第13話 嵐の前の静けさ
王都からさほど離れていない場所に、地下へ造られた空間があった。
外界の気配が遮断された薄暗いその場所には、魔力だけが濃いまま、淀んだまま漂っている。
そこに、二つの影があった。
白灰色の肉体と、額から伸びる二本の黒い角。その根元を覆う深い紫の長髪が、無造作に揺れている。
ミルザは不敵な笑みを浮かべたまま、報告を終えた。
「__以上だね」
放たれた声には、狂気にも似た熱がこもっている。
ミルザは笑みを崩さぬまま、首をピキリと不自然な角度へ傾けた。
近衛騎士を使ったが、それでもゲドーマルの暗殺は失敗した。
それでも、ミルザの黄金の瞳には焦りの色がない。次がある、そう言わんばかりの顔で、爬虫類めいた瞳が薄闇の中に光っていた。
だが、返事はなかった。
少し離れた場所に立つもう一つの影は、ミルザを見ていない。
細身で無駄のない体躯に、装飾のない黒衣。
限りなく黒に近い濃紺の髪が肩にかかる程度に伸び、整えすぎてはいない。
魔族らしい尖った耳が、隠されることなく露出していた。
ヤグの暗い灰紫の瞳は、空間の奥の何もない場所を、ただ静かに見つめている。
ミルザが口を開きかけた、その時だった。
「……河辺で見た」
ヤグの声は、いつも通り小さく短い。だが、それだけで、ミルザの言葉が止まる。
王都南の河辺、あの時の光景が否応なく脳裏に浮かんだ。
ゲドーマルとその隣にいた人族の女、そして魔道具士ドゥール。
ミルザは舌の先で牙の裏側を一度だけなぞり、黄金の瞳を細めた。
「次は僕が直接やるよ」
ミルザは笑い、自身の五指をゆっくりと曲げ、爪を手のひらに食い込ませた。
奴を放置すれば必ずこちら側の邪魔になる。
だが、ヤグは首を横に振った。ゆっくりと、しかしはっきりと。
「斬る者ではない」
ミルザの瞳が、わずかに細くなった。
「……理由は?」
ヤグはその質問にはすぐには答えず、空間の奥を見つめたまま、ただ静かに呼吸している。
「あの眼は、流れを変える」
世界の流れ、魔族が長い時間をかけて整えてきたもの。計画が順調に進めば、こちらの悲願がようやく叶うはずだ。
あの男はそれを、意図せず歪める存在。
ミルザは舌打ちをしそうになるのを堪え、角の生え際を指先でゆっくりとなぞった。
「あの時……門で初めて見た時に殺しておくべきだったよ。無駄な手間が増えただけだ」
「直接触れるな。積み重ねてきたものが、全てひっくり返る」
「……で、どうするんだい」
ミルザが問うと、ヤグはようやくこちらを見た。だが、動いたのは視線だけで、身体は微動だにしない。
「利用する」
ミルザは眉をひそめ、首を傾げる。
「奴は壊さなかった。止めただけだ」
「確かに……オーガの連携に使った魔力の流れを、ゲドーマルは遮断したね。でも__」
そこまで言ってミルザは口の動きをとめる。
壊したのではなく、ただ止めた。
それが何を意味するのか、ミルザにもようやく分かった。
魔力も魔法も魔道具も、あの男は理解している、いや、見えている。
「確かに……門の時も魔力の流れを見ていた」
指先で角の生え際をなぞる動きが、自然と止まっていた。
「へぇ……あの時は、ちょっと面白い男、くらいにしか思わなかったけど……へぇ、これは魔王様も喜びそうだね」
ヤグはそれ以上何も言わないまま、ただ、王都の方角へ視線を向けた。
「……調べたい」
その言葉を最後に、再び沈黙が落ちた。
ミルザは答えない。黄金の瞳だけが薄闇の中で、じっと光っていた。
「……でも、あいつはこの僕を無視した。魔族を……ね」
呟きは誰にも届かないまま、淀んだ魔力の中へ沈んでいった。
*
王女の私的な部屋は、静かだった。
厚い石壁が外界の音を飲み込み、窓辺から差し込む陽の光だけが、薄布のカーテンを通して床に淡く広がっている。
アルティシア・クラウディア・レグナは、窓の前に立っていた。
外を眺める横顔に、表情らしい表情はない。
口元だけがわずかに緩み、機嫌が良いようにも見えるが、目は外の景色を映しているのかどうかも定かでない。
背筋は伸び、両手は自然に重なり、仕草のどこにも無駄がなかった。
王女として、いつも通りの姿だった。
その背後で、若いメイドが報告を続けている。
「書類はすでに整えております。午後の会議の後、お目通しいただけますかと」
「ええ、ありがとう」
王女は振り返らず、柔らかく応じた。
メイドはいつもの距離を保ったまま、次の報告へ移る。
「本日の来客は、予定通り二名です。どちらも短時間で__」
「そう。無理のないように」
メイドの声も、王女の相槌も、いつも通りの朝の一幕として流れていく。
メイドは手元の書付に視線を落とし、次の言葉を口に乗せようとした。
「それから……お体の具合はいかがでしょうか。本日は少し__」
そこで、言葉が止まった。
喉の奥に何かが詰まったような感触があり、続けようとした言葉が、声になる前に形を失っていく。
部屋の空気が変わったわけではない。王女も動いていない。
冷たい、とメイドは思った。
雨が降る前の、空が低く落ちてきたときのような匂いが、王女の周囲にだけ静かに漂っている。
「__少し、冷えますので」
メイドは言い直した。
今度はいつも通り口が動き、聞き慣れた自分の声が無事に出た。
それでも、次の質問はできない。言葉を生み出すための動きを、口が拒絶する。
王女はこちらを振り返らず、窓の外を眺めたまま、口元の緩みを保っている。
「……あなたは」
そこで王女はゆっくりと振り返る。声は静かで、しかしよく通り、問いかけというより、独り言に近かった。
「私に、忠実ですか?」
メイドは迷わず頷いていた。
「はい。もちろんでございます」
そう答える以外の選択肢が、最初から存在しなかったかのように、言葉は唇からするりと滑り出ていた。
アルティシアは口角をわずかに深くした。目は、やはり笑っていない。
「そう。なら、いいのです」
いつも通りの朝のやり取りが、そこで静かに終わった。
メイドは一礼し、部屋を辞した。
扉を閉め、廊下を数歩進んだところで、足が止まる。
回廊を抜ける風が首筋に触れ、石の床の冷たさが靴底から上がってくる。
さっきまでの部屋の空気との落差に、皮膚が一瞬だけ粟立った。
何かが、消えている。
さっきまで何かを考えていた。何かを聞こうとしていた。それは確かだった。
だが、その輪郭はもうどこにもない。
メイドは小さく首を振り、再び歩き出した。
靴音が回廊に規則正しく響く。いつも通りの足音だった。
*
冒険者ギルドの中は、いつも通りだった。
依頼の掲示板の前では冒険者たちが足を止め、どれがより自分たち好みか吟味している。
受付からは事務的なやり取りが響き、酒場側からは笑い声が上がっていた。
リーネが忙しそうに動き回る姿も、いつも通りだった。
平和だ。少なくとも、表向きは。
ドゥールは納品の包みをカウンターに置きながら、その光景を眺めていた。
包みの中の魔道具を布ごしに、無意識のうちに指先で撫で、それから手を離した。
カウンターの向こうで、シオウはいつもと同じ顔をしている。
だが、目の奥の光だけが違った。
肉体の疲れではなく、もっと深いところの疲労だった。
「ドゥール、少し来い」
呼ばれて、奥の部屋へ向かう。扉が閉まると、外の喧騒が一気に遠のいた。
シオウは椅子に腰を下ろす前に、一度だけ深く息を吐いた。天井ではなく、床を見ながら。
「……本来、こんな話をする立場じゃないんだがな」
前置きは、それだけだった。
二人以外誰もいないこの部屋で、声は小さく、低く抑えられている。
近衛騎士が動いたこと。王女の名前が使われたこと。そして、処刑が失敗に終わったこと。
シオウが一つ語るたびに、奥の部屋の空気が重くなっていくのをドゥールは感じていた。
扉の向こうでは冒険者たちの笑い声がしていて、その落差が、事態の深刻さをかえって際立たせる。
ドゥールは胸元の工具ベルトの留め具に触れ、すぐに手を離した。
シオウは机に手を置き、両手の指先を組んだり離したりしている。
「……王城筋から、このギルドに圧がかかった」
机の木目を見つめたまま、続ける。
「街に残るなら、次はないと……そう伝えろ、と来た」
シオウは一度だけ唇を結び、それから口を開いた。
「王都冒険者ギルドはな」
目を伏せたまま言った。
「王家と敵対した瞬間に終わる」
守れるのは、日常までだ。依頼を回し、街に住む人々の生活の手助けはできる。
だが、その王都の枠の外に立つ者の命にまで、ギルドの手は届かない。
ドゥールは何も言わず、短く整えた髭の先を親指でゆっくりとなぞった。
しばらく、沈黙が落ちた。
シオウは机から視線を逸らし、部屋の隅の壁へ向けた。
「……俺も、気に入ってるんだよ」
声が、更に小さくなる。
「あいつら。今どきの若者とは思えないほど、”正しい行動”をする……俺のいいつけは守りもしないが……」
ゲドーマルとタマ。
善良であることが理由で殺される者たちと、それを止められない自分。
シオウの手が、机の上で一度だけわずかに動いた。握りかけて、止まる。
「だから余計に腹が立つ」
少し間があって、続ける。
「ギルドとしては動けない」
やがてシオウはドゥールを見た。視線が合うのは、この部屋に入って初めてのことだった。
「……個人としてなら、止めない」
それがギルドマスターという枠に囚われている、彼に許された限界だった。
ドゥールは何も答えずに立ち上がり、工具ベルトの留め具を一度だけ確かめてから、部屋を出た。
扉を開けると、ギルドの喧騒が耳に戻ってくる。
冒険者が笑い、依頼が回り、日常が続いている。
奥の部屋で、シオウは椅子に深く座り込んだまま、しばらく動かなかった。
机の上には未処理の依頼書が積まれていて、その一番上の紙が、扉を閉めた時の風でわずかに揺れた。
やがて静かに戻り、また、動かなくなった。
*
森は、静かだった。
音がないわけではない。風は吹き、葉は擦れ、遠くには獣の気配もある。
だが、それらがどこか噛み合っていない。
音と音の間に、本来あるべき繋がりがなく、森全体が一つの生き物として呼吸していない。
アウレオンの手が目の前にある大木に触れ、その微かなずれを拾い上げた。
「……森が、息苦しそうだ」
王都東、《迷いの森》。
人が踏み入れば道を失い、弱い魔物も無意識に避けるこの場所に、今日はアウレオン一人だった。
細身の剣が腰に収まったまま動かず、淡い翠色の長髪が風に揺れる。
アウレオンは手を宙に浮かせてみると、その風もやはり、どこかおかしかった。
今度はしゃがみ、足元の土に指先を触れさせた。水分の流れ方が、昨日と違う。
ほんのわずかだが、地の中を動く水の向きが変わっている。
一つ一つは、季節の変わり目で片付けられる程度の変化に過ぎない。
だが、森に生まれ、森で生きてきた者として感じる”異変”。
アウレオンは立ち上がり、目を閉じた。
耳を澄ますが、正確な位置が一瞬だけ掴めなかった。
それはほんの一瞬だけで、すぐに感覚は戻った。
足裏に土の感触が返り、意識が現在地を取り戻す。
だが、その一瞬が、これまでの人生において一度もなかった。
翡翠色の瞳が、森の奥へと向けられる。
肩口で、淡い光が揺れた。
葉の粒を散らしたような、輪郭を持たない光。
声もなく、鹿の形すら造らず、ただそこに在る。
在ることが自然であるように、光はアウレオンの肩の近くで静かに揺れていた。
シルヴァン。
光の存在は揺れながら、森の奥に反応している。
引き寄せられるように、あるいは押し返されるように、その揺れが一定のリズムを持てずにいた。
「……分かっている、シルヴァン。お前にも見えているんだな」
独り言のように、アウレオンは呟いた。
光が一度だけ、小さく揺れた。
風が迷い、地が揺らぎ、森の輪郭そのものが曖昧になりつつある。
アウレオンは腰の剣の柄に触れ、それから手を離した。
確証はなかった。だが、確信に近いものはあった。何かが、進んでいる。
アウレオンは歩き出した。深追いはしない。踏み込めば、森がそれを許さないかもしれない。
背後で、光が一瞬だけ強く瞬いた。
シルヴァンもまた、同じものを感じ取っている。
森はまだ眠っているが、足裏を通して伝わる地面の振動が、ほんのわずかに深くなっていた。
何か大きなものの呼吸に、地面そのものがずらされ始めている。
アウレオンは振り返らず、その場を離れた。
目を逸らすには、遅すぎた。
*
王都の正門は、今日も開いていた。
朝から人の出入りは多く、荷を積んだ馬車が行き交い、旅人が通行証を差し出す。
門番の声が規則正しく響き、街は平穏そのものだった。
レオンはいつもの持ち場に立っている。
槍を持ち、通行証の印章を確認しては顔を見る。
視線の泳ぎ、荷の不自然な重さ。
何百回と繰り返してきた門番の所作が、今日に限って、別の意味を帯びて手に残った。
この中に”あの命令”を知っている者は、いないか。
そんなことを探し始めている自分に気づいて、レオンは奥歯を噛み締めた。
「次」
声をかけ、書類を受け取る。印章を確かめ、軽く頷く。
いつもと同じ手順、いつもと同じ動作。
同僚と目が合えば、短く言葉を交わす。
「今日は人が多いな」
「この時期はこんなもんだろ」
会話も、変わらない。
誰も、何があったのかを知らない。王女の名が使われたことも、誰かが次に殺されるかもしれないことも。
王都を離れる者と、戻ってくる者。レオンは、その流れを見送った。
槍の柄を握る手に、違和感があった。
重さは変わらない。長さも感触も、いつも通りだ。それでも……しっくりこない。
「……変わらないな」
呟きは、風に溶けた。
荷馬車が轍を残し、旅人が笑い、門番が声を張る。
昨日と同じ光景のはずだった。
だが、レオンの手は通行証を返すたびに、ほんの少しだけ何かが胸に引っ掛かる。
門を通る者の中に、近衛の紋章がチラリと見えた。
手が一瞬止まり、何事もなかったかのようにすぐ動き出す。
だが、槍を持つ右手の親指だけが、握りしめた強さの分だけ、わずかに白くなっていた。
*
近衛騎士の詰所は、夜でも明るかった。
灯りは落とされず、床も清掃されている。
規律は保たれ、当直の交代も滞りなく行われ、何一つ乱れてはいない。
外では夜風が吹いているはずだが、この部屋の中では空気すら動かない。
リラは椅子に腰掛けていた。
甲冑は外しているが、背筋は伸び、姿勢も崩れていない。
赤い長髪が肩に落ちたまま、整える気にもなれず、そのままになっていた。
剣は、手の届く位置に置かれている。
置いた、というより、手が離せなかった場所に落ち着いた、という方が近かった。
少し離れた場所に、ガルムとエルネストがいた。
ガルムは壁に近い位置に立ったまま、腕も組まず、ただそこにいる。
重槍は壁に立てかけられ、鎧の傷痕が灯りを鈍く受けている。
エルネストは椅子に腰を下ろし、魔導杖を膝の上に静かに置いたまま、視線を床の一点に向けていた。
話しかけはしないが、部屋を出ることもしない。
言葉にできる形が、まだ見つかっていないだけだった。
リラは自分の手を見ていた。
手の中にいつもとは違った感触が残っている。
人を斬ったのは初めてではない。任務の中で、幾度もそうしてきた。
でも、あの夜の、あの一太刀が、指の内側にまだ貼り付いている。
「……終わったはずなのに」
リラは独り言のように呟いた。呟いたというより、こぼれ落ちたと言った方が正確かもしれない。
ガルムは何も言わず、エルネストも視線を逸らしたままだった。
扉が静かに開いた。
足音は最小限で、詰所の空気を乱さないよう抑えられていた。
ヴァルクスが入ってくる。ハルバードは携えていない。
それだけで、今夜の用向きが何であるかが分かった。
彼はリラの前で立ち止まり、腕を組んだまま、一度だけ短く頷いた。
「……よくやった」
それだけだった。
リラはゆっくりと息を吐き、剣に視線を落とした。
友人を、この手で斬った。命令だったから斬った。
この手は、いまだにそれを受け入れられていない。
ガルムが、低く、しかしはっきりと言った。
「命令は、命令だ」
壁際に立ったままの姿勢は微動だにせず、視線だけがリラに向いていた。
エルネストが、少し間を置いてから続けた。杖の表面を指先でゆっくりと撫でながら、言葉を選ぶように、静かに口を開く。
「……それだけじゃ、片付かないこともあります」
リラは目を閉じた。眉間に自然と力が入るのがわかる。
胸の奥に残るものに名前をつけようとして、やめた。
名前をつければ、それが確かなものになる。今はまだ、そうしたくなかった。
手の中の感触だけが、灯りの下で静かに在り続けている。
沈黙が続いた。
それでも、誰も席を立たなかった。
ガルムは壁際から動かず、エルネストは杖を膝に置いたまま、ヴァルクスは腕を組んだまま立っている。
*
王都の通りは、賑わっていた。
露店の呼び声と荷車の軋む音が連なり、人の流れは途切れず、街は平穏そのものだ。
石畳の上を行き交う人々の足音が重なって、一つの大きな音になっている。
「ここが市場だ」
前を歩くラグスが、振り返りもせずに言った。薄紫の短髪が午後の光を受け、周囲を一度だけ流し見てから、また前に向き直る。
「朝はもう少し落ち着いてるがな。この時間は、こんなもんだ」
「人、相変わらず、多いっスね」
セインが周囲を見回しながら笑った。肩までの薄い茶色の髪が揺れ、杖を脇に抱えながら、露店を覗き込むように首を伸ばしている。
少し後ろを、カイランが歩いていた。
白と象牙色のマントが人混みの中でも目を引くが、本人は気にした様子もなく、通りを静かに眺めている。
聖騎士として王都に来て、まだ数日。教会でラグスとセインが助かった、あの日からの付き合いだった。
「確かに賑やかだな」
カイランは柔らかい声で言った。
「でも、歩きやすい。嫌な感じはしないな」
「だろ?」
ラグスが肩をすくめた。
「事件がなきゃ、王都はこんな顔をしてる」
通りを子どもが走り抜け、商人が声を張り上げ、客を呼び止める。
「平和っスね」
セインが言うと、ラグスも一度だけ頷いた。
「平和だな。ついこの前、死にかけたのが嘘みたいだ」
「仕事が減るのは困るが、血の匂いがしないのは悪くない」
三人はしばらく、歩きながら街を眺めていた。
ラグスが、ふと足を緩めた。半歩だけ、さりげなく。周囲を確かめるでもなく、ただ歩みが遅くなった。
経験から来る、身体の反応だった。
「……だが、平和すぎる」
セインが首を傾げる。
「そうっスか?」
「理由は?」
カイランも自然な調子で尋ねた。
教会に悩みを抱えてきた者たちの多くは、自分の悩みが何なのか見えていない。
それを形にするのを手伝うのも、教会に属している者としての仕事。
急かさず、ただ続きを待つ間の取り方だった。
ラグスは少し考えてから、ゆっくりと答える。
「守られてる感じじゃない」
「守られてない、っスか?」
「知らされてない、って方が近いな」
セインは苦笑した。
「考えすぎじゃないっスか? 何も起きてないならいいじゃないっスか」
風が通りを抜け、露店の看板がきしんだが、倒れるほどではない。
カイランはその音に視線を向け、看板が静かに戻るのを確かめてから、歩みを少し緩めた。
「……なんだろうな」
二人が、彼を見る。
カイランは答えを急がず、胸元の十字型のバッジに指先を一度だけ触れてから、続けた。
「王都に来てから、息が少し重い気がする」
「重い?」
ラグスが眉を上げた。
「聖騎士の勘か?」
冗談めかした問いに、カイランは笑って首を振る。
「いや、そんな大げさなものじゃない」
少し考えてから、続ける。
右手が自然に剣の柄の方へ動きかけ、何もないことを確かめるように、静かに下りた。
「戦場とも違うし、祈りの場とも違う」
「でも?」
セインが促す。
「静かすぎる、って感じかな」
三人は、それ以上言葉を続けなかった。
街は変わらず平和で、笑い声も足音も途切れない。露店の親父が威勢よく声を張り上げ、子どもたちがその脇を走り抜けていく。
カイランは歩きながら、無意識に教会の方角を確かめていた。
祈りの場の方角を常に把握しておく、聖騎士の習性。
どこにいても、その方角だけは体に刻まれている。
だが今日は、その方角がほんのわずかに、曖昧に感じられた。
カイランは一度だけ足を止め、石畳の上に視線を落とした。
何かを確かめるように、あるいは何かをやり過ごすように、
少しの間そのままでいた。それからまた歩き出し、二人の背中を追う。
*
隠れ家の中は、静かだった。
灯りは落としているが、真っ暗ではない。
窓の外から差し込む月明かりが床に薄く伸び、昼のうちにタマが飲んだ紅茶の残り香と古い木材の匂いが、夜の冷たい空気に混じっている。
俺は椅子に腰掛け、右手から指輪を外して、テーブルの上に置いた。
小さい音が鳴り、向かいに座っていたタマの目が指輪へ向いた。
何も言わずに手を伸ばし、白い指先が指輪に触れた瞬間、淡く光る。
外に漏れないよう抑えられた魔力が、静かに流れ込み、指輪の内側にゆっくりと満ちていく。
タマの表情は、真剣だった。
こうして指輪に魔力を込める時だけは、余計なことを言わない。
伏せた睫毛の下で金色の瞳がわずかに細まり、指輪に触れる指先だけがほんの少し動いている。
俺は、その手を視ていた。
「……こうして視ると」
指輪に流れていく光を眺めながら、口を開く。
「俺、これ無しだと結構まずいな」
「今さら?」
タマは作業を続けたまま、顔も上げずに返した。
「リラとやり合った時、途中で切れただろ」
月明かりの中で、タマの指先が一度だけ止まる。
あの時、指輪の魔力は底をつき、魔法に対応する手段が大きく減った。
タマはしばらく指輪を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……あれは、本当に肝が冷えた」
「そうか」
「そうか、じゃないよ」
指輪を見つめたまま、目を細め、少しだけ声が尖る。
「だから、外して充填する時は、ちゃんと黙って座ってて」
「分かってる。無防備になるからな」
素直に頷くと、タマはようやく顔を上げた。少しだけ疑うような目だった。
「本当に分かってる?」
「今、座ってるだろ」
「……そこだけは認める」
指輪の光が、ゆっくりと満ちていく。
淡く揺れていた光は、やがて内側に吸い込まれるように小さくなっていき、最後にひとつ小さく瞬いて消えた。
「はい、終わり」
タマが指輪を手に乗せ、こちらへ差し出してくる。
俺が手を出すと、タマは俺の手首を押さえ、俺の手のひらに指輪をそっと乗せると、両手で俺の手を包む。
そのまま、俺の眼をじっと見つめる。
「……もう、無茶はしないで。必要なら……ううん、何でもない」
「ああ、善処する」
タマは「はぁ」と大きく息を吐くと手を離した。
俺は受け取り、右手の指にはめ直した。
指の根元に収まった瞬間、指輪の内側に残っていた魔力の温度が、肌にかすかに触れる。
軽く拳を握る。問題ない。
「……助かる。タマがそばにいてくれてよかった」
「知ってる」
タマはそう言って、視線を横へ逃がした。
言葉は軽いのに、目は少しだけ伏せられている。耳の縁が、月明かりの中でわずかに赤い。
こういう時、タマはまっすぐこちらを見ない。
いつものことだった。
外では、夜の風が木々の葉を撫でている。
タマはその音を聞くように少しのあいだ、耳を傾けて、それから口を開いた。
「で、これから__」
俺の視線が、棚に止まった。
「あ……」
「なに?」
タマは眉を顰め、魔力を外に広げて気配を探る。
「酒、切れてる」
タマは一瞬、固まった。目が点になり、身体も微動だにしない。
さっきまで揺れていた白銀の髪もぴたりと止まり、開いた口がそのまま塞がらなくなっている。
「……今、その話する?」
「今、気づいたからな」
「流れってものがあるでしょ」
「流れはよくない。酒がない」
「そういう意味じゃない」
タマが額に手を当て、俺に聞こえるようにもう一度、大きくため息を吐く。
俺は棚を見たまま、しばらく考えた。
「盃はあるが、中に注ぐものがない。これは、まずい。命の次に大事だろ」
「優先順位おかしいから!」
大きな声が隠れ家中に響き渡り、慌てて両手で口を押さえるタマ。
しばしの沈黙。
やがて、タマは三度目のため息を吐いた。
「私が変装して買ってくる。すぐ戻る」
「じゃあ俺も__」
「来ちゃダメ。来ない」
即答だった。あまりに早かったので、言葉が最後まで出る前に切られた。
タマは椅子から立ち上がり、こちらをまっすぐに見る。
「王都に行ったらどうなるか、もう忘れたの?」
少し考えた。王都、レオン、酒屋、酒屋の髭の親父、リラ、面倒事……なるほど。
「……留守番か」
「そう。ちゃんと留守番」
「分かった。つまみ考えとく」
「だからそういうところ!」
タマは呆れたように言ったが、怒ってはいなかった。
立ち上がる時に衣が小さく擦れ、棚の横に掛けてあった外套へ手を伸ばして肩に羽織る。
その背中を、椅子に座ったまま視ていた。
小屋の外で風が吹く。窓の隙間がかすかに鳴り、夜の森の匂いが部屋の中へ入ってくる。
逃げないと決めた。何が待っているかは、分かっている。
タマは扉の前で足を止めた。手は、まだ取っ手に触れていない。
「ねえ、ゲドーマル」
「なんだ」
「戻ったら……もう普通じゃないから」
背中越しの声だった。
軽く言おうとしているのは分かる。
だが、声がいつもより少しだけ硬い。
タマは扉を見たまま、こちらを振り返らなかった。
白銀の髪が、窓を通って入ってきた月明かりを静かに受けている。
俺は少し笑った。
「じゃあ、普通じゃない生活だな」
タマの肩が、ほんのわずかに落ちた。
「……本当に、考えているようで、何も考えていない」
「考えるのはサエも苦手だったな」
「……茨木の苦労がわかる気がする」
小さくそう言って、タマはようやく振り返った。
月明かりのせいか、笑った目元が少しだけ柔らかく見えた。
けれど、その笑みはすぐに隠される。外套の前を整え、いつものように軽く顎を上げた。
「ちゃんと待っててね」
「ああ」
「ちゃんと、大人しくして、待ってて、ね」
「……分かった」
その返事を聞いてから、タマは扉を開けた。
夜の風が、部屋の中へ一度だけ入ってくる。
白銀の髪が小さく揺れ、次の瞬間、扉は静かに閉まった。
俺は椅子に座り直し、右手の五つの指輪を視た。
タマが満たした魔力が、まだほんのりと温かい。
指を開き、また握る。それから棚に視線を移す。
手を懐に伸ばし、空の盃を取った。
何も注がれていないそれを、しばらく手の中で転がす。
盃は空のまま、窓越しの月明かりをやわらかく受けている。




