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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
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第10話 夜を告げる鉄の音


 川辺は、事後の静けさに沈んでいた。


 川のせせらぎだけが、やけに大きく聞こえている。


 タマは膝をついて、倒れている二人の冒険者へ手をかざしていた。


 ラグスとセイン。ついさっきまで、死線の向こう側にいた男たちだ。


 淡い光が彼女の指先から静かに広がり、二人の身体を包んでいく。


 しばらくして、ラグスが小さく息を吸い、セインが短い呻き声を上げた。


 命の心配はもうないが、目を開けていても焦点が定まらず、呼びかければ返事はあるものの、言葉は途切れ途切れのままだった。


 レオンが一歩近づき、二人に話しかけながら、必要なことだけを確かめていく。


 「……いい。ここまでだ。無理に聞けば、かえって危ない。後は正式な場でだな」


 それだけ告げると、レオンは一歩下がった。


 少し離れた場所では、アウレオンとドゥールが向き合っていた。


 ここまでは声が届かないが、二人の間の空気が重いのは視ただけでわかった。


 昔から知っている者同士にしか分からない距離感で立っている。


 ただ静かに何かを確かめ合っていた。


 やがて話に区切りがついたのか、アウレオンは小さく頷いて、こちらを振り返ることもなく川辺を後にした。


 俺はその場をそっと離れ、川縁に膝をつき、布を一枚取り出して水に浸す。


 冷たい流れが指先を撫でていく。


 血と土を拭い、濡れた布を顔に当てた。少しだけ、息が楽になった気がした。


 そのとき、鎧の音が、複数聞こえた。しかも揃っている。


 砂利を踏む足音が連なり、川辺の空気が静かに変わっていく。


 ゆったりと流れていた時間が、否応なく終わらせられる感覚があった。


 顔を上げると、そこに近衛騎士団がいた。


 隊列を崩さずに進み、自然と場を制圧していく動きは、戦に慣れた者たちの歩き方だ。


 その先頭に立つ男、ヴァルクス・エーベルハルトは、川辺を一望してほんの一瞬だけ目を細めた。


 彼が足を止めた瞬間から、ここはもう、川のせせらぎが聞こえていた場所ではなくなっていた。


 ヴァルクスは言葉を発さないまま現場を歩いた。


 倒れ伏す魔物の死骸、抉られた地面の痕跡。それらをひとつひとつ確認し終えると、足を止めた。


 「……状況報告を」


 短い一言に、レオンが一歩前に出る。


 「魔物の群れに冒険者が遭遇。交戦中、魔族二名が介入。その後、魔族は撤退。魔物は全て討伐済みです」


 簡潔で、余計なものを削り落とした報告だった。現場責任者として必要なことを過不足なく伝える。


 「生存者は?」


 「冒険者五名。うち二名は負傷が重く、現在回復中」


 ヴァルクスは短く頷いた。それ以上、倒れている二人に視線を向けることはない。


 どこで線を引いているのか、こちらにはわからないが、彼にはきっちりとした境界がある。


 「よろしい」


 ヴァルクスは淡々と告げた。


 「現場は第三団が引き継ぐ。冒険者は直ちに離脱せよ」


 理由の説明は簡潔だった。


 「魔道具使用の痕跡がある。現場保持が必要だ。これ以上、”民間人”を関わらせる必要はない」


 冷静で、揺るぎのない声だった。


 だがその言葉の裏に、もうひとつの理由が滲んでいるのを俺は感じていた。


 ヴァルクスは到着と同時に、ドゥールを一度だけ見ていた。


 「……門番責任者レオン」


 名を呼ばれ、レオンの背筋が伸びる。


 「貴様は残れ」


 レオンはほんの一瞬だけ俺たちを見た。


 言葉はなかったが、その目がすべてを告げていた。


 ここからは、公の場だ。


 レオンは頷き、その場に留まった。


 残された俺たちへ向けて、ヴァルクスは最後にひとことだけ言った。


 「帰れ」


 ラグスとセインはまだ自力では歩けない。


 意識はあるが視線は定まらず、現実に戻りきれていないままだった。


 俺は何も言わずにラグスを背負う。鎧の重みが、ずしりと肩に乗った。


 絶対に、喋ってはいけない。


 タマがじっと俺を見つめている。


 その真剣な眼差しに応えるように、俺は一度、深く、はっきりと頷いてみせた。


 それを見たタマの肩から、すっと力が抜ける。張り詰めていた緊張を解くように、小さく息を吐いた。


 「俺たちから、話は聞かないのか? 詳しい情報がいるのだろう」


 俺がヴァルクスに話しかけると、タマが頭を抱えた。


 「先ほども言っただろう。これ以上、民間人の出る幕はない」


 俺は一歩踏み出そうとするが、即座に腕を引かれる。


 振り返ると、青筋を額に作り、目に少し涙を滲ませたタマがこちらを睨んでいる。


 また間違えたらしい。


 「大将! 行くぞ」


 ドゥールも俺と同じようにセインを担ぎ、歩き出す。


 タマが後ろからセインを支えながら歩き出す。だが、その背中には張り詰めた空気が流れている。


 俺はラグスを背負ったまま、二人に歩調を合わせ、倒れないように、ただそれだけを考えながら、無言で足を動かした。


 川辺を離れると、背後で第三団が動き始める音がした。


 号令と足音、金属が触れ合う硬い音が、夕暮れの空気に重なっていく。


 道の先に王都の城壁が見えた。橙に染まった空の下で、それは静かにそびえていた。


 *


 川辺から少し離れた場所、近衛騎士団の列の中に、リラがいた。


 剣は抜かずに唇を噛み締めたまま、ただ立っている。


 その視線だけが、去っていく冒険者たち……ゲドーマルの背中に向けられていた。


 リラの手が、わずかに震えたが、それをギュッと強く握りしめて止める。


 それでも、視線だけは逸らさなかった。


 やがて冒険者たちの姿が川辺から消えるまで、リラは見送り続けた。


 *


 王都の門が、ゆっくりと開いた。


 夕暮れの光が、城壁の影を長く引き伸ばしている。


 門番たちは、俺たちの姿を見つけるや否や、事情を察してすぐに動いた。


 「俺たちが運ぶ。教会だな?」


 ラグスとセインには、もう返事をする余力もない。


 門番たちは慣れた手つきで俺とドゥールから二人を受け取った。


 「お願いします。二人とも、まだ意識が追いついてなくて」


 「任せろ」


 冒険者の多いこの街では、短いやり取りだけで全てが伝わる。


 俺はそこで手に持っていた金棒を、軽くなった肩に担ぎ直し、一つ深く息を吐き出してから言う。


 「……ギルドへ行く」


 ドゥールが一瞬ラグスたちを見るが、すぐに視線を俺に戻し、頷いた。


 「俺もだ。報告は俺がしよう。その方がスムーズに話が進む」


 タマはこちらを見て、自分の腕をさすりながら言った。


 「終わったら、宿でね」

 「ああ」


 タマは頷き、門番たちの背を追って歩き出した。


 街道はまだ人混みで溢れ返り、売り子の声や馬車の音が激しく飛び交っている。


 その喧騒の真っただ中を、俺とドゥールは足を止めることなく突き進んでいく。


 しばらく歩いてから、ドゥールが口を開く。


 「王都を出るんじゃなかったのか?」


 「……そのつもり……だった。いや、まだその予定だ。落ち着いたら別の街へ行く。ここは少し騒がしすぎる」


 「その方がいいだろうな……しかし、魔族ってのはしつこいからな。気をつけろ」


 「ああ、気をつける」


 少し間をあけて、ドゥールが意を決したように切り出した。


 「指輪のことだが」


 俺は視線を前に向けたまま聞く。


 「絶対の力じゃない。極大魔法には……通じない。下手をすればそのまま飲みこまれる。そもそも生活魔法の域を出てはいない。目的が違う」


 軽い口調で言っているが、本気の、重い忠告だった。


 「過信するな」

 「……分かっている」


 指輪の力に助けられる場面は、確かに多い。だが、それが万能だと思ったことはない。


 借り物の力は、どこまでいっても借り物だ。いつか必ず、その限界がやってくる。


 「それでも……使う時は使う」

 「だろうな」


 ドゥールは腕を腰に当て、苦笑した。


 「だから言った。信じるな、じゃない。思い込むな、だ」


 その言葉は、胸に残った。


 思い込むな、か。


 *


 教会の門をくぐると、空気が変わった。静かで、温かい。


 ラグスとセインは寝台に運ばれ、タマはその傍についた。


 「ほら、深呼吸。大丈夫、助かったよ」


 柔らかく、押し付けないように回復魔法を流し込んでいく。


 ラグスが、かすかに笑った。


 「……助かった」

 「当たり前でしょ。借りは利子つけて返してもらうから」


 セインがぼんやりと目を開けた。


 焦点の定まらない視線が、しばらく教会の天井をさまよってから、ゆっくりとタマの顔へ向く。

 

 「……怖かった。……絶対死んだと思ったっス」

 

 声は掠れていた。言葉にするのに、少し時間がかかったのだろう。

 

 タマは否定しなかった。「うん」とだけ言って、セインの背を支える手をわずかに強くした。

 

 「でも、もう終わった。今は、ここ。もう大丈夫」


 二人の呼吸が、少しずつ整っていく。


 そこへ、足音が近づいてきた。


 「へえ……冒険者か」


 部屋の扉が静かに開き、聖騎士の白と金のマントがふわりと揺れた。


 右腰には長剣、左腰に短剣、背には小型の盾が収まっている。


 堂々として、しかし無駄のない歩き方だった。動作のひとつひとつが、信頼を感じさせる。


 「随分と器用だな。回復、綺麗だ」


 体格のいい、赤茶色の短めの髪をした男だった。歳は三〇前後に見える。


 「俺はカイラン・ブランク……いや、名前はどうでもいいか」


 深い青の瞳が穏やかに微笑んだ。


 銀を基調にした鎧の胸元と肩には教会の紋章があり、部屋の灯りを反射している。


 「仕事ですから」


 「仕事……で覚えた腕じゃないな。もっと、必要に駆られて覚えた……そんな手つきだ」


 タマはそれには応えず、回復の手を止めない。


 「安心していい。ここに運ばれた奴はちゃんと生きて帰る。今、治癒師だけじゃなくて、聖療師も向かってる」


 タマは少しだけ肩の力を抜いた。


 「ありがとう」


 そのまま、冗談めいた会話が続き、場の空気がわずかに緩んでいく。


 それでもタマの意識の片隅には、ずっと別の場所があった。


 王都のどこかを歩いている、あの背中は、今、何を考えているのだろう。


 教会は温かい。けれど、外はまだ冷たい。


 タマは回復の手を止めないまま、静かに息を整えた。


 *


 王都の冒険者ギルドは、いつも通りの喧騒の中にあった。


 掲示板の前で依頼に目を走らせる者、酒場側で笑い声を上げる者、誰もが自分の食い扶持を稼ぐことに夢中で、川辺で何があったかなど知る由もない。


 ドゥールは受付を素通りして、迷いなく奥へ進んでいく。


 俺はその後ろを黙ってついていく。


 リーネが視線を上げたが、声はかけなかった。


 ドゥールの歩き方を見れば、今が話しかけるべき状況かどうかくらいは分かるのだろう。


 ギルドマスターの部屋の扉を、ドゥールはノックもなく開けた。


 「どうだった?」


 ギルドマスターは椅子から立ち上がることなく言った。


 視線がまずドゥールへ向かい、次に俺へと移る。


 一瞬だけ目を細め、それから小さく息を吐いた。


 「……その顔。厄介事を持ち込んだな」

 「否定はしないな」


 ドゥールは短く答え、椅子を引くでもなく立ったまま本題に入った。


 「王都南、川沿い街道。魔族が関与している。北に近衛騎士団を誘き寄せたのも魔族だ。名前はミルザ。元ここの職員だな。それと魔道具士ヤグ。Bランク相当の魔物を魔道具で使役していた」


 ギルドマスターの表情がわずかに硬くなり、書類を持っていた手が、静かに机の上に置かれる。


 「使役、だと?」


 「正確には支配に近い。行動を上書きするタイプだ」


 ドゥールは感情を乗せない声で淡々と続けた。


 「現時点では限界も見えた。高ランク魔物には通じない。数にも上限がある……今のところ、俺の見立てではな」


 「……今のところ、か」


 「断定は出来ない。魔力を”非常識な量”で注ぎ込めば、話は変わる」


 ドゥールは視線を動かさないまま、それだけ言った。


 あの笑い声が脳裏をよぎった。あの時、あの男は、否定しなかった。


 ギルドマスターは重く息を吐き、背もたれに体を預けた。


 「魔族案件だな」


 「わかってる。だから報告に来た。中途半端に手を出すな。正直、これはSランクでも厳しい」


 「冒険者ギルドとしては近衛騎士団に情報を流すまでだ。手出しはしない。これは線引きの問題だ」


 ドゥールは頷き、ごく自然に口を閉じた。


 しばらくの間があって、ギルドマスターの視線が俺へと向いた。


 品定めでも詰問でもなく、ただ状況を確かめるような目だった。


 「……また、お前だな。魔族には、近づくんじゃないぞ」


 現実的な判断として、静かに釘を刺す。


 「今回の件は、運が良かっただけだ。次も同じとは限らん」


 俺は静かに頷いた。


 「……分かった」


 ギルドマスターはそれ以上深追いせず、手元の書類へと視線を戻した。


 「今日はそれでいい。戻れ。休め」


 ドゥールは軽く頭を下げ、踵を返し、俺もそれに続いた。


 扉を出る直前、背中にギルドマスターの視線を感じた。


 外に出ると、空はすでに夕暮れに染まり始めていた。


 *


 日が落ちきる直前、宿の窓から見える空は赤黒く濁っていた。


 俺は部屋の片隅で、川辺で使った手縫いの布を絞っていた。


 水を替えながら、丁寧に。


 血と土の匂いがまだ指に染みついていて、何度すすいでも完全には消えなかった。


 タマはまだ戻らない。教会に向かったきりだ。


 ラグスとセインの治療に時間がかかっているのだろうとは分かっていても、胸の奥のどこかで小さな引っかかりが消えずにいた。


 コン、コン。


 扉が叩かれた。ためらいのない音。


 俺は布を机の上に置き、静かに立ち上がった。


 扉を開けた瞬間、廊下の空気が変わった。


 視界に飛び込んできたのは、リラの鋭い視線と、その背後に立つ二つの人影だった。


 以前、一緒に食事に行った三人。


 ガルムは重厚な鎧に赤い縁取りのマントを流し、槍を片手に廊下の壁際に立っている。


 エルネストはその隣で杖を軽く持ち、帯に巻物や小さな魔道具をいくつかぶら下げ、肩には小さな赤い肩掛けをかけていた。


 三人とも、表情が硬い。


 「……どうした」


 俺がそう言うと、リラは小さく頷いた。


 「大事な話があるの」


 部屋に入る気配はなく、視線も部屋の中を探ろうとはしない。


 だが、ガルムとエルネストの立ち位置と間合いが、すでにすべてを告げていた。


 二人は自然に見えて、俺の左右を塞げる位置に立っている。


 「……場所を変えたいわ」


 リラがそう言った。


 「……少し、待ってくれ」


 部屋に戻ると、腰の太刀《終座》を壁際に立てかけ、代わりに金棒を手に取った。


 ずしりとした重みが、手のひらに馴染む。


 そのまま机の前に立つ。タマに何か書かなくては、と紙を一枚取り出し、そのまま机の上に置いた。


 白いままで。


 タマが戻ったとき、部屋に俺がいなければ気づくだろう。


 扉の前に戻ると、リラはほんの一瞬だけ目を伏せてから踵を返した。


 俺は入口に掛かっていた外套を肩に掛け、部屋を出る直前に一度だけ振り返った。


 タマの荷物が、壁際に纏まって寄せられている。


 タマが戻るまでには終わらせる、というのは、さすがに虫が良すぎるか。


 宿を出ると、夜の空気が肌に触れた。


 城門を抜け、街道を外れ、さらに歩く。


 足音は四つ、俺のものを除けば、三つ。後ろは取られていないが、自然な形で囲まれてはいる。


 リラが前を歩き、ガルムとエルネストが少し遅れて両脇に並ぶ。


 誰も口を開かなかった。


 やがて、視界が一気に開けた。


 月明かりに照らされた、なだらかな草原だった。遮るものはなく、隠れる場所もない。


 夜風が低く流れ、草が一斉に揺れる。


 リラが足を止め、振り返った。


 「……ここでいいわ」


 俺も立ち止まり、静かに息を吐いた。


 「話は?」


 リラはすぐには答えず、代わりに剣の柄へ手を置いた。


 雲間から月が顔を出し、草原に四つの影を落とす。


 *


 日の沈みかけた王都の街を、タマはカイランの軽やかな足取りに合わせて歩いていた。


 「それにしても、王都の空も悪くないね」


 カイランは肩を揺らしながら笑った。


 笑い方まで軽い男だと思うが、嫌な気分にはならない。


 それがこの男の妙なところだった。


 「……でも今日は少し、不穏な空気じゃない?」


 タマは街のざわめきに視線を走らせた。


 人の流れはいつも通りに見えて、どこか急いでいる。


 夕刻の喧騒とも違う、落ち着かない熱が街に漂っていた。


 「ふふ、それでも君は笑ってるんだな」


 「……それが私のやり方だから」


 腕を軽く摩りながら、口角を上げた。笑顔の作り方は慣れている。


 どこにいても、まず笑う。それが一番、遠くまで見渡せる。


 宿の入口に着くと、カイランが足を止めた。


 「今度、お茶でもどう?」


 タマはカイランを見上げ、柔らかく首を傾けた。


 「……残念、軽い女じゃないの」


 はっきりとした断りだったが、口元の端には笑みが混じっていた。


 カイランは大袈裟に肩を落とし、やれやれと首を振りながら、人の波の中に消えていく。


 その背中が見えなくなったところで、タマは小さく息を吐いた。


 一人になると、空気が急に冷たくなった。


 「何か用?」


 振り返らなくても分かった。それでも振り返ると、アウレオンが立っていた。


 残光を背に受けながら、その視線は真剣そのものだった。


 「彼が王都の門から外に出ていった。近衛騎士の隊長と一緒だ。武器を装備していた」


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 タマは返事をせずに宿屋へ駆け込んだ。階段を二段飛ばしに上がり、廊下の角を曲がって、自分たちの部屋の扉を勢いよく開ける。


 真っ先に目に入ったのは、壁際に立てかけられた《終座》だった。


 次に、机の上の手縫いの布。


 そして、その隣に置かれた一枚の白い紙。


 タマは、まず布へ手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、湿った質感と、かすかな血の匂いが伝わってくる。


 それから《終座》に手をかけると、冷たい金属の感触が指先から肩まで上がってきた。


 白い紙を、見つめた。


 何も書かれていない。どれだけ見つめても、何も出てこない。


 「……真っ白じゃわからない」


 声が、少し震えた。


 「置き手紙なら、何か書きなさいよ……馬鹿」


 タマは紙から目を離し、《終座》を抱き上げ踵を返した。


 部屋を飛び出すと、アウレオンが廊下の壁に背を預けて待っていた。


 タマの顔を確認するなり、無言で階段を降りていく。


 宿を出ると、外はもう薄暗かった。


 タマは暗くなり始めた王都の門へ向かって、走り出した。

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