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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
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第8話 不穏な空気


 近衛騎士団本部の報告室には、朝の光が差し込んでいた。


 細長い窓から入った光は磨かれた机の端を照らしている。


 だが、部屋の空気は明るくならず、どこか息苦しい。石壁に囲まれた室内には、古い紙と鉄鎧の油の匂いがかすかに広がっている。


 リラは背筋を正し、第三団団長・ヴァルクス・エーベルハルトの机の前に立っていた。


 鎧の内側で、呼吸だけが小さく動く。

 報告のためにここへ来たことは何度もある。叱責を受けたことも。


 それでも、今日の空気はいつもより重かった。


 「以上が、アウレオンからの忠告です」


 言い終えたあとも、リラは姿勢を崩さなかった。


 団長は机の上に置かれた書類を指先で押さえながら、小さく鼻で笑う。


 「エルフの戯言だな」


 吐き捨てるような声だった。


 リラの指が、革手袋の内側で一瞬だけ強張る。


 ヴァルクスはそれに気づいた様子もなく、書類を机の上へ軽く放った。


 「Sランク冒険者? だから何だ。どれほど強かろうと、国に責任を負う者ではない」


 リラは胸の奥で何かが引っかかるのを感じながら、顔には出さなかった。


 視線を落とさず、声を整える。


 「彼は自然魔法の使い手です。自然の流れを読む感覚は、人族とは比べ物になりません」


 「だからこそ、現実が見えんのだ」


 ヴァルクスは椅子に深くもたれ、そこでようやくリラを見た。


 視線は重く、リラの視線がほんのわずか下がる。


 「近衛騎士団に、魔族と繋がる者がいる可能性がある? 証拠もない話を、鵜呑みにしろと?」


 「可能性がある以上、調査くらいは__」


 「不要だ」


 リラの言葉がすぐさま遮られた。その一言で、部屋の空気がさらに重くなる。


 「エルフの勘に、国の中枢を揺らされてたまるか」


 言葉は鋭く切り落とされ、その後には沈黙だけが残った。


 ヴァルクスはすでに次の書類へ視線を戻す。

 Sランク冒険者の忠告も、ヴァルクスにとっては煩わしい事柄の一つでしかない。


 そんな扱いを受けていることが分かっても、リラは動かなかった。


 近衛騎士は、必要な時に声を荒げることを良しとしない。


 命令系統の中で生きる者だ。


 「それより、ストライゼン」


 ヴァルクスの口調が、妙に軽くなる。


 その声の軽さが、かえってリラの背筋に緊張を与える。


 「顔色がいいな。冒険者と食事に行ったそうじゃないか」


 「……私的な話です」


 声は固くならないようにした。だが、返答が少しだけ遅れた。


 ヴァルクスの目に、愉快そうな色が浮かぶ。


 「低ランク冒険者だろう? 名前は……確か、ゲドーマルだったか」


 その名が出た瞬間、胸の奥で何かが熱を持った。


 リラは表情を動かさないよう、意識して顎を引く。目を逸らせば、それだけで認めたことになる気がした。


 「イケメンだが貧弱な男……らしいな」


 どこか切り捨てるような声だった。


 リラの唇がわずかに開き、それから閉じる。言葉を選ぶ間は一瞬だけだった。


 「彼は……きっと、優秀です。それに、二人きりではありません。仲間もいました」


 「ほう」


 ヴァルクスは腕を組んだ。椅子の背がわずかに軋む。


 「では聞こう」


 軽かった声音が、そこで急に冷たさを持つ。


 「その男を……いざという時、斬れるか?」


 部屋の中の音が消えた。


 誰かが廊下を歩く音すら遠くなる。窓から差し込む朝の光だけが、机の端で白く止まっていた。


 リラの思考が一瞬、止まった。止まったことを悟られないよう、呼吸を整えるより先に口を開いた。


 「……命令なら、()ります」


 はっきりと、迷いなく言い切った。


 胸の奥で何かがわずかに痛みを覚えたが、鎧の外には出さない。


 ヴァルクスは満足そうに頷いた。


 「よろしい。近衛騎士団がどういうものか、忘れるな」


 それで話は終わった。


 ヴァルクスはもうリラを見ていない。机に置かれた書類へ視線を戻す。


 リラは一礼した。


 踵を返す時、鎧の金具がかすかに鳴る。その音が聞こえたことだけが、自分がまだ生きていることを思い出させた。


 扉を閉め、廊下へ出る。


 誰もいなかった。


 石造りの廊下は朝の光を受けても寒く、流れる空気には、外の風とは違う重たさがあった。


 リラは数歩進んでから足を止め、誰も見ていないことを確認するように視線だけを左右へ向けた。


 壁に背を預けると、石の冷たさが鎧越しに伝わってきた。


 深く息を吐く。


 命令なら、切る。自分の声が、まだ耳の奥に残っている。


 廊下の角の先、誰かの足音が近づいてくる。


 リラは顔を上げる。

 歩き出す時、背中に残っていた石の冷たさだけが、しばらく消えなかった。



 朝の日差しが、細い光の帯となって部屋に差し込んでいた。


 目が覚めても、タマはしばらく動かなかった。

 天井の木目を眺めながら、何かがいつもと違うと感じて、それが何なのかを静かに探った。


 隣の寝台が、空だった。


 乱れていないのが、かえって落ち着かなかった。

 布はきちんと整えられていて、慌ただしく飛び起きた跡もない。


 乱れたままの方がまだよかった。


 整然としているほど、最初からそこに誰もいなかったように見えてしまう。


 昨日の、あの娘に会いに行っているのだろうか。


 起き上がって卓に目を向けると、一枚の紙切れが置かれていた。近づいて手に取れば、そこには短い文が記されていた。


 「先に冒険者ギルドへ行く」


 この世界の文字ではなく、タマにしか読めない字だ。


 それは分かった。分かったが、胸のざわつきは収まらなかった。


 彼はこの世界のことを、まだほとんど知らない。一人で動かれると、何かが起きたときに困る。


 そういうことだ、とタマは自分に言い聞かせてから、小さく息を吐いた。


 枕元に手を伸ばし、装備を確かめる。

 金色の指輪、水色のブレスレット。魔力を抑えるための魔道具で、これがなければ、隠しているものがじわりと滲み出てしまう。


 毎朝、確認する習慣。今日も変わらずそこにある。


 身支度を整えながら、昨夜のことが頭をよぎった。


 近衛騎士のリラ、その部下の二人、そしてゲドーマル。

 食事は思いのほか穏やかで、笑い声が出る場面もあったし、張り詰めた空気が漂うこともなかった。


 リラはよく笑う娘だった。声が大きく、感情が顔に出て、酒に弱い。


 「でも……ちょっと、積極的すぎない?」


 声に出してから、タマはしばらく黙った。

 誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からない。

 

 気がつけば指先が自分の髪に触れていて、白銀の色が視界の端をよぎる。脳裏に浮かぶのは、あの炎のような赤髪。


 「……赤髪、好きなのかな」


 言葉にしてから、すぐに首を振った。


 「……何考えてるの、私」


 彼はただの友人だ。


 あの世界から迷い込んでしまった人で、昔、助けられた恩もある。


 人を騙すようなことは絶対にしない。それに、あの紅い眼は、どういうわけか安心させてくれる。


 信用できる。それ以上でも、それ以下でもない。


 鏡で自分を一度確かめてから、扉を開けると、朝の王都の空気が、ふわっと流れ込んできた。


 今日も依頼をこなす。できれば、薬草採取がいい。


 静かな一日であれば、それでいい。



 王都リュシアの冒険者ギルドは、朝から騒がしかった。

 

 掲示板の前には人だかりができていて、紙を剥がす音と、重なり合う声が絶えない。


 「今日も薬草か?」

 「楽でいいっスねー、ゲドーマルさんは」


 軽口を叩いてきたのは、顔見知りになった冒険者の二人。


 薄紫の短髪をしたベテランのCランク、ラグスと、薄い茶色の長い髪を後ろで緩く結んでいる若いDランク、セインだ。


 深い話はしない。依頼の当たり外れとか、そういった他愛もないことしか話さない間柄だが、その距離感がよかった。


 俺は掲示板を眺めるふりをしながら、二人の話を聞いていた。なのに、情報は勝手に集まってくる。


 「やっぱ魔族絡みらしい」

 「でもまあ、王女殿下がいるから大丈夫っスよ」


 王女の名前が出た途端、辺りの空気がわずかに緩んだ。

 ラグスが腕を組みながら頷く。


 「確かに、王女殿下が表舞台に出るようになってから、王都は本当に治安が良くなった」


 「美人で、国民想いで、しかも一流の魔導士っスもんねぇ」


 二人だけではなく、王都に住む者たちは皆、疑っていない。王女殿下と近衛騎士団がいれば大丈夫だ、と。


 ただ、不思議なのは、結婚の話がまるで出てこないことらしい。


 「国王陛下が、誰とも結婚させないんじゃないか。溺愛してるって話だぞ。それとも、変な趣味とかあったりとか?」


 笑い混じりの噂話で、誰もそれ以上深くは考えない。

 俺もただ、聞いているだけだ。


 入口の扉が開き、視線を上げると、人波の向こうにタマの姿が見えた。きょろきょろと辺りを見渡している。


 その姿を見て、なぜか少しだけほっとしている自分に気づいた。


 タマを見た周囲の空気が変わる。


 「結局のところ、どうなんだよ」

 「彼女っスか?」


 俺は肩をすくめた。


 「古い友人だ」


 探るような目で見られたが、深追いはされなかった。


 この距離感がいい。


 タマが人を避けながら、こちらへ歩いてくる。


 「待っててくれてもいいのに」

 「見てくれ」


 俺は右手を差し出した。小指に、新しい指輪がある。


 「お、新しい装備か?」

 「ドゥールのとこでな、朝イチでな」


 自慢げに見せながら言う。


 「初級の火魔法が使える」

 「おお、便利じゃないっスか!」

 「Fランクにしては生意気だな」


 俺は少しだけ得意になった。


 「火起こしにも使えるし、いざって時にもな。これで、タマがいなくても火に困ることもなくなる」


 タマがじっとこちらを見ていた。

 表情はいつも通りだが、何かが少し違う気がした。機嫌でも悪いか、と思ったとき、受付からリーネの声がした。


 「タマさん」


 いつもは柔らかい声だが、今日は少しだけ硬い。


 ラグスとセインが「またな」と言い残して、さりげなく離れていく。


 「ギルドマスターがお呼びです。アウレオンの件で」


 タマの肩が、わずかに強張った。


 「わかったわ」


 そう答えてから、タマは俺を見た。

 言葉はなかった。けれど、俺は黙って頷いた。



 ギルドマスターの部屋は、思ったよりも静かだった。


 分厚い扉の向こうでは、受付や掲示板の喧騒が嘘のように届かない。本やら書類やらが積み重なった机の匂いが、先日タマと立ち寄った本屋のそれに少し似ていた。


 机の向こうで、男がこちらをじっと見ていた。


 中背でがっしりした体格、白髪交じりの短髪、落ち着いた目つき。ギルドのローブを基調に、戦闘でも使えそうな装備の装飾を持つ男だ。


 強い。


 タマも同じことを感じているのが分かった。姿勢がほんの少しだけ硬くなり、無意識にブレスレットを手で撫でている。


 「まず、前提として話しておく」


 ギルドマスターが切り出した。


 「今回の件は、うちが独自に動いたわけじゃない。騎士団から、報告が回ってきた」


 その一言で、場の空気の意味が変わった。


 「直接の指示ではない。だが、騎士団から名前が上がれば、無視はできない。ここは、そういう街だ」


 タマは何も言わなかった。目に力がなく、表情がゆっくりと抜けていく。


 「アウレオンとの報告も含まれている。森での接触についてだ」


 「絡まれただけです」


 答えたのはタマだった。

 声は淡々としていて、感情が乗っていない。


 こういった空気の時は、俺は黙っているのが正解なのだろう。


 「理由は分かりません。私たちは、薬草採取の依頼をこなしていただけです」


 嘘ではない。ただ、全部でもない。


 ギルドマスターは腕を組んだまま、少しだけ目を細めた。


 「……偶然、ということで処理はできる」


 そう言って、ひとつ息を吐く。


 「だがな。最近、街の空気が少しだけ不穏だ」


 タマがわずかに眉を動かした。


 「門の事件で、魔族だったと判明した職員がいた。ミルザ、という名だ」


 俺は黙って聞いていた。


 「その正体に気づいたのが、君だそうだな」


 ギルドマスターの視線が、こちらに向く。


 「偶然です」


 タマが食い気味に応えた。

 正確には、違うが、説明する気はなかった。


 「疑ってはいない。DランクやFランクの君たちが当たり前にできるようなことではない。俺も数年間、奴と仕事をしていながら、これっぽっちも気づかなかった」


 「偶然です」


 タマが表情を変えずにもう一度言った。


 ギルドマスターはすぐに付け加える。


 「ただ、君らの周囲で、問題が続いたのも事実だ」


 空気が少しだけ重くなる。


 「次、騒ぎが起きれば、ギルドとしても、本格的な調査に入らざるを得ない」


 脅しではないが、線は引かれた。


 「本当にそうか?」


 この男は嘘をついている。目の動きを見ればわかる。


 配下の鬼たちが何か隠し事や嘘をつく時と同じ動きをしていた。


 それに瞬きの数が減った後に、今度は増えた。


 「どういう意味だ?」


 ギルドマスターが目を細め、視線を俺に向ける。


 「ちょ、ちょっと」


 タマが俺の腕をひく。


 「本当は気づいていたんじゃないか、あの魔族とかいう種族に」


 「ほう……なんで、そう思った? 根拠はあるんだろうな」


 そこで、タマが俺とギルドマスターの話を遮るように、動線に無理やり身体を滑らせる。


 「根拠なんてないよ、でしょ?」


 俺の方を振り向きながら、目で何かを訴えてくる。


 俺はじっとタマを視る。


 「どうせ政治でしょ。魔族を泳がせて何かを掴もうとした、それで騎士や貴族に恩を売ろうとした、そんなところよ。関わらないの!」


 ギルドマスターが目を剥き、言葉を発さない。

 無意識だろう、口もゆっくりと開き始めている。


 「帰ろう」

 「ちょ、待__」

 「待たない!」


 タマが俺の腕を力強く引いて扉に向かおうとする。


 「……最近、妙な噂も増えている」

 「噂?」


 タマが立ち止まり、目を細め、探るように問い返す。


 俺の話は無視することにしたようだ。


 「ああ。王都の外__」


 ギルドマスターは、あくまで雑談のような口調で続けた。


 「古い存在が、動いているかもしれない、という話だ」


 「古い存在……?」


 俺は素直に首を傾げた。

 ギルドマスターが俺を見る。


 「古のドラゴンだ」


 タマがちらりとこちらを見た。

 ほんの一瞬だったが、何かを警戒しているのが分かった。


 「……気にするような話じゃないわ。私たちには、どうすることもできない。一体で国を滅ぼすような存在、住む世界が違いすぎる」


 そう言って、話を切った。


 ギルドマスターはその様子を見逃さなかったが、深くは踏み込まなかった。


 「知らないなら、それでいい」


 椅子に背を預け、話を締める。


 「君たちは、今まで通り依頼をこなせ。目立たず、な」


 それが、最後の言葉だった。

 

 部屋を出て廊下に戻ると、タマは何も言わなかった。俺も、聞かなかった。


 *


 薬草採取の依頼は、掲示板の隅に控えめに貼られていた。


 難易度は低く、報酬も控えめだが、今の俺たちにはちょうどいい。迷わず剥がすと、タマも何も言わなかった。


 *


 王都の門へ向かうと、聞き慣れた声がした。


 「だから、今日は非番だっていってるでしょ」

 「リラ隊長は、そう言って直ぐ、一人で無茶をしますので」


 門番の責任者レオンと、赤髪の女騎士リラだ。


 リラは鎧を着ていない。動きやすそうな服装で、腕を組みながら笑っていた。


 「あ!」


 リラがこちらに気づき、目を見開く。


 「ゲドー! タマさんも。外に出るの?」

 「ああ、薬草採取だ。非番なのか?」

 「そう、久しぶりに完全な休みなの」


 簡単にそう答えると、リラは少し考えるように顎に指を当てた。


 「……ねえ、それ、私も一緒に行っていい?」

 「非番なのだろう」

 「そう。だから暇。すごく」


 理由としては正直すぎる。


 タマが一瞬、視線を逸らしたのが分かった。隣に立つ彼女の指先が、指輪をそっと回す。


 「護衛は必要ないんだが」

 「分かってる。ただの付き添い」


 タマは何も言わなかった。

 面白くなさそうではあるが、拒むほどでもないという顔だ。


 レオンが小さく咳払いをして、それ以上は何も言わなかった。


 「……構わない。無理はするなよ」

 「もちろん」


 *


 道中、リラはよく話した。

 王都のこと、騎士団の内情には触れない当たり障りのない話が続いたが、それがかえって心地よかった。


 薬草の生えている場所は、いつもの場所。

 三人で手分けして採取を始めると、リラは慣れないのか苦戦していたが、昼前には依頼分が揃った。


 「お昼にしましょう」


 リラがそう言って荷物を開く。

 魔道具なのか、中身と入れ物の質量がどうにもおかしかった。どう考えても入らない量が、袋から次々と出てくる。


 「お弁当、持ってきたんだけど」

 「自分で作ったのか?」

 「まさか。侍女に頼んだやつ」

 「用意がいいな」

 「どうせ一日、フラフラするか、訓練でもしようと思ってたから」


 言い切りが潔い。

 中身は丁寧で、味も良かった。思わず頷く。


 「うまいな」


 リラはほっとしたように微笑んだ。


 「うちに来れば、いつでも食べられるわよ」

 「……そうか」


 そう言ったリラは、顎を手のひらに乗せ、俺を見ている。


 タマは黙って食べていたが、味自体は気に入ったらしかった。


 森は静かだった。

 静かすぎる、と言っていい。薬草はいつも通りに見つかったが、踏み入ってからずっと、魔物の気配がない。


 普段なら、小型のものが一体か二体は寄ってくるはずだ。


 「静かだな」

 「流石に……静かすぎるよね」


 リラは自然と剣の柄に手を移す。


 タマは何も言わず、周囲へ目を配っている。

 風が通らず、鳥の声が遠い。森の空気が、どこか張り付いたように動かなかった。


 「……何か、おかしい」


 俺が呟くと、二人とも顔を上げた。

 普段、俺たちは魔物と戦わない。避けられるなら避ける。それが基本だ。


 だが今日は、避ける対象そのものがいない。それが、何より不自然だった。


 森の奥で、空気がわずかに淀んでいた。


 「……来ているな」


 この前の、魔族とかいう種族の男か。

 

 言葉にした瞬間、タマがこちらを見た。視線だけで、意味は通じた。


 「何が?」


 リラが首を傾げる。


 「数日前の魔族の男だ」

 「なんで、そんなことわかるの?」

 「氣だ」

 「……気?」


 リラは傾げて、聞き返した。

 

 この娘には、知識を求める純粋さがある。相手がたとえ冒険者でも気にしない。


 「生き物が、自分で生み出す力だ」

 「魔力?」

 「魔力は、世界から借りるものだ。流れているものを引き寄せて、形にする」

 「じゃあ、気は?」

 「内側から湧く」


 リラは眉に皺を寄せ、首を傾げ、腕を組み、黙り込んだ。理解しようとしているのだが、どうやら掴めていない。


 「……理屈として、成立してる?」

 「この世界では、知られていないみたいだな」

 「待って」


 タマが割って入った。少しだけ強い声。


 「今のは感覚の話。理論じゃない。深く考える必要はないよ」


 俺を見る。それ以上言うな、という合図だ。


 「……すまない。余計なことを言った。気にしないでくれ」


 だが、氣は消えておらず、むしろ、はっきりと感じる。


 「この先だ」


 俺が歩き出すと、二人も続いた。

 少し開けた場所に出たところで、俺たちはその人物を見つけた。


 「ほう」


 背の高い、筋肉質な男だ。


 濃い栗色の短髪、赤い装飾の入った鎧に赤い袖なしのマント。斧刃と槍先を持つハルバードを片手に携え、刃の付け根には銀の縁取りと細い彫刻が施されている。もう片方の手には、小型の魔道具を握っていた。


 「よもや、こんなところで会うとはな」


 男の視線が一人ずつ順番に流れる。俺、タマ、そして最後にリラへ。


 「お疲れ様です」


 リラはきちんと敬礼した。


 「休暇中だったな、ストライゼン」

 「……はい」

 「魔族の気配を感じて来たのか……真面目だな。だから心配になる」


 どこか含みのある言い方だった。

 

 「魔族を追っていた。反応がここで途切れて……逃げられた」


 確かに、魔族の氣の流れもここで急に散っている。


 男は俺を見た。


 「冒険者……か。外套で隠してはいるが、奇妙な格好だ。確かに、面白い男だな。"普通"ではなさそうだ」


 興味を失ったのか、元々ないのか、それだけ言い残し、踵を返す。


 「深入りするな、ストライゼン」


 その背中が森を去っていった。


 黙って見送ると、最初に口を開いたのはリラだった。


 「挨拶もしなくてごめんなさい。冒険者とは一線引いている方なの。近衛騎士団第三団団長、ヴァルクス・エーベルハルト。私の直属の上司です」


 「その団長さんが何でこんなところに?」


 タマが聞く。


 「……私もわからない……ただ__」


 小さな声になった。


 「魔族の魔力の残滓、完全には消えてない」


 俺とタマが同時に目を向けた。


 「団長が一人で追うのは……変。本来なら隊を呼ぶ。最低でも報告を入れる」


 感情ではなく、経験から来る違和感なのだろう。


 リラの視線が、男の去った方向に残ったまま動かない。


 「単独行動……?」


 タマが不安そうに呟く。


 「あり得なくはない。でも……」


 リラは言葉を切り、唇を噛んだ。


 「嫌な感じがする」


 タマがはっきりと言う。


 「……これ以上、関わりたくない」


 呟きは小さかったが、はっきりと聞こえた。

 珍しく、タマが気持ちを隠さなかった。


 俺は団長の残した気配を思い返した。強い。魔力量だけではなく、研ぎ澄まされていて、迷いがなく、危ういほどに。


 「……なるほどな」


 この街は静かだ。争いごとは少ない……だが、底が見えない。


 森には再び静寂が戻った。


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