第21話 恋人扱いされるより、否定できない自分がまずい
昼を過ぎた頃から、文化祭の空気は少しだけ変わった。
午前中はまだ、どのクラスも手探りの賑やかさだった。呼び込みの声にも慣れない緊張が混じっていて、受付に立つ生徒たちの笑顔もどこか固かった。
けれど午後になると、校舎全体が完全に文化祭の熱に馴染み始める。
焼きそばの匂い。
紙コップのジュースを片手に歩く生徒。
廊下の端で写真を撮る女子たち。
どこかの教室から聞こえる拍手。
階段を上がるたびに変わる音楽と笑い声。
普段なら先生に注意されそうな声量も、今日だけは少し許されているような気がした。
白石透は、自分のクラスの受付横で、紙コップの補充数を確認していた。
「白石、足りそう?」
高城が教室の奥から声をかけてくる。
「たぶん。午後の分は一応ある」
「なくなったら買い足しかな」
「予備、職員室側の倉庫に少し置いてあるって先生が言ってた」
「さすが白石。そういうのちゃんと聞いてる」
「聞いてない方がおかしいだろ」
「いや、こういう時の男子、だいたい聞いてないぞ」
高城は笑いながら、空になった菓子の箱を潰した。
その横で直がシフト表を眺めている。
「白石、次また少し空きだな」
「え、そうだっけ」
「うん。三十分くらい。榊原も」
「……また?」
「また、って何だよ。シフト表がそうなってるんだから仕方ないだろ」
「ほんとに偶然か?」
「俺を疑うな。先生が作った」
「おまえなら裏で何かやりそうだから」
「信用なさすぎる」
直は笑いながら両手を上げた。
その時、教室の入口にいた玲央がこちらへ戻ってきた。
来場者の案内を終えたところらしい。
「何の話?」
「白石と榊原が、また休憩かぶってる話」
直が言う。
玲央は透を見た。
「じゃあ回る?」
「何で即そうなる」
「休憩だし」
「休憩は教室でもできるだろ」
「透、さっき人多くて疲れるって言ってた」
「言ったけど」
「じゃあ、人少ないところ行く?」
その言い方があまりにも自然で、透は一瞬だけ返事に詰まった。
高城がそれを見逃さず、にやっと笑う。
「もうさ、二人で回るの普通になってるじゃん」
「普通じゃない」
「いや、普通になってるって。白石の否定もだいぶ弱いし」
「弱くない」
「今のは弱い」
直まで頷く。
「前ならもう一段階強く否定してた」
「分析するな」
玲央は黙っている。
でも、少しだけ機嫌がよさそうだった。
それもまた透には分かってしまう。
「……分かったよ。少しだけ」
透は観念して言った。
「三十分だからな」
「うん」
玲央の返事が柔らかい。
それだけで、また高城が「はいはい」と言うような顔をした。
◇
二人で教室を出ると、廊下の人通りは午前より増えていた。
階段の近くでは一年生が呼び込みをしていて、少し離れた場所には手作りの案内看板を持った女子が立っている。
透は人波を避けるように歩きながら、玲央の少し内側を進んだ。
いつの間にか、そういう位置取りになっている。
人が多い側を玲央が歩く。
透は壁側。
ぶつかりそうになると、玲央が少しだけ前に出る。
最初は気にしていなかった。
でも、今はもう気づいている。
「……おまえ、さっきから外側歩いてるよな」
「うん」
「わざと?」
「うん」
「そこも普通に認めるのか」
「人、多いし」
「俺、そんなに危なっかしくない」
「危なっかしいっていうより、疲れやすそう」
「子ども扱いか」
「違う」
「じゃあ何」
「透扱い」
透は一度、言葉を失った。
「……それ、説明になってない」
「でも一番近い」
「近くない」
「そう?」
玲央は少しだけ笑う。
その笑い方が、もうだいぶ自分専用に見えてしまうから困る。
廊下を曲がった先で、二年三組がやっているらしい小さな占いコーナーが目に入った。
手書きの看板には、かわいらしい文字でこう書かれている。
『友情・恋愛・相性診断! 二人組歓迎!』
透は見た瞬間、足を止めそうになった。
見るべきではなかった。
絶対に見るべきではなかった。
なのに玲央も同じものを見たらしい。
「透」
「行かない」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「顔で言うのは透の方」
「うるさい」
通り過ぎようとした、その時だった。
中から呼び込みをしていた女子が、二人に気づいて声をかけてきた。
「そこの二人! 相性診断どうですかー? 今すぐできますよ」
透は反射的に視線を逸らした。
だが玲央は普通に立ち止まる。
「行く?」
「行かない」
「面白そう」
「絶対面白がってるだけだろ」
「うん」
「認めるな」
呼び込みの女子はにこにこと笑っている。
「男子二人でも全然大丈夫です! 友情診断もできますし、恋愛でもできます!」
「恋愛って言うな」
透が小声で呟く。
玲央が少しだけこちらを見る。
「友情にする?」
「やらないって言ってるだろ」
「でも、もう見つかった」
「見つかったって何だよ」
「逃げる方が不自然」
「いや自然だろ」
結局、押し負けた。
いや、玲央にというより、場の空気に負けた。
断りきれず、二人は教室の中へ入ることになった。
◇
占いコーナーは思ったよりちゃんとしていた。
教室の中は薄い布や紙の星で飾られていて、机の上には手作りのカードや診断用紙が置かれている。
占いといっても本格的なものではなく、質問に答えて相性を出す簡単な遊びらしい。
「こちらの用紙に、直感で答えてください」
担当の女子が説明する。
「友情診断と恋愛診断、どちらにします?」
「友情で」
透が即答する。
玲央が何も言わずにこちらを見る。
「何」
「即答だった」
「当たり前だろ」
「うん」
「おまえ今、何か言いたそうな顔したな」
「してない」
「嘘だろ」
「透ほど下手じゃない」
担当の女子が笑いをこらえている。
やめてほしい。
完全に見られている。
二人は隣り合って椅子に座り、それぞれ診断用紙に答えていくことになった。
質問はどれも軽いものだった。
『休日に行きたい場所は?』
『相手にされて嬉しいことは?』
『苦手な時、どうしてほしい?』
『相手と一緒にいる時、自分はどんな役割?』
透は適当に答えようとして、三問目で手が止まった。
苦手な時、どうしてほしい?
最近のことを思い出してしまう。
人が多い時、玲央は少し外側を歩く。
体調が悪い時、保健室までついてきた。
困った時、みんなの前で庇った。
近すぎるのに、ちゃんと引く時は引こうとした。
どうしてほしい、なんて。
もう答えはだいたい出ている気がした。
透は少し迷ってから、『近くにいてほしい』に丸をつけた。
つけてから、はっとする。
まずい。
今のはかなりまずい。
横を見ると、玲央は自分の用紙を真剣に見ていた。
透の回答は見ていない。見ていないはずだ。
「何?」
玲央が顔を上げる。
「何でもない」
「今、すごく何かあった顔」
「ない」
「ある」
「ないって」
透は用紙を裏返したくなったが、そこで動くと余計に不自然になる。
仕方なく最後まで答えて、担当の女子へ渡した。
数分後、簡単な集計が終わる。
「結果出ました」
担当の女子がにこにこしながら言う。
「お二人、相性かなりいいです」
透は嫌な予感がした。
「どのくらいですか」
玲央が聞く。
聞くな。
「九十二パーセントです」
「高いですね」
「はい。かなり高いです。お互いの距離感が近くて、片方が不安になった時、もう片方が自然に支えるタイプですね」
透は黙った。
隣の玲央も少しだけ黙った。
なんだその妙に当たっているような言い方は。
「ただ」
担当の女子が続ける。
「どちらかというと、お互いに言葉が足りなくて、周りから見ると分かりやすいのに本人たちだけ遠回りするタイプ、って出てます」
完全に余計だった。
「……これ、本当に診断ですか」
透が思わず聞く。
「文化祭用の診断です」
「ですよね」
「でも、結構当たりますよ」
「そうですか……」
玲央が横で小さく笑っている。
透は睨んだ。
「笑うな」
「ごめん」
「絶対思ってない」
「少し思ってる」
「少しなのかよ」
担当の女子が最後に、小さなカードを二枚渡してくれた。
結果が書かれた記念カードらしい。
『相性92%:言葉より先に距離が近くなる二人』
透はカードを見た瞬間、閉じた。
「これは持って帰らない」
「俺、持つ」
玲央が言う。
「何で」
「記念」
「何の記念だよ」
「透と相性がいいって出た記念」
「真顔で言うな」
結局、玲央が二枚とも受け取った。
◇
占いコーナーを出ると、廊下の空気がやけに普通に感じた。
さっきまでの診断結果が妙に生々しく残っていて、透はしばらく無言だった。
玲央もすぐには何も言わない。
その沈黙が、少しだけ気まずい。
「……ああいうの」
透が先に口を開いた。
「うん」
「文化祭の遊びだからな」
「うん」
「本気にするなよ」
「うん」
「返事が素直すぎる」
「本気にしてない」
「ほんとかよ」
「でも、当たってるところはあると思った」
透は足を止めかけた。
「どこが」
「言葉が足りない」
「……」
「周りから見ると分かりやすい」
「……」
「本人たちだけ遠回りしてる」
全部だった。
だが、それを認めるのは悔しい。
「……文化祭の占いに真面目になるな」
「透はなってない?」
「なってない」
「じゃあ、そのカード見せて」
「おまえが持ってるだろ」
「透、見た瞬間閉じたから」
「見せなくていい」
玲央が笑う。
透は小さく息を吐いた。
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいる。
文化祭のざわめきは相変わらず続いていたが、さっきより少しだけ遠く聞こえた。
「透」
「何」
「近くにいてほしいって答えた?」
「……は?」
足が止まった。
玲央は平然としている。
でも、少しだけ口元が緩んでいる。
「見たのかよ」
「見てない」
「じゃあ何で」
「透の顔」
「顔で分かるわけないだろ」
「分かった」
「分かるな」
最悪だ。
最悪すぎる。
透は顔を背けた。
これ以上見られると、本当に全部ばれる気がした。
「違う」
「何が」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「……困った時は、誰か近くにいる方がいいだろ」
「誰か?」
「……」
「透」
「何」
「俺だったら嬉しい?」
ずるい。
こういう時の玲央は、答えを急かすわけではないのに、逃げ道だけをきれいに消してくる。
透はしばらく黙った。
廊下の向こうで、誰かが笑っている。
階段の下では呼び込みの声がする。
文化祭の喧騒に紛れれば、何も答えなくてもよかったかもしれない。
でも、今日は何となく、少しだけ答えたかった。
「……まあ」
透は小さく言った。
「おまえなら、助かる」
玲央が黙った。
珍しく、すぐに返事が返ってこない。
透は恐る恐る横を見る。
玲央は少しだけ驚いたような顔をしていた。
「……何」
「いや」
「何だよ」
「今の、かなり嬉しかった」
「言わなくていい」
「言いたい」
「言うな」
「無理」
玲央が、ゆっくり笑う。
さっき占いコーナーで見せた笑みとは違う。
からかうでもなく、面白がるでもなく、本当に嬉しそうな顔だった。
その顔を見て、透は思った。
この顔を自分だけに向けられていると思いたい。
そんな欲張りなことを、もう少し前から思い始めている。
◇
休憩時間はもう残り少なくなっていた。
教室へ戻る途中、透は内ポケットに入れた昨日のキーホルダーの感触を思い出した。
今日もそこに入っている。落とすのが嫌で、鞄の奥ではなく内ポケットに入れてきた。
玲央からもらった、小さな青いビーズのキーホルダー。
占いコーナーの記念カードも、玲央はきっと持ち帰るのだろう。
そう思うと、妙に落ち着かない。
「透」
「何」
「カード、いる?」
「いらない」
「ほんとに?」
「……見せなくていい」
「じゃあ俺が持ってる」
「勝手にしろ」
「うん。大事にする」
「文化祭の占いカードだぞ」
「透との相性九十二パーセント」
「言うな」
玲央はやっぱり楽しそうだった。
けれど、その声の奥に少しだけ大事にしているような響きがあって、透は何も返せなくなる。
占いなんて、文化祭の遊びだ。
分かっている。
分かっているのに、その数字が少しだけ嬉しいと思ってしまった。
相性九十二パーセント。
言葉より先に距離が近くなる二人。
馬鹿みたいだ。
本当に、文化祭の遊びに振り回されているだけだ。
それでも、隣に玲央がいると、妙に納得してしまう自分がいた。
「恋人扱いされるより」
透は、ほとんど独り言のように呟いた。
「何?」
「……否定できない自分がまずい」
「聞こえた」
「聞くな」
「無理」
「だよな」
玲央は少しだけ黙って、それから静かに言った。
「俺は、否定されないの嬉しい」
「……そういうこと言うから、余計にまずいんだよ」
「ごめん」
「謝る気ないだろ」
「少しある」
「少しかよ」
二人で教室へ戻る。
廊下のざわめきの中、透は思った。
恋人扱いされるのが恥ずかしい。
けれど、それ以上にまずいのは、それをもう全力で否定できなくなっている自分の方だ。
そしてたぶん、そのことに玲央はもう気づいている。
それが一番、心臓に悪かった。




