第16話 たぶん、もう戻れない
翌朝、白石透はいつもより少し早く教室に着いた。
特に理由があったわけではない。
家を出る時間が少し早かったとか、電車の乗り継ぎがよかったとか、そういう小さな偶然が重なっただけだ。
けれど、教室の扉に手をかける前、透は一度だけ足を止めた。
昨日のことが、まだ頭の中に残っていた。
——離れられるのは、嫌だ。
自分で言った。
間違いなく、自分の口から出た。
思い返すたびに顔が熱くなる。
どうしてあんなことを言ったのか、と何度も考えた。けれど、考えれば考えるほど、あの時そう言わない方がずっと嫌だったのだと分かってしまう。
玲央が少し離れる。
隣に来なくなる。
名前を呼ぶ回数を減らす。
当然みたいに一緒に帰らなくなる。
そういう想像をした時、胸の奥がひどく落ち着かなかった。
それが答えだった。
まだ「好き」とは言えない。
言えない、と思う。
でも、玲央が自分の近くからいなくなるのは嫌だった。
「……重症だろ、これ」
誰にも聞こえないように呟いて、透は教室の扉を開けた。
朝の教室は、まだ人が少ない。
窓際の席に二人、前の方で眠そうに机へ突っ伏している男子が一人。黒板には昨日の文化祭準備の名残で、まだ少しだけチョークの白い跡が残っていた。
そして、榊原玲央はまだ来ていなかった。
透は少しだけ息を吐く。
安心したのか、残念だったのか、自分でも分からなかった。
席へ向かい、鞄を下ろす。
机の横に掛けようとして、ふと昨日の教室を思い出した。
夕方の光。
少し散らかった机。
玲央の静かな声。
「俺、少し離れるから」という言葉。
そして、それを嫌だと思った自分。
「白石、朝から机に向かって固まってるけど、大丈夫?」
声をかけられて顔を上げると、いつの間にか水城直が斜め前の席に鞄を置いていた。
「……おはよ」
「おはよ。で、大丈夫?」
「普通」
「普通の顔じゃないな」
「朝から人の顔を採点するな」
直は椅子に座りながら、にやっと笑った。
「昨日、なんかあった?」
「何も」
「その返事、何かありましたって言ってるのと同じだけど」
「うるさい」
「榊原絡み?」
「……」
黙ったのがよくなかった。
直は一瞬で察した顔になった。
「分かりやす」
「何も言ってない」
「何も言ってないのに分かるんだから、相当だぞ」
「やめろ」
「まあいいけどさ」
直はそれ以上強く聞いてこなかった。
そのあたりは、なんだかんだで空気を読む。面白がるくせに、踏み込みすぎるところでちゃんと止まるのが直だった。
透は少しだけ助かった気持ちになりながら、教科書を机の中へ入れる。
その時、教室の扉が開いた。
自然に視線がそちらへ向く。
玲央だった。
朝の光を背に受けて、いつもと同じように落ち着いた顔で入ってくる。制服の着方も、髪の乱れ方も、何も変わらない。変わらないはずなのに、昨日のことがあるせいで、透の方だけが勝手に意識してしまう。
玲央は透の席の近くまで来た。
けれど、いつものようにすぐ近くへ寄ってはこなかった。
少しだけ、距離を置いて立ち止まる。
「おはよう、透」
名前は呼ぶ。
でも、声がいつもより少しだけやわらかい。
「……おはよ」
返す声が少し遅れた。
玲央はそれに気づいたはずなのに、からかわなかった。
「昨日、ちゃんと寝た?」
「寝た」
「そっか」
「……何」
「いや。顔、少し眠そうだったから」
それだけ言って、玲央は自分の席へ向かった。
いつもなら、もう一言くらい何か言ってくる。
「透、嘘下手だよね」とか。
「今ちょっと反応遅かった」とか。
でも今日は言わなかった。
ほんの少しだけ、距離を測られている。
そう感じた瞬間、透の胸が落ち着かなくなった。
「白石」
直が小声で言う。
「何」
「榊原、今日ちょっと控えめじゃね?」
「……そう見える?」
「見える。珍しいな」
直にも分かるのか。
透は机の端を指でなぞった。
昨日、自分が「学校では少し控えろ」と言った。
玲央はそれをちゃんと守ろうとしているのだろう。
それは、悪いことではない。
むしろ透が求めたことだ。
なのに、少しだけ寂しいと思ってしまう。
勝手すぎる。
自分でもそう思った。
◇
午前中、玲央は本当に少しだけ距離を取っていた。
名前を呼ばないわけではない。
話しかけないわけでもない。
でも、いつものように隣へ来て当然みたいに座ったり、透の机へ手をついて顔を覗き込んだりはしない。
休み時間にプリントの確認をする時も、少しだけ離れた場所から声をかける。
「透、この提出、今日まで?」
「……うん、放課後まで」
「分かった」
それだけ。
本当にそれだけ。
周りから見れば、普通の会話だろう。
普通の距離感。
普通のクラスメイト。
それがなぜか、透には物足りなかった。
「白石、顔」
直が横から小声で言う。
「何」
「すごい複雑そう」
「してない」
「してる。榊原が控えめになったらなったで不満なんだろ」
「不満じゃない」
「じゃあ何」
「……分からない」
正直にそう言うと、直は少しだけ目を丸くした。
それから、からかうでもなく、軽く笑った。
「まあ、そういう時期なんじゃね」
「何その雑なまとめ」
「雑なくらいがちょうどいいだろ。あんまり言葉にしすぎると、逆に逃げ場なくなるし」
「……おまえ、たまにまともなこと言うよな」
「たまにって言うな」
直は苦笑して、前を向いた。
その言葉は、少しだけ透の中に残った。
言葉にしすぎると、逃げ場がなくなる。
確かにそうだ。
玲央との関係は、言葉にしようとすると途端に難しくなる。
友達。
クラスメイト。
仲がいい。
特別。
どの言葉も少しずつ合っていて、どの言葉も少しだけ足りない。
◇
昼休み、文化祭準備の話で高城がまた班の席へやって来た。
「白石、昨日の看板、先生がいい感じって言ってたぞ」
「本当?」
「うん。字が読みやすいって」
「へえ、よかった」
「榊原も手伝ってたんだろ?」
「うん」
玲央が答える。
「透がほとんど書いたけど」
「おい」
透が言う。
「そういう余計なこと言わなくていい」
「余計じゃない」
「榊原、やっぱ白石褒めるのうまいよな」
高城が笑う。
「うまいっていうか、隠さないだけじゃね?」
直も口を挟む。
玲央は何も言わなかった。
いつもなら、ここで「事実だから」とか「透だから」とか、平然と何かを返す。
けれど今日は、少しだけ透を見て、それから静かに視線を戻した。
控えている。
あからさまではないけれど、ちゃんと。
その小さな我慢が分かってしまった瞬間、透は胸の奥がきゅっとした。
高城はその空気に気づいたのか気づいていないのか、パンをかじりながら言う。
「でもさ、おまえらほんと最近セット感あるよな」
「セット感って何」
透が返す。
「いや、何かもう白石の隣に榊原いるのが普通みたいな」
「それは……」
「分かる」
直がすぐ頷いた。
「もう時間の問題って感じする」
「何の時間だよ」
「それを俺の口から言わせる?」
直がわざとらしく笑う。
透は言い返そうとして、言葉に詰まった。
今までなら、もう少し強く否定できた。
「違う」と即答できた。
でも、今は一瞬遅れる。
その一瞬を、玲央が見ていた。
玲央は何も言わない。
ただ、静かに透を見る。
その視線が、昨日までより少しだけ慎重で、透はなぜかもどかしくなった。
「……時間の問題とか、勝手に言うな」
どうにかそれだけ返す。
直と高城は笑った。
玲央だけは、笑わなかった。
◇
放課後も、文化祭準備は続いた。
今日は昨日ほど二人きりになる作業はなかった。
クラス全体で当日の配置を決めたり、掲示物の位置を確認したり、先生から細かい注意を受けたり。人数が多く、ざわざわしている。
その中で、透は何度も玲央の位置を確認してしまった。
教室の前で高城と話している。
黒板の近くで直に何か頼まれている。
女子に質問されて、いつもの落ち着いた顔で答えている。
玲央は誰に対しても普通に話す。
それは前から分かっていた。
そっけないというほど冷たいわけではないし、必要なことはちゃんと返す。
でも、自分に向ける時とは少し違う。
そう思った瞬間、透は自分の考えに気づいて固まった。
何を比べているんだ。
玲央が他の誰かと話しているのを見て、少しだけ落ち着かなくなる。
それは、今まで玲央が透に向けていた感情と、少し似ている気がした。
「白石ー」
高城が声をかける。
「この備品チェック表、先生に持ってくんだけど、一緒に確認してくれない?」
「あ、うん」
透は慌ててそちらへ向かった。
備品の数を数え、足りないものに丸をつけ、先生へ確認する項目をまとめる。高城は相変わらず気さくで、作業の合間にもどうでもいい雑談を挟んでくる。
「白石、文化祭当日、接客やる?」
「やらない」
「即答」
「裏方でいい」
「似合うな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は何だよ」
軽く笑いながら返す。
その時、ふと視線を感じた。
振り向くと、玲央がこちらを見ていた。
目が合う。
けれど玲央は、すぐに何も言わず視線を外した。
いつもなら少しだけ近づいてくる。
「透、何してるの」と聞いてくる。
高城との距離が近ければ、少しだけ分かりやすく空気を変える。
でも今日は来ない。
控えている。
本当に、控えている。
それが分かった瞬間、透の中に何かが引っかかった。
違う。
そうじゃない。
自分がそう言ったのに。
学校では少し控えろと言ったのに。
でも、今は違うと思った。
玲央に無理に我慢されるのは、嫌だった。
◇
準備が終わり、片付けが始まる頃には、空はすっかり夕方だった。
高城は先生への報告へ行き、直は他の男子とゴミ捨てへ向かう。
教室には何人か残っていたが、みんなそれぞれ帰り支度を始めている。
透は自分の鞄を持って、少し離れた場所にいる玲央を見た。
玲央は窓際で、余ったテープを箱に戻している。
一人で、静かに。
少し前なら、きっと玲央の方から来た。
「帰る?」と聞いてきた。
今日は来ない。
透は数秒だけ立ち止まった。
自分から行けばいい。
ただ、それだけのことだ。
なのに足が動かない。
恥ずかしい。
急に自分から行くのは、妙に意味がありすぎる気がする。
でも、意味があるから行きたいのかもしれない。
透は小さく息を吐いた。
直の声が、後ろから飛んでくる。
「白石ー、帰るなら鍵だけ気をつけろよ」
「分かってる」
「あと」
「何」
「行けば?」
透は振り返った。
直はゴミ袋を持ったまま、にやにやしているような、でも少しだけ真面目なような顔をしていた。
「……うるさい」
「何も言ってないだろ」
「言った」
「まあ、行けばいいと思うよ」
それだけ言って、直は廊下へ出ていった。
透はもう一度、玲央を見る。
そして今度は、ちゃんと足を動かした。
窓際へ向かう。
玲央の隣へ。
近づくと、玲央が気づいて顔を上げた。
「透」
「……帰る?」
透が先に聞いた。
玲央はほんの少しだけ目を見開いた。
たったそれだけの反応なのに、透には分かった。
玲央が今、驚いていること。
そして、たぶん少し嬉しいと思っていること。
「帰る」
玲央が言う。
「うん」
「一緒に?」
「……それ以外に何があるんだよ」
言った瞬間、自分で顔が熱くなるのを感じた。
玲央は数秒黙ってから、ゆっくり笑った。
何も言わない。
からかいもしない。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑う。
その方が、ずっと心臓に悪かった。
「じゃあ行こう」
玲央が言う。
「……うん」
◇
二人で教室を出る。
廊下は薄い夕方の色に染まっていた。窓の外では、文化祭準備のために残っている生徒の声があちこちから聞こえる。校舎全体がいつもより少し浮ついていて、けれど二人の周りだけは静かだった。
昇降口へ向かいながら、玲央が口を開く。
「今日、俺から行かないようにしてた」
「……知ってる」
「気づいてた?」
「まあ」
「嫌だった?」
「……」
透は答えに詰まる。
嫌だった。
そう言えば早い。
でも、そう言うにはあまりにも恥ずかしい。
「……変だった」
「変?」
「おまえがいつもより静かで」
「うん」
「距離取ってるの、分かったから」
「うん」
「それが、何か……落ち着かなかった」
言いながら、透は自分がかなり正直なことを言っていると気づいた。
でも、ここまで来て誤魔化しても仕方ない気がした。
玲央はしばらく黙っていた。
「そっか」
やがて、そう言った。
声が柔らかい。
「でも、透が学校では少し控えろって言ったから」
「言った」
「だから控えた」
「うん」
「でも透が落ち着かないなら、どうすればいい?」
「……知らない」
「知らないの?」
「知らない」
自分勝手だ。
自分でも分かっている。
近すぎると困る。
でも離れられると嫌だ。
そんなの、どうすればいいか自分でも分からない。
「透」
「何」
「じゃあ、少しだけ控える」
「うん」
「でも、離れすぎない」
「……」
「これなら?」
透は靴を履き替えながら、少しだけ考えた。
それが何の解決なのかは分からない。
そもそも、二人の距離に明確な正解なんてないのかもしれない。
でも、今の透にはその答えが一番しっくりきた。
「……それでいい」
小さく言う。
玲央はまた、少しだけ笑った。
「分かった」
◇
校門を出ると、夕方の風が頬に当たった。
昨日より少し冷たい。
けれど、それが心地よかった。
二人で並んで歩く。
今日は、透が自分から玲央の隣を選んだ。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。
でも、嫌ではない。
玲央はそのことに気づいているのか、いつもより少しだけ静かだった。
それでも、距離は遠くない。
「透」
「何」
「今日、自分から来てくれて嬉しかった」
「……言うと思った」
「言うよ」
「うるさい」
「でも、本当に嬉しかった」
「二回言うな」
玲央が笑う。
透も、ほんの少しだけ口元が緩みそうになって、慌てて前を向いた。
隣に玲央がいる。
そのことが、いつの間にか自然になっている。
少し前までは、こんなこと考えもしなかった。
榊原玲央は、ただ同じクラスの目立つやつだった。自分とは遠いところにいる、静かで、整っていて、少し近寄りがたい男子。
それが今は、名前を呼ばれるだけで心臓が動く相手になった。
隣にいないと落ち着かない相手になった。
離れられるのは嫌だと、自分で言ってしまう相手になった。
もう、前みたいには戻れない。
その事実が、今日ははっきり分かった。
「……たぶん、もう戻れない」
透は思わず呟いた。
隣の玲央が、こちらを見る。
「何に?」
「……何でもない」
「聞こえた」
「なら聞くな」
「戻れないって?」
「言わない」
「じゃあ考えとく」
「考えるな」
玲央は少しだけ楽しそうに笑った。
透は顔を逸らしながら、小さく息を吐く。
戻れない。
本当に、そう思った。
ただのクラスメイトには戻れない。
何でもない相手には戻れない。
玲央が隣にいない日常を、もう何も感じずに過ごす自分には戻れない。
それが恋なのかどうかは、まだ分からない。
けれど、恋の手前まで来ていることくらいは、もう分かっていた。
隣を歩く玲央が、少しだけ歩幅を合わせてくれる。
透はそれに気づきながら、何も言わなかった。
言わなかったけれど、その歩幅に合わせて自分も少しだけゆっくり歩いた。




