第24話 待ち合わせの場所に、おまえがいるだけで
文化祭二日目の朝、透は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
布団の中でぼんやりと天井を見上げる。
窓の外は明るい。昨日と同じように晴れているらしい。
普通なら、休日に近い学校行事の日の朝は、もう少しだらだらしていたはずだ。文化祭とはいえ、午前中から動くのはそれなりに面倒だし、昨日一日で身体もかなり疲れている。
それなのに、今日は目が覚めてしまった。
理由は分かっている。
駅で待ち合わせることになっているからだ。
――待ち合わせ。
その言葉を頭の中で思い浮かべただけで、胸のあたりが少し落ち着かなくなる。
昨日、自分から言った。
明日も、一緒に回るか。
思い返すと、まだ少し恥ずかしい。
玲央が驚いた顔をしたことも、そのあと本当に嬉しそうに笑ったことも、はっきり覚えている。
あんな顔をされると、逃げられなくなる。
「……いや、逃げるつもりもないけど」
小さく呟いてから、透は自分の言葉に気づいて固まった。
逃げるつもりもない。
それは、かなりまずい認め方だった。
布団から起き上がり、顔を洗って、制服に着替える。
鏡の前でネクタイを直しながら、透は自分の顔を見た。
昨日より少し眠そうだ。
でも、嫌な顔ではない。
それがまた、妙に落ち着かない。
鞄の中身を確認する。
財布、スマホ、文化祭用のシフト表、予備のハンカチ。
そして、内ポケットには小さな青いビーズのキーホルダー。
昨日、玲央が輪投げで取ってくれたものだ。
透は一瞬迷って、それを取り出した。
手のひらに乗せると、本当に大したものではない。透明な青いビーズがひとつ付いた、文化祭の景品らしい簡単なキーホルダー。
でも、捨てる気にはならない。
適当に鞄の底へ入れる気にもならない。
透は少し考えてから、鞄の内側のファスナー部分にそれをつけた。外からは見えない。でも、開ければ自分には分かる。
「……これくらいなら」
誰に言い訳するでもなくそう呟き、鞄を閉じた。
◇
駅へ着くと、昨日より少しだけ人が多かった。
文化祭二日目だからなのか、日曜日だからなのか、改札の前には制服姿の生徒だけでなく、親子連れや中学生らしいグループも見える。学校へ向かうらしい人たちが同じ方向へ流れていて、駅前の空気はもう文化祭の続きみたいだった。
透は改札を出て、柱の方へ目を向ける。
いた。
昨日と同じ場所に、榊原玲央が立っていた。
スマホを見るでもなく、ただ人の流れの中で静かに立っている。
その姿を見つけた瞬間、透はなぜか少しだけ安心した。
玲央もすぐに気づいた。
視線が合う。
玲央の表情が、ほんのわずかにやわらかくなる。
それだけで、来てよかったと思ってしまった。
「おはよう、透」
「……おはよ」
「早いね」
「おまえもな」
「待ち合わせだから」
自然に言われて、透は一拍遅れて視線を逸らした。
「……いちいち言うな」
「言いたかった」
「朝からそういうのやめろ」
「昨日より反応薄い」
「慣れただけ」
「慣れたんだ」
しまった、と思った時には遅かった。
玲央が少しだけ笑う。
その顔は明らかに嬉しそうだった。
「……今のなし」
「無理」
「だろうな」
もう諦めて、透は玲央の隣へ並んだ。
歩き出す。
昨日と同じ駅前。昨日と同じ学校への道。
なのに、今日は少し違う。
昨日は玲央が待っていた。
今日は、自分もそこへ行くつもりで来た。
その違いは、小さいようで大きかった。
「今日、午前中どこ回る?」
玲央が聞く。
「まだ決めてない」
「じゃあ決めながら?」
「うん。昨日、展示系見たし、今日はもう少し文化祭っぽいところでもいいかも」
「文化祭っぽいところ」
「食べ物とか、ゲームとか」
「透がそういうの言うの、ちょっと意外」
「俺だって文化祭くらい普通に回る」
「うん。楽しみ」
「……楽しそうに言うな」
「楽しみだから」
玲央は本当に隠さない。
昨日より、少しだけ表情がやわらかい気がする。
それが自分と待ち合わせをしたからだと思うと、透は何とも言えない気持ちになった。
嬉しい。
たぶん、そうなのだと思う。
けれど、まだ真正面から認めるのは少し恥ずかしい。
◇
学校に着くと、二日目の文化祭はすでに始まる前から昨日以上に騒がしかった。
校門の飾りは少し増えていて、受付には来場者の列ができ始めている。生徒たちは昨日より動きが慣れていて、呼び込みの声にも少し余裕があった。
二年二組の教室へ行くと、直と高城がすでに来ていた。
「お、来た来た」
高城が二人を見て、すぐに笑う。
「本当に一緒に来たんだな」
「駅で会っただけ」
透が反射的に言うと、直がシフト表を持ったまま肩をすくめた。
「昨日それはもう使った」
「じゃあ、待ち合わせ」
玲央が普通に言った。
「おい」
「だって待ち合わせだったし」
「おまえが言うな」
高城が笑いながら手を叩く。
「いや、榊原の方が正直でいいな」
「比べるな」
「白石ももう否定が弱いんだよ。ほら、昨日より全然声小さい」
「うるさい」
透は鞄を置いた。
言い返す勢いが昨日より弱い自覚はある。だからこそ余計に悔しい。
直が貼り出されたシフト表を指さす。
「二人とも午前中は最初の一時間くらい空いてる。その後、白石は受付、榊原は案内。そのあと昼前にまたちょっと空き」
「何で把握してるんだよ」
「シフト係だから」
「そうだった」
「忘れるなよ」
直は笑ってから、少しだけ声を落とした。
「まあ、午前中のうちに回ってこいよ。午後は混むぞ」
「……分かった」
透が素直に頷くと、直は一瞬だけ目を丸くした。
「おお」
「何だよ」
「いや、白石が素直だなって」
「今日それ言ったら罰金な」
「じゃあ一回目無料で」
「勝手に制度を作るな」
高城が横から口を挟む。
「榊原、白石のこと頼んだぞ」
「うん」
「だから自然に請け負うな」
「透、人混み苦手だし」
「……」
透は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。
合っている。
合っているから腹立たしい。
高城と直がまた顔を見合わせたが、今度は深く突っ込んでこなかった。
その気遣いのようなものが逆に照れくさくて、透はさっさと教室を出ることにした。
「行くぞ」
「うん」
玲央が隣に並ぶ。
その位置が、もうすっかり自然だった。
◇
二日目の文化祭は、昨日より少し華やかに見えた。
昨日の朝はまだ準備の名残が強かったが、今日はどのクラスも最初から本番の顔をしている。廊下には客が増え、呼び込みの生徒も昨日より慣れていた。
「どこ行く?」
玲央が聞く。
「昨日、高城が焼きそば食ってたところ」
「食べる?」
「朝から焼きそばは重い」
「じゃあ見るだけ?」
「いや、匂いに釣られる可能性はある」
「正直」
「文化祭の食べ物って、匂いが強いんだよ」
「分かる」
二人で廊下を歩く。
昨日より自然だった。
並んで歩くことも、人混みの中で玲央が少し外側を歩くことも、呼び込みに声をかけられて軽く断ることも。
それが自然すぎて、透は少し怖くなる。
慣れてきている。
かなり。
焼きそばの教室へ向かう途中、隣のクラスの女子が二人を見て、軽く手を振った。
「あ、白石くんと榊原くんだ」
「あ、おはよう」
透が返すと、玲央も軽く会釈した。
「今日も二人で回ってるの?」
女子の一人が悪気なく聞いてくる。
透は一瞬詰まった。
昨日なら、もう少し焦っていたかもしれない。
違う、とすぐ言ったかもしれない。
でも今日は、否定が出てこなかった。
「……まあ、少しだけ」
そう答えると、女子たちは「いいね」と笑って去っていった。
隣の玲央が何も言わない。
何も言わないのが逆に気になって、透は横を見る。
「……何」
「いや」
「何だよ」
「今、否定しなかった」
「聞こえてたのかよ」
「隣にいるし」
「……少しだけって言っただろ」
「うん」
「だから、別に」
「嬉しい」
「言うと思った」
玲央は笑った。
本当に分かりやすく嬉しそうに。
その顔を見て、透は視線を前へ戻した。
「……おまえさ、最近、嬉しいの基準低くないか」
「透が少し素直になるだけで嬉しいから」
「低いな」
「低くていい」
「よくないだろ」
「透が言うなら、だいたい嬉しい」
もう返せない。
そういう真っ直ぐな言葉を、文化祭の廊下で普通に投げてくるのは本当にやめてほしい。
◇
焼きそばの教室は、朝からそれなりに賑わっていた。
鉄板の匂いが廊下まで流れていて、透は思わず足を止める。
「……匂いが強い」
「食べる?」
「朝からは重いって言っただろ」
「でも顔が迷ってる」
「見すぎ」
「見てるから」
玲央はいつものように言って、メニュー表を見た。
「小サイズある」
「……あるな」
「半分にする?」
透は玲央を見る。
「半分?」
「うん。一つ買って」
「それ、かなり……」
「何?」
「……いや」
かなり、それっぽい。
そう言いかけてやめた。
文化祭で一つの焼きそばを半分にする。
たぶん、友達同士でも普通にある。
あるのだろう。
でも、今の自分と玲央がやると、周りにどう見えるのかを考えてしまう。
「嫌なら別々で」
玲央が静かに言った。
その言い方が、少しだけ引く準備をしている声だった。
透はそれに気づいてしまう。
「……嫌じゃない」
また言ってしまった。
玲央が少しだけ目を見開く。
「じゃあ、半分?」
「小サイズな」
「うん」
玲央は嬉しそうだった。
もう、それだけでいい気がした。
二人で焼きそばを一つ買い、廊下の端にある簡易休憩スペースへ移動する。小さな紙皿と割り箸を二膳もらったが、容器は一つだった。
休憩スペースには他にも何人かいたが、幸い知り合いはいない。
透は容器を持ったまま、少しだけ気まずくなった。
「……これ、どっちが先に食べるんだよ」
「透」
「何で」
「透が食べたそうだったから」
「そんな顔してたか?」
「してた」
「してない」
「してたよ」
玲央が割り箸を差し出す。
透はそれを受け取って、少しだけ焼きそばを食べた。
ソースの味が強い。文化祭の味だ。
「……普通にうまい」
「よかった」
「おまえも食べろよ」
「うん」
容器を渡す時、指が少し触れた。
ほんの一瞬。
昨日までなら、それだけでかなり動揺したかもしれない。
今も動揺はする。
でも、それを前より少しだけ自然に受け止められる自分がいた。
玲央が焼きそばを食べる。
「どう?」
「うん。うまい」
「感想普通」
「文化祭の焼きそばって感じ」
「分かる」
そんな会話をしながら、一つの容器を交互に持つ。
これは本当に友達同士でもやる。
やるはずだ。
でも、心のどこかが、違うと言っている。
玲央と一つのものを分けること。
それが妙に嬉しいと思っている自分がいる。
透はそれをごまかすように、水を飲んだ。
「透」
「何」
「楽しそう」
「……焼きそばがうまいだけ」
「そっか」
「何だよ」
「俺は、透と半分にできて楽しい」
「そういうのをいちいち言うな」
「言いたい」
「知ってる」
そう返すと、玲央が少しだけ笑った。
知ってる、と自然に言えた自分に、透はあとから気づいた。
◇
焼きそばを食べ終えたあと、二人は校舎の中を少し回った。
昨日見なかった展示を見て、一年生のゲームコーナーに寄って、手作りのしおりを配っているクラスで一枚ずつもらった。
透が選んだのは、青いグラデーションのしおりだった。
玲央はそれを見て、同じような色のものを選ぶ。
「まねするなよ」
「透が選んだから」
「理由になってない」
「なる」
「ならない」
「でも、同じ系統」
玲央が並べて見せる。
確かに色味は似ているが、柄は違う。
透の方は星、玲央の方は月だった。
「何か、対っぽいな」
何気なく言ってから、透は固まった。
また余計なことを言った。
玲央がこちらを見る。
「対?」
「今のなし」
「無理」
「だよな」
「大事にする」
「しおりだぞ」
「透と選んだし」
「……本当にそういうの」
「うん」
「ずるい」
玲央は否定しなかった。
休憩時間は、思ったより早く過ぎていった。
スマホを見ると、もう教室へ戻らなければいけない時間が近い。
透は少しだけ名残惜しい気持ちになっている自分に気づいた。
昨日も回った。
今日も回った。
それでも、まだもう少し一緒にいたいと思っている。
それはかなり決定的だった。
「戻るか」
透が言う。
「うん」
玲央は何も言わず、隣に並ぶ。
その沈黙が、なぜか少し惜しかった。
◇
教室へ戻る途中、廊下で直とすれ違った。
直は二人の手元を見る。
「何それ」
「しおり」
透が答える。
「二人で同じ色選んだの?」
「たまたま」
「たまたま多いな、最近」
「うるさい」
直は玲央を見た。
「榊原、楽しかった?」
「うん」
「白石は?」
「……普通に」
「普通に楽しかった?」
「……まあ」
直は満足そうに笑った。
「よかったな」
「何が」
「いや、よかったなって思っただけ」
その言い方に、透は少しだけ黙った。
からかわれると思っていた。
実際、少しはからかわれた。
でも直の最後の言葉は、ただ普通にそう思ってくれているように聞こえた。
「……うん」
透が小さく返すと、直は少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「お、今日だいぶ素直じゃん」
「今ので台無し」
「ごめんごめん」
直は笑いながら、廊下の向こうへ行った。
教室の入口まで戻ると、二年二組はまた忙しさを取り戻していた。
受付、案内、呼び込み、片付け。
文化祭二日目はまだ続く。
けれど透の中では、朝からの時間だけで、何かがまた少し変わっていた。
待ち合わせの場所に玲央がいるだけで、少し安心した。
焼きそばを半分にしただけで、少し嬉しかった。
同じような色のしおりを選んだだけで、妙に大事にしたくなった。
どれも小さい。
小さいけれど、積み重なるともう無視できない。
教室に入る直前、玲央が小さく言った。
「透」
「何」
「午前中、一緒に回れてよかった」
「……俺も」
ほとんど反射だった。
言ってから、しまったと思った。
でも玲央は、何もからかわなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑った。
その顔を見て、透は思う。
ああ、もうだいぶ戻れないところまで来ている。
それでも、今日は戻りたいとは思わなかった。




