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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
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第11話 雷が落ちる


 宿の扉を押し開けて外に出た瞬間、冷たい夜気が頬に触れた。


 タマの胸の奥だけはどうしても落ち着かない。


 身体の内側を爪がゆっくりとなぞり続けているような感覚が、さっきからずっと消えずにいた。


 腕の中には、二つのものがある。


 ゲドーマルが常に腰に佩いていた太刀《終座》と、見慣れた手拭い。


 どちらも、彼自身が置いていったものだった。


 「抜くつもりがないということ……それとも……」


 自分の声が思いのほか掠れていた。


 抜かせたくない太刀を、あの人はわざわざ自分の手元に残していった。


 その重みを、今こうして自分が抱えている。

 意味を考えようとするほど、足が止まりそうになる。


 それでもタマは唇を結んだまま、歩みだけは止めなかった。


 アウレオンから聞かされた話は、ひどく断片的だった。


 リラが武装して出ていったこと、そしてゲドーマルがそれに同行したこと。


 分かったのはそれだけで、危険かどうかも、今どんな状況に置かれているのかも、何ひとつ掴めていない。


 「嫌だ」


 胸の奥の拒絶が、そのまま口をついて出た。


 城門はすでに夜の警戒態勢に入っていた。

 タマが近づくより早く、門番が前に立ちはだかる。


 「夜間の外出は控えてもらいます。街の外は__」

 「分かってます」


 声は自分でも驚くほど静かだった。

 急いでいることだけは、どうしても隠しきれなかったが。


 「それでも行きます」


 門番が言葉を詰まらせた。

 相手は冒険者だ。だが今は、女がたった一人、夜の外へ出ようとしている。


 「一人で行くつもりか?」


 問われて、タマはほんの一瞬だけ視線を落とした。


 「……はい」

 「待て」


 低い声が、背後からかかった。振り返ると、そこにいたのはレオンだった。


 鎧にはまだ昼間の戦いの爪痕が残っていて、報告を終えたばかりなのだと一目で知れる。


 タマの表情と、その腕に抱えられた《終座》とを順に見て、彼は眉をわずかに寄せた。


 「ゲドーマルか?」


 タマが返事をするより先に、レオンは続けた。


 「外に出るなら、俺も一緒に行く」


 ただ淡々と差し出された、一つの”条件”。

 それは命令ではないが、かといって、守ってやるという響きでもなかった。


 タマはすぐには答えられなかった。

 ずっと一人で動いてきた、ずっと。誰にも追われないために、誰にも縋らないために。


 そうやって生き延びてきた。


 だからこそ、並んで歩くというその申し出が、思いのほか深いところに届いた。


 小さく息を吸って、タマは頷いた。


 「……お願いします」


 静まり返った夜に、城門の軋む音がやけに大きく響いた。

 

 夜の街外れへと続く道へ、二人は足を踏み出した。タマは《終座》を抱え直し、ただ前だけを見る。


 まだ何も知らない。胸騒ぎは消えないまま残っている。


 それでも、もう引き返すつもりはない。


 *


 夜の平原で、リラが一歩、前に出た。


 舗装も灯りもなく、ただ月明かりだけが冷たく辺りを照らしている。


 夜風が草の匂いを運んでくるのに、この場に立った瞬間から、空気そのものがどこかで止まったように感じられた。


 剣を構えたまま、リラの視線がほんの一瞬だけ揺れた。


 「……ごめんね、ゲドー」


 ほとんど独り言に近い、小さな声だった。

 けれどそこには、近衛騎士の隊長としてではない、リラ個人としての揺らぎが、言葉の端に確かに滲んでいた。


 そして彼女は、大きくゆっくりと息を吸い、静かに吐いた。


 背筋が伸び、顔つきが変わり、声の温度までもが、次の言葉を発する前に切り替わっていた。


 「王国近衛騎士団第三団隊長、リラ・ヴァン・ストライゼン」


 もうその目に迷いはない。


 「王女殿下の命により、ここに宣告する」


 剣先が、真っ直ぐに俺を指した。

 平原の夜気が、ぴんと張り詰める。


 「汝を、王都の脅威と認定する。抵抗を認めず、退路を与えず、これより行使されるは、近衛騎士の権限に基づく処刑__」


 そして、はっきりと言い切った。


 「汝を、斬る」


 言葉と同時に、背後の近衛騎士二人が一斉に殺気を解き放つ。


 夜気がその密度を変え、平原の広さが消えたような錯覚を覚えた。


 「これは決闘ではない。私一人でも、あなたには勝てる。でも、三人でいかせてもらう」


 リラの詠唱が始まった。

 名が告げられた瞬間から夜の空気が質を変え、魔力が風に乗って平原じゅうへ静かに広がっていく。


 空が低く鳴り、開けていたはずの場所が、いつのまにか逃げ場のない囲いへと変わっていた。


 逃がさないための配置であり、撃ち抜くためにあらかじめ選ばれた地形だった。


 あまり、いい状況じゃないな。


 「すまないタマ、すぐには宿に戻れそうにない」


 リラの詠唱は長い。だが、それが完成してしまえば、勝敗はそこで決まる。


 俺は金棒を握ったまま、わずかに踏み出した。


 狙いはリラ。倒すためではなく、詠唱を断ち切るためだ。


 しかしその一歩は、即座に潰された。

 重装のガルムが横から割り込み、低く鋭い槍が振るわれる。守るための動き、命令に忠実な防御の型だった。


 金棒で受け止めると、激しい金属音が夜の空間を裂き、足元に火花が散った。


 後方から魔導士エルネストが進み出て、結界と補助詠唱を重ねていった。


 力の問題ではなく、位置と人数と役割が問題だった。


 押し返せない。


 リラの詠唱は止まらない。

 魔力はさらに濃くなり、肌を刺すように空間が痺れていく。荒ぶっていた魔力が雷の形へと整えられ、制御され、安定していく。


 止められない。すべてが、噛み合ってしまっている。


 それでも俺は、金棒を強く握り直した。


 *


 王都を抜けた先の夜は、思っていたよりもずっと広かった。


 灯りはとうに途切れ、道は闇に溶けて前方の輪郭さえ定かでない。


 足音も息遣いも、少し離れればすぐに夜に呑まれて消えてしまう。


 タマは思わず足を止めた。

 どちらへ向かえばいいのか、もうどこまで来たのかさえ分からない。


 胸の奥が嫌な速さで脈打ち、考えようとすればするほど、焦りばかりが募っていく。


 その隣で、レオンが闇に目を凝らしながら周囲を見回し、短く言った。


 「焦ってもしょうがない」


 あえてゆっくり、そしてはっきりと言ったのが分かる。


 その声は、ただ事実を伝えるだけの響きではなかった。


 「出来ることをやるだけだ」


 タマは小さく息を呑んだ。


 「……出来ること」


 思わず、繰り返していた。

 それは、ずっと避けてきた言葉だった。


 タマは視線を落とし、自分の手のひらをじっと見つめる。

 そこに見えるのは指輪とブレスレット、彼の手拭い……そして《終座》。


 出来ることをやらずに済ませるために、いつだって出来ない理由のほうを探して生きてきた。


 一人で生き延びてきた時間、追われ、隠し、正体を伏せ続けてきた日々。


 そのすべてが、そこから目を逸らすためのものだったのかもしれないと、今になって思う。


 見つめていた手拭いと《終座》を、ギュッと握り締める。


 今回も気づかないフリをすることはできる。

 

 けれど今、どうしても守りたいものがある。


 タマは目を閉じ、静かに深く息を吸った。


 手拭いを懐に入れ、《終座》を次元魔法でしまう。


 そして右手の魔道具へ、金の指輪と水色のブレスレットへと、ゆっくりと指をかけ、ひとつずつ外していく。


 「もう隠さない」


 人の姿が、ほどけていく。


 冒険者として身につけていた軽装が夜気に溶けるように薄れ、代わりに、どこか懐かしい装いがその身を包んでいく。


 和服に近い、静かな衣。白と淡い灰を基調にした布が幾重にも重なり、袖は短く、裾は割れて動きを妨げない。


 それは戦うための衣であると同時に、彼女の”在り方”そのものを示す衣。

 

 帯の位置、布の重ね、留め紐の結び方、その一つひとつが、あちらの世界で過ごした時間を静かに思い起こさせる。


 ほんの短い間だった。


 けれど確かにそこには、幾人もの鬼たちと、茨木と、そして《外道丸》と肩を並べ、言葉を交わし、盃を分け合った時間があった。


 追われる必要も、隠れる必要もなかった日々が。


 「彼を絶対に見つける」


 白銀の髪が夜風に揺れ、人族のものだった耳の形が静かに変わっていく。


 頭の上に現れたのは、風を拾い、音を聞き分ける、本来の感覚を備えた狐の耳だった。


 そして、背後の闇がゆらりと揺れた。


 一本ではない。二本でも、三本でもない。


 夜の風を押し分けるようにして、”九本の尾”が、ゆっくりとその姿を現していく。


 淡い光を帯びた白銀の尾は、互いに触れ合わぬ距離を保ったまま、静かに広がった。


 力を持つがゆえに追われ、生き延びるためだけにしまい込んできたものが、今は夜の空気の中に解き放たれていく。


 《九尾の妖狐》。


 ”守るため”に、自ら選んだ姿だった。


 だが、すぐに九つの尾は垂れ下がり、タマの身体に巻きつこうとする。


 「ちょ、ちょっと……しっかりして! 怖がってる場合じゃないの!」


 手で身体にまとわりつく尻尾を引き離そうとするが、次第に狐耳も垂れてくる。


 「もういい! 勝手にして」


 レオンは目を剥き、言葉を失っていた。

 それでも、槍を向けることだけはしなかった。視線を逸らさず、はっきりと言う。


 「……分かった」


 タマは目を閉じ、その膨大な魔力を解き放つ。

 地を這い、空を渡り、二度と触れまいと決めていた見えない境界へ、そっと震える右手を伸ばす。


 「……今度は私が助ける番なんだから」


 そう言うと、左手で震える右手を押さえる。


 「……私が”囲炉裏”を作ってあげるの」


 逃げるためではない感覚でそこに触れるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


 伏せていた狐耳も低く垂れていた尾も、芯を持ったように揃って後ろに流れる。


 気がつくと、右手の震えも止まっていた。


 「……いた」


 遠くに、確かな気配があった。


 胸騒ぎの、正体だ。


 タマは顔を上げる。その瞳に、もう迷いはない。


 *


 詠唱が、終わった。


 「――《近衛迅雷・ストライゼン》」


 最後の句が刻まれた瞬間、リラの身体と、その剣へ、雷が一気に収束した。空気が裂けるような音を上げ、遅れて、足元の土が細かく震える。


 距離が、消えた。


 踏み込みと同時に、雷を纏った剣閃が夜の風を裂いていた。届くことそのものを攻撃に変える一撃だった。


 俺は金棒を振り上げる。雷と金属がぶつかり、白い光が目の前で弾けた。


 その刹那、右手親指の指輪を発動させる。


 リラと剣に集まっていた雷の流れが、無理やり捻じ曲げられた。


 束ねられていた力が行き場を失い、霧のように散った雷は、暗い空気の中へ溶け、やがて視えなくなった。


 「……っ」


 リラの目が、わずかに見開かれた。

 雷は消え、剣はただの鋼に戻っている。


 俺は眼だけを動かし、親指の指輪を確かめた。


 ドゥール、助かった。


 一点に束ねられていたものを押し広げただけだ。落ちる先を見失った雷は、刃に留まれず夜気の中へ散った。


 リラはすぐに距離を取った。

 驚いたのは一瞬だけで、足は止まらない。即座に次の判断が下され、剣が構え直される。


 その隙を縫うように、重装のガルムが踏み込んできた。槍を低く構え、一直線に突進する。倒しに来ているのではない。後方では、エルネストがすでに支援魔法を展開していた。


 「ーー《加速付与》」


 ガルムの踏み込みと反応速度が、一段、底上げされる。


 リラが雷で切り込み、ガルムが退路を潰し、エルネストがその隙間を埋める。三人の動きが寸分の狂いもなく噛み合っていた。


 俺は金棒で槍を受け流し、体勢を整える。


 右手親指の指輪は、もう光らない。

 昼間の川辺で、ほとんど使い切っていた。タマに充填してもらう暇など、どこにもなかった。


 リラはもう、次の詠唱に入っている。

 雷の気配が再び集まりはじめる。攻めに転じる隙はなく、ただ防御に徹するしかない。


 金棒を振るい、受け、凌ぐ。一撃ごとに足元の土が削れ、腕に重さが積み重なっていく。


 金棒を握る指の感覚が、少しずつ遠くなってきた。


 ふと、空気が変わった。


 「……上か」


 夜空の向こう側、何かが偏りはじめているのが視えた。


 魔力によって作られた、力の溜まりだ。

 

 「落とす気か」


 リラの剣に、もう雷は纏われていない。その代わり、空そのものが低く唸っている。


 稲妻が、夜空を一筋、走り抜けた。


 神眼で流れを追う。

 上に作られた溜まりから、地へ向かって伸びる道、その行き着く先に、俺が据えられている。


 纏う雷ではなく、放つ雷だ。

 空中で跳ねた稲妻は枝分かれし、平原の上を駆け巡る。


 ……極大級だな。


 『絶対の力じゃない』


 ふいに、ドゥールの声が蘇る。


 考える間もなく、圧が来た。

 重装騎士ガルムが槍を突き出し、金棒へ体重ごと重さを乗せてくる。俺が逃げられる範囲を潰すための突進だ。


 後方で、エルネストの詠唱が終わり、魔力の壁が立ち上がり、踏み込める余地が消えていった。


 ガルムが場を離れた。入れ替わるように、リラが俺の眼をまっすぐに見据えた。


 「ごめん……もう、手加減できない」


 剣が、頭上へ高く持ち上げられる。


 「ーー《天雷墜撃(てんらいついげき)》!」


 剣が、一気に振り下ろされた。


 逸らすなら……理屈はもう頭にある。

 山の生活で、突如、嵐や雷に襲われたこともある。


 落ちる理由を崩せばいい。流れ道を、ほんのわずかでいい、ずらしてやればいい。


 だが、右手の親指は応えない。金棒だけでは、受けきれん。


 ならば、と身体の奥で氣を起こす。

 溜めるのではなく、一息に引き上げ、巡らせ、限界まで満たしていく。


 神眼を、さらに深く開いた。


 俺の周囲のわずか数歩、その狭い空間を通る空気の流れの、その綻びの一筋までが視えてくる。


 雷の通り道を変えてやるために、その流れへ氣を放った。


 触れ、揺らし、固く結ばれたものを引き剥がすために。


 空気が、鳴いた。


 焚き火に勢いよく息を吹き込んだ時のように、固く結ばれていた空気がほどけ、ばらけ、淡く光を帯びていく。


 あたりがばちばちと音を立てはじめ、雷の好む通り道がそこかしこに生まれていった。


 場が、雷を通したがる側へ少しずつ傾いていく。


 雷が落ちてきた。白い光が、視界を埋め、その白の芯だけが、燃える緋を宿していた。


 だが、それは俺を貫かなかった。

 落ちてきた力は俺の周囲で弾かれ、より低く、より通りやすい方へ逃げていく。


 地面が裂け、湿った土が舞い上がり、空が震えた。


 俺は金棒で、衝撃だけをかろうじて受け止める。

 直撃ではない。それでも、骨の芯まで響いた。


 息が荒くなり、視界の端が、頼りなく揺らぐ。

 

 雷光が収まると、轟音が遅れて追いついてきた。

 平原は焼け、抉られ、低い煙を上げている。


 俺は金棒を握り直した。

 手のひらは汗で濡れ、指の先が痺れている。


 空気は、まだ鳴いていた。


 ほどけた場が俺の周りで微かに揺れ、雷の好みそうな道が、いくつも生まれては消えていく。


 それを見て、リラが息を呑んだ。

 ガルムも、エルネストも、ほんのわずかに動きを止める。


 だが、止まったのはその一瞬だけで、戦意までは途切れていない。


 右手の親指は、沈黙したままだ。


 リラは、俺の一瞬の躊躇を見逃さなかった。一歩踏み込み、剣を構え直し、短く詠う。


 「――《近衛迅雷・ストライゼン》」


 今度は、剣そのものに雷が纏わりついていく。音が遅れて、背後から追いかけてきた。


 速い。あれは、もう躱せない。


 俺は金棒を振り上げる。受けるしか、ない。

 

 雷を纏った剣閃が、真正面から叩きつけられた。

 光と衝撃が、同時に襲ってくる。


 身体の芯まで、切り裂かれた。金棒が中央から折れて弾き飛ばされ、足が地面を離れる。


 次に感じたのは、頬に触れた冷たい土だった。

 視界が揺れ、音が遠のいていく。


 ……ああ、ここまで、か。


 それでも不思議と、後悔はなかった。


 斬らずに、ここまで来た。それだけで、よくやったと、自分を褒めてもいい気がする。


 そのとき、少し離れた場所で、空間がぐにゃりと歪んだ。


 地面に、光の円が描かれていく。


 一度だけ視たことのある、けれど二度と使うまいと聞かされていた”転移の陣”。


 そこから、二つの影が現れた。


 夜にも溶けない、白銀の九つの尾。

 そしてその傍らに、槍を手にした男が一人。


 「……これは、一体どう__」


 レオンの戸惑った声が、遠くで聞こえる。


 タマが俺を見ている。

 揃っていた九つの尾が、すぐにバラバラに揺れ始める。


 ……来たの、か。


 肺がうまく動かない。息を吸うたびに、身体の内側がぎしぎしと軋んだ。


 「……ゲドーマル!」


 白銀の尾が、視界の端に滑り込んでくる。

 タマが俺の傍らに膝をつき、その両手が身体に触れた瞬間、砕けかけていた内側へ、別の流れがゆっくりと巡りはじめた。


 回復魔法か。


 死の側へ傾きかけていた身体が、生きている側へ引き戻されていく。


 それでも意識だけは、少しずつ遠のいていく感覚があった。


 騎士たちがざわついた。ガルムが息を呑み、エルネストが一歩、後ろへ退く音が聞こえる。


 「……状況を説明してもらえますか、リラ隊長」


 レオンの声は低く、どこまでも冷静だった。

 槍を強く握り込む音が、耳に届き、魔力の流れも感じる。


 「命令は継続中よ、レオン殿。これ以上ここに留まれば、あなたたち二人も対象になるわよ」


 レオンは何も言わずに、ただ、俺とタマの前に立ったようだった。


 「レオンさん、行って」


 タマが俺へ顔を向けたまま、告げる。

 レオンが位置を変えた気配はなかった。


 瞼の重さに、だんだんと逆らえなくなっていく。声も遠く、聞き取りづらくなってきた。


 眠い。


 遠く懐かしい記憶が、瞼の裏に蘇ってくる。

 俺の手を、濡れた手拭いで拭いてくれる、少しだけ困った顔をした女。


 ”緑の匂いのする、女”。


 『手、洗おうよ』


 「……会いたい」

 「今は……だめ!」


 タマが短く叫んだ。


 「サエさんには会わせられない。死なせない!」


 回復は止まらない。

 タマの手が俺の衣を掴み、歯を食いしばりながら魔法を使い続ける。


 遠ざかりかけていた意識が、少しずつこちら側へと帰ってくる。


 そのとき、場が……変わった。


 「そこまでだ」


 風が、ふいに森の匂いを帯びる。


 地面の奥のほうから、何かが応えるような感触があった。


 アウレオンが現れ、その隣へ、ドゥールが駆け寄ってくる。


 リラの声が、即座にアウレオンへ向けられた。


 「冒険者アウレオン、何しに来たの?」


 だが、アウレオンはその問いには答えず、代わりに、タマへ静かに告げる。


 「遅くなった。ドゥールを呼びに行ったあと、ここを見つけるのに、思いのほか手間取った」


 そう言って、アウレオンが手を掲げる。


 すると、光が集まり、葉の粒のようなものが宙に舞い、気づくと、そこに”鹿の姿”があった。


 静かで、何ひとつ揺るがない。世界の一部が、そのまま立ち上がってきたかのような存在だった。


 「あれは……森精霊、《シルヴァン・ブラン》?」


 リラが驚きとともに呟く。


 「馬鹿な……精霊が、応えたというのですか……?」


 エルネストの声にも、隠しきれない驚愕が滲んだ。


 空気の巡りそのものが変わっていく。


 自然の力が場に満ち、アウレオンの魔力が跳ね上がったように視えた。


 彼の自然魔法が、最初から”成立している”。


 リラの剣先が、わずかに下がる。

 顔色が、遠目にも分かるほど悪くなっていた。


 「……明日まで、です」


 タマを見据え、リラが静かに告げる。


 「明日のうちに、王国を去りなさい」


 ガルムとエルネストが、無言のまま後退していく。


 リラは最後に一度だけこちらを振り返り、唇をきつく噛み締めた。


 そして踵を返し、夜の中へ消えていった。


 夜の静けさが、ゆっくりと戻ってくる。


 ドゥールが駆け寄り、俺の口に苦い液体をとろりと流し込んだ。


 「大将、生きてるな?」


 タマの回復と、その薬が噛み合ったのだろう。

 遠かった意識が、ようやくはっきりしてくる。


 俺はまだ地面に横たわったまま、ひとつ、長く息をついた。


 また、死に損なった……な。


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