第17話 文化祭前日、隣にいるのが当たり前になっていた
文化祭前日の学校は、いつもの学校ではなかった。
朝から廊下には段ボールが積まれ、教室の前には作りかけの看板が立てかけられ、階段の踊り場ではどこかのクラスの女子が模造紙を広げて何やら相談している。授業は午前中だけ。午後からは全校一斉に準備時間になるとあって、校舎全体が少し浮ついていた。
白石透は、そういう空気が嫌いではない。
全員が同じ方向を見ているようで、実際にはそれぞれ別のことで慌てている。誰かが大声で笑い、誰かが不満をこぼし、誰かが真面目に作業を進める。雑然としているのに、普段の授業とは違う熱がある。
ただ、今の透にとって問題なのは、文化祭そのものではなかった。
「透、そっち持って」
隣から自然に聞こえた声に、透は少し遅れて返事をした。
「……うん」
玲央が大きな看板の片側を持ち上げる。
透も反対側を支えた。
教室の入口に置くための看板だった。
数日前から少しずつ作っていたものがようやく完成し、今日はそれを実際の位置に合わせて調整するらしい。
重さ自体はそこまでない。
けれど幅があるので、一人では少し扱いづらい。
だから二人で持つ。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、透はふと、昨日の帰り道のことを思い出した。
——たぶん、もう戻れない。
自分でこぼした言葉。
玲央に聞かれた言葉。
誤魔化したくせに、頭の中では何度も繰り返してしまった言葉。
そのせいか、今日の玲央との距離は、いつもより少しだけ意識してしまう。
「透」
「何」
「今、手止まってる」
「あ、悪い」
「寝不足?」
「別に」
「嘘っぽい」
「嘘じゃない」
「じゃあ考えごと」
「……おまえ、なんでそういうの当てるんだよ」
玲央は少しだけ笑った。
「透が分かりやすいから」
「最近そればっかりだな」
「本当だし」
「便利な言葉みたいに使うな」
「便利だから」
「もうそのやり取り、何回目だよ」
言いながら、看板を教室の入口へ運ぶ。
周囲ではクラスメイトたちが机を移動させたり、飾りを貼ったり、当日のシフト表を確認したりしていた。
高城が入口近くで腕を組み、やたら真剣な顔で看板の位置を見ている。
「もうちょい右」
「こっち?」
透が聞く。
「いや、白石から見て右」
「どっちだよ」
「だからそっち」
「雑すぎる」
「榊原、分かる?」
「分かる」
「おまえらの意思疎通どうなってんの」
透が思わず言うと、高城が笑った。
「いや、最近の白石と榊原なら、目だけで通じそうじゃん」
「通じない」
「今、榊原の方はちょっと通じてそうな顔してるぞ」
「してない」
玲央が静かに返す。
「いや、してるって。白石のこと見てたし」
「見てた」
「認めるのかよ」
「透が危なっかしい持ち方してたから」
「してないだろ」
透は看板の端を持ったまま、少しだけ声を強くした。
けれど玲央は平然としている。
「親指、挟みそうだった」
「……見すぎだろ」
「見える位置だったし」
「もうそれ聞き飽きた」
高城が「いやあ」と妙に楽しそうに笑う。
「おまえら、文化祭前日まで通常運転だな」
「何が」
「距離感」
「作業してるだけだろ」
「それを真顔で言うの、白石の才能だと思う」
直が教室の奥から戻ってきて、その会話を途中から聞いていたらしく、すぐに口を挟んだ。
「いや、白石はもうだいぶ諦めてるよ」
「諦めてない」
「昨日、自分から榊原のとこ行ってたじゃん」
「見てたのかよ」
「見てたというか、見守ってた」
「もっと嫌だ」
直は悪びれずに笑う。
透は言い返そうとしたが、手に持っていた看板が少し傾いた。すぐに玲央が支えてくれる。
「危ない」
「分かってる」
「今のは分かってなかった」
「……ありがと」
自然に礼を言ってしまった。
玲央が少しだけ目を細める。
「どういたしまして」
「何でちょっと嬉しそうなんだよ」
「素直だったから」
「いちいち言うな」
高城と直が顔を見合わせる。
「これで付き合ってないの、逆にすごいな」
「だよな」
「おい」
透は低い声で二人を睨んだが、二人ともまったく効いていない顔をしていた。
◇
午後の準備時間は、思ったより慌ただしかった。
教室内の机を当日の配置に並べ替え、展示用のパネルを立て、ミニカフェ用の受付スペースを作る。装飾の最終確認、当日シフトの確認、備品の不足チェック。やることは細かく、次から次へと出てくる。
透は裏方寄りの作業を任されていた。
自分でも、たぶんその方が向いていると思う。
接客で明るく声を張るより、準備物の抜けを確認したり、足りないものをリストにしたりする方が落ち着く。
玲央はというと、なぜか自然に透の近くで作業をしていた。
いや、なぜか、ではない。
もう理由はだいたい分かっている。
分かっているからこそ困る。
「透、テープ足りる?」
「たぶん」
「予備、こっちに置いとく」
「うん」
「あと、ハサミ二本、後ろの箱」
「助かる」
「うん」
会話が短く済む。
言わなくても必要なものが出てくる。
それが少し悔しかった。
玲央が自分の動きを分かっていることも。
自分が玲央の動きに慣れてきていることも。
しかもそれが、作業を進める上でかなり楽なのだ。
「白石、そこ終わったらシフト表見てくれる?」
女子の一人が声をかけてくる。
「あ、うん」
「榊原くんも見てくれる? 明日の受付の時間、白石くんと同じところに入ってるんだけど」
「同じ?」
透が思わず聞き返した。
女子はプリントを見ながら頷く。
「うん。最初の一時間、白石くんと榊原くんで受付補助」
「誰が決めたの」
「先生と係で適当に。二人とも落ち着いてるし、任せやすいかなって」
「……そう」
落ち着いてる、という評価はありがたい。
ありがたいのだが。
玲央と二人で受付。
それは、明らかに何か言われるやつではないだろうか。
透が無言でいると、玲央が隣からプリントを覗き込んだ。
「俺はいいけど」
「おまえはそうだろうな」
「透は嫌?」
「……嫌じゃないけど」
「じゃあいい」
「その理屈、最近雑になってない?」
「でも合ってる」
女子が二人のやり取りを見て、少しだけ笑った。
「ほんと仲いいよね」
「……まあ」
透が曖昧に返す。
「榊原くん、白石くんといる時だけ雰囲気違うし」
「え」
「え、本人たち気づいてないの?」
「気づいてないというか……」
「白石くんは分かりやすいよね」
「何が!?」
「今の反応とか」
女子は悪意なく笑って、そのまま別の作業へ戻っていった。
残された透は、シフト表を握ったまま固まる。
「……聞いたか」
「聞いた」
「最近みんな言うようになってきたな」
「そうだね」
「他人事みたいに言うな」
「俺は嫌じゃないし」
「だからそれだよ」
玲央は少しだけ笑う。
「でも、透ももう全力では否定しない」
「……」
「ほら」
「うるさい」
言われて、透は反論できなかった。
たしかに、最近は否定が弱くなっている。
違う、と言い切るには、もう自分でも違う気がしてきているからだ。
◇
夕方が近づく頃、教室内はようやく形になってきた。
入口には完成した看板。
壁には装飾。
黒板には文化祭用の簡単なイラスト。
机は当日用に並べ替えられ、受付スペースには名簿と案内表が置かれている。
雑然としているのに、ちゃんと文化祭らしくなっていた。
「おお、なんかそれっぽい」
高城が教室の後ろから全体を見て言った。
「語彙」
直が突っ込む。
「いやでも、それっぽいだろ?」
「まあ、分かる」
「白石、どう?」
「いいんじゃない。最初どうなるかと思ったけど」
「榊原は?」
「いいと思う」
「おまえらコメントまで落ち着いてんな」
「高城が騒がしいだけじゃない?」
透が言うと、高城が大げさに胸を押さえた。
「白石に刺された」
「浅いだろ」
「いや、地味に深い」
直が笑い、教室の中にゆるい空気が広がる。
その時、廊下側の扉から先生が顔を出した。
「最終確認するぞー。今日の準備はあと三十分くらいで切り上げること。明日は朝から人が入るから、貴重品と危ないものはちゃんと片付けておけよ」
教室中から返事が上がる。
文化祭前日。
本当に、明日が本番なのだ。
透は少しだけ胸がざわつくのを感じた。
大きなイベントが苦手なわけではない。
ただ、明日は今日よりもっと人が多く、もっと騒がしく、もっと予想外のことが起こる。
そしてたぶん、自分と玲央の距離も、また何か言われる。
それが嫌なのかと言われると、もうよく分からない。
「透」
玲央が隣で呼ぶ。
「何」
「明日、朝一緒に行く?」
「……学校に?」
「うん」
「何で」
「受付、最初同じだし」
「理由があるようで、ないだろ」
「半分くらいある」
「もう半分は?」
「一緒に来たい」
普通に言う。
周りに人がいるのに、普通に。
透は反射的に周囲を見た。高城と直は少し離れたところにいて、幸い今の会話は聞いていなさそうだった。
いや、聞いていてもおかしくないが、少なくとも今すぐ突っ込んではこない。
「……朝からそういうの、心臓に悪い」
「まだ夕方」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、明日の朝も聞く」
「聞くな」
「だめ?」
「……駅で会ったらでいいだろ」
言ってから、しまったと思った。
それはほとんど了承だった。
玲央が少しだけ目を細める。
「分かった。駅で」
「いや、今のは」
「聞いた」
「聞くな」
「無理」
もう戻せない。
透は小さく息を吐いた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
◇
準備が終わった後、透は忘れ物がないか教室を確認していた。
机の下に落ちたテープの芯を拾い、余った紙を箱へ戻し、シフト表を受付の上に置き直す。文化祭前日の教室は、いつもより少しだけ舞台裏の匂いがした。
人はほとんど帰り始めている。
高城は部活の友達と先に出ていき、直は先生にシフト表の確認を頼まれている。
玲央は、当然みたいに教室の後ろで透を待っていた。
「……先帰っててもよかったのに」
透が言う。
「待ってたかった」
「そういうの」
「うん」
「最近、遠慮がない」
「少し控えるんじゃなかったっけ」
「それは学校での距離の話だろ」
「今も学校」
「……屁理屈」
「透に会ってから増えたかも」
透は呆れたように玲央を見る。
「俺のせいにするな」
「半分くらい」
「半分もない」
会話をしながら、最後の確認を終える。
教室の入口に立ち、二人で中を振り返った。
夕方の光が教室全体を薄く照らしている。
看板、飾り、机、受付、壁の掲示物。
全部、ここ数日で作ったものだ。
「……なんか、ちゃんと文化祭っぽくなったな」
透が言う。
「うん」
「明日、大変そう」
「うん」
「でも、ちょっと楽しみかも」
そう言ったあと、透は自分で少し驚いた。
楽しみ。
確かに、そう思っていた。
文化祭そのものもそうだが、それだけじゃない。
明日、玲央と一緒に受付に入ること。
朝、駅で会うかもしれないこと。
誰かに何か言われるかもしれないこと。
面倒で、恥ずかしくて、心臓に悪いはずなのに、少しだけ楽しみだと思ってしまった。
玲央がこちらを見る。
「透」
「何」
「今の、嬉しい」
「何が」
「明日を楽しみにしてること」
「文化祭がな」
「うん」
「変な意味に取るなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「透の顔ほどじゃない」
「うるさい」
玲央が笑う。
透も、今度は少しだけ笑ってしまった。
それを見た玲央が、ほんの一瞬、驚いたような顔をする。
「何」
透が聞く。
「いや」
「何だよ」
「今、普通に笑ったなって」
「笑うだろ、普通」
「俺に向けて」
「……細かい」
「大事」
大事、と言われると返しに困る。
透は顔を逸らし、教室の電気を消した。
窓から入る夕方の光だけが、教室に残る。
「帰るぞ」
「うん」
二人で廊下へ出る。
教室の扉を閉める音が、いつもより少しだけ特別に聞こえた。
◇
校門を出る頃には、空はかなり暮れかけていた。
文化祭前日の校舎には、まだあちこちに明かりが残っている。
窓越しに、準備を続ける別のクラスの姿が見えた。誰かが笑い、誰かが段ボールを抱え、誰かが先生に呼ばれて慌てている。
その全部が、明日の前夜らしかった。
二人で並んで歩く。
玲央は、今日は近すぎない距離を保っていた。
でも遠くはない。
少し控える。
でも離れすぎない。
昨日決めたばかりの、曖昧で不器用な距離。
それが今は、妙に心地よかった。
「明日」
玲央が言う。
「うん」
「駅で待ってる」
「……会ったら、って言っただろ」
「会うと思う」
「なんで」
「俺が待ってるから」
「それはもう待ち合わせだろ」
「じゃあ待ち合わせ」
「勝手に決めるな」
言いながら、透は強く否定しなかった。
玲央もそれに気づいたのか、少しだけ笑う。
「明日、楽しみだね」
「……文化祭がな」
「うん。文化祭が」
「その言い方やめろ」
「分かった」
分かっていない顔だった。
でも、もうそれでいい気もした。
文化祭前日。
隣にいるのが、当たり前になっていた。
それは少し前なら考えられなかったことで、今でも完全には慣れないことだった。
けれど、明日もこの隣を選ぶのだろうと、透はほとんど分かっていた。
そのことを認めるのは、まだ少し恥ずかしい。
でも、もう隠しきれないところまで来ている。
そう思いながら、透は玲央の歩幅に少しだけ合わせた。




