第7話 ハイエルフ
王都からそう離れていない森は、朝のうちなら驚くほど穏やかだった。
鳥の声は高く、風にはまだ夜の冷たさが微かに残っている。
夜露を含んだ土は踏み込むたびに柔らかく沈み、湿った草の匂いが下から立ち上ってくる。
冒険者になって、三日が経つ。
俺とタマは、その三日のあいだ薬草採取を繰り返していた。
腰に下げた袋の重みを指で確かめてから、俺は自分の姿を一度だけ見下ろす。
濃い墨色の直垂。結局、これに戻ってしまった。
貴族が儀礼でまとう華美な衣とは違い、袖の形も腰を締める帯も、激しい動きを妨げぬよう仕立てられている。
実戦の中で磨かれてきた山の衣には、飾り立てずとも伝わる確かな強さがある。
街で買った冒険者用の服は、宿の寝台脇に畳んだまま置いてきた。
動きやすく、この世界の者たちの中に紛れるには、直垂よりも都合がいい。
それでも、森へ向かうと分かっていた今朝、なんとなく手に取ったのはこちらだった。
「……ねえ」
少し前を歩いていたタマが振り返ると、白銀の髪が朝の陽の光を受け、肩のあたりでふわりと舞う。
「せっかく買ったのに、なんで戻すのよ。似合ってたのに」
腕を組んで唇を尖らせ、視線を斜め下に落とす。
俺は足元の薬草に手を伸ばし、根の周囲の土を指で崩しながら答える。
「体に馴染んでいる」
「それだけ?」
「落ち着く」
そこで少し考え、根を傷つけないように薬草を抜き取ってから、もう一つだけ付け足す。
「動きやすい」
それ以上の理由は、自分でも言葉にしにくかった。長いあいだ、この姿で生きてきた。
ただそれだけのことだが、その”それだけ”が身体に染み付いている。
タマは一瞬、口を開き、何か言い返そうとして、けれどそのまま口を閉じる。
「……もう」
「宿の服も捨ててはいない」
「そこは疑ってないの。着るかどうかを聞いてるの」
「着る。今日は、こちらにしただけだ」
タマは一度瞬きをして、それから諦めたように肩を落とす。
「……最初からそう言いなさいよ」
「聞かれたのは今だ」
「そういうところよ」
小さく息を吐きながらそう言う声には、諦めが混じっている。
タマの視線が、俺の襟元、袖口、小手、草履へと流れていく。
この世界にはない装い。王都の通りを歩けば、多少は視線を集めることもある。
けれど、森を歩けば話は違う。生地は枝に引っかからず、踏み込みの衝撃もうまく逃がす。
初日の報酬で買った革の防具よりも、こちらの方がよほど信頼がある。
それに、茨木の手によって袖の内側や帯の締め、動く時に負荷が集まる箇所には、俺の目ではすぐに気づかない補強がされていた。
濃い墨色の中に、所々、茨木の好む濃褐色が紛れ込んでいる。
タマは目を細め、少しだけ頬を膨らませた。
「……ほんと、あの子、何でもできるわね。しかも、所々手を入れた部分が濃褐色で残ってるし。ちゃっかりしてる」
タマの服装は、俺とは対照的で、この世界の斥候用軽装を元にしながら、どこか和の気配が混じっている。
無駄がなく、動きやすく、それでいて人目を引きすぎない。
腰には短刀があり、布の下には幾つか小さな魔道具も隠されている。
本気の装備である大鎌も、九尾の姿も、今は魔法で完全に隠している。
彼女は、選んでこの姿をしている。俺はただ、戻ってきてしまっただけだ。
風の流れも穏やかで、木々の隙間から差し込む光が地面を照らしている。
薬草がよく育っていてくれたおかげで、ここまで俺たちは何事もなく仕事をこなせた。
目立たず、問題を起こさずに少しずつ信用を積み、この世界に馴染み、人にあらぬ噂を立てられないようにする。
タマの望む”平和な生活”をちゃんとやっている。
「三日目ね」
薬草の土を払い終えたタマが、空いた方の手で指を三本立てる。
「何がだ?」
「あなたが目立たずに、仕事だけして帰れた日数」
「だが、今日はまだ帰っていない」
三本目の指がわずかに揺れたものの、タマは意地でも折らないというように、もう一度ぴんと伸ばした。
「……そういうことは、口にしたら駄目」
「それに、記録として残すほどか?」
「あなたの場合は、記録なの」
根を傷つけないように掘り、葉を折らず、採ったあとの土を戻す。
薬草採取そのものは、昔と変わらないが、ここでは自分たちで使うのではなく、依頼品として納めるものだ。
ただ数を集めればいいわけではなく、状態がよければ、それだけ評価も上がる。
昔、山で薬草を採っていた頃のことをふと思い出す。
季節によって葉の色は違うし、獣が通った後の土は崩れやすく、日当たりがよすぎる場所の葉は硬い。
そういうことを、誰に教わったわけでもなく、いつの間にか覚えていた。
……サエは教えるのが下手だったな。いや、俺の物覚えが悪かったのか。
タマは手慣れた様子で、しゃがみ込み、迷いなく選び、短い時間で必要な分を揃えていく。
手の動きに無駄がなく、草を踏む足音も小さい。
……そういえば、彼女もよくサエの薬草採取に付き添っていた。
俺は、その少し後ろで、別のやり方を取っていた。
土の湿り気、葉の色、根の張り方。踏み荒らされていない場所。若い株と、採っていい株の違い。
それらを神眼で見極める。こういうのは、昔から嫌いではない。
気づけば、袋の中身はそれなりに揃っていた。
タマがそっと近づき、俺の袋を覗き込む。
「……ちゃんと選んでるじゃない」
先程までと声の調子が、少し変わった。
「これ、質いいわよ。根も傷んでない」
「そうか」
口にしたのはそれだけだったが、胸の奥に小さな熱が残った。
……悪くない。こういうのも、悪くない。
タマが袋を軽く揺らすと、薬草の青い匂いがふわりと立つ。
「今日は出来がいいわね」
「ああ」
口角が上がりかけたところで、袋の向こうからタマの顔が覗く。
「今、笑った?」
「草の出来がいい」
「聞いているのは理由じゃないんだけど」
タマは呆れたように言いながら、自分の袋よりも丁寧に、俺の袋の口を結び直す。
王都所属の冒険者には、嫌われる地味な仕事らしい。
剣を振るわず、魔物を倒したりもしない。ダンジョンとやらにも潜らない。
だが、こうして根を傷めずに採った草が、どこかで薬になり、誰かの熱を下げるのなら、それも仕事なのだろう。
ずっとこういう生活を望んでいた。あの日から……これでいい。
突然、鳥の声が途切れ、木々が息を潜める。森の空気が変わった。
薬草へ伸ばしかけていたタマの手が止まり、顔が上がる。
視線はすでに森の奥へ向けられている。
「……ねえ」
声を落とし、目が鋭くなる。
隠す気のない、強い存在感がすぐそこにある。
ここ数日、出会った獣や魔物の気配とは種類が違う。そこにいると言うより、そこに在る。
「……来る」
まるで最初からそこにいたかのように、木々も草も、その存在を拒んでいない。
タマが自然な動きで、俺を庇う位置に立つ。
俺はその背中を見ながら、タマに気付かれないよう、静かにため息を吐く。
ただ、静かに暮らすということは、この世界でも難しいらしい。
……少し、嫌になる。
腹の底が冷えていくのがわかる。
森の奥から現れたのは、ひとり。背が高く、細身だが魔力は充実しているのが視える。
淡い翠の髪が肩へ流れ、長く尖った耳が木漏れ日の中に浮かび上がっている。
肌は白く、瞳は深い翡翠の色をしている。
王都の門で、遠くから俺を観察していた男。
「エルフ……いえ、ハイエルフね。その翡翠色の目は、エルフの皇族」
タマが静かに言いながら、腰を落とす。
ただ者ではないことは、視れば分かる。だが、それ以上に異様だったのは、森の反応だった。
これだけの魔力を身体に纏いながら、木々はざわめかず、足元の草でさえ、踏みしめられた形跡をほとんど残していない。
まるで森の方が、彼を自分の一部として受け入れているように感じる。
自然と完全に調和している存在を、俺は初めて視た。
「……二人だけか」
その男の声は思ったよりも低く、しかし澄んでいる。
敵意は隠していないが、すぐに斬りかかってくる様子もない。
こちらの呼吸、立ち方、重心、視線の動きまで測っている。
タマが一歩、前に出る。
「何の用?」
相手はタマを一瞥した後、視線を鋭くすると俺を見る。
「門の事件」
その一言で、タマの肩が微かに反応する。
「黒髪の魔力のない男と、無詠唱の女がいた。そして、その後、冒険者になり、三日間、薬草採取をしていると聞いた」
こちらを知っている。いや、調べてきた。
「随分と、地味なことをしているな」
俺は腰の袋へ一度目を落とす。
「根は傷めていない。真剣にやっている」
彼の視線も袋へ下がり、ほんの一瞬、止まる。
「……質の話はしていない」
「そうか」
声の調子は変わらず、腰にある細身の剣を抜く様子もない。
タマが腰を落としたまま、返す。
「それが仕事だから。それに、黒髪ではないわ。魔力ゼロの生き物も存在しない」
そう言って、タマはちらりと俺を見る。
今の俺の髪は、ドゥールのくれた指輪のおかげでわずかに青みがかっている。
「見間違いじゃない?」
タマの声は穏やかで、こちらに敵意がないことを伝えようとしている。
ハイエルフはしばらく俺を見つめる。
首をほんの少しだけ傾ける姿は、敵意というよりも、困惑の方が近いように視える。
「……そうかもしれないな」
そう言いながらも、警戒は解いていない。
「私はアウレオン」
その名と同時に、森の空気がさらに重くなる。
「……《緑災》」
タマが呟きながら、俺に視線で何かを訴えかける。
ギルドでリーネに距離を置くようにと言われたSランク冒険者。
その存在がこちらに敵意を向けたまま、なぜか今、眼の前にいる。
「私の里は、魔王に壊された」
淡々とした声の奥で燻る怒りは隠しきれていない。
乾いた枝の下で火種だけが残っている時のように、表には炎を出さず、けれど熱だけは確かに残っていた。
「私は、三人いる魔王のうち一人を討つ。私の里を壊した魔王を」
そして、その視線が再び俺に向く。アウレオンの纏っていた魔力が身体を巡り始める。
「そのために、疑わしいものは排除する」
タマの肩が、わずかに強張る。
俺はそこで初めて、アウレオンを正面から視る。
自然と一体になった存在が、それほどの力を持ちながら、なお焦っている。
少し興味が湧いた。
「……随分と、急いでいるな」
俺がそう言うと、アウレオンの眉がわずかに動いた。
タマが小さく息を吸う音が聞こえる。
土の中を巡っていた何かが、無理やり引き上げられるような感覚がある。
アウレオンは森の中心に立ったまま目を閉じ、深く、長く息を吸う。
タマが息を止め、腰の短刀に触れる。俺は、そのまま立っている。
抜けば、そこで終わらせられる……それでも《終座》には触れない。
アウレオンの澄んだ声が、木々のあいだへ広がっていく。
「我が血脈に宿る翠よ、根を巡り、葉を結び、土と空を繋げ、奪われた命の記憶を呼び覚ませ」
言葉と同時に、地面が脈打ち、足へ伝わる土の震えが変わった。
地表へ滲んでいた魔力の筋が、幾つも同じ方角へ引かれていく。
土の下そのものは視えないが、根の巡りまで何かに引かれていることくらいは、足裏へ返ってくる重さで分かる。
土の中を走る水と魔力が、同じ方向へ引き寄せられ、幾つもの流れが輪を描こうとしている。
アウレオンの足元に魔法陣が、生まれかけている。
完全な円ではなく、ごく小さい歪みがある。今まで視てきた魔法陣にも必ず存在していた。
大事なのは魔力の量でも、速さでもない。視るべきは、流れが少しだけ偏っている場所。
そこだけ、糸の結び目が強すぎるように、巡りの向きが硬い。
左腰に手をやり、懐から一枚の銅銭を取り出す。
先日、魔族に投げた貨幣と同じもの。指に馴染む重さがある。
タマの肩に手をそっと置くと、タマが振り返る。
銅銭の縁へ、指先からほんのわずかに氣を移す。
あの巡りの硬いところへ、一筋触れれば、それで足りる。
多少、生活を乱された程度で、やり過ぎるほど幼くはない。
ただの銅銭が空気を切り、魔法陣の縁へ吸い込まれるように飛んでいく。
銅銭が縁へ触れた瞬間、張り詰めていた一筋が抜け、魔法陣は形を保てなくなったように静かにほどける。
根のざわめきが収まり、風が元の向きを取り戻す。
持ち上がりかけていた土の気配が下へ沈み、木々の葉がゆらりと落ちる。
アウレオンの目が、大きく見開かれる。伸ばしていた手のひらが、力なく握り込まれている。
タマも、言葉を失ったままこちらを見ている。
「……何を、した?」
アウレオンの口から、掠れた声が絞り出される。
「魔法は、何度も視た」
俺は落ちた銅銭の方を一度だけ視てから答える。
「仕組みを理解すれば、これくらいはできる」
できるような気がして、試しにやってみたら、できてしまった、というのが本当のところだ。
隣から、細く息を吐く音がする。
「……三日」
タマが呟く。
「何がだ?」
タマは自分の手へ目を落とすと、さっきは立っていた三本の指を、力なく折りたたむ。
「記録。今ので止まった」
「誰も怪我はしていない」
「目立たなかった記録の話よ」
アウレオンがこちらを睨んでいる。
その時、森の外縁で別の気配が跳ねる。
「反応確認! 第三団、ストライゼン部隊、到着!」
金属音と足音が重なり、数秒遅れて鎧を着た者たちが姿を現す。
先頭に立つのは、背中まで届きそうな赤髪を一つにまとめ上げた女騎士。
リラ・ヴァン・ストライゼン。《緋髪纏雷》。
その後ろには、重厚な鎧に赤い縁取りのマントを流した騎士が槍を片手に立ち、もう一人は杖と魔道具を手に、帯に巻物をぶら下げている。
「……やはり、ここだったわね。探したわよ」
リラの視線は、まずアウレオンを捉える。
「アウレオン。これで三度目よ」
「警告は、通じぬ」
「通じなくても、告げる。これ以上の争いは、Sランク冒険者であっても許されない。冒険者ギルドにも正式に報告し、抗議するわ」
アウレオンはゆっくりと息を吐くと、森が、それに合わせてわずかに揺れる。
「ふむ。一つ、忠告をしておこう」
その視線が、リラへ向く。
「魔族は……近衛騎士団と繋がっている可能性がある」
リラの剣の柄へ掛かっていた手から力が抜ける。
「な……っ!」
魔力が雷のように放電し、空気が細かく震えると同時に、足元の草に、赤みを帯びた細い火花が一つ弾ける。
止まっていた手を強く握り直し、リラはアウレオンから目を逸らさない。
「そんなこと、あるはずがない!」
「お前自身も、疑っているはずだ」
リラの呼吸が荒くなる。
彼女の後ろに立つ騎士たちも、反射的に身構える。
リラの怒りを止めることも、アウレオンの言葉を否定することもできず、その場で刃を握っている。
アウレオンが手をリラたちへ向ける。
「__地に伏すがいい」
短い詠唱の後、魔法陣が手のひらの周りに生まれる。
地面から伸びた木の根が、リラを含む近衛騎士たちの足を絡め取る。
自然による拘束。太い根は鎧の上から膝と足首の動きを奪っていく。
「ッ!」
リラの雷が走り出すより先に、根の圧が身体の軸を押さえ込んでいる。
腰の細剣へ伸びかけたアウレオンの手が、途中で止まる。
アウレオンは俺を一瞬見て、その手を下ろす。
タマが一歩前へ出る。
「風よ、刃となりて、巡りを断ち、縛りを解け」
タマの伸ばした手のひらから、風が生まれる。
荒れた風ではなく、細く研がれた刃のように根の隙間を抜け、絡み合った木の筋だけを綺麗に断ち切っていく。
根がばらばらと崩れ、リラたちの足元から力が抜ける。
木々が大きく揺れ、視線を戻した時にはアウレオンの姿はそこにはもうなく、代わりに静まり返った森と重い沈黙が残った。
散った魔法の余韻が、まだ土の中にわずかに残っている。
リラは歯を食いしばり、拳を握っている。
俺は足元に落ちていた銅銭を拾い上げる。
いつ、どこで、何が役に立つか分からないものだ。
誰も倒れていないし、血も流れていない。それでいい。
「……二人とも、大丈夫?」
声をかけてきたリラには、さきほどまでの怒気は影を潜め、今は純粋な心配が顔に出ている。
「ええ。問題ないわ」
タマが一歩前に出て答えると、リラはほっと息を吐いた。
「……よかった」
その言葉は、立場や規律から出たものではなく、彼女自身の口からこぼれたものだろう。
俺は二人のやり取りを黙って視ていた。
リラの視線が、ちらりとこちらへ流れる。その目には安心と警戒が、視える。
タマが静かに詠唱を始める。
「風よ、巡れ。痕を辿り、残り香を示せ__」
薄い風が円を描き、森の奥へと流れていく。
「……彼は完全に離脱したわ。追跡は無理ね」
リラはその様子をじっと見つめ、やがて小さく頷いた。
「……やっぱり。門の時の無詠唱も、私の勘違いだったみたいね」
そう言って、リラは俺の髪を見る。
「その色なら……納得」
完全に疑いが消えたわけではないだろう。
しばしの沈黙のあと、リラは急に姿勢を正す。
「……その、よければ」
一瞬だけ、言葉を選ぶ間があった。
ただその中で、彼女は少しだけ頬を赤くして言う。
「食事でも……どう?」
タマがすぐに口を開く。
「お気持ちは嬉しいけど、今日はこのあと__」
「酒は出るのか?」
しまった。つい、出た。
リラの顔が、ぱっと明るくなる。
「はい!」
リラの声は大きかった。森中に響き渡ったかもしれない。
「王都で評判の店です。お酒も、かなり揃っていて!」
ああ、これはもう決まったな。
タマを視ると、目を見開いた後、両肩はすとんと落ち、最後に奥歯を噛み締めた。
「……ゲドーマル」
「いや、その、少しだけなら……いいかな、と」
言い訳になっていないのは分かっている。
近衛騎士たちが、困ったように頭を下げる。
「ご迷惑だと思いますが、隊長を、どうかお願いします……」
あれだけ強い連中が、こんな顔をするとは思わなかった。
タマは一瞬だけ天を仰ぎ、深く息を吐く。
「……分かったわ」
そして俺を睨む。
「あとで覚えてなさい」
出会った頃のような鋭い目がそこにはある。
背筋が少し寒くなった。それでも、酒代なら問題はない。俺は少しだけ胸を張る。
「冒険者の仕事で、多少は稼いだ。自分で払える」
懐の銅銭を指先で鳴らすと、リラの顔がさらに明るくなる。
「王都に来たばかりなのでしょう? もう依頼をこなしているの? すごい!」
「ああ。地道にな」
「まだ三日、薬草を採っただけよ」
「それでも、自分で稼いだのでしょう?」
なぜかリラまでこちら側へ来ると、タマは俺たちを順に見てから眉間を押さえる。
「……今は金額や依頼の種類を話してるんじゃないの」
タマは地面に一度目をやり、それから俺へ視線を戻すと、俺の耳元で音を殺すように話す。
「三日かけて普通の冒険者に見せてきたのに、今日一日で全部ひっくり返すつもり?」
「酒を飲むだけだ」
タマは項垂れると、大きく息を吐き出す。
「あなたの“だけ”は、もう信用しない」
タマは呆れた顔で、けれどどこか安心したように笑う。
森を出る足取りは、先ほどよりも少し軽い。
次は、酒の席か。俺は少しだけ、楽しみになっていた。
*
王都の夜道は静かで、石畳に靴音が響く。
俺は彼女を背負っていた。いや、正確には、背負わされていた。
「うぅ……だから第三団の団長はねぇ……」
背中から聞こえてくる声は、完全に出来上がっている。
声の主は、近衛騎士団第三団隊長、リラ。
たった一杯しか飲んでいない。
あの後、騎士たちはわざわざ一度宿舎へ帰り、汗を落としてきた。
おかげで空いた時間に、タマに甘味をおごらされた。
紅い外套の雰囲気とは違い、決して派手ではない騎士服風の私服を着ている。
鍛え抜かれた身体なのだろう、動きに無駄がない。
「静かにしろ。夜だ」
「……あ、ごめんなさい……?」
思ったよりも、ずっと素直な娘だ。
両脇を歩く近衛騎士たちは、申し訳なさそうな顔をしている。
そしてその少し後ろを歩くタマは、明らかに機嫌が悪い。
「……ゲドー」
背中のリラが、急にしみじみとした声を出した。
「第三団の団長……本当に、すごい人なのよ」
「……ほう」
俺は歩調を崩さず、相槌だけを打つ。
「規律を守るだけじゃなくて……ちゃんと、部下を見てくれるの。危ない時は、一番前に立って……少し怖くて、取っ付きづらいけど」
酔ってはいるが、言葉に嘘はないのがわかる。
タマが少しだけ意外そうな顔をする。
「へぇ……」
リラは続ける。
「第三団は、街の治安と調査が主な役目なの。表には出にくいけど……神経を使う部署だし、揉め事も多い」
タマが淡々と補足する。
「第一団みたいに戦場に立つわけじゃない。けど、火種を放置しない役目。冒険者とも、貴族とも、全部に目を配らないといけない」
リラは嬉しそうに俺の背を何度も叩く。
……痛い。
「そう! そうなの!」
酔っていなければ、もう少し落ち着いているのだろうが。
「でもねぇ!」
急に声が大きくなった。
「第一団は、本当に別格で! 全員が隊長級! 王国最強の剣と盾! それに、第一団長! 第二団長! それから、第三団長!」
「……それ、今言った団長だろ」
「そうっ! だからすごいの!」
理屈が崩壊している。
タマはため息をついた。
「はいはい……」
リラがコツンと、俺の背中に頬を寄せてくる。
「……でも__」
声が、少しだけ緩くなった。
「今日、一番すごかったのは……ゲドー、あなた」
空気が、はっきりと変わった。
背中に回された腕に、いつのまにか力がこもっている。
タマの足音が一瞬止まり、それから再び歩き出す音が少しだけ強くなる。
「魔法を、壊したでしょう? 少し離れたところからだったけど……見えたの」
タマが、こちらを見ずに小さく息を吐いた。
「……ほら、覚えてる」
「何をだ?」
「一杯で眠ったから、少しくらい記憶も一緒に寝てくれると思った私が馬鹿だった」
「そのような酒は危ない」
「あなたが言わないで」
「壊した、というほどでもない」
「でも、あんなの見たことない、ただの一度も。あんな……魔法の止め方」
悪意とか計算ではなく、ただの好意だろう。酔った勢いで、心が緩んでいるだけだ。
「私、実家は貴族なの……子爵」
急に身の上話が始まる。
「でも、兄が家を継ぎますし、姉もいますし……私は近衛騎士で……だから……」
少し迷った末に、続ける。
「自由に、結婚しても……いいかも、って。父も__」
「ダメ」
タマの声は、食い気味だった。
リラは「え?」という顔をする。騎士たちも、思わず顔を見合わせた。
「ダメよ」
二度目は、もっと強く言った。
俺は状況を完全に理解しているわけではない。
子爵と言われても元の世界にはないものだが、空気は察している。
昔から、こうだった。顔を見て寄ってくる、期待を乗せられる、勝手に物語を作られる。
都で”人喰い鬼”と呼ばれた頃も同じだった。
一度も女を攫ったことなどない……だが寄ってきた者の数だけ、罪を着せられた。
説明する機会など、最後まで与えられなかった。
後ろを歩いていたはずの足音が、いつのまにか、すぐ隣にある。
俺は夜道を歩きながら、別のことを考え始めた。
この世界の酒は、悪くない。慣れるのには、もう少しだけ時間がかかりそうだが。
背中で、リラは完全に眠ったようだ。
近衛騎士団の建物が見えてくると、騎士たちが駆け寄り、慌てて彼女を受け取る。
「ありがとうございました……!」
俺は軽く頷くだけに留めた。
騎士たちがリラを抱え、建物の奥へ消えていくまで、タマはその背を黙って見送っている。
酒の余韻が、まだ身体の奥に残っている。
「やはり、酒は皆で飲むものだ。今夜は悪くなかった」
「そうね」
返事はあったが、声が妙に重い。
「その”皆”の中に、あなたが銅銭一枚でSランクの魔法を消したところを、明日には上司へ報告する近衛騎士がいるけど」
「酔っていた」
「忘れていないと、さっき本人が言っていたでしょう」
確かにそれは、そうだった。
王都の灯りを見上げる。窓から漏れる光は穏やかで、三日前と何も変わっていないように映る。
「見たままを話すだけだろう」
「だから困ってるの」




