」
「一緒に行く?」
前より、少しだけ聞き方が丁寧になった。
以前なら「一緒に帰る」と決定事項みたいに言われていた気がする。今はちゃんと尋ねられる。
たぶん、昨日の約束を玲央なりに気にしているのだろう。
近すぎない。
でも、離れすぎない。
その距離を探しているのが分かる。
「……うん」
透が頷くと、玲央の表情が少しやわらいだ。
それを見てしまったせいで、透はすぐに視線を逸らした。
「おお」
高城が変な声を出す。
「何だよ」
「いや、白石が普通に頷いたなって」
「帰る方向が同じなんだから普通だろ」
「文化祭前ならもう少し反発してた」
直が淡々と補足する。
「するな」
「事実確認」
「いらない」
玲央は横で少しだけ笑っていた。
「おまえも笑うな」
「いや」
「何」
「透が普通に一緒に帰るって言ったから」
「……それでいちいち喜ぶな」
「無理」
高城が椅子にもたれながら、しみじみと言った。
「文化祭って、人間関係進むなあ」
「雑にまとめるな」
「いや、まとまってるだろ。看板、焼きそば、占い、待ち合わせ。だいぶ進んだ」
「何でそんなに把握してるんだよ」
「クラスメイトだから」
「関係ないだろ」
直が横から笑う。
「まあ、俺たちけっこう見てたしな」
「見すぎだ」
「見える位置だったし」
直がわざと玲央の真似みたいに言ったので、透は無言で睨んだ。
玲央まで少しだけ笑うから、余計に腹が立つ。
◇
帰り支度をしながら、透は鞄の内側に指先が触れるのを感じた。
小さなキーホルダーが、ファスナーの金具に当たって軽く揺れる。
外からは見えない。
でも、自分には分かる。
それだけで妙に落ち着かなくなる。
「透」
すぐ近くで玲央が呼んだ。
「何」
「今日、鞄重い?」
「別に普通」
「朝、文化祭の荷物少し残ってたから」
「もう片付けた」
「そっか」
「何でそんなことまで見てるんだよ」
「見えるから」
「出た」
言いながら、透は鞄を肩に掛ける。
その動きで、内側のキーホルダーがまた小さく鳴った。
玲央の視線が一瞬だけそこへ落ちる。
「……見るな」
「見えた」
「見えなくていい」
「嬉しいから」
「それも言わなくていい」
「でも、本当に嬉しい」
声が少しだけ静かだったので、透は何も返せなくなった。
こういう時、玲央はからかわない。
嬉しいと言う時、本当に嬉しそうにする。
それが分かってしまうから、透は弱い。
「……落とすの嫌だっただけ」
「うん」
「だから内側につけただけ」
「うん」
「それ以上の意味は」
「ある?」
「……聞くな」
玲央は少しだけ笑った。
否定しなかった自分に気づいて、透は鞄のベルトを握り直す。
◇
昇降口へ向かう廊下は、少しだけ寂しかった。
昨日までは文化祭のポスターや案内板が貼られていた壁が、今日はもうほとんど元に戻っている。ところどころにテープの跡が残っていて、それだけが二日間の名残みたいだった。
透はその壁を横目で見ながら歩く。
「寂しい?」
玲央が横から聞く。
「……少し」
今日は、素直に答えた。
「俺も」
「おまえ、それ何回も言ってる」
「透が何回も寂しそうな顔するから」
「そんなに顔に出てる?」
「少し」
「少しなら言うな」
「少しでも分かる」
玲央はそう言って、廊下の壁を見た。
「でも、文化祭のものがなくなっても、全部なくなるわけじゃないし」
「またまともなこと言う」
「今日二回目?」
「たぶん」
「数えられてる」
「珍しいから」
玲央が笑う。
その笑い方に、透も少しだけ口元が緩みそうになった。
でも昇降口が近づいてきたので、何となく表情を戻す。
靴を履き替える時、玲央が少しだけ先に外へ出た。
いつもならそこで待っている。
今日も、当然のように少し離れたところで待っていた。
文化祭が終わっても、それは変わらない。
そのことに、透はまた少し安心してしまった。
◇
校門を出ると、風が少し冷たかった。
昨日までの文化祭の熱が抜けたせいか、学校の外の空気までいつもより静かに感じる。
二人で駅へ向かって歩く。
最初の数分は、どちらもあまり喋らなかった。
でも沈黙は苦しくない。
それがもう、完全にまずい。
隣に玲央がいて、黙っていても苦しくない。
むしろ、歩幅が合っていることに少し落ち着く。
「透」
「何」
「明日の朝も、駅で待っていい?」
文化祭が終わった翌日の、普通の帰り道。
その中で聞かれると、昨日よりずっと現実味があった。
もう文化祭ではない。
行事の延長でもない。
焼きそばも、占いも、受付も、片付けもない。
ただの朝。
ただの通学。
そこで待ち合わせを続けるかどうか。
それは、文化祭中に一緒に回るより、ずっと逃げ場がない気がした。
「……毎朝?」
透が聞くと、玲央は少しだけ考えた。
「透が嫌じゃない範囲で」
「またそういう言い方」
「大事だから」
「嫌じゃなかったら、おまえは待つのか」
「待つ」
「雨の日でも?」
「傘持って」
「眠い日でも?」
「少し早く起きる」
「俺が遅れたら?」
「待つ」
「……重い」
玲央は少しだけ笑った。
「でも、嫌じゃない?」
ずるい聞き方だ。
透は前を向いたまま、しばらく黙った。
嫌ではない。
その答えはもう、出ている。
ただ、それを言えばまた一つ進んでしまう。
文化祭の余韻ではなく、普通の日常の中で。
それが少し怖い。
「透」
玲央は急かさなかった。
ただ、静かに名前を呼んだ。
その声が、やっぱり少しだけ特別で。
透は小さく息を吐いた。
「……毎朝は、まだ分からない」
「うん」
「でも、明日の朝は」
「うん」
「……待っててもいい」
言った。
玲央は足を止めなかった。
けれど、隣で明らかに空気がやわらかくなった。
「そっか」
「嬉しいって言うなよ」
「言いたい」
「言うな」
「じゃあ、今は我慢する」
「もう顔で言ってる」
「それは難しい」
透は呆れたように横を見る。
玲央は本当に嬉しそうだった。
その顔を見ると、自分が言ったことが間違いではなかったと思えてしまう。
「……明日の朝だけだからな」
「うん」
「その次は、その時決める」
「うん」
「勝手に待つなよ」
「透が嫌じゃなさそうなら?」
「その判断を勝手にするな」
「じゃあ聞く」
「……ならいい」
また許している。
自分でもそう思った。
でも、嫌ではないのだから仕方ない。
◇
駅へ向かう途中、コンビニの前を通った。
文化祭帰りに二人で水を買った場所だ。
たった昨日のことなのに、少し前みたいに感じる。
透が無意識にそちらを見ると、玲央が気づいた。
「水?」
「いや、今日はいい」
「疲れてない?」
「今日はそこまで」
「そっか」
通り過ぎようとした時、店の入り口近くに文化祭で見かけた一年生らしい生徒がいた。
玲央に気づいたのか、軽く会釈してくる。
玲央も普通に会釈を返した。
透は、それを見ても昨日ほど落ち着かなくならなかった。
ゼロではない。
少しだけ胸は動く。
でも、昨日とは違う。
玲央が誰かに礼儀正しく対応するのと、自分に向ける顔が違うことを、少しだけ信じられるようになっていた。
「何?」
玲央が聞く。
「別に」
「今の別には、少し大丈夫そう」
「何だそれ」
「昨日より落ち着いてる顔だった」
「……おまえ、本当に見るな」
「見たいから」
「そういうのを普通に言うな」
「普通に思ってるから」
「返しが強い」
玲央は小さく笑った。
透も、今度は少しだけ笑ってしまった。
その瞬間、玲央が少し驚いたような顔をする。
「何」
「いや」
「言えよ」
「透が普通に笑った」
「笑うだろ」
「俺に?」
「……水でも買ってやろうか」
「話逸らした」
「逸らした」
玲央がまた笑う。
このやり取りも、文化祭が終わっても残っている。
それが少し嬉しかった。
◇
駅の近くで、二人は立ち止まった。
ここで別れることが多い。
いつもの場所。
でも今日は、いつもより少しだけ名残惜しかった。
明日の朝も会う。
そう分かっているのに、別れる瞬間は少し寂しい。
「じゃあ」
透が先に言う。
「うん」
「明日」
「駅で」
「……うん」
「同じ時間?」
「今日と同じくらいで」
「分かった」
「おまえ、早く来すぎるなよ」
「少しだけにする」
「早く来るのは確定かよ」
「透を待つのは嫌じゃない」
「……重い」
「でも?」
玲央が少しだけ首を傾げる。
透はその顔を見て、諦めた。
「……嫌ではない」
また同じ答え。
でも、今日はその言葉が前より少し自然に出た。
玲央は笑った。
静かに、けれど本当に嬉しそうに。
「明日、待ってる」
「うん」
「透」
「何」
「今日、一緒に帰れてよかった」
「……俺も」
言ってから、透はすぐに顔を背けた。
でも玲央はからかわなかった。
ただ、少しだけ息を吐いて。
「じゃあ、また明日」
そう言った。
「また明日」
透も返す。
歩き出してから、胸の奥が少しだけ温かいことに気づいた。
文化祭は終わった。
教室も元に戻った。
看板も片付けられた。
でも、明日の朝の約束が残った。
普通の日に待ち合わせる方が、文化祭より逃げ場がない。
それでも、その逃げ場のなさを少しだけ嬉しいと思っている自分がいた。




