第9話 鬼に金棒
夜の宿屋は、昼間よりもさらに、音が少ない。
窓の向こうでは灯りが滲んで、壁の境目までも曖昧にしかわからない。
空気を入れ替えようと窓を開けると、夜の静かな空気が、ふわりと部屋へ入ってくる。
外へ目をやれば、王都が、今まさに眠りへ落ちていこうとしていた。
俺は卓の向かいに座るタマを見ていた。
湯上がりの髪はまだ少し湿っていて、白銀が灯りを照り返している。
だが、その表情だけは強張っていた。
「……ねえ、ゲドーマル」
タマが一度視線をわずかに下げ、そしてもう一度俺の眼を見て、はっきりと口にする。
「王都を離れたい」
言葉を選んだ気配はない。とうに、決めてきた声だった。
「これ以上、関わりたくないの」
指先が、卓の木目を無意識になぞっている。警戒しているときの、彼女の癖だ。
「近衛騎士団も、魔族も、ギルドも、ハイエルフも__」
そこで、一瞬だけ目を逸らす。
「全部、きな臭い」
その小さく細い手を、ぎゅっと握りしめる。
「何かが動いてる。もう、動き始めてる。古竜がどうとか……ここにいたら、巻き込まれる」
俺は盃に口をつけかけて、やめた。少し、考える。
王都を出る。それは安全で、理に適った選択だ。
何かが動いている。
それが何なのかはさっぱり掴めないが、ひとたび巻き込まれれば、逃げ切るのは難しくなる。
それくらいのことは、俺もタマも、嫌というほど経験で知っている。
だが……いや。
「……分かった」
タマの目が、わずかに見開かれる。
残りたいと、説得される。そう覚悟していたのだろう。
「いいの? 王都での生活、気に入ってるように見えるけど」
「王都での生活、というよりも、街での生活が初めてだった。だから、もっと知りたいことはある。だが、お前がそう言うなら」
そう言って、盃を置いた。
「しばらくは、お前の後ろを歩く。そういう約束だ」
「……そうだけど」
「前に出るのは、お前でいい。後ろは任せろ」
タマは一瞬きょとんとして、それから小さく息を吐いた。
よほど気を張っていたのだろう。タマの肩から、ゆっくりと力が抜けていくのが視えた。
「……変なの」
「そうか?」
「普通、逆でしょ」
俺は、肩をすくめた。
「前は見慣れている。後ろが、まだ慣れていないだけだ」
それは、半分だけ本音だった。
俺が残るといえば、タマも残るだろう……おそらく。だがそれは、彼女の望む生活ではないのだろう。
そっと卓の上に置かれたタマの手を包む。
「……っ!?」
「明日にでも、この街で知り合った者たちに、報告くらいはしよう」
「……う、うん、ありがとう」
なぜか、またタマの肩に力が入っている。
それを視ながら、俺は、自分の思いをそっと飲み込んだ。
*
王都の朝は、忙しない。
馬車の軋み、人の呼び交わす声、金属の擦れ合う音。昨日までと何も変わらないはずなのに、今朝はそのどれもが、どこか遠くに聞こえた。
ドゥールの工房は、相変わらず静かだった。
魔導炉の低い唸りと、金属の匂い。きれいに片づいた作業台。
ドゥールは、俺とタマの顔を見るなり、察したように目を細めた。
「……何か決断した目だな」
「うん。王都を離れる」
タマがそう言うと、ドゥールは一度だけ頷いた。
人の入れ替わりの多い街だからか、理由は聞かれなかった。
彼は少し考え込み、棚の奥から小さな箱を取り出した。
今度は投げない。
中に収まっていたのは、落ち着いた黒色の指輪だった。装飾はほとんどなく、実用一点張りの造りだ。
「空いている指につけろ」
指輪を受け取り、視線を落とす。
「これは?」
「魔力共鳴と、熱変換の補助だ」
ドゥールは淡々と説明する。
「お前の小指の火魔法指輪と連動する。魔力を直接“燃やす”んじゃない。一度、熱として安定させてから放つ」
そう言って、指輪を軽く叩いた。
「噛み合えば、発動が速くなる。暴発もしにくい。無駄な魔力の食い方も、減る」
タマが首を傾げ、目を瞬かせた。
「……新しい魔法じゃないの? 水とか、土とか、風とか、なんなら光とか闇とか」
「違う」
ドゥールは肩をすくめ、首を横に振った。
「今ある力を、同じ結果で何度でも使えるようにするだけだ。魔力の流れが、安定させやすくなる」
俺の口角が、少しだけ上がる。
「それは、素晴らしい。魔力というのはどうも慣れなくて、扱いに苦労しているところだ」
「戦場でいざという時に“再現できない力”は、信用できん」
職人の言葉だった。
指輪を右手に取り、左の指のほうへ運ぼうとして……その腕を、タマに掴まれた。
目がすっかり冷めている。
「このやり取り、毎回必要?」
「……」
指輪を右手の親指にはめると、小指の火魔法指輪が、わずかに温度を持った。
音も光もない。ただ、噛み合ったという感覚だけが、確かにある。
「……ありがとう。助かる」
「礼はいらん」
ドゥールは背を向け、作業台へ戻ろうとして、ふと、止まった。
「アウレオンのことは……許してやってくれ」
その声は、これまで聞いたことがないほど、弱々しかった。
俺とタマは、同時に振り返る。
「ギルドマスターに聞いた。少し、いざこざがあったんだろう」
「あのエルフと、知り合いなのか?」
「……昔、付き合いがあった」
それだけ言って、ドゥールは続けた。
「エルフの国の、元皇子だ。エルフの英雄だった時代もある」
タマが息を呑む。
「今は……魔王への復讐しか、見ていないがな」
決して長い説明ではなかった。だが、その背中から伝わってくるものは、重い。
おそらく、ドゥールはただの魔道具師ではない。
目の据わり方、人を見る仕草、人との付き合い方、どれもが、道具より重いものを扱ってきた者のものだ。
「行け」
ドゥールは振り返らずにそう言った。
「生きて、たまには顔を出せ。今度は一緒に、酒を飲もう」
工房を出た瞬間、王都の喧騒が、一気に押し寄せてくる。
だが、右手の親指には、確かな重みが残っていた。
*
冒険者ギルドの扉を開いた、その瞬間に分かった。
空気が、違う。
ざわめきが、いつもの喧騒とは別物だった。声はあるのに、笑いがない。視線が飛び交い、足音がやけにせわしない。
何かが起きている。
受付のリーネのもとへ向かおうとした、その前に。
「……タマさん、ゲドーマルさん。少し、いいですか」
リーネがこちらを見つけ、歩み寄ってきた。
声は小さく、周囲を気にしているのが分かる。奥へ促され、簡易の仕切りの陰に入った。
リーネは短く息を吸い、声を落とす。
「いつも一緒に話してる二人、見てませんか。ラグスさんと、セインさん」
ラグスはCランク、セインはDランク。
いつも俺に、王都のことをあれこれ教えてくれる、あの二人だ。
「あの二人が、どうかしたの?」
タマが問い返すと、リーネは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「……二人と、連絡が取れません」
「どういうこと? 状況は?」
リーネが、一瞬だけ唇を締めたが、結局続けることを選択する。
王都南の、川沿いの街道。行商人を隣町まで送り届ける、日帰りの護衛依頼だったという。
そこまで強い魔物や盗賊も出たことのない街道。
CとDの二人でも、経験豊富なラグスがいれば、何ということもないはずの依頼。
だが、戻ってきたのは、行商人だけ。
逃げ帰ってきたその行商人は、震えながら、こう言ったらしい。
襲ってきたのは、強力な魔物の群れだった、と。
「もう、近衛騎士団には連絡してあります」
そこで、リーネは周囲をもう一度うかがった。
「でも……魔族の目撃情報が、出て」
タマの指が、わずかに強張る。
「それで、第三団は王都北へ出払ってます」
「高ランクの冒険者は? AランクやBランクなら、何パーティーかいるでしょ?」
「……今日に限って、高ランク魔物の討伐依頼に、貴族の護衛、ダンジョン調査と、軒並み出払っているんです。残っているのは、Cランク以下の者ばかりで……ベテランのラグスさんが戻らないこの状況では、Cランクには荷が重すぎる。それが、ギルドマスターの判断です」
”偶然”、そう呼ぶには、あまりに重なりすぎている。
タマは視線を落とし、呟くように口を開いた。
「……行きたくない。巻き込まれたくない。きな臭い」
手のひらをギュッと握りしめる。
「私たち、王都を出るはずだった……」
タマは視線を床に落としたまま、束の間、沈黙が落ちた。
「でも……行こう」
リーネが目を見開き、息を呑む。
「タマさん?」
タマは俺を見た、金色の瞳に光が灯っている。
「理由は、合理的じゃない」
一瞬だけそこで口元の動きが止まる。
「でも……私が憧れたのは……仲間を見捨てない存在だった」
その声は静かで、けれど確かに、揺れていた。そしてもう一度、真っ直ぐに俺の眼を見る。
「そんな……仲間に囲まれて生きる人に……私はずっと、憧れてた」
ふっと、また目を伏せる。
「……私は、ずっと一人だったから」
何も、言えなかった。
タマは胸へ手を置き、ずっと奥にしまい込んできたものを、ひとつずつ吐き出していく。
「行こう」
タマが、はっきりと言った。
「この街でできた仲間を、迎えに」
「待ってください!」
リーネが、前に出る。
「二人とも、ランクが低い。危険です! 近衛騎士団の到着を、待つべきです!」
それが正しい判断だ、間違いなく。
「君たちはここで待機だ」
声のした方へ視線を移すと、そこにはギルドマスターが立っている。
ただ立っているだけなのに、その一言が聞こえた瞬間、周囲の空気がわずかに締まった。
「マスター」
リーネが振り向きギルドマスターがそこにいることに驚く。
「目立つことをせず、大人しくしていろと伝えたはずだが」
タマの背中が強張り、手を握る。
「リーネ、君もペラペラと喋りすぎだ」
「……すみません」
リーネが視線を下に逸らす。
「今、隣町のギルドに応援を頼んでいる。君たちには君たちの仕事があるだろう。それを待っている人たちが困ることになる」
「それでも__」
「待機だ」
タマの声を即座に遮るギルドマスター。
「タマ、行くぞ。急いだ方がいいだろう」
「うん!」
ギルドマスターは正しい、それは俺にもわかる。
「待つんだ!」
それでも、俺たちは静かに、一歩を踏み出した。
*
王都南。広い川沿いの街道へ近づいた瞬間、嫌な予感は、確信へと変わった。
「あそこだ!」
門番責任者のレオンが、槍を握る手に力を込める。
王都を出る際に事情を話すと、彼は迷わず同行を申し出てくれた。
川辺は、荒れていた。草は踏み荒らされ、地面には焦げ跡と、魔法の走った痕が残っている。
ここで戦闘があったのは、間違いない。
そして、倒れている、二人。
「ラグス……セイン……」
タマが思わずその名を漏らした。
ギルドでいつも軽口を叩いていた、あの二人だ。
Cランクのラグスと、Dランクのセインが、強そうな魔物の亡骸とともに、倒れ伏している。
急いで近づくと意識はないが、息はあった。
そのすぐ先に、立っている男がいた。
《緑災》アウレオン。
細身の剣を下げ、こちらを見ている。だが、その目は何も語らない。
ただ、そこに在るだけで周囲の空気そのものを止めてしまうような気配を、静かに漂わせていた。
「流石、Sランク冒険者だな。このクラスの魔物の群れを倒して、見る限り怪我ひとつしていない……これが緑災の実力か」
レオンが魔物の残骸を確認しながらアウレオンの方を見る。
タマがラグスとセインの近くにしゃがみ込みながら、周囲を警戒する。
「魔物は全滅しているみたい」
俺はすぐ近くに放置されている馬車の荷台を視るが、特に問題はなさそうだ。
一体なぜ襲われた?
「おい」
最初にアウレオンに声をかけたのは、レオンだった。
「何があった。状況を説明してもらいたい、冒険者アウレオン。まさかお前がやったわけではないよな」
門番責任者としての、確認と警告を兼ねた問いだった。
アウレオンは、答えない。
代わりに、静かに剣を抜くと、その切っ先がこちらを向く。
「……俺か」
レオンが即座に動いた。槍を構え、一歩前へ。
「待て。説明もなく刃を向けるなら__」
言葉は、最後まで続かなかった。
アウレオンが小さく何かを呟いた途端、地面がうねった。土の中から蔦と根が伸び上がり、空へ躍り出る。
早い。あれでは、成立を邪魔できない。
蔦はレオンの足元を絡め取り、瞬く間にその身を縛り上げた。
「くっ……!」
「レオンさん!」
タマが息を呑んだのが、横目に見えた。
ほんの僅かな間の後、彼女の右手が静かに横へ伸びる。
魔力が動く気配が、肌を伝わる。それを制御するための魔道具が、悲鳴のようなキーンという音を発した。
詠唱はない。無理やりに練り上げられていく魔力の圧が空間をわずかに歪め、周囲の空気が、じわりと重さを増していった。
アウレオンが何かを感じ取り、初めてタマへ警戒を向ける。
レオンは、その異常な魔力の流れに、驚きを隠せずにいた。
「……あくまで、邪魔するつもりなのね?」
タマの額に青筋が浮かんでいる。
「もういい……全部、終わらせる。色々諸々、全部終わらせてやる」
タマが以前、見せてくれた、“次元魔法”。
これは……だいぶ、頭にきているな。もはや、八つ当たりに近い。
このところ立て続けに起きた厄介事の責任を、何もかもアウレオンへ押しつけるつもりだ。
大鎌を呼び出す、その準備。
“伝説の妖、妖狐”の本気の、ほんの一歩手前。
「タマ、待て」
俺は、俺の身体がタマの視界の端に入るよう、一歩前に出た。
彼女が、はっとしてこちらを見る。
「アレを出してくれ」
手のひらを見せ、はっきりと言う。
タマは視線を動かし、一瞬だけためらった。
しかし、一度小さな息を吐き、次元魔法の構成を切り替えると、空間が崩れていく。
現れたのは、”金棒”だった。
装飾のひとつもない、実用一点張りの鉄塊。重く、鈍く、禍々しいほどに静かで、そしてどこか懐かしい。
先日、王都の武器屋で見つけた。昔、俺が使っていたものに不思議と似ていた俺の武器。
その柄へ、自然に手が伸びていた。
「……金棒?」
レオンが、身体に巻きつく蔦を外すための手を止めて、思わず呟いた。
俺は柄を軽く握り、肩へ担いだ。
「鬼に金棒だ」
その重みが、身体の奥に眠っていた“何か”を、ゆっくりと揺り起こしていく。
久しく忘れていた、血の匂いを思い出す。
気分のいいものでは、決してない。
だが、俺は丹田に力を込め、氣を練り上げた。
稲妻にも似た、鋭く青い光が、俺の周りでばりばりと音を立てながら、空間を自在に跳ね回る。
雷雲が近づいたときの、あの張り詰めた空気に、どこか似た感触だった。
アウレオンもまた剣を構え直す。
空気が止まり、音が消える。
剣と金棒が、正面からぶつかり合うと、乾いた金属音が川辺に響いた。
アウレオンの剣は、速い。そして、正確だ。
おそらく性格を表しているんだろう。
だが俺は、一歩も引くつもりはない。
打ち下ろし、受け、返す。小細工はいらない。技と力だけで、押し切っていく。
アウレオンが小さく呟き、自然魔法を発動すると、茎が伸び、地面の根がうねる。
「それはもう視た。好きには、させない」
俺の小指と親指の指輪が、光を帯びた。
火が噴くわけではない。そこまでの火力など要らない。
ただ、空気が熱を孕み、自然魔法の流れが、微かに揺らぐ。伸びかけた茎が止まり、うねった根が、硬直した。
「っな!?」
アウレオンが、驚愕する。
「今度は、何をした?」
「生活の知恵魔法……だな。ドゥールのおかげで、熱を扱いやすくなった」
タマは驚き、それから、少しだけ笑った。
「……ゲドーマル曰く、熱で水、土、風の魔力の流れを乱してる。それだけよ」
レオンは、目を見開いていた。
「理解できん……これが、低ランク冒険者だと? 魔力も平凡なはずなのに。この桁外れの怪力……魔法の使い方も、見たことがない」
その背後で、タマが詠唱を始めた。短く、確実な構成。風が走り、刃となる。
レオンを縛っていた蔦と根が、次々と断ち切られていった。
「助かった……!」
レオンが体勢を立て直す。
アウレオンの目的は、まだわからない。
だが、こいつがラグスたちを襲ったとは、どうしても思えない。
理由が、なさすぎる。
本来の力は、こんなものではないはずだ。何か、迷いを抱えているのかもしれない。
その時、突如として、川辺の空気が変わった。新しい気配が、いくつも増えていく。
風が止み、鳥の声が消えると、代わりに、地面を踏みしめる重い音が、こちらへ近づいてきた。
ひとつではない。複数だ。
「おい! 何か、来るぞ」
レオンが、大きな声を張り上げ、俺たちに異変を伝える。
川向こうの木立が揺れ、姿を現したのは、魔物の群れだった。
先頭に立つのは、屋根を越えるほどの体躯をした、巨大な人型。筋肉の塊だ。
その後ろにも、かなり強そうな魔物が、何体も続いている。
数が、多いな。
「ハイオーガ……? こんな場所に? しかも、統率が取れている……」
レオンが息を呑んだ。
本来、この地域に出るはずのない、高位の魔物。そうでなければ、俺たちのような低ランクの冒険者が、薬草採取に立ち入れるわけもない。
これは、明らかに異常だ。
「考える時間はない! 来るぞ」
アウレオンが剣を、俺ではなく魔物に向かって構え直す。
四人は、即座に動いた。陣形も、相談もしている暇はない。
レオンが前へ出て、敵の注意を引き、タマは後方、短剣を片手に索敵と補助へ徹する。
アウレオンの剣が走り、自然魔法を絡めた、正確無比な一撃を放つ。
俺は金棒を振るい、間合いそのものを支配する。踏み込み、叩き、弾く。
しかし、魔物の数が、多い。
「ぐっ……!」
レオンが弾き飛ばされた。
「レオンさん!」
「問題ない! 続けろ!」
声は張っているが、息はもう荒い。
だが、視ていて、気づいたことがある。
魔物は魔力を体内で巡らせ、それを強化に充てている。
声はないのに、連携が乱れない。体の奥を巡っているはずの魔力の揺れが、隣へ伝わっている。
ドゥールの指輪を、発動させる。
周囲の魔力の流れを、微細な熱へと変えて流し込んでいく。
途端に、魔物たちの動きが鈍りはじめた。群れの統率が乱れ、反応が遅れ、その動きが、微妙にずれていく。
「また……何かやったな。今度は、私の魔法を邪魔してくれるなよ」
アウレオンが魔物を斬り裂きながら、こちらへ目をやる。
そして、詠唱を始めた。直後、魔力を帯びた木々が芽吹き、ぐんぐんと育ち、その場に小さな森が生まれる。
木々はそのまま、魔物たちへと襲いかかっていった。
長い、戦いだった。
最後のハイオーガが地へ崩れ落ちた時、誰もすぐには口を開かなかった。
”おかしい”。
全員の顔に、同じ思いが浮かんでいた。
その重い沈黙を、軽い笑い声が破る。
「いやぁ、やっぱり面白いね」
姿を現したのは、口元に笑みを浮かべた魔族ミルザ。
その体躯は威圧感に満ち、一歩踏み出すごとに、周囲の空気が重く圧し潰されていく。戦士としての剥き出しの闘志が、陽炎のように、その輪郭を揺らしていた。
そして、その半歩後ろ。影に同化するようにして佇む、もう一人の魔族がいた。
ミルザよりわずかに背が高いが、その身体は驚くほど細身で、無駄がない。
濃紺の髪が、川辺の湿った風に揺れて肩にかかる。灰色の混じった紫の瞳が、静かに戦場を見渡していた。
黒を基調とした長衣は、装飾を排したストイックな造りでありながら、どこか儀式めいた不気味さを纏っている。
その手の中で、魔力を秘めた青い触媒が、微かな光を放っていた。
気配からして、ミルザよりも上の立場だろう。
猛々しい“剛”のミルザと、底の知れない“静”の魔族。
アウレオンの殺気が、ミルザへ向けられた。
「いろいろと嗅ぎ回る、鬱陶しいハイエルフの生き残りを排除するつもりで仕掛けた罠なんだけどさ。そんなことより、もっといい結果が手に入ったよ。これは本当に、嬉しい誤算だ」
隣の魔族は、無言。だが、その纏う空気が、明らかに違う。
「エルフの皇子、やっぱり来たね。北に魔族を出せば、南に来ると思ったよ。でも、もっといい収穫があった」
アウレオンは、今にも飛びかかりそうな気配だった。
それを辛うじて押しとどめているのは、ミルザの隣に立つ、あの魔族の底知れない威圧感だろう。
「君……仲間に、ならない? 実を言うとね、この前から目を付けていたんだ」
俺を見て、ミルザが冗談のような口調で問う。
「ついでに、そこの娘も」
タマが息を呑み、一歩引いた。
俺は、タマとミルザの間に身体を滑らせる。
「あの魔物たちを……操っていたのか」
「うん」
ミルザはあっさりと頷いた。
「最新式の魔道具だよ。まだ実験中でね。魔力を持つ存在は、逆らえない。便利だろ? ちょうど、いい標的もいたしさ」
アウレオンを横目に見ながら、誇らしげに語る。
胸の奥が静かに熱を持ち、自然と金棒を握る手に力が入る。
声が大きくならないよう抑えると、その分だけ、低くなった。
「意思を、奪う行為だ」
ミルザは首を傾げる。
「魔物だよ?」
「生き物だ……それに、いずれは人にも使うつもりなのだろう」
決めつけずには、いられない。それくらい、こいつは怪しい。
「対話の可能性を、最初から奪う。それは……許せない」
一歩、踏み出す。
ミルザがわずかに焦った。
「少し待ってくれ! いま、君にとって、かなりおいしい話をしているんだよ。人族の中じゃ窮屈だろう。うちは、違う。こっち側においでよ。もっと自由で、楽しい暮らしを用意できる」
ミルザの顔から笑みが消えると、声が低くなった。
「断っても、いいことにはならないよ。君はもう、僕らに目を付けられた。味方は、減る一方になる」
嘘を言っているようには、視えない。
どういう、意味だ。
「ゆっくり考える時間は、ないよ。さあ、答えを出すんだ」
ミルザが嫌な笑みを浮かべる。隣の魔族の魔力が、ぐっと膨れ上がっていく。
だが、考える必要などない。答えは、もう出ている。
俺は金棒を構え、間合いを詰めようとする。
その時、知っている気配が、現れた。
空気の質が変わり、魔力の気配がすっと軽くなった。
「……ここまでだ」
現れたのは、ドゥールだった。
何か装置を使っているらしい。一帯の魔力が、強制的に沈められていく。
「ヤグ。ここで、俺とやり合うか?」
ヤグと呼ばれた魔族が、即座に判断を下した。
「今日は、引く」
ミルザは、名残惜しそうに笑う。
「もう会うこともないかもね。でも、もし生き延びたら、そのときは僕の手で殺してあげるよ、ゲドーマル……それと、タマちゃんも」
「……!?」
タマの顔が、一瞬で青ざめた。
「何で、名前……」
魔族たちは、去っていく。
後に残されたのは、魔物の死体と、沈黙だけだった。




