第12話 距離近いくせに、そういう時だけ優しいの反則だろ
その日は朝から、少しだけ調子が悪かった。
白石透は一時間目の途中でそれに気づいていた。熱があるとか、立っていられないほどつらいとか、そういう大げさなものではない。ただ、頭の奥が少し重くて、身体が普段よりわずかに鈍い。寝不足と言われればそうかもしれないし、季節の変わり目でぼんやりしているだけかもしれない。
だから、最初は気にしなかった。
気にしなかったのがよくなかったのかもしれない。
二時間目、三時間目と進むにつれて、じわじわとだるさが広がっていく。黒板の文字を追っているつもりなのに、少し目を逸らすと焦点が合いにくい。ノートを取る手も、いつもより遅い気がした。
「白石」
休み時間、直が前の席から振り返る。
「何」
「顔白くない?」
「そう?」
「そう。今日ちょっと元気なくね」
「寝不足かも」
「また夜更かし?」
「してない」
「じゃあ何」
「……知らない」
自分でもうまく分からなかった。
ただ、ここで「ちょっとしんどい」と言うほどでもない気がして、透は適当にごまかした。
問題は、その会話を聞いていたもう一人がいたことだ。
「透」
名前を呼ばれて顔を上げると、玲央が立っていた。
最近ではかなり聞き慣れた呼び方のはずなのに、体調が微妙な時に呼ばれると、なぜかいつもより近く感じる。
「……何」
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
「顔色よくない」
「気のせい」
「気のせいじゃないと思う」
「おまえ今それ言う側なんだ」
「言うよ」
即答だった。
直が少しだけ空気を読んだ顔になって、「俺、購買行ってくるわ」と席を立つ。
見捨てるな、と一瞬思ったが、ここで残られてもそれはそれで嫌だった。
「ほんとに平気」
透はもう一度言う。
「うん」
「だからそんな顔するなよ」
「どんな顔」
「……心配してる顔」
言ってから、自分で少しだけ後悔した。
そんなことをわざわざ口にする必要はなかった。
だが玲央は視線を逸らさず、そのまま静かに言った。
「してるから」
やめてほしい。
そういう真っ直ぐな返しは、体調が悪い時ほど余計に刺さる。
◇
四時間目は移動教室だった。
廊下を歩いて理科室へ向かう途中、透はほんの少しだけ足元が怪しくなるのを感じた。倒れるほどではない。でも、平衡感覚がいつもより少し鈍い。
ちゃんとしろ、と自分に言い聞かせる。
これくらいで騒ぐな、とも思う。
理科室に着いて席についた時には、もう授業を受けられないほどではないと思った。けれど、先生の説明が始まって十分もしないうちに、それが甘かったと分かる。
頭に入らない。
文字も声も、ちゃんと届いているはずなのに、意味としてまとまらない。
ノートに書こうとした手が一瞬止まった、その時だった。
「透」
小さな声。
隣の列の玲央が、少しだけ身を乗り出してこちらを見ていた。
「……何」
「やっぱり変だよ」
「授業中」
「それは分かってる」
「なら黙ってろ」
「黙れない」
そのやり取り自体は短かった。
だがその後、透がシャーペンを落とした時、玲央は先生より先に反応した。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
大丈夫、と答えた声が自分でも驚くくらい弱かった。
玲央の表情が変わる。
いつもの余裕のある静かな顔ではなく、少しだけ張り詰めたような目になる。
授業が終わると同時に、玲央はほとんど迷いなく透の席のそばへ来た。
「保健室」
「は?」
「行く」
「行かない」
「行く」
「何でそうなるんだよ」
「今の透、どう見ても無理してる」
「してない」
「してる」
言い切られる。
理科室から出ていくクラスメイトの何人かが、こちらをちらっと見た。
透はそれが嫌で、余計に声を潜める。
「大げさだって」
「大げさじゃない」
「ちょっとだるいだけ」
「その“ちょっと”で今、顔色かなり悪い」
「……」
「透」
「何」
「ちゃんと歩ける?」
「歩ける」
即答したものの、説得力はなかったらしい。玲央は少し黙って、それから本当に静かな声で言った。
「じゃあ一緒に来て」
その言い方が、いつもの強引さとは少し違った。
命令みたいでいて、どこか少しだけ頼むような響きがある。
透はそこで、ようやく抵抗する気力が少し抜けた。
「……保健室までだけ」
「うん」
「寝たらすぐ戻る」
「それは先生が決めること」
「おまえが言うな」
けれど、言い返す声にも前ほど力が入らない。
◇
理科室から保健室までは、いつもより妙に遠く感じた。
廊下を歩くたびに、床が少しだけふわつく。大丈夫だと思っていたが、やはり思ったより消耗していたらしい。
「透」
「……何」
「壁側歩いて」
「そんなに危なくない」
「危なくないかどうか決めるのは今の透じゃない」
「何その言い方」
「正しい言い方」
玲央は透の少し外側を歩いていた。
何かあったらすぐ支えられるようにしているのが分かる。分かるからこそ、透は余計に落ち着かない。
「別に、一人で行けたのに」
「知ってる」
「じゃあ何で」
「一人で行かせたくなかった」
またそれだ。
今の透に、その一言は重すぎる。
重すぎるのに、きっぱり拒めない自分がいる。
保健室の前に着いたところで、透は小さく息を吐いた。
立ち止まると、身体のだるさが一気に自覚される。やっぱり少し無理していたのかもしれない。
玲央が先にドアをノックする。
「失礼します」
その声が妙に落ち着いていて、透は少しだけ笑いそうになった。こんな時でも、こういうところはきっちりしている。
中から養護教諭の声がして、二人で入る。
「どうしたの?」
保健室の先生が優しい声で聞く。
「ちょっと顔色悪くて」
と玲央。
「……おまえが答えるのかよ」
透がぼそっと言うと、
「本人、今たぶんまともに説明しないから」
と玲央は平然と返した。
否定できないのが悔しい。
結局、透は熱を測って、簡単な問診を受けて、少しだけベッドで休むことになった。熱は高くない。軽い疲れと、たぶん睡眠不足や気温差も重なったのだろうと先生は言う。
「少し寝てれば大丈夫そうだけど、無理はしないこと」
「……はい」
「榊原くん、教室戻っていいよ。あとで呼ぶから」
先生がそう言う。
だが玲央は、すぐには動かなかった。
「……透」
「何」
「ちゃんと休んで」
「分かってる」
「ほんとに」
「分かってるって」
そこでようやく玲央が一歩下がる。
でも、その表情はまだ少し硬かった。
透はそれを見て、小さく息を吐く。
「……そういう時だけ、優しいの反則」
半分寝ぼけたみたいな気持ちで、つい口から出た。
玲央が止まる。
「何?」
少しだけ聞き返す。
「いや、別に」
「今、言ったよね」
「言ってない」
「言った」
いつもの押し引きが、今日は少しだけ鈍い。
透はベッドに腰かけたまま、視線を逸らした。
「……そういう時“だけ”じゃないけど」
玲央が小さく言う。
その返事があまりにも静かで、真面目で、透は一瞬だけ言葉を失った。
「……おまえ」
「何」
「体調悪い時にそういうの聞くの、余計に効く」
「知ってる」
「知ってるならやめろ」
「やめない」
最後だけ、少しだけいつもの玲央に戻る。
そのことに、透は妙な安心を覚えた。
◇
玲央が出ていったあと、透は保健室のベッドに横になった。
薄いカーテン越しの光がやわらかい。
保健室独特の匂いと静けさの中で、ようやく身体の力が少し抜ける。
ほんの十五分、二十分ほど目を閉じただけだったと思う。
でも起きた時には、頭の重さはだいぶましになっていた。
「起きた?」
先生の声がする。
「……はい」
「少し顔色戻ったかな。無理しないで今日は早めに帰りなさい」
「そうします」
「あと」
先生が少しだけ笑う。
「榊原くん、何回か様子見に来てたよ」
透はベッドの上で固まった。
「……何回か?」
「うん。『まだ寝てますか』って」
「……」
「心配してくれる友達がいるのはいいことね」
友達。
その言葉に、透はうまく反応できなかった。
いいこと、なのはそうだろう。
でも、その一言で片付けるには、もう少し複雑な気がしてしまう。
カーテンを開けてベッドから降り、靴を履く。
保健室を出る頃には、校舎の中はかなり静かになっていた。
◇
廊下に出ると、すぐ壁際に人影があった。
「……うわ」
思わず小さく声が出る。
玲央だった。
本当に待っていたらしい。
「起きた」
「見れば分かる」
「その返し、今日それ言う元気あるなら大丈夫そう」
「何だよそれ」
言い返しながらも、透は少しだけ安心していた。
待っているかもしれない、とは思った。思ったけれど、本当にいるとは思っていなかったからだ。
「帰れる?」
玲央が聞く。
「帰れる」
「ほんとに」
「その確認何回目だよ」
「今日は何回でもする」
「面倒くさいな」
「知ってる」
夕方の光が廊下の窓から差し込んで、玲央の髪を少しだけ明るく見せていた。
その顔は、まだ少し心配そうだ。
「……もう大丈夫だって」
透が言う。
「うん」
「だからそんな顔するな」
「どんな」
「……まだ不安そうな顔」
「してるから」
またそれだ。
透は本気で困った。
こういう時だけ、本当に取り繕わない。
保健室の前の静かな廊下。
他に人はいない。
そのせいか、玲央の言葉がいつもより近く感じる。
「透」
「何」
「熱ない?」
「ない」
「ほんとに」
「……何だよ、今度は額にでも触る気か」
半分冗談で言った。
言ったのに。
玲央は少しだけ間を置いて、本当に手を伸ばした。
「え」
ひやりとした掌が、透の額に触れる。
数秒。
ほんの数秒なのに、時間がおかしくなる。
「……熱くない」
玲央が静かに言う。
「……そりゃそうだろ」
「でも確認したかった」
「確認多すぎる」
「今日は仕方ない」
透は動けなかった。
額に触れられた感触がそのまま残って、心臓だけがやたらとうるさい。
「……おまえ」
「何」
「そういうの、普通にやるなよ」
「普通にやったつもりだけど」
「こっちは普通じゃない」
「顔赤い」
「さっきからそればっかりだな」
「赤いのは本当」
「おまえのせいだろ」
やっとのことでそれだけ返すと、玲央はほんの少しだけ笑った。
その笑い方に、さっきまでの心配が少しだけほどけていくのが分かる。
「……戻った」
玲央がぽつりと言う。
「何が」
「いつもの透」
「は?」
「保健室の前で、やっとちゃんと文句言ったから」
「そんなので判断するな」
「分かりやすいし」
「おまえが言うな」
でも、その言葉に少しだけ安心したのは事実だった。
玲央の中でも、こうしていつもの調子に戻ることが、何かの確認になっているらしい。
◇
二人で校門を出る頃には、空はだいぶ夕方に染まっていた。
今日は帰り道も、いつもより静かだった。
玲央が無理に話しかけてこないからだ。
たぶん、透の体調を気にしているのだろう。
それが逆に落ち着かなかった。
「……何で黙ってるの」
透が先に言う。
「透、疲れてるかと思って」
「別に歩けるし話せる」
「知ってる」
「じゃあ何か言えよ」
「じゃあ、ほんとに大丈夫?」
「またそれかよ!」
思わず声が少し大きくなる。
玲央が笑う。やっと少しだけ、いつもの空気になった。
「……何回聞くんだよ」
「今日の分は何回でも」
「しつこい」
「透がちゃんと元気になるまで」
「そういうの、ほんと反則」
「さっきも聞いた」
「うるさい」
反射的に返してから、透は少しだけ視線を下げた。
今日、自分はかなり玲央に助けられた。
それは間違いない。
無理やり保健室へ連れて行かれたのも、待たれていたのも、額に手を当てられたのも、全部心臓には悪かったけれど、全部ちゃんと嬉しかった。
そこまで認めるのはまだ悔しい。
でも、完全には否定できない。
「……ありがと」
透がぼそっと言う。
玲央が少しだけ目を丸くした。
「何」
「いや」
「何で今、そんな顔」
「ちゃんとお礼言うんだなって」
「言うだろ普通」
「嬉しい」
「だからそれを普通に言うな」
結局、最後はいつものやり取りになる。
でも今日は、そのいつものやり取りに戻れたことが少しだけ心地よかった。
距離近いくせに、そういう時だけ優しいの反則だろ。
保健室の前で漏らした言葉は、たぶん半分くらい本音だった。
いや、たぶん全部だ。
そう思ってしまった時点で、もうかなり駄目なのかもしれないと、透は小さく息を吐いた。




