第12話 王女と王子
王女の私的な部屋は、王城の奥深くにあった。
公式の謁見室とは異なり、そこに並ぶのは必要最小限の調度だけで、磨かれた床と低い天井、外光を和らげる薄布のカーテンが、華美の代わりに静かな緊張を部屋へ満たしている。
その中央で、リラは跪いていた。背筋を伸ばし、頭を垂れる。
訓練で叩き込まれた所作は身体が覚えているが、呼吸だけがどうしても上手くできない。
「__以上が、昨夜の報告です」
今まで感じたことのない緊張の中、声は震えなかった。
ゲドーマルを斬った。
その”斬った”という事実だけを、リラは正確に述べた。
だが、それはすべてではない。
リラは命令の裏にある”意図”に気づかないフリをして、ゲドーマルを殺さなかった。
玉座の代わりに置かれた簡素な椅子の前に立つ女は、口角だけを僅かに持ち上げていた。
アルティシア・クラウディア・レグナ。
《レグナ王国、第一王女》。
淡い金色の髪は深い銀を含んだ光を帯び、きっちりと編み上げられて背に流れている。
飾り気は少ないのに、その一本一本が丁寧に整えられていることの分かる髪だった。
目は薄い灰青で、澄んでいるのに底が見えない。
感情を映さず、相手の内側だけを静かに覗き込む色をしている。
白を基調とした衣装は過剰な装飾を避けながら、素材と仕立てだけで格の違いを示し、細い肩と弱さを感じさせない体躯は、力よりも統制を思わせた。
リラの報告が終わった直後、椅子の肘掛けに添えられていた王女の指先が、ほんのわずかだけ動いた。
白い手の甲に、一瞬だけ細い筋が浮いて、すぐに消えた。
「そう」
アルティシアの声は穏やかだったが、リラの背中に冷たい汗が一筋だけ流れた。
アルティシアが一歩、また一歩と、リラへ静かに近づいてくる。
絹の衣擦れの音が、やけに大きく聞こえた。
リラは動かない。いや、動けない。喉が一度だけ静かに上下した。
視界の端で白い裾が揺れながら近づき、王女の足が、すぐ目の前で止まった。
次の瞬間、両頬を、やわらかく冷たい手が包んだ。
「顔を上げて」
命令ではない。だが、拒否という選択肢もない。
リラがゆっくりと顔を上げると、至近距離に薄い灰青の瞳があった。
アルティシアの親指が頬の輪郭を、まるで慈しむように、ゆっくりと一度だけ撫でた。
「少しでも呻き声をあげたら、殺します」
その囁きは、リラ自身が凍ってしまうのではと思うほどに静かだった。
同時に、魔力が流れ込んできた。
思考の奥、感覚の根元に、冷たい指を差し込まれるような感触だった。
カチ、カチ、とリラの奥歯が音を立てる。
リラは奥歯を噛みしめ、声を殺した。
視界が揺れ、膝から力が抜けていく。
床に置いた拳の中で爪が手のひらへ食い込み、こめかみから滲んだ汗がひと筋、顎を伝って地面に落ちた。
それでも、呻かない。呼吸の音さえ、押し殺す。
どれほどの時間が経ったのか分からない中、ふいに、圧が消えた。
「はい。よく我慢しました」
先ほどと同じ、口元だけの微笑みだった。目には相変わらず、何も映っていない。
力が入らず、身体が前へ倒れそうになる。
その肩を左右からすかさず支えたのは、ガルムとエルネストだった。
二人とも何も言わない。ただ力強く、確かに、リラの身体を受け止めている。
リラの肩当てを掴むガルムの手に力がこもる。その重みがリラを支えている。
「報告は正確に。あなたには期待しているのよ」
アルティシアはもう興味を失ったかのように視線を外し、窓のカーテンの先へと顔を向けた。
「下がりなさい」
リラは肩を借りたまま立ち上がり、頭を下げて踵を返す。
王城の扉が閉じる音が、やけに遠くに聞こえた。
*
王城の回廊は、朝の光に満ちていた。
高い天井から差し込む光は白く、装飾の施された柱や壁を均等に照らしている。
先ほどまでいた王女の私室の閉塞感が、まるで嘘のようだった。
リラはガルムとエルネストに肩を借りながら、ゆっくりと歩いていた。
足取りは覚束ない。魔力の残滓がまだ身体の奥に残っていて、無理に背筋を伸ばそうとするたび、視界が揺れた。
「……大丈夫だ」
ガルムが小さく言い、
「無理しないでください」
エルネストも短く続けた。二人とも、それ以上は何も言わない。
言葉が今のリラを救わないことを、知っているのだ。
そのときだった。
正面から一団が歩いてきて、自然と足が止まった。
先頭に立つ青年は、柔らかな笑みを浮かべている。
淡い金色の髪に深い銀を含んだ光が混じっているのは、王女と同じ。
だが、薄い灰青の瞳はどこまでも穏やかで、同時に、決して揺るがない確固たる芯を宿している。
背筋は真っ直ぐで歩き方に無駄がなく、武を修めた者特有の安定感が、全身から滲み出ていた。
ルキアス・セリウス・レグナ。
《レグナ王国、第一王子》。
アルティシア王女の兄。
その隣を歩く男は、外套のフードを深く被っている。
姿勢は崩れ、歩き方もどこか雑なのに、周囲への注意だけは一度も途切れていない。
ハル。近衛騎士団第四団の隊長で、リラにとっては名前と顔だけの存在だった。
ルキアスの影として、表舞台にほとんど出てくることのない男が、ここにいる。
リラは反射的に膝を折った。支えていたガルムとエルネストも、すぐにそれに倣う。
「顔を上げてください」
ルキアスの声は、アルティシアと兄妹だとは信じられないほど、穏やかだった。
「ここは報告の場ではありません」
それでも三人は跪いたままでいる。
ルキアスは一瞬だけ困ったように眉を下げ、それから小さく息を吐いた。
「昨晩の件について、少しだけ聞きたいことがあります」
穏やかな声の中に、逃げ道を塞ぐような”静かな圧”があった。
ハルは口の端を吊り上げたまま何も言わず、ただリラを値踏みするように眺めている。
王城の回廊を吹き抜ける風が、三人の衣を揺らした。
*
王都の外れ、東寄りの森の中に、小さな小屋があった。
獣道からも外れ、意識して探さなければ辿り着けない場所。
周囲には自然魔法による簡易的な結界が張られていて、近づく者の意識をわずかに逸らす。
魔力の主張は弱く、見張りというよりは、ただ”見つかりにくくする”ためのものだった。
夜。王都の灯が遠くに滲む頃、森は深い静けさに包まれていた。
小屋に集まった三人は、同時に辿り着いたわけではない。
レオンは一度、門の任に戻っている。
何事もなかったかのように立ち、通行証を確認し、いつもと変わらない一日を過ごしてからここへ来た。
ドゥールもまた、魔道具屋で道具の調整や依頼の対応を普段通りにこなした後だ。
アウレオンは森を抜けて、最も遅く合流した。
小屋の中は、夜気を含んだ空気で満たされている。
質素なテーブルと椅子、壁際に整然と置かれた最低限の道具。
住居というより、長居を前提としない隠れ家。
リビングにあたる部屋で、ドゥール、アウレオン、レオンの三人が向かい合って座っている。
それぞれの前には湯気の立つ紅茶が置かれているが、誰も口をつけていなかった。
「……結果として、近衛騎士隊長の任務を妨害したことになる」
ドゥールが短く整えられた髭に手をやり、いつもの気易い笑みを消して、ただ事実だけを淡々と言う。
レオンの口元に、自嘲気味な苦笑いが浮かぶ。
「そうだな。言い訳はできない」
彼は視線を落とし、迷いを隠すように、細い指先でそっとカップの縁をなぞった。
「でも、俺は__」
アウレオンは黙ったまま、窓の外を見ていた。
森の闇に溶けるような視線で、その翡翠の瞳は何かを追っている。
「森が、変わってきている」
アウレオンのぽつりと漏れた声に、二人が顔を上げた。
「エルフの里を壊した魔族を追って王都に来た。その時からだ。いや、おそらくもっと前から、風向きが安定しない。足取りも、戻るたびに微妙に違う」
アウレオンはそのまま、声のトーンを変えずに話す。
「確信はない。ただ、嫌な予感がする」
ドゥールは、紅茶に目を落とす。
「……魔道具もだ。感度が鈍っている。魔力の流れ、在り方が曖昧になっている感じがする」
誰も、すぐには答えなかった。
小屋の奥、寝室の扉は閉じられている。
その向こうには、ゲドーマルとタマがいる。
あれから一日以上が経つが、ゲドーマルはまだ目を覚まさない。
静かな時間が流れ、外で風が木々を揺らした。
その音はどこか、森の奥から聞こえてくるようにも思えた。
*
意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
最初に感じたのは痛みではなく、胸の奥に残る鈍い感覚と、身体が鉛のように動かない違和感。
息をしようとして、浅く空気を吸い込む。
生きている。
そう理解したところで、胸の奥で何かが脈打った。
深いところからくるもの。
《鬼の衝動》。
“殺されかけた”という事実だけが、鬼の血を騒がせている。
だが、俺はいつものように氣の流れを使って、それを押し込んだ。
目を開けると、視界に映ったのは見覚えのない、簡素な木の天井だった。
身体を起こそうとして、やめる。
胸に痛みがない。
服の上からそっと触れてみても傷の感触は消えていて、斬られたはずの場所には、かすかな熱だけが残っていた。
視線を横にやると、椅子に座ったまま、タマが眠っていた。
人族の姿に戻った彼女の、白銀の髪が肩から流れ落ち、伏せた睫毛が白い肌に静かな影を作っている。
その小さく温かい手は、俺の手をしっかりと握ったままだった。
眠りに落ちてなお、その力は少しも緩んでいない。
俺は空いている方の手で、そっとその手を包み込んだ。
生きている証の温度が、はっきりと伝わってくる。
部屋の隅には、宿に置いてきたはずの太刀《終座》が立てかけられていた。
いつもの左腰にあるはずの位置から外され、それでも手の届く場所に置かれている。
その隣には、折れた金棒があった。
中央から上が無残に破壊され、あの一撃の名残として、完全に役目を終えた姿で床に横たわっている。
高かったんだがな。
俺はゆっくりと息を吐き、タマの手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
それでも、タマは俺から離れなかった。
俺は静かに目を閉じた。まだ、起きる時じゃない。
外では、風が森を抜けていく音がしていた。
*
コンコンコン、と扉を叩く音がした。
その音で俺は目を開けた。隣でタマが小さく身じろぎし、握られていた手が、わずかに強くなる。
外の気配を探る。三つ。どれも、知っている。
「……入るぞ」
アウレオンの声と共に扉が静かに開き、入ってきた三人は全員、俺の様子を一瞬だけ確認してから、視線を逸らした。
「起きてたか」
「今な」
喉が少し痛むが、声は出る。
俺は片手でタマの手を握ったまま、もう片方の手でゆっくりと上体を起こした。
タマがそっと俺の腕に触れる。白銀の髪が、肩の上でわずかに揺れていた。
「……無理しないで」
「分かっている」
そう返して、俺は三人を見る。
「で、話があるんだろ」
ドゥールが目を細め、小さく息を吐くと、短く頷いた。
小屋の壁を透かして森の虫の声が遠く聞こえ、窓の隙間から入り込んだ夜の空気が、紅茶の残り香に混じって冷たさを運んでくる。
「王女の命令だったようだ。近衛騎士が動いた以上、そこはほぼ確定だ。隠してもいない……だが、それだけだ」
レオンが片手で額を抑えながら、続ける。
「どうしてゲドーマルだったのか。どうして”捕縛”じゃなく、”暗殺”だったのか。そこが、分からない」
俺は腕にタマの体温を感じながら、何も言わずに聞いていた。
「時期が合いすぎている」
扉の柱に身体を預けたまま話す、アウレオンの声の温度は変わらない。だが、翡翠の瞳だけが一瞬、硬くなる。
「里を壊した連中の動きと、王都で起きていることが、妙に噛み合わない」
ドゥールがアウレオンの言葉を継いだ。
「それでも線が繋がらない。魔族がなぜお前を狙ったのか。なぜ、王女がそこに出てきたのか」
小屋の外で風が木の枝を揺らし、乾いた葉の擦れる音が、やたらと大きく聞こえた。
「……つまり」
俺は静かに口を開く。
「誰かが俺を邪魔だと思った。だが、その理由が見えない」
三人とも黙ったまま、俺の言葉を否定しなかった。
「そうだ」
沈黙を破るように、ドゥールが言う。
「だからこそ、厄介なんだ」
「分かった。問題ない。いつものことだ」
俺は腕に鈍い痛みを感じて、視線を落とす。
タマが俯いたまま、その指先が白くなるほど、俺の腕を強く握っている。
……無意識だろう。
俺はそっとタマの腕を空いている手で撫でると、タマは俺の眼を見て慌てて手の力を抜く。
それでも、俺の腕を離すことはしなかった。
三人は黙って俺たち二人を見ている。
その時、再び、扉が叩かれる音が部屋に響く。
今度はこの部屋ではなく、表の扉。
そのはっきりとした音が、小屋の中の空気を一気に張り詰める。
俺は反射的に息を整え、外の気配を探った。
二つだ。
ドゥールと視線を交わすと、アウレオンが無言で頷いた。
「……私が出る」
アウレオンがそう言って扉に向かう。手が自然と腰に差してある剣の柄に向かう。
タマが俺の腕を両手で引っ張る。
「ゲドーマル」
「大丈夫だ」
俺はタマの白銀の髪を撫でるが、正直、言い切れるほど状況が分かっているわけじゃない。
それでも、俺はタマに逃げるところをみせるつもりはない。
全員でリビングに向かう。
アウレオンがこちらを一度見てから、扉を開けると、夜の空気が一気に流れ込んできた。
森の匂いに混じって、かすかに石と鉄の残り香がする。王都の側から来た者の匂いだ。
立っていたのは、二人だった。
一人は外套のフードを深く被った男で、姿勢は崩れているのに視線だけが鋭く、周囲を一瞬で把握する癖が染みついている。
もう一人は、正面から俺を見ている青年だった。その目は、曖昧さを残さない強さを宿している。
「初めまして」
青年が静かに名乗った。
「ルキアス・セリウス・レグナ。王国第一王子です」
その瞬間だった。
「……っ!」
背後で慌てた気配が弾け、レオンがほとんど反射で膝を折った。
「し、失礼いたしました! 王子殿下とは知らず!」
床に手をつき、深く頭を下げる。膝が板を打つ音が、小屋に短く響いた。
京の都で地を這う民が、天子を乗せた牛車を前に平伏した時のような、反応。
だが、その動きには、門番騎士として訓練された所作の重みが、そのまま残っている。
「そのままで」
ルキアスは落ち着いた所作のまま、手で制した。
「今日は、そういう場ではありません」
柔らかな声だったが、逆らわせない力があった。
レオンは戸惑いながらも、ゆっくりと顔を上げる。
その隣で、フードの男が肩をすくめ、深く被っていたフードを取り顔を出す。
淡い灰色の髪に、細めの目。その嘘っぽい笑顔で口を開く。
「ハルだ。第四団の隊長」
砕けた口調とは裏腹に、視線は一度も油断していない。
「王子殿下周辺の、面倒なところ担当ってことで覚えてくれりゃいい」
俺は二人を視た。
「……ゲドーマルだ。ただのFランク冒険者だ」
そう言うと、ハルが肩をすくめ、口の端を上げた。
「その”ただの”に、随分手を焼かされてる」
ルキアスが一歩前に出る。
「今日は命令ではありません」
そう前置きしてから、はっきりと言った。
「話をしに来ました」
小屋の中に通すと、ルキアスは一度だけ周囲を見渡し、それから俺に向き直った。
「まず、謝罪を」
そう言って、王子は頭を下げた。深く、はっきりと。
レオンの動きが、完全に凍りついた。開いた口から言葉が出ることもなく、ただ目を見開いたまま、あり得ないものを見るようにその光景を凝視している。
タマは少しだけ驚いたように目を見開いた。俺の手を握る細い指先がピクリと跳ねる。
アウレオンに大きな動きはないが、その翡翠色の目が大きく開く。
ドゥールは短く整えられた髭をガシガシと雑に掻き、深くため息をついた。
ハルはどこか飄々とした苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
ルキアスはそれらを気にとめることもなく続ける。
「王家の名が出たことで、あなたに危険が及んだ。本来、守るべき立場の者が、逆のことをした」
俺は、何も言わなかった。
テーブルの上で、冷めきった紅茶の表面がかすかに揺れている。
ハルが口を挟む。
「近衛が動いたのは事実だ。命令が王女殿下から出たのも、ほぼ間違いない」
そこで、一度だけ部屋をさっと見渡す。
「だが、理由が分からない。裏は洗った。それでも、お前を狙う合理的な理由が出てこない」
「ミルザとかいう魔族だろ」
俺が言うと、ハルの指先がほんのわずかに止まった。
ルキアスは表情を変えず、否定もしなかった。
「可能性は高い。数年前から王都に魔族が入り込んでいる兆しがある」
ハルが苦い顔をしながらも続ける。
「南の川辺の件も俺が見てた。ミルザだけじゃない。まだいる可能性が高い」
「……王城の中にも、か」
アウレオンが言うと、ハルは答えずに笑った。
「だから、あなたに頼みたい」
ルキアスが背筋を伸ばしたまま、真っ直ぐ俺を見る。
「古のドラゴンです。《風の古竜・アウル=ヴェイル》」
その名が耳に届いた瞬間、髭をさすっていたドゥールの指先が、止まった。
アウレオンの淡い翠の髪が微かに揺れる。レオンだけが意味を掴みかねて、視線を泳がせていた。
「復活の兆しがある。魔族がそれを王都で暴走させようとしている可能性がある」
「それに、俺が関係していると?」
「ええ」
ルキアスは、迷いなく頷いた。
「魔族があなたを警戒した。理由は分かりません。ですが、理由があるからこそ、狙った」
彼は、一歩だけ前に出る。
「《アウル=ヴェイル》を調べてほしい。止められるなら、止めてほしい。難しくても、情報が欲しい」
「代わりに」
ハルが軽い調子で続けた。
「近衛騎士の中で、誰が王女に暗殺を唆したのか。そこは、こっちで洗う……返事は、今じゃなくていい」
ルキアスが補足する。
「数日中に、もう一度ハルを寄こします。それまでに、答えをください」
そう言って、彼は一礼した。王子としてではなく、一人の人間として。
二人が去った後、小屋の中は静まり返った。
扉が閉まる音が消えてから、虫の声がゆっくりと戻ってくる。
俺は隣に立つタマを視た。彼女は何も言わず、ただこちらを見ている。
白銀の髪の先が、肩の上でまだ小さく震えていた。
決めるのは、彼女だ。俺はその後ろに立つ。
*
朝の空気は、澄んでいた。
王都を見下ろす丘に腰を下ろし、俺はゆっくりと息を吸う。
城壁も街の屋根も少しだけ見下ろせる、近いのにほんの少しだけ距離のある場所だった。
ここは、タマが《翻訳の指輪》を渡してくれた場所だ。
結果として、俺がこの世界で生きていく準備をした場所でもある。
隣には、タマが並んで座り、同じ方向を見ている。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が静かになっていく。
朝日が昇り始め、王都の屋根を一つずつ照らしていく。
昨日までと、何も変わらない街だ。
俺はなんとなくタマの手を取る。指先がわずかに震えたのが分かる。
「……王都を出るか?」
そう聞いたのは、俺だった。
タマが少しだけ驚いたように金色の目を見開く。
白銀の髪がさらりと揺れ、彼女は俺の手を握ったまま、信じられないというように俺を見つめた。
街を出たいと言ったのはタマの方で、あの時、俺はそれを受けた。
彼女はきっと、俺がここに残ると思っていたはずだ。
「薬草採取、楽しかっただろ。他のところなら、きっとまたそういった暮らしができる」
そう言うと、タマは小さく笑った。
「……うん」
「約束もしたしな」
王都を離れて、どこかで静かに暮らす。それは、悪くない未来だった。
タマは少し考えてから言った。
「王国を出れば、もう追われないかもしれない」
視線は、遠くに向けたままだった。
「山でもいいし、海でもいい。帝国の帝都なら、王都とは全然違う大きな街だよ。街がいいなら、それでもいい」
タマの口から言葉が、次々に溢れてくる。
まるで、雪山が春に一気に雪解け水を溢れさせるようだった。
「きっと、飲んだことのないお酒もある」
俺は思わず笑った。
「それは重要だな」
タマもつられて満面の笑みになる。
一瞬だけ、穏やかな未来が、はっきりと形を持った。
「でも__」
タマはその笑顔を、ゆっくりと引っ込めた。
「やっぱり、だめだと思う」
泣きそうな目で俺を見る。
「逃げても、逃げても……結局、次でも逃げることになる」
繋いだ指先に、力がこもる。
「いつか、逃げきれなくなる」
タマの視線が一瞬だけ、自分の足元に向いた。
それは経験から出た言葉だろう。
想像じゃない。何度も、何度も、逃げてきたのだろう。だから、知っている。
「王子の話を受けるかどうかは、まだ分からない」
タマはもう一度、俺を見る。
「でも魔族とは、ここでちゃんと縁を切るべきだと思う」
その目は、揺れていなかった。力が込められている。
俺は頷いた。
「分かった」
迷いはなかった。
決めるのはタマで、俺はその後ろに立つ。それが、約束だ。
俺は立ち上がり、続いてタマが俺の隣に立つ。
朝日が、二人分の影を丘の向こうへと伸ばしていく。
風が吹いた。昨日までとは、確かに違う風だ。
今度はもう、目を逸らす気はない。
俺は盃を手放さない。




