第15話 二人きりの教室で、それ言うのはずるい
文化祭準備が始まってから、放課後の教室に残ることが増えた。
白石透は、最初それを面倒だと思っていた。
いや、今でも面倒ではある。
切っても切っても終わらない色画用紙。貼っても貼っても少し傾く装飾。誰かが使ったまま行方不明になるマジック。謎に余るリボン。気づくと床に落ちているテープの切れ端。
文化祭準備というのは、想像以上に地味な作業の積み重ねだった。
けれど、その地味な作業が嫌いかと聞かれると、透は少し答えに困る。
嫌ではない。
少なくとも、最近は。
「白石ー、こっちの紙、あとで貼っといてくれる?」
「あ、うん」
「榊原、脚立こっち移動できる?」
「分かった」
放課後の教室では、今日も準備が続いていた。
机は端に寄せられ、黒板には当日のシフト案が貼られ、教室後方には作りかけの看板や飾りが並んでいる。窓の外は夕方の光に染まり始めていて、校庭からは運動部の掛け声が遠く聞こえた。
透は模造紙を押さえながら、隣で作業している玲央をちらりと見る。
玲央は脚立を運び終えると、何でもない顔で透の横へ戻ってきた。
最近、この位置が当たり前みたいになっている。
透の隣。
手を伸ばせば届く距離。
近すぎると文句を言えば、作業だから、と返される距離。
それを少し前ほど強く拒めなくなっている自分が、かなりまずい。
「透」
「……何」
「そこ、押さえて」
「押さえてる」
「もう少し右」
「細かいな」
「ずれると目立つ」
「おまえ、こういうの意外と几帳面だよな」
「透の字がきれいだから、飾りがずれてると余計に目立つ」
不意に褒めるな。
透は言い返しかけて、言葉を飲み込んだ。
ここで反応したら、また玲央の思うつぼだ。
なのに、その沈黙すら玲央にはばれている気がする。
「何」
「何でもない」
「今、ちょっと照れた?」
「照れてない」
「じゃあ耳赤いのは?」
「夕方の光」
「便利だな」
「おまえに言われたくない」
玲央が小さく笑う。
その笑い方に、透はもう前ほど大きく動揺しない。
動揺しない、つもりではいる。
けれど、胸の奥が少しだけ温かくなるのは止められなかった。
◇
準備は予定より少し長引いた。
装飾班の何人かが途中で帰り、買い出し組も戻ってきたと思ったらすぐに先生へ報告へ行き、直と高城はゴミ捨てと備品確認を任されて教室を出た。
気づけば、教室には透と玲央だけが残っていた。
この状況にも、そろそろ慣れ始めている。
慣れ始めているのが問題だった。
「……また二人だけか」
透がぽつりと言う。
「嫌?」
「そういう聞き方するな」
「じゃあ、嬉しい?」
「もっと悪い」
玲央は少しだけ笑った。
夕方の教室に、その声はやけに近く響いた。
窓の外では空の色が少しずつ橙から薄い青へ変わっていく。教室の中に残っているのは、作業台代わりの机と、まだ片付けきれていない道具と、二人分の影だけだった。
透は机の上に散らばったマジックをケースに戻しながら、なるべく普通に言った。
「最近さ」
「うん」
「周りのやつに、いろいろ言われるな」
「うん」
「……うん、じゃなくて」
「事実だからじゃない?」
透は手を止めた。
「何が」
「俺たち、距離近いし」
「自覚あるなら直せ」
「直した方がいい?」
「……そういう聞き方するなって」
玲央は、今日は妙に静かだった。
いつもなら、もう少しからかうような空気を混ぜる。透が慌てるのを見て、少しだけ楽しそうに笑う。
でも今の玲央は、真面目な顔をしていた。
それが少しだけ怖い。
「透」
「何」
「周りに言われるの、本当に嫌なら言って」
「……」
「俺、少し離れるから」
心臓が、妙な音を立てた。
少し離れる。
たったそれだけの言葉なのに、頭の中が一瞬止まった。
離れる。
玲央が、自分から。
隣に座らなくなる。名前を呼ぶ回数を減らす。放課後に当然みたいに一緒に帰らなくなる。高城や直にからかわれた時、何も言わずに受け流す。困った時も、少し距離を置いて見ている。
想像しただけで、胸の奥が落ち着かなくなった。
嫌だ。
そう思った。
思ってしまった。
「……何で」
透はようやく声を出した。
「何でって」
「何で急に、そんなこと言うんだよ」
「急じゃない」
「急だろ」
「最近、透が困ってること多いから」
「それは……」
「俺が近いから困ってるなら、ちゃんと引く」
玲央の声は穏やかだった。
穏やかで、少しだけ寂しそうにも聞こえた。
だから余計に、透は困った。
「……おまえさ」
「うん」
「そういう時だけ、まともなこと言うのやめろ」
「まとも?」
「ずるいってこと」
玲央は何も言わなかった。
透は手元のマジックケースを閉じる。
ぱちん、という小さな音が、静かな教室に響いた。
「俺が困ってるのは」
「うん」
「別に、おまえが嫌だからじゃない」
「うん」
「周りに言われるのは恥ずかしいし、名前呼ばれるのもまだ慣れないし、距離近いのも心臓に悪いけど」
言えば言うほど、自分で墓穴を掘っている気がした。
でも、ここで誤魔化すと、たぶん玲央は本当に少し離れる。
それは嫌だった。
嫌だと思ってしまった時点で、もう逃げられない。
「……嫌だから困ってるんじゃない」
透は小さく言った。
「じゃあ?」
「分かんない」
「透」
「分かんないけど」
そこで一度、言葉が詰まる。
玲央がこちらを見ている。
まっすぐに。
逃げ道を塞ぐみたいではなく、答えを待つみたいに。
透は視線を落とした。
「……離れられるのは、嫌だ」
言ってしまった。
教室が、ほんの一瞬だけ静かになりすぎた気がした。
窓の外の部活の声も、廊下の足音も、全部遠くなる。
自分の言葉だけが、耳の奥に残っている。
離れられるのは嫌。
それはもう、かなりはっきりした答えだった。
玲央はしばらく何も言わなかった。
透は耐えきれずに顔を上げる。
そこにあった玲央の表情を見て、息を飲んだ。
いつもの余裕のある顔ではない。
少し驚いて、少し嬉しそうで、でもどこか慎重な顔。
そんな顔、ずるい。
「……透」
「何」
「今の、聞き間違いじゃないよな」
「聞き間違いってことにしたい」
「無理」
「だろうな」
「うん」
玲央がゆっくり笑う。
その笑い方が本当に嬉しそうで、透は顔を背けたくなった。
でも、背けたら負ける気がして、その場に立ったまま何とか耐える。
「俺、離れなくていい?」
玲央が聞く。
「……確認するな」
「大事だから」
「いいって言わせたいだけだろ」
「それもある」
「最低」
「でも聞きたい」
透は小さく息を吐いた。
逃げたい。
でも逃げたくない。
そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、かすかに頷く。
「……いい」
「うん」
「でも、学校では少し控えろ」
「少し?」
「少し」
「ゼロじゃなくていい?」
「……ゼロじゃなくていい」
言った瞬間、玲央の表情がまた柔らかくなる。
やっぱりずるい。
そういう顔をされると、全部許してしまいそうになる。
「透」
「何」
「ありがとう」
「何に」
「離れなくていいって言ってくれたこと」
「……そういうの、いちいち言うな」
「言いたい」
「うるさい」
言葉とは裏腹に、胸の奥は騒がしい。
ただ、その騒がしさは嫌なものではなかった。
◇
その後の片付けは、少しぎこちなかった。
正確には、透だけがぎこちなかった。
玲央はいつもより少しだけ静かで、でも機嫌はよさそうだった。
それがまた透を困らせる。
「透」
「……何」
「これ、どこに戻す?」
「後ろの箱」
「うん」
「……何で笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってるだろ」
「少し」
「認めるな」
「嬉しいから」
「それも言うな」
玲央はやっぱり少し笑っている。
透はもう諦めて、床に落ちていた紙くずを拾った。
逃げても無駄だ。
何を言っても、今日の玲央はたぶん機嫌がいい。
理由が自分のさっきの言葉だと思うと、顔が熱くなる。
離れられるのは嫌。
何度思い返しても、かなり踏み込んだことを言った。
言ったのは自分だ。
自分で言っておいて、今さらなかったことにはできない。
でも、不思議と後悔はなかった。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
けれど、あの時そう言わなかったら、もっと嫌だった気がする。
「透」
「今度は何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「照れてる?」
「怒るぞ」
「じゃあ照れてる」
「決めつけるな」
玲央がまた笑う。
夕方の教室に、二人の声だけが残る。
少し前なら、この状況だけで落ち着かなかった。
今も落ち着かない。
でもその落ち着かなさが、前とは少し違う。
隣にいるのが玲央だと分かっているから。
玲央が離れないと分かっているから。
だから、落ち着かないのに、どこか安心する。
それは、たぶんかなり危ない感情だった。
◇
片付けが終わり、鍵を返すために二人で教室を出た。
廊下はもう薄暗くなり始めている。窓の外の空は、橙色から少しずつ群青へ変わっていた。校舎の中には、ところどころにまだ準備を続ける声が残っている。
それでも、二人の間は静かだった。
職員室へ鍵を返し、昇降口へ向かう。
靴を履き替えながら、透はちらりと玲央を見る。
玲央も同じタイミングでこちらを見ていた。
「……何」
「いや」
「何」
「今日の透、ちょっと素直だった」
「忘れろ」
「無理」
「即答するな」
「忘れたくない」
言葉が止まる。
忘れたくない。
たったそれだけの返しなのに、まともに受け止めると胸が苦しくなる。
「……そういうの」
「うん」
「二人きりの時に言うの、ずるい」
「じゃあ、みんなの前で言う?」
「絶対やめろ」
「なら二人きりで言う」
「極端なんだよ」
玲央は笑った。
二人で校門を出る。
夕方の風が少し冷たくて、火照った顔を冷ましてくれる気がした。
並んで歩きながら、透はふと思う。
今日、たぶん何かが変わった。
大きな告白があったわけじゃない。
付き合うとか、好きだとか、そういう言葉が出たわけでもない。
でも、玲央が「離れる」と言った時に、自分ははっきり嫌だと思った。
そして、それを言葉にした。
もう前みたいには戻れない。
そんな気がした。
「透」
「何」
「今日は一緒に帰っていい?」
「……いつも帰ってるだろ」
「今日は確認したくなった」
「何で」
「離れなくていいって言われたあとだから」
透は小さく息を吐く。
「……いいよ」
「うん」
玲央の声が、ひどく嬉しそうだった。
その嬉しそうな声を聞いて、透まで少しだけ嬉しくなってしまう。
それが一番まずい。
でも、今はもう少しだけ、そのまずさを見ないふりしていたかった。




