第19話 それ、デートって言われたら否定できない
文化祭の廊下は、普段より少し狭く感じた。
実際には、幅が変わったわけではない。
ただ、廊下の両側に貼られたポスターや案内板、呼び込みの生徒、立ち止まって話す来場者たちのせいで、いつもの見慣れた校舎がまるで別の場所になっている。
「三年一組、焼きそばありまーす!」
「写真部展示、奥の階段上がってすぐでーす!」
「謎解き、今なら待ち時間少なめです!」
あちこちから声が飛んでくる。
透はその中を歩きながら、少しだけ肩をすぼめた。
文化祭の空気自体は嫌いではない。
けれど、人混みの中を歩くと、どうしても周りの気配を拾いすぎる。右から来る生徒、左で立ち止まる親子連れ、後ろから聞こえる笑い声。どれも大したことではないのに、一度に押し寄せると少しだけ疲れる。
「透」
隣から、玲央の声がした。
「何」
「こっち、少し空いてる」
言われて見ると、廊下の端の方がわずかに空いていた。玲央は透が人波に押されないように、自然にそちらへ寄って歩いている。
「……よく気づくな」
「顔に出てた」
「そんなに?」
「少し」
玲央はそれ以上大げさに言わなかった。
その“少し”が、妙にありがたかった。
心配しすぎるでもなく、見ないふりをするでもなく、ちょうどいいところで拾ってくる。
そういうところが、最近ずるいと思う。
「展示系から行くんだっけ」
玲央が聞く。
「うん。写真部とか、文芸部とか。人少なそうだし」
「じゃあ二階?」
「たぶん」
「案内見る?」
「見なくても大丈夫。こっち」
透が歩き出すと、玲央は何も言わずについてきた。
それが自然すぎて、透は少しだけ落ち着かなくなる。
自分が先に歩く。
玲央が隣に並ぶ。
人が多くなると、玲央が少しだけ外側へ回る。
言葉にすると、本当に些細なことだ。
けれどその些細なことが、今日の透にはいちいち引っかかった。
これは、文化祭を二人で回っているだけだ。
受付の休憩時間に、同じクラスの男子同士で少し校内を見ているだけ。
そう思えばいい。
そう思えばいいのに。
「ねえ、あの二人、雰囲気いいね」
すれ違いざま、知らない女子の声が聞こえた。
透は足を止めかけた。
玲央は止まらない。
ただ、少しだけこちらを見た。
「聞こえた?」
「聞こえてない」
「今の返事、聞こえてた人のやつ」
「聞こえてない」
玲央が笑う。
やめてほしい。
こういう時に笑われると、余計に否定できなくなる。
◇
写真部の展示は、思ったより静かだった。
教室の机を壁際へ寄せ、黒いボードに写真が並べられている。校庭の桜、雨上がりの昇降口、夕方の廊下、誰もいない図書室。普段見ている学校なのに、写真になると少し違って見えた。
「いいな、これ」
透は夕焼けの階段を写した写真の前で足を止めた。
「好きそう」
玲央が言う。
「何で分かるんだよ」
「静かだから」
「俺、そんな静かなもの好きそうに見える?」
「うん」
「まあ、外れてないけど」
玲央は隣で写真を見る。
近い。
けれど、廊下の時ほど落ち着かなくはなかった。
展示教室は少し薄暗く、外の喧騒が遠い。写真を見ている人たちも自然と声を落としていて、教室全体がふわりと静かだった。
こういう場所なら、玲央と隣にいても少し呼吸がしやすい。
「透」
「何」
「この写真、昨日の教室に似てる」
玲央が指さしたのは、夕方の空き教室の写真だった。
窓から差し込む橙色の光。机の影。誰もいない教室。
透は一瞬、昨日のことを思い出した。
文化祭準備のあと、二人だけで残った教室。
玲央が「少し離れる」と言ったこと。
自分が「離れられるのは嫌だ」と言ってしまったこと。
「……似てるな」
「うん」
「変なこと思い出させるなよ」
「変なこと?」
「言わない」
「じゃあ俺も言わない」
「何を」
「昨日、ちょっと嬉しかったこと」
「言うなよ」
「言ってない」
「言いかけただろ」
小声で言い合っていると、写真部の女子が近づいてきた。
「よかったら、感想カード書いていってください」
「あ、はい」
透が受け取ろうとした時、その女子が二人を見比べて、にこっと笑った。
「お二人で回ってるんですか?」
「え、あ……」
「はい」
玲央が普通に答えた。
透は横を見た。
普通に答えるな。
「仲良いんですね」
「まあ」
玲央がまた普通に返す。
透は手元の感想カードを見下ろしながら、何とか平静を保とうとした。
だが、たぶん少し顔に出た。
写真部の女子はそれ以上からかわず、軽く会釈して離れていった。
その分、余計に恥ずかしい。
「おまえさ」
「何」
「もうちょっと言い方あるだろ」
「二人で回ってるのは本当」
「そうだけど」
「仲がいいのも、たぶん本当」
「たぶんって何だよ」
「透が怒るかもしれないから」
「怒ってない」
「なら本当」
さらっと訂正されて、透は何も言えなくなった。
仲がいい。
その言葉は、前なら普通に聞き流せたはずだ。
でも今は、妙に照れくさい。
それはたぶん、仲がいい、だけでは少し足りない気がしているからだ。
◇
写真部を出たあと、二人は文芸部の展示へ向かった。
教室の一角に手作りの冊子が並び、壁には短い詩や掌編が貼られている。写真部よりさらに人は少なく、廊下の騒がしさから逃げ込むにはちょうどよかった。
「透、こういうの読む?」
玲央が冊子を一冊手に取る。
「たまに」
「意外」
「何で」
「読む方より、黙って書いてそう」
「書かないよ」
「でも字はきれい」
「それ関係あるか?」
玲央は少しだけ笑って、ページをめくる。
透も隣で別の冊子を手に取った。
短い青春ものの掌編だった。放課後、誰もいない音楽室で友人を待つ話。特に大事件は起きない。ただ、相手が来るか来ないかを気にしている時間だけが淡く描かれている。
読み終えて、透は少しだけ黙った。
「どうした?」
「いや……」
「刺さった?」
「刺さったってほどじゃない」
「じゃあ、少し残った?」
「……まあ」
玲央はそれ以上聞かなかった。
そういう時、玲央は無理に踏み込まない。
踏み込んでくる時と踏み込まない時の差が、意外とちゃんとしている。
そこまで考えて、透は内心で少し苦笑した。
自分はいつの間に、玲央のそういうところまで分かるようになったんだろう。
「透」
「何」
「これ、買う?」
「文化祭の冊子って買えるの?」
「置いてある。百円」
「じゃあ一冊」
「俺も買う」
「読むの?」
「透が読んでたから」
それは理由になっているようで、なっていない。
透は小さくため息をついたが、結局二人で同じ冊子を買った。
会計をしてくれた文芸部の男子が、二人分の冊子を袋に入れながら言った。
「同じの二冊でいいんですか?」
「あ、はい」
透が答える。
「仲いいですね」
「……どうも」
まただ。
今日はやたら言われる。
教室を出たあと、透は買った冊子を鞄に入れながらぼそっと呟いた。
「今日、何回言われるんだろ」
「仲いいって?」
「うん」
「いいじゃん」
「よくない」
「何で」
「……意識するから」
言ってから、しまったと思った。
玲央が横でこちらを見る。
「透」
「今のなし」
「無理」
「だよな」
「うん」
玲央の声が、少し嬉しそうだった。
「意識してるんだ」
「するだろ。あれだけ言われたら」
「俺のことを?」
「……文化祭の空気を」
「嘘下手」
「うるさい」
透は少し早足になった。
早足になったことに気づいて、玲央が隣で歩幅を合わせる。
それがまた、嫌ではなかった。
◇
次に向かったのは、二年の別クラスがやっている簡単なゲームコーナーだった。
教室の入口には「輪投げ・ミニ射的」と書かれている。
人はそこそこいるが、並べないほどではない。
「こういうのやる?」
玲央が聞く。
「見るだけでもいいけど」
「やってみる?」
「……玲央、こういうの得意そうだな」
「今、名前」
「え」
言われて、透は固まった。
今、何と言った。
玲央。
確かに言った。苗字ではなく、名前で。
自然に。
ほとんど無意識に。
「あ、いや」
「もう一回」
「言わない」
「聞こえたけど」
「じゃあいいだろ」
「よくない」
「よくあるだろ、言い間違い」
「透が俺を名前で呼ぶ言い間違いは、かなり珍しい」
玲央の声が完全に楽しそうだった。
透は耳まで熱くなるのを感じる。
「……文化祭の騒がしさで口が滑った」
「便利な言い訳」
「おまえに言われたくない」
「もう一回」
「言わない」
「じゃあ、いつか」
「勝手に期待するな」
そこでゲームコーナーの受付の男子が「二名ですか?」と声をかけてきた。
透は救われた気持ちでそちらを向く。
「あ、はい」
「輪投げと射的どっちにします?」
「輪投げで」
透が即答する。
「得意?」
玲央が聞く。
「射的よりは失敗しても恥ずかしくなさそう」
「基準そこ?」
「そこ」
参加券を受け取り、二人で輪投げの前に立つ。
景品は小さな菓子や消しゴム、謎の手作りキーホルダーなどだった。
輪を三つ投げて、入ったものがもらえるらしい。
「先どうぞ」
玲央が言う。
「何で」
「見たいから」
「プレッシャーかけるな」
透は輪を一つ持ち、狙いをつける。
それほど遠くない。いけそうな気がする。
投げた。
輪は目標の手前で落ちた。
「……」
「惜しい」
「絶対思ってないだろ」
「思ってる」
「笑ってる」
「少し」
二つ目も外れた。
三つ目はかろうじて、小さな飴の袋に引っかかった。
「お、入りましたね」
受付の男子が飴を渡してくれる。
透は少しだけほっとした。
「一個取れた」
「よかった」
「おまえは?」
「やる」
玲央は輪を受け取る。
投げる前から、姿勢が妙に落ち着いている。
一つ目。入った。
二つ目。入った。
三つ目。少し迷ったあと、透が失敗していた小さなキーホルダーに入った。
「……うま」
透が思わず言う。
「たまたま」
「絶対違う」
「たまたま」
「おまえ、何でもできるな」
「何でもじゃない」
「今の流れで言われても説得力ない」
玲央は受け取った景品のうち、小さなキーホルダーを透に差し出した。
「これ」
「何」
「あげる」
「何で」
「透、さっき狙ってた」
「……見てたのかよ」
「見える位置だったし」
「出た」
そのキーホルダーは、透明な青いビーズがついた簡単なものだった。
大した景品ではない。百均にもありそうなくらいのものだ。
でも、受け取るのは妙に照れくさい。
「別に、いいよ」
「いらない?」
「いらないとは言ってない」
「じゃあ」
「……もらう」
玲央が少しだけ嬉しそうに笑う。
たったそれだけで、受け取った景品の軽さが変わった気がした。
◇
ゲームコーナーを出ると、廊下の人混みはさっきより増えていた。
休憩時間が重なったのか、あちこちのクラスから生徒が出てきている。
呼び込みの声もさっきより大きい。
透は鞄のポケットにキーホルダーをしまおうとして、少し迷った。
結局、内ポケットに入れる。
「つけないの?」
玲央が聞く。
「今はつけない」
「そっか」
「落としたら嫌だし」
「大事?」
「……まあ、もらったものだし」
玲央が黙った。
それが少し気になって横を見ると、玲央はなぜか嬉しそうな顔をしていた。
「何」
「いや」
「何」
「大事にしてくれるんだと思って」
「景品でも、もらったら普通そうだろ」
「普通か」
「普通だよ」
「そっか」
その「そっか」がやけに柔らかい。
透はまた前を向いた。
どうしてこう、ちょっとした会話がいちいち胸に残るのだろう。
キーホルダーひとつでこんなに意識するなんて、少し前の自分なら絶対に想像しなかった。
「透」
「何」
「そろそろ戻る?」
「あ、時間」
スマホを見ると、休憩時間は残り十分ほどだった。
「戻った方がいいな」
「うん」
二人で自分たちの教室へ戻る。
その途中、廊下の角で高城とばったり会った。
手には焼きそばのパックとジュース。完全に文化祭を満喫している顔だった。
「お、デート帰り?」
「違う」
透が即答する。
高城は笑った。
「反応早いな」
「違うからな」
「じゃあ何してたんだよ」
「普通に展示見て、ゲームしてただけ」
「それを世間では文化祭デートって言うんじゃね?」
「言わない」
「榊原は?」
高城が玲央に振る。
玲央は少しだけ透を見てから、平然と言った。
「俺は楽しかった」
「答えになってない」
透が言う。
「でも本当」
「そういうところだよ」
高城は腹を抱えるほどではないが、かなり楽しそうに笑っていた。
「まあ、二人とも受付戻れよ。次、ちょっと人増えてる」
「ああ、分かった」
「あと白石」
「何」
「顔、さっきより楽しそうだぞ」
「……気のせい」
「じゃあそういうことにしとく」
高城は軽く手を振って、廊下の向こうへ歩いていった。
透はしばらくその背中を睨んだ。
「透」
「何」
「楽しくなかった?」
「……楽しかったけど」
「うん」
「そういう聞き方するな」
「聞きたかった」
「もう分かってるだろ」
「でも、聞きたかった」
玲央の声は静かだった。
だから透も、少しだけ静かに返した。
「……楽しかったよ」
「そっか」
「展示も、ゲームも」
「うん」
「……おまえと回ったのも」
言ってから、完全にしまったと思った。
玲央が隣で足を止める。
透も止まらざるを得ない。
廊下のざわめきの中で、二人だけ少し立ち止まる。
「透」
「今のは」
「聞いた」
「だよな」
「うん」
玲央の顔は、さっきよりずっと柔らかかった。
ずるい。
そんな顔をされたら、こっちまで何かが緩んでしまう。
「戻るぞ」
透は逃げるように言った。
「うん」
玲央はそれ以上何も言わなかった。
でも、隣に並ぶ距離が、さっきよりほんの少し近かった。
透は気づいていた。
気づいていたけれど、離れなかった。
展示を見て、同じ冊子を買って、ゲームをして、景品をもらって。
それを高城に「デート」と言われて、全力で否定した。
否定したはずなのに、胸の奥では少しだけ引っかかっている。
もし、これがデートみたいだと言われたら。
完全に違うと、今の自分は言い切れるだろうか。
答えは、すぐには出なかった。
けれど、玲央と回った文化祭が楽しかったことだけは、もう否定できなかった。




