表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
14/51

第13話 嵐の前の静けさ


 王都からさほど離れていない場所に、地下へ造られた空間があった。


 外界の気配が遮断された薄暗いその場所には、魔力だけが濃いまま、淀んだまま漂っている。


 そこに、二つの影があった。


 白灰色の肉体と、額から伸びる二本の黒い角。その根元を覆う深い紫の長髪が、無造作に揺れている。


 ミルザは不敵な笑みを浮かべたまま、報告を終えた。


 「__以上だね」


 放たれた声には、狂気にも似た熱がこもっている。


 ミルザは笑みを崩さぬまま、首をピキリと不自然な角度へ傾けた。


 近衛騎士を使ったが、それでもゲドーマルの暗殺は失敗した。


 それでも、ミルザの黄金の瞳には焦りの色がない。次がある、そう言わんばかりの顔で、爬虫類めいた瞳が薄闇の中に光っていた。


 だが、返事はなかった。


 少し離れた場所に立つもう一つの影は、ミルザを見ていない。


 細身で無駄のない体躯に、装飾のない黒衣。


 限りなく黒に近い濃紺の髪が肩にかかる程度に伸び、整えすぎてはいない。


 魔族らしい尖った耳が、隠されることなく露出していた。


 ヤグの暗い灰紫の瞳は、空間の奥の何もない場所を、ただ静かに見つめている。


 ミルザが口を開きかけた、その時だった。


 「……河辺で見た」


 ヤグの声は、いつも通り小さく短い。だが、それだけで、ミルザの言葉が止まる。


 王都南の河辺、あの時の光景が否応なく脳裏に浮かんだ。


 ゲドーマルとその隣にいた人族の女、そして魔道具士ドゥール。


 ミルザは舌の先で牙の裏側を一度だけなぞり、黄金の瞳を細めた。


 「次は僕が直接やるよ」


 ミルザは笑い、自身の五指をゆっくりと曲げ、爪を手のひらに食い込ませた。


 奴を放置すれば必ずこちら側の邪魔になる。


 だが、ヤグは首を横に振った。ゆっくりと、しかしはっきりと。

 

 「斬る者ではない」


 ミルザの瞳が、わずかに細くなった。


 「……理由は?」


 ヤグはその質問にはすぐには答えず、空間の奥を見つめたまま、ただ静かに呼吸している。


 「あの眼は、流れを変える」


 世界の流れ、魔族が長い時間をかけて整えてきたもの。計画が順調に進めば、こちらの悲願がようやく叶うはずだ。


 あの男はそれを、意図せず歪める存在。


 ミルザは舌打ちをしそうになるのを堪え、角の生え際を指先でゆっくりとなぞった。


 「あの時……門で初めて見た時に殺しておくべきだったよ。無駄な手間が増えただけだ」


 「直接触れるな。積み重ねてきたものが、全てひっくり返る」


 「……で、どうするんだい」


 ミルザが問うと、ヤグはようやくこちらを見た。だが、動いたのは視線だけで、身体は微動だにしない。


 「利用する」


 ミルザは眉をひそめ、首を傾げる。


 「奴は壊さなかった。止めただけだ」

 

 「確かに……オーガの連携に使った魔力の流れを、ゲドーマルは遮断したね。でも__」


 そこまで言ってミルザは口の動きをとめる。


 壊したのではなく、ただ止めた。


 それが何を意味するのか、ミルザにもようやく分かった。


 魔力も魔法も魔道具も、あの男は理解している、いや、見えている。


 「確かに……門の時も魔力の流れを見ていた」


 指先で角の生え際をなぞる動きが、自然と止まっていた。


 「へぇ……あの時は、ちょっと面白い男、くらいにしか思わなかったけど……へぇ、これは魔王様も喜びそうだね」


 ヤグはそれ以上何も言わないまま、ただ、王都の方角へ視線を向けた。


 「……調べたい」


 その言葉を最後に、再び沈黙が落ちた。


 ミルザは答えない。黄金の瞳だけが薄闇の中で、じっと光っていた。


 「……でも、あいつはこの僕を無視した。魔族を……ね」


 呟きは誰にも届かないまま、淀んだ魔力の中へ沈んでいった。


 *


 王女の私的な部屋は、静かだった。


 厚い石壁が外界の音を飲み込み、窓辺から差し込む陽の光だけが、薄布のカーテンを通して床に淡く広がっている。


 アルティシア・クラウディア・レグナは、窓の前に立っていた。


 外を眺める横顔に、表情らしい表情はない。


 口元だけがわずかに緩み、機嫌が良いようにも見えるが、目は外の景色を映しているのかどうかも定かでない。


 背筋は伸び、両手は自然に重なり、仕草のどこにも無駄がなかった。


 王女として、いつも通りの姿だった。


 その背後で、若いメイドが報告を続けている。


 「書類はすでに整えております。午後の会議の後、お目通しいただけますかと」


 「ええ、ありがとう」


 王女は振り返らず、柔らかく応じた。


 メイドはいつもの距離を保ったまま、次の報告へ移る。


 「本日の来客は、予定通り二名です。どちらも短時間で__」


 「そう。無理のないように」


 メイドの声も、王女の相槌も、いつも通りの朝の一幕として流れていく。


 メイドは手元の書付に視線を落とし、次の言葉を口に乗せようとした。


 「それから……お体の具合はいかがでしょうか。本日は少し__」


 そこで、言葉が止まった。


 喉の奥に何かが詰まったような感触があり、続けようとした言葉が、声になる前に形を失っていく。


 部屋の空気が変わったわけではない。王女も動いていない。


 冷たい、とメイドは思った。


 雨が降る前の、空が低く落ちてきたときのような匂いが、王女の周囲にだけ静かに漂っている。


 「__少し、冷えますので」


 メイドは言い直した。


 今度はいつも通り口が動き、聞き慣れた自分の声が無事に出た。


 それでも、次の質問はできない。言葉を生み出すための動きを、口が拒絶する。


 王女はこちらを振り返らず、窓の外を眺めたまま、口元の緩みを保っている。


 「……あなたは」


 そこで王女はゆっくりと振り返る。声は静かで、しかしよく通り、問いかけというより、独り言に近かった。


 「私に、忠実ですか?」


 メイドは迷わず頷いていた。


 「はい。もちろんでございます」


 そう答える以外の選択肢が、最初から存在しなかったかのように、言葉は唇からするりと滑り出ていた。


 アルティシアは口角をわずかに深くした。目は、やはり笑っていない。


 「そう。なら、いいのです」


 いつも通りの朝のやり取りが、そこで静かに終わった。


 メイドは一礼し、部屋を辞した。


 扉を閉め、廊下を数歩進んだところで、足が止まる。


 回廊を抜ける風が首筋に触れ、石の床の冷たさが靴底から上がってくる。


 さっきまでの部屋の空気との落差に、皮膚が一瞬だけ粟立った。


 何かが、消えている。


 さっきまで何かを考えていた。何かを聞こうとしていた。それは確かだった。


 だが、その輪郭はもうどこにもない。


 メイドは小さく首を振り、再び歩き出した。


 靴音が回廊に規則正しく響く。いつも通りの足音だった。


 *


 冒険者ギルドの中は、いつも通りだった。


 依頼の掲示板の前では冒険者たちが足を止め、どれがより自分たち好みか吟味している。


 受付からは事務的なやり取りが響き、酒場側からは笑い声が上がっていた。


 リーネが忙しそうに動き回る姿も、いつも通りだった。


 平和だ。少なくとも、表向きは。


 ドゥールは納品の包みをカウンターに置きながら、その光景を眺めていた。


 包みの中の魔道具を布ごしに、無意識のうちに指先で撫で、それから手を離した。


 カウンターの向こうで、シオウはいつもと同じ顔をしている。


 だが、目の奥の光だけが違った。


 肉体の疲れではなく、もっと深いところの疲労だった。


 「ドゥール、少し来い」


 呼ばれて、奥の部屋へ向かう。扉が閉まると、外の喧騒が一気に遠のいた。


 シオウは椅子に腰を下ろす前に、一度だけ深く息を吐いた。天井ではなく、床を見ながら。


 「……本来、こんな話をする立場じゃないんだがな」


 前置きは、それだけだった。


 二人以外誰もいないこの部屋で、声は小さく、低く抑えられている。


 近衛騎士が動いたこと。王女の名前が使われたこと。そして、処刑が失敗に終わったこと。


 シオウが一つ語るたびに、奥の部屋の空気が重くなっていくのをドゥールは感じていた。


 扉の向こうでは冒険者たちの笑い声がしていて、その落差が、事態の深刻さをかえって際立たせる。


 ドゥールは胸元の工具ベルトの留め具に触れ、すぐに手を離した。


 シオウは机に手を置き、両手の指先を組んだり離したりしている。


 「……王城筋から、このギルドに圧がかかった」


 机の木目を見つめたまま、続ける。


 「街に残るなら、次はないと……そう伝えろ、と来た」


 シオウは一度だけ唇を結び、それから口を開いた。


 「王都冒険者ギルドはな」


 目を伏せたまま言った。


 「王家と敵対した瞬間に終わる」


 守れるのは、日常までだ。依頼を回し、街に住む人々の生活の手助けはできる。


 だが、その王都の枠の外に立つ者の命にまで、ギルドの手は届かない。


 ドゥールは何も言わず、短く整えた髭の先を親指でゆっくりとなぞった。


 しばらく、沈黙が落ちた。


 シオウは机から視線を逸らし、部屋の隅の壁へ向けた。


 「……俺も、気に入ってるんだよ」


 声が、更に小さくなる。


 「あいつら。今どきの若者とは思えないほど、”正しい行動”をする……俺のいいつけは守りもしないが……」


 ゲドーマルとタマ。


 善良であることが理由で殺される者たちと、それを止められない自分。


 シオウの手が、机の上で一度だけわずかに動いた。握りかけて、止まる。


 「だから余計に腹が立つ」


 少し間があって、続ける。


 「ギルドとしては動けない」


 やがてシオウはドゥールを見た。視線が合うのは、この部屋に入って初めてのことだった。


 「……個人としてなら、止めない」


 それがギルドマスターという枠に囚われている、彼に許された限界だった。


 ドゥールは何も答えずに立ち上がり、工具ベルトの留め具を一度だけ確かめてから、部屋を出た。


 扉を開けると、ギルドの喧騒が耳に戻ってくる。


 冒険者が笑い、依頼が回り、日常が続いている。


 奥の部屋で、シオウは椅子に深く座り込んだまま、しばらく動かなかった。


 机の上には未処理の依頼書が積まれていて、その一番上の紙が、扉を閉めた時の風でわずかに揺れた。


 やがて静かに戻り、また、動かなくなった。


 *


 森は、静かだった。


 音がないわけではない。風は吹き、葉は擦れ、遠くには獣の気配もある。


 だが、それらがどこか噛み合っていない。


 音と音の間に、本来あるべき繋がりがなく、森全体が一つの生き物として呼吸していない。


 アウレオンの手が目の前にある大木に触れ、その微かなずれを拾い上げた。


 「……森が、息苦しそうだ」


 王都東、《迷いの森》。


 人が踏み入れば道を失い、弱い魔物も無意識に避けるこの場所に、今日はアウレオン一人だった。


 細身の剣が腰に収まったまま動かず、淡い翠色の長髪が風に揺れる。


 アウレオンは手を宙に浮かせてみると、その風もやはり、どこかおかしかった。


 今度はしゃがみ、足元の土に指先を触れさせた。水分の流れ方が、昨日と違う。


 ほんのわずかだが、地の中を動く水の向きが変わっている。


 一つ一つは、季節の変わり目で片付けられる程度の変化に過ぎない。


 だが、森に生まれ、森で生きてきた者として感じる”異変”。


 アウレオンは立ち上がり、目を閉じた。


 耳を澄ますが、正確な位置が一瞬だけ掴めなかった。


 それはほんの一瞬だけで、すぐに感覚は戻った。


 足裏に土の感触が返り、意識が現在地を取り戻す。


 だが、その一瞬が、これまでの人生において一度もなかった。


 翡翠色の瞳が、森の奥へと向けられる。


 肩口で、淡い光が揺れた。


 葉の粒を散らしたような、輪郭を持たない光。


 声もなく、鹿の形すら造らず、ただそこに在る。


 在ることが自然であるように、光はアウレオンの肩の近くで静かに揺れていた。


 シルヴァン。


 光の存在は揺れながら、森の奥に反応している。


 引き寄せられるように、あるいは押し返されるように、その揺れが一定のリズムを持てずにいた。


 「……分かっている、シルヴァン。お前にも見えているんだな」


 独り言のように、アウレオンは呟いた。


 光が一度だけ、小さく揺れた。


 風が迷い、地が揺らぎ、森の輪郭そのものが曖昧になりつつある。


 アウレオンは腰の剣の柄に触れ、それから手を離した。


 確証はなかった。だが、確信に近いものはあった。何かが、進んでいる。


 アウレオンは歩き出した。深追いはしない。踏み込めば、森がそれを許さないかもしれない。


 背後で、光が一瞬だけ強く瞬いた。


 シルヴァンもまた、同じものを感じ取っている。


 森はまだ眠っているが、足裏を通して伝わる地面の振動が、ほんのわずかに深くなっていた。


 何か大きなものの呼吸に、地面そのものがずらされ始めている。


 アウレオンは振り返らず、その場を離れた。


 目を逸らすには、遅すぎた。


 *


 王都の正門は、今日も開いていた。


 朝から人の出入りは多く、荷を積んだ馬車が行き交い、旅人が通行証を差し出す。


 門番の声が規則正しく響き、街は平穏そのものだった。


 レオンはいつもの持ち場に立っている。


 槍を持ち、通行証の印章を確認しては顔を見る。


 視線の泳ぎ、荷の不自然な重さ。


 何百回と繰り返してきた門番の所作が、今日に限って、別の意味を帯びて手に残った。


 この中に”あの命令”を知っている者は、いないか。


 そんなことを探し始めている自分に気づいて、レオンは奥歯を噛み締めた。


 「次」


 声をかけ、書類を受け取る。印章を確かめ、軽く頷く。


 いつもと同じ手順、いつもと同じ動作。


 同僚と目が合えば、短く言葉を交わす。


 「今日は人が多いな」

 「この時期はこんなもんだろ」


 会話も、変わらない。


 誰も、何があったのかを知らない。王女の名が使われたことも、誰かが次に殺されるかもしれないことも。


 王都を離れる者と、戻ってくる者。レオンは、その流れを見送った。


 槍の柄を握る手に、違和感があった。


 重さは変わらない。長さも感触も、いつも通りだ。それでも……しっくりこない。


 「……変わらないな」


 呟きは、風に溶けた。


 荷馬車が轍を残し、旅人が笑い、門番が声を張る。


 昨日と同じ光景のはずだった。


 だが、レオンの手は通行証を返すたびに、ほんの少しだけ何かが胸に引っ掛かる。


 門を通る者の中に、近衛の紋章がチラリと見えた。


 手が一瞬止まり、何事もなかったかのようにすぐ動き出す。


 だが、槍を持つ右手の親指だけが、握りしめた強さの分だけ、わずかに白くなっていた。


 *


 近衛騎士の詰所は、夜でも明るかった。


 灯りは落とされず、床も清掃されている。


 規律は保たれ、当直の交代も滞りなく行われ、何一つ乱れてはいない。


 外では夜風が吹いているはずだが、この部屋の中では空気すら動かない。


 リラは椅子に腰掛けていた。


 甲冑は外しているが、背筋は伸び、姿勢も崩れていない。


 赤い長髪が肩に落ちたまま、整える気にもなれず、そのままになっていた。


 剣は、手の届く位置に置かれている。


 置いた、というより、手が離せなかった場所に落ち着いた、という方が近かった。


 少し離れた場所に、ガルムとエルネストがいた。


 ガルムは壁に近い位置に立ったまま、腕も組まず、ただそこにいる。


 重槍は壁に立てかけられ、鎧の傷痕が灯りを鈍く受けている。


 エルネストは椅子に腰を下ろし、魔導杖を膝の上に静かに置いたまま、視線を床の一点に向けていた。


 話しかけはしないが、部屋を出ることもしない。


 言葉にできる形が、まだ見つかっていないだけだった。


 リラは自分の手を見ていた。


 手の中にいつもとは違った感触が残っている。


 人を斬ったのは初めてではない。任務の中で、幾度もそうしてきた。


 でも、あの夜の、あの一太刀が、指の内側にまだ貼り付いている。


 「……終わったはずなのに」


 リラは独り言のように呟いた。呟いたというより、こぼれ落ちたと言った方が正確かもしれない。


 ガルムは何も言わず、エルネストも視線を逸らしたままだった。


 扉が静かに開いた。


 足音は最小限で、詰所の空気を乱さないよう抑えられていた。


 ヴァルクスが入ってくる。ハルバードは携えていない。


 それだけで、今夜の用向きが何であるかが分かった。


 彼はリラの前で立ち止まり、腕を組んだまま、一度だけ短く頷いた。


 「……よくやった」


 それだけだった。


 リラはゆっくりと息を吐き、剣に視線を落とした。


 友人を、この手で斬った。命令だったから斬った。


 この手は、いまだにそれを受け入れられていない。


 ガルムが、低く、しかしはっきりと言った。


 「命令は、命令だ」


 壁際に立ったままの姿勢は微動だにせず、視線だけがリラに向いていた。


 エルネストが、少し間を置いてから続けた。杖の表面を指先でゆっくりと撫でながら、言葉を選ぶように、静かに口を開く。


 「……それだけじゃ、片付かないこともあります」


 リラは目を閉じた。眉間に自然と力が入るのがわかる。


 胸の奥に残るものに名前をつけようとして、やめた。


 名前をつければ、それが確かなものになる。今はまだ、そうしたくなかった。


 手の中の感触だけが、灯りの下で静かに在り続けている。


 沈黙が続いた。


 それでも、誰も席を立たなかった。


 ガルムは壁際から動かず、エルネストは杖を膝に置いたまま、ヴァルクスは腕を組んだまま立っている。


 *


 王都の通りは、賑わっていた。


 露店の呼び声と荷車の軋む音が連なり、人の流れは途切れず、街は平穏そのものだ。


 石畳の上を行き交う人々の足音が重なって、一つの大きな音になっている。


「ここが市場だ」


 前を歩くラグスが、振り返りもせずに言った。薄紫の短髪が午後の光を受け、周囲を一度だけ流し見てから、また前に向き直る。


 「朝はもう少し落ち着いてるがな。この時間は、こんなもんだ」


 「人、相変わらず、多いっスね」


 セインが周囲を見回しながら笑った。肩までの薄い茶色の髪が揺れ、杖を脇に抱えながら、露店を覗き込むように首を伸ばしている。


 少し後ろを、カイランが歩いていた。


 白と象牙色のマントが人混みの中でも目を引くが、本人は気にした様子もなく、通りを静かに眺めている。


 聖騎士として王都に来て、まだ数日。教会でラグスとセインが助かった、あの日からの付き合いだった。


 「確かに賑やかだな」


 カイランは柔らかい声で言った。


 「でも、歩きやすい。嫌な感じはしないな」

 「だろ?」


 ラグスが肩をすくめた。


 「事件がなきゃ、王都はこんな顔をしてる」


 通りを子どもが走り抜け、商人が声を張り上げ、客を呼び止める。


 「平和っスね」


 セインが言うと、ラグスも一度だけ頷いた。


 「平和だな。ついこの前、死にかけたのが嘘みたいだ」


 「仕事が減るのは困るが、血の匂いがしないのは悪くない」


 三人はしばらく、歩きながら街を眺めていた。


 ラグスが、ふと足を緩めた。半歩だけ、さりげなく。周囲を確かめるでもなく、ただ歩みが遅くなった。

 

 経験から来る、身体の反応だった。


 「……だが、平和すぎる」


 セインが首を傾げる。


 「そうっスか?」

 「理由は?」


 カイランも自然な調子で尋ねた。


 教会に悩みを抱えてきた者たちの多くは、自分の悩みが何なのか見えていない。


 それを形にするのを手伝うのも、教会に属している者としての仕事。


 急かさず、ただ続きを待つ間の取り方だった。


 ラグスは少し考えてから、ゆっくりと答える。


 「守られてる感じじゃない」

 「守られてない、っスか?」

 「知らされてない、って方が近いな」


 セインは苦笑した。


 「考えすぎじゃないっスか? 何も起きてないならいいじゃないっスか」


 風が通りを抜け、露店の看板がきしんだが、倒れるほどではない。


 カイランはその音に視線を向け、看板が静かに戻るのを確かめてから、歩みを少し緩めた。


 「……なんだろうな」


 二人が、彼を見る。


 カイランは答えを急がず、胸元の十字型のバッジに指先を一度だけ触れてから、続けた。


 「王都に来てから、息が少し重い気がする」

 「重い?」


 ラグスが眉を上げた。


 「聖騎士の勘か?」


 冗談めかした問いに、カイランは笑って首を振る。


 「いや、そんな大げさなものじゃない」


 少し考えてから、続ける。


 右手が自然に剣の柄の方へ動きかけ、何もないことを確かめるように、静かに下りた。


 「戦場とも違うし、祈りの場とも違う」

 「でも?」


 セインが促す。


 「静かすぎる、って感じかな」


 三人は、それ以上言葉を続けなかった。


 街は変わらず平和で、笑い声も足音も途切れない。露店の親父が威勢よく声を張り上げ、子どもたちがその脇を走り抜けていく。


 カイランは歩きながら、無意識に教会の方角を確かめていた。


 祈りの場の方角を常に把握しておく、聖騎士の習性。


 どこにいても、その方角だけは体に刻まれている。


 だが今日は、その方角がほんのわずかに、曖昧に感じられた。


 カイランは一度だけ足を止め、石畳の上に視線を落とした。


 何かを確かめるように、あるいは何かをやり過ごすように、


 少しの間そのままでいた。それからまた歩き出し、二人の背中を追う。


 *


 隠れ家の中は、静かだった。


 灯りは落としているが、真っ暗ではない。


 窓の外から差し込む月明かりが床に薄く伸び、昼のうちにタマが飲んだ紅茶の残り香と古い木材の匂いが、夜の冷たい空気に混じっている。


 俺は椅子に腰掛け、右手から指輪を外して、テーブルの上に置いた。


 小さい音が鳴り、向かいに座っていたタマの目が指輪へ向いた。


 何も言わずに手を伸ばし、白い指先が指輪に触れた瞬間、淡く光る。


 外に漏れないよう抑えられた魔力が、静かに流れ込み、指輪の内側にゆっくりと満ちていく。


 タマの表情は、真剣だった。


 こうして指輪に魔力を込める時だけは、余計なことを言わない。

 

 伏せた睫毛の下で金色の瞳がわずかに細まり、指輪に触れる指先だけがほんの少し動いている。


 俺は、その手を視ていた。


 「……こうして視ると」


 指輪に流れていく光を眺めながら、口を開く。


 「俺、これ無しだと結構まずいな」

 「今さら?」


 タマは作業を続けたまま、顔も上げずに返した。


 「リラとやり合った時、途中で切れただろ」


 月明かりの中で、タマの指先が一度だけ止まる。


 あの時、指輪の魔力は底をつき、魔法に対応する手段が大きく減った。


 タマはしばらく指輪を見つめ、それから小さく息を吐いた。


 「……あれは、本当に肝が冷えた」

 「そうか」

 「そうか、じゃないよ」


 指輪を見つめたまま、目を細め、少しだけ声が尖る。


「だから、外して充填する時は、ちゃんと黙って座ってて」


「分かってる。無防備になるからな」


 素直に頷くと、タマはようやく顔を上げた。少しだけ疑うような目だった。


 「本当に分かってる?」

 「今、座ってるだろ」

 「……そこだけは認める」


 指輪の光が、ゆっくりと満ちていく。


 淡く揺れていた光は、やがて内側に吸い込まれるように小さくなっていき、最後にひとつ小さく瞬いて消えた。


 「はい、終わり」


 タマが指輪を手に乗せ、こちらへ差し出してくる。


 俺が手を出すと、タマは俺の手首を押さえ、俺の手のひらに指輪をそっと乗せると、両手で俺の手を包む。


 そのまま、俺の眼をじっと見つめる。


 「……もう、無茶はしないで。必要なら……ううん、何でもない」


 「ああ、善処する」


 タマは「はぁ」と大きく息を吐くと手を離した。


 俺は受け取り、右手の指にはめ直した。


 指の根元に収まった瞬間、指輪の内側に残っていた魔力の温度が、肌にかすかに触れる。


 軽く拳を握る。問題ない。

 

 「……助かる。タマがそばにいてくれてよかった」


 「知ってる」


 タマはそう言って、視線を横へ逃がした。


 言葉は軽いのに、目は少しだけ伏せられている。耳の縁が、月明かりの中でわずかに赤い。


 こういう時、タマはまっすぐこちらを見ない。


 いつものことだった。


 外では、夜の風が木々の葉を撫でている。


 タマはその音を聞くように少しのあいだ、耳を傾けて、それから口を開いた。


 「で、これから__」


 俺の視線が、棚に止まった。


 「あ……」

 「なに?」


 タマは眉を顰め、魔力を外に広げて気配を探る。


 「酒、切れてる」


 タマは一瞬、固まった。目が点になり、身体も微動だにしない。


 さっきまで揺れていた白銀の髪もぴたりと止まり、開いた口がそのまま塞がらなくなっている。


 「……今、その話する?」

 「今、気づいたからな」

 「流れってものがあるでしょ」

 「流れはよくない。酒がない」

 「そういう意味じゃない」


 タマが額に手を当て、俺に聞こえるようにもう一度、大きくため息を吐く。


 俺は棚を見たまま、しばらく考えた。


 「盃はあるが、中に注ぐものがない。これは、まずい。命の次に大事だろ」


 「優先順位おかしいから!」


 大きな声が隠れ家中に響き渡り、慌てて両手で口を押さえるタマ。


 しばしの沈黙。


 やがて、タマは三度目のため息を吐いた。


 「私が変装して買ってくる。すぐ戻る」

 「じゃあ俺も__」

 「来ちゃダメ。来ない」


 即答だった。あまりに早かったので、言葉が最後まで出る前に切られた。


 タマは椅子から立ち上がり、こちらをまっすぐに見る。


 「王都に行ったらどうなるか、もう忘れたの?」


 少し考えた。王都、レオン、酒屋、酒屋の髭の親父、リラ、面倒事……なるほど。


 「……留守番か」

 「そう。ちゃんと留守番」

 「分かった。つまみ考えとく」

 「だからそういうところ!」


 タマは呆れたように言ったが、怒ってはいなかった。


 立ち上がる時に衣が小さく擦れ、棚の横に掛けてあった外套へ手を伸ばして肩に羽織る。


 その背中を、椅子に座ったまま視ていた。


 小屋の外で風が吹く。窓の隙間がかすかに鳴り、夜の森の匂いが部屋の中へ入ってくる。


 逃げないと決めた。何が待っているかは、分かっている。


 タマは扉の前で足を止めた。手は、まだ取っ手に触れていない。


 「ねえ、ゲドーマル」

 「なんだ」

 「戻ったら……もう普通じゃないから」


 背中越しの声だった。


 軽く言おうとしているのは分かる。


 だが、声がいつもより少しだけ硬い。


 タマは扉を見たまま、こちらを振り返らなかった。


 白銀の髪が、窓を通って入ってきた月明かりを静かに受けている。


 俺は少し笑った。


 「じゃあ、普通じゃない生活だな」


 タマの肩が、ほんのわずかに落ちた。


 「……本当に、考えているようで、何も考えていない」


 「考えるのはサエも苦手だったな」


 「……茨木の苦労がわかる気がする」


 小さくそう言って、タマはようやく振り返った。


 月明かりのせいか、笑った目元が少しだけ柔らかく見えた。


 けれど、その笑みはすぐに隠される。外套の前を整え、いつものように軽く顎を上げた。


 「ちゃんと待っててね」

 「ああ」

 「ちゃんと、大人しくして、待ってて、ね」

 「……分かった」


 その返事を聞いてから、タマは扉を開けた。


 夜の風が、部屋の中へ一度だけ入ってくる。


 白銀の髪が小さく揺れ、次の瞬間、扉は静かに閉まった。


 俺は椅子に座り直し、右手の五つの指輪を視た。


 タマが満たした魔力が、まだほんのりと温かい。


 指を開き、また握る。それから棚に視線を移す。


 手を懐に伸ばし、空の盃を取った。


 何も注がれていないそれを、しばらく手の中で転がす。


 盃は空のまま、窓越しの月明かりをやわらかく受けている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ