第10話 名前呼びが定着すると、逃げ場がない
人は案外、慣れる生き物だ。
そう思うことが、最近の白石透には増えていた。
たとえば朝、教室に入った瞬間に榊原玲央の姿を探してしまうこと。
たとえば昼休みに、隣の席が空いているかどうかを無意識に確認してしまうこと。
たとえば放課後、今日は一緒に帰る流れになるのかを、少しだけ気にしてしまうこと。
どれも最初は「何でこんなこと気にしてるんだ」と自分で自分に呆れていたはずなのに、気づけばそれがわりと当たり前になりつつある。
そして、当たり前になりつつあるからこそ困ることも、もちろんあった。
「透、おはよう」
朝一番、教室に入って三歩くらいのところでそう呼ばれ、透はぴたりと足を止めた。
分かっていた。
最近の玲央はもう、ほとんど迷いなく名前で呼んでくる。
分かっていたのに、こうして不意に呼ばれるとやっぱりちゃんと心臓に悪い。
「……おはよ」
できるだけ平静を装って返す。
返したつもりだったのだが、斜め前の席でこれを見ていた水城直が、朝から露骨ににやついていた。
「白石」
「何」
「今、声ちょっと小さくなった」
「なってない」
「なってた」
「うるさい」
透が鞄を机に置くと、直は肘をついたまま楽しそうに言った。
「いやでもさ、ほんと定着したな」
「何が」
「名前呼び」
「……」
「もう誰も突っ込まなくなってきてるの面白いよな」
「面白くない」
面白くないどころか、かなりまずい。
最初の頃は、直が毎回のように茶化してきたし、高城も「え、名前呼びなんだ?」みたいに驚いていた。けれど最近は、クラスの中でもそれが半ば自然なものとして扱われ始めている気がする。
それが一番困る。
慣れたら終わりな気がするからだ。
しかも、困っているのは透だけで、玲央本人はまったく困っていない顔をしているのがまた腹立たしい。
「透」
また呼ばれる。
「……何」
「これ、昨日のプリント」
「あ」
玲央が差し出してきたのは、昨日の班打ち合わせで使った校外学習のメモだった。透が見直すために持っていたものを、机の中に入れっぱなしにしていたらしい。
「ありがと」
「うん」
「……ていうか」
「何」
「わざわざ持ってきたの?」
「透が忘れてたから」
「見れば分かる、ってやつ?」
「そう」
そこは即答なんだな、と透は心の中で思う。
そのやり取りを聞いていたらしい前の席の女子が、友達の方へ少し身を寄せて小さく言った。
「ね、やっぱり榊原くんって白石くんだけ名前呼びだよね」
「だよね。前から思ってた」
「え、ちょっと特別感ない?」
「ある」
聞こえてる。
普通に聞こえてる。
透は机に突っ伏したくなった。
だが、そうすると余計に聞こえていますという反応になってしまう。だから何とか無表情を保つしかない。
問題は、玲央までその声が聞こえている可能性が高いことだ。
ちら、と後ろを見る。
玲央はいつもの顔で席に座っていた。聞こえていないふりなのか、本当に気にしていないのか分からない。
ただ、その落ち着き払った横顔を見ると、たぶん後者なのだろうと思えてしまって余計に腹が立った。
◇
一時間目が終わった休み時間。
透はトイレへ行こうと席を立った。
ほんの数歩歩いたところで、また名前を呼ばれる。
「透」
「……何」
「次、移動?」
「二時間目は現文だから教室」
「そっか」
それだけ。
それだけなのに、教室のあちこちから微妙な空気が流れてくるのが分かる。
露骨に見られているわけではない。だが、さっき名前呼びを話題にしていた女子二人が、またこっそりこちらを見ているのは分かった。
透は足を止めて振り返る。
「榊原」
「何」
「ちょっと来い」
「うん」
素直についてくるな。
内心でそう思いながら、透は廊下へ出た。教室の中で話すと絶対にろくなことにならない。少なくとも今は、それが分かる程度には学習している。
廊下の窓際まで来て、透はようやく振り返った。
「……学校では苗字で呼べ」
「何で」
玲央が本気で分かっていなさそうな顔をする。
「何で、じゃないだろ」
「でも、透って呼んでるし」
「知ってるよ」
「じゃあ問題なくない?」
「ある」
「何が」
「全部だよ」
透は小声で言いながら、自分でも説明が雑だと思った。
だが玲央相手に細かく説明しようとすると、逆に墓穴を掘る気しかしない。
「周り、見てるだろ」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「見られて困る?」
「困るに決まってるだろ」
「何で」
「だから……」
そこで言葉が止まる。
何で困るのかを、きれいに説明できない。
名前で呼ばれること自体が嫌なわけではない。むしろ、嫌じゃないから困っているのだ。
玲央は少しだけ首を傾げた。
「透」
「何」
「嫌ならやめるけど」
「……」
「嫌?」
ずるい。
そういう聞き方はずるい。
嫌かと聞かれれば、答えはたぶん違う。
でも、じゃあそのままでいいかと聞かれると、それもまた困る。
「……嫌じゃない」
透は小さく言った。
「でも」
「うん」
「学校で普通に呼ばれると、なんか……変に目立つ」
「そっか」
玲央は少しだけ黙ってから、続けた。
「じゃあ控える」
「え」
思ったより素直な返事に、透の方が戸惑った。
「……そんなあっさり?」
「透が嫌じゃないけど困るなら、そこは調整する」
「調整って何だよ」
「教室では少し減らす」
「少し?」
「ゼロじゃない」
「何でだよ」
「たまには呼びたいから」
やっぱりだめだ。
結局全部、玲央のペースになる。
透が何も言えずにいると、玲央は少しだけ笑った。
「そんな顔しなくても、嫌がらせじゃないよ」
「分かってる」
「うん」
「分かってるから困るんだろ」
その言葉に、玲央が一瞬だけ目を細めた。
何かを言いかけた気がしたが、ちょうどその時、廊下の向こうから先生が歩いてくるのが見えた。
「戻るよ」
玲央が言う。
「……うん」
結局、話は中途半端なまま終わった。
◇
二時間目、三時間目を挟んで、昼休み。
透は弁当を広げながら、朝の会話を反芻していた。
教室では少し減らす。
ゼロじゃない。
たまには呼びたい。
意味が分からない。
分からないが、分からないままちゃんと効いているのが悔しい。
「白石」
直が言う。
「何」
「朝の廊下、何の話してた?」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「おまえほんと人の顔見すぎ」
「楽しいから」
最低だ。
「で、榊原くん」
と直が、ちょうど隣へ来た玲央に声をかける。
「何」
「名前呼び、ついにクラス女子からも認定されてたな」
「聞こえてた?」
「そりゃ聞こえるだろ」
「そう」
「そう、で終わらせるの強いな」
「でも事実だし」
またそれだ。
透は思わず箸を止めた。
「おまえ、ほんとに隠す気ないんだな」
「前にも言った」
「言ったけど、今改めて実感した」
「何回でも実感していいよ」
「したくない」
高城が昼の購買帰りらしいパンの袋を持って合流してきた。
「何の話?」
「榊原が相変わらず強い話」
と直。
「それいつものことじゃん」
と高城。
「ていうか、今日女子が『白石くんだけ名前呼び』って言ってたの聞いたわ」
「……おまえも聞いてたのかよ」
「聞こえるだろ、あれは」
もうだめだ。
完全に広がっている。
「でも分かる」
高城が言う。
「実際、榊原って白石だけ扱い違うし」
「何が違うんだよ」
「いや、全部? 呼び方もそうだけど、話しかける時の感じとか」
「そんな違わない」
「違うって」
直も頷く。
「おまえも最近はまあまあ分かりやすいし」
「は?」
「名前呼ばれるたびに反応してる」
「してない」
「してる」
「してないって」
「じゃあ今、やってみる?」
と高城が言い出す。
嫌な予感しかしない。
「やめろ」
「いや一回だけ」
「やめろって」
「白石ー」
「おい」
「透」
と玲央が被せた。
最悪だった。
高城の雑な呼び方と違って、玲央の「透」は一発で心臓に届く。
透は反射的に玲央の方を見てしまった。
沈黙。
次の瞬間、直と高城が同時に吹き出した。
「ほら!」
「今めっちゃ反応違った!」
「最悪だ……」
透は本気で机に突っ伏したくなった。
だが玲央だけは、少しだけ満足そうな顔をしている。
「透」
「もうやめろ」
「嫌?」
「今の流れで聞くな!」
教室の何人かがこちらを見て笑っている。
もう完全におもちゃだ。
しかも自分だけではなく、二人まとめてそういう扱いになりつつあるのが、余計にどうしようもなかった。
◇
放課後。
その日は委員会も部活もなく、透は珍しくすぐ帰れそうだった。高城は先に帰り、直も今日は家の用事があるとかで早い。
結果として、いつものように玲央と二人になる。
教室を出て、昇降口へ向かう途中。
夕方の校舎は人が少なく、足音が妙に響いた。
「透」
「……何」
「今日、だいぶ大変だったね」
「誰のせいだと思ってる」
「半分くらい俺かも」
「半分じゃないだろ、かなりおまえだろ」
「もう半分は透」
「何で」
「反応するから」
それを言われると弱い。
確かに自分でも分かっている。
玲央の名前呼びにいちいち反応してしまっていることくらい。
「……反応しない方が無理だろ」
透がぼそっと言う。
「何で」
「何でって」
「うん」
「おまえの呼び方、何か……普通じゃないし」
「普通じゃない?」
「いや、変な意味じゃなくて」
「うん」
「……ちゃんと、俺に向けて呼んでる感じがする」
言った瞬間、透は自分で何を言っているんだと思った。
でももう遅い。
玲央はその言葉をちゃんと拾って、静かに息を吐いた。
「そうだよ」
「……は?」
「ちゃんと透に向けて呼んでる」
「それを堂々と認めるな」
「本当だから」
「またそれかよ」
「便利だから」
「もうその返し聞き飽きた」
玲央が少しだけ笑う。
その笑い方がやわらかくて、透は目を逸らした。
昇降口で靴を履き替え、二人で校門を出る。
外は少し風があって、昼より涼しい。
「今日、女子に言われてたの、嫌だった?」
玲央が聞く。
「……嫌っていうか」
「うん」
「恥ずかしい」
「そっか」
「でも」
「でも?」
「……全部嫌なわけじゃない」
玲央が足を少しだけ緩めたのが分かった。
「それ、かなり嬉しい」
「言うと思った」
「言うよ」
「うるさい」
透は前を向いたまま、小さくため息をつく。
名前呼びが定着してしまった。
周りにもばれてきた。
玲央は隠す気がない。
そして自分は、それを完全には拒めない。
そこまで来てしまっているのだと、今日一日で改めて思い知らされた。
「透」
「何」
「教室では少し減らす」
「え」
「さっき言っただろ」
「……覚えてたのか」
「覚えてるよ」
「意外」
「失礼だな」
「でも」
「うん」
「たまには呼ぶんだろ」
「呼ぶ」
「結局そこは譲らないのか」
「譲れない」
即答だった。
透はもう笑うしかなくなって、少しだけ肩の力を抜く。
「……ほんと逃げ場ないな」
「逃げたい?」
「……今はそこまでじゃない」
「よかった」
夕方の光の中で、玲央が少しだけ笑う。
その顔を見て、透は思う。
たぶん、自分は本当に少しずつ慣れてしまっている。
玲央に名前で呼ばれることにも、そうやって特別扱いされることにも、そしてそれを少し嬉しいと思ってしまう自分にも。
それはかなりまずい。
でも、もう今さらなかったことにはできない気もしていた。
名前呼びが定着すると、逃げ場がない。
でもその逃げ場のなさを、少しだけ心地いいと思い始めている自分がいる。
そのことだけは、まだ玲央には言いたくなかった。




