第26話 文化祭が終わっても、約束は残る
最後の受付に入った頃には、文化祭の空気にも終わりの気配が混じり始めていた。
昼過ぎまではあれだけ人が流れていた廊下も、今は少しずつ隙間が増えている。呼び込みの声はまだ聞こえるが、朝や昼の勢いはない。どこのクラスも、終わりの時間を意識しながら最後の来場者を迎えているのが分かった。
二年二組の教室も同じだった。
受付の名簿は何枚もめくられ、紙コップの箱はずいぶん軽くなっている。黒板の端に描かれたチョークのイラストは少しかすれていて、入口の看板も何度も人に見られたせいか、端のテープが少し浮いていた。
透は受付の机に立ちながら、その看板を横目で見た。
自分が文字を書いた看板。
玲央が上の飾りを貼ってくれた看板。
高城に「文化祭っぽい」と言われ、直に「距離バグるやつ」と茶化された看板。
今日が終われば、これは片付けられる。
そう思うと、胸の中に少しだけ寂しさが浮かんだ。
「白石、そこの案内表あと三枚ある?」
直の声で我に返る。
「あ、ある。これ」
「サンキュ。……大丈夫か?」
「何が」
「ちょっとぼーっとしてた」
「してない」
「してた。文化祭終わるの寂しくなった?」
「……別に」
否定した声が少し遅れた。
直はそれだけで何か察したように笑う。
「まあ、分かるよ。二日間ばたばたしてると、急に終わる感じするよな」
「……うん」
「でも、白石の場合は文化祭以外にもありそうだけど」
「余計なこと言うな」
「はいはい」
直は案内表を持って、教室の奥へ戻っていった。
こういう時、直は本当に面倒くさい。
面倒くさいが、変に当たっているから余計に困る。
文化祭が終わるのが寂しい。
それは本当だ。
けれど、それ以上に。
文化祭だから自然にできていたことが、明日からも続くのか分からないことが、少し怖かった。
駅で待ち合わせること。
二人で校内を回ること。
同じものを選ぶこと。
文化祭の喧騒に紛れて、少しだけ素直なことを言うこと。
明日の朝、玲央は駅で待っていると言った。
自分も、普通に行くと言った。
だから何も終わらない。
そう思いたい。
でも、教室の中から文化祭の飾りが消えた後、自分は今日と同じように玲央の隣へ行けるのだろうか。
「透」
入口近くから、玲央の声がした。
顔を上げると、玲央が来場者を見送ったところだった。
目が合う。
ただそれだけで、さっきまで胸の中で絡まっていたものが少しほどける。
「何」
「看板、テープ浮いてる」
「あ、本当だ」
「直してくる」
「俺が行く」
「受付は?」
「今、人いないし」
透は受付を近くのクラスメイトに少しだけ任せ、入口の看板へ向かった。
玲央も当然のようについてくる。
「そこ、押さえて」
「うん」
透がテープを取り出し、玲央が看板の端を押さえる。
昨日まで何度もやった作業だった。
手順も分かっている。
言葉も少なくて済む。
だからこそ、余計に寂しくなった。
「……これも、あとで片付けるんだよな」
ぽつりと透が言う。
玲央は看板を押さえたまま、静かに答えた。
「うん」
「なんか、変な感じ」
「寂しい?」
「……少し」
今日はもう、変にごまかす気力がなかった。
玲央はからかわなかった。
ただ、少しだけ柔らかい声で言う。
「俺も、少し」
「おまえも?」
「うん。透と作ったから」
胸の奥が、また小さく鳴った。
「……そういうの、すぐ言う」
「今日は言っていい気がした」
「何で」
「文化祭の終わりだから」
「何だよ、それ」
透はそう言いながら、浮いたテープの上から新しいテープを貼った。
看板の端がしっかり留まる。
「これで大丈夫」
「うん」
「……明日には外すけどな」
「外しても、作ったことは残る」
玲央の声は静かだった。
透は手を止める。
玲央は看板ではなく、透を見ていた。
「看板だけじゃなくて。焼きそば半分にしたこととか、しおり選んだこととか、変な占いしたこととか」
「変な占いって言うな」
「透も思ってるでしょ」
「思ってるけど」
「でも、残る」
そう言われると、返せなかった。
確かに、残る。
文化祭の飾りは片付く。
看板も外される。
教室は元に戻る。
でも、二人で歩いたことも、笑ったことも、言いすぎた言葉も、言えなかった言葉も、全部なかったことにはならない。
「……おまえ、たまに妙にまともなこと言うよな」
「たまに?」
「たまに」
「いつも言ってるつもりなんだけど」
「それはない」
玲央が少し笑う。
その笑い方に、透もつられて少しだけ笑った。
◇
終了を告げる校内放送が流れたのは、それから十分ほど後だった。
『本日の文化祭は、これで終了となります。来場者の皆さまは、お忘れ物のないようお気をつけてお帰りください――』
放送が流れた瞬間、教室の中から小さな歓声とため息が同時に上がった。
「終わったー!」
高城が椅子に倒れ込むように座る。
「まだ片付けあるって」
直が即座に言った。
「今だけ言わせろ。終わったんだよ、心が」
「心が終わったら片付けできないだろ」
「厳しいな、おまえ」
周囲が笑う。
透も少しだけ肩の力が抜けた。
終わった。
本当に、文化祭が終わった。
その実感がじわじわ広がっていく。
名簿を閉じ、受付のペンをまとめる。
紙コップの残りを箱に戻す。
案内表を重ねる。
一つずつ片付けるたびに、文化祭が終わっていく。
「白石、榊原、受付まわりお願いしていい?」
直が指示を飛ばす。
「分かった」
「終わったら看板外して。明日まとめて倉庫に戻すから、今日は後ろに置いといて」
「うん」
透は返事をして、玲央と一緒に作業を始めた。
もう何度目か分からない、二人での片付け。
だが、今日は少しだけ意味が違う。
終わらせるための片付けだった。
「透、この箱でいい?」
「うん。ペンはこっち」
「案内表は?」
「明日捨てるやつと残すやつ分ける」
「分かった」
短い会話。
自然な手順。
隣にいることに、もうほとんど違和感がない。
それが嬉しくて、少し怖い。
「白石、榊原」
高城が片付けの手を止めて二人を見る。
「何?」
透が返すと、高城は少しだけ笑った。
「いや、なんかおまえら、普通に相棒感出てきたな」
「相棒?」
「うん。文化祭係の相棒って感じ」
「変な言い方するな」
「いや、褒めてる。ほんとに助かったし」
思ったより真面目な声だったので、透は少し返事に困った。
「……まあ、こっちも助かったけど」
「白石、今日素直だな」
「うるさい」
「でも本当。二人とも、お疲れ」
高城はそう言って、また別の作業へ戻っていった。
直が遠くで「高城が珍しくまともなこと言ってる」と言い、高城が「俺はいつもまともだろ」と返している。
その騒がしさが、妙に懐かしく感じた。
まだ終わったばかりなのに。
◇
看板を外す時、透は少しだけ手を止めた。
入口に貼られていた飾り。
クラス企画のタイトル。
自分の書いた文字。
玲央が隣で、何も言わずに待っている。
「……外すぞ」
「うん」
テープを剥がす。
ぺり、と小さな音がした。
看板が入口から離れる。
ただそれだけなのに、教室の景色が少し変わった気がした。
「終わったな」
透が呟く。
「うん」
「……結構、楽しかった」
玲央がこちらを見る。
「うん」
「何だよ」
「いや」
「何」
「透がそれ言うの、嬉しい」
「またそれ」
「今日は何回でも言いたい」
「言いすぎると安くなるぞ」
「透が楽しそうだったことは安くならない」
言葉に詰まる。
文化祭が終わった教室で、そういうことを言うのはずるい。
周りにはまだ人がいる。
でも、今の声はたぶん二人にしか届いていない。
その近さが、胸に残る。
「……おまえと回ったのも」
透は看板を抱え直しながら、小さく言った。
「楽しかった」
言ってしまった。
玲央はすぐには返事をしなかった。
透は顔を上げられない。
上げたら絶対に、玲央の顔を見てもっと恥ずかしくなる。
「透」
「何」
「俺も」
「……うん」
「すごく楽しかった」
「一回でいい」
「一回じゃ足りない」
「足りなくても一回でいい」
玲央が小さく笑った。
その笑い声が、終わった教室に静かに残った。
◇
片付けが一段落した頃には、外はもう夕方だった。
文化祭中の校舎はまだ少しざわついている。けれど本番の熱は消え、あとは片付けと余韻だけが残っていた。
担任が最後の確認を終え、ようやく帰っていいと言った。
「明日は通常登校だけど、午前中は片付けと振り返りだからな。遅れるなよ」
教室のあちこちから疲れた返事が上がる。
透も鞄を肩に掛けた。
その時、玲央が隣へ来る。
「帰る?」
「帰る」
「一緒に?」
透は少しだけ玲央を見た。
いつもの確認。
でも今日は、その言葉が少しだけ大事に聞こえた。
「……うん」
玲央の表情が和らぐ。
それだけで、透は自分の返事が間違っていなかったと思ってしまう。
「白石、榊原」
直が声をかけてくる。
「明日、駅で待ち合わせ?」
「何で知ってるんだよ」
透が思わず言うと、直は楽しそうに笑った。
「顔に書いてある」
「書いてない」
「まあ、文化祭終わっても続くならいいんじゃね」
続く。
その言葉に、透は一瞬黙った。
直はそれ以上からかわず、軽く手を振る。
「じゃ、お疲れ。また明日」
「……また明日」
高城も奥から「お疲れー」と手を振る。
「明日も仲良くなー」
「最後に余計なこと言うな」
「言わないと終われないだろ」
「終われ」
高城が笑って、鞄を持って出ていく。
なんだかんだで、この二日間はこの二人にもだいぶ見守られていた気がする。
見守られたというか、からかわれたというか。
でも、嫌ではなかった。
◇
二人で校舎を出ると、夕方の風が少し冷たかった。
校門の飾りはまだ残っている。
けれど、明日にはそれも外されるのだろう。
校庭の隅には片付け途中のテントが並び、遠くで先生たちの声が聞こえる。
文化祭が終わった学校は、少しだけ寂しい。
「透」
「何」
「明日の朝、本当に駅で待ってる」
「……分かってる」
「来る?」
「学校には行く」
「駅に」
「……行く」
玲央が少し笑う。
「待ち合わせ?」
「……待ち合わせ」
とうとう言ってしまった。
口にすると、思ったより恥ずかしかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
玲央は一瞬だけ目を見開き、それから本当に嬉しそうに笑った。
「うん」
「返事だけでそんな嬉しそうにするな」
「無理」
「だろうな」
二人で歩き出す。
文化祭が終わっても、約束は残る。
明日の朝、駅で会う。
それだけのことが、今の透には大きかった。
文化祭という特別な時間が終わっても、玲央との時間は終わらない。
そう思えるだけで、胸の奥の寂しさが少しだけ薄くなる。
「透」
「今度は何」
「今日、お疲れ」
「……おまえも」
「うん」
「楽しかったな」
「うん」
「……明日も、普通に」
透は少し言葉に詰まった。
普通に、何だ。
普通に会う。
普通に話す。
普通に一緒に学校へ行く。
普通、という言葉が、急に少し特別に感じた。
「普通に、駅で」
ようやくそう言うと、玲央は静かに頷いた。
「うん。普通に駅で」
その返事が優しくて、透は前を向いたまま小さく息を吐いた。
文化祭は終わった。
けれど、明日の朝の約束がある。
それだけで、今日の終わりは完全な終わりではなくなった。




