第14話 それぞれの動き
夜の王都は、昼とはまるで違う顔をしていた。
門の上に掲げられた灯りが風に揺れるたび、石畳に落ちた影が伸びては縮み、その上を酒の匂いと人の声が重なって流れていく。
街全体がどこか浮かれている。とはいえ、もう門が閉まる寸前の刻限だ。
タマは外套のフードを深く被り、足早に通りを抜けていった。
今は、ただの人族の女として耳も尾も、気配ごと内側へ押し込めている。
門の方を振り返れば、衛兵が交代の支度を始めていた。
仕事を終えてほっと肩を落とした顔と、これから夜に立つ気合の入った顔が、入れ替わっていく。
ぎりぎり間に合った、と胸の内で息を吐く。
ゲドーマルのいきつけとなりつつある酒屋で瓶を受け取り、代金を払う。
棚の銘柄をいくつか見比べて、琥珀の濃い重めの一本を選んでしまうのは、ゲドーマルの好みを知っているからだった。
つい癖で、そうしてしまう。
その酒屋を出た、ちょうどその時、通りの向こうから、やけに騒がしい声が転がってくる。
「だからさぁ~! あれは絶対__」
「分かってるっス! 分かってるっスけど、飲みすぎっスよ!」
聞き覚えのある声に、タマは思わず足を止めた。
ラグスとセインだ。
二人とも顔が赤く、足取りはふらつき、遠目にも出来上がっているのがわかる。
思わずじっと二人を見入ってしまった瞬間、ラグスがこちらに気づいて顔を輝かせた。
「おお! タマちゃん!」
声が大きい。やたらと大きい。
「この前は助かったぁ!」
「感謝してるっスよ! ほんとに! 愛してるっス!」
セインが勢いよく頷きながら一歩前へ出ると、酔いに揺れた身体が、灯りの下で大きく傾いだ。
「……ちょ、ちょっと、声が__」
タマは咄嗟に唇の前へ指を立てようとして、別の女の声が、それより先に通りへ響く。
「静かにしなさい」
すぐそこの居酒屋から、数人の騎士が出てくる。
先頭に立った”赤い髪の女騎士”が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
リラ・ヴァン・ストライゼン。
その後ろにガルムとエルネストが続き、鉄の甲冑の擦れる硬い音が、周りの酔客の注意を引いていく。
「夜よ。酔って騒がないで」
リラの視線は、ラグスとセインに向いている。
酔っ払いが騒いでいる……そう判断している目。
「す、すみませんっス……」
セインが一気に小さくなり、ラグスも頭を掻く。
「いやぁ、ついな……」
リラが一歩、前に出た。
酔いに任せて声を荒げる者たちへ向けられていた視線が、ほんの一瞬だけタマの上で止まる。
騒ぎを鎮めるための目ではなくなっていた。
ゆっくりと眉の間に力がこもり、何かを見極めるように、その視線はすぐには離れなかった。
タマは咄嗟に視線を外し、フードの下で酒瓶を抱える腕に力を込める。
おそらく、まだ面は割れてはいない。
まずい。ここで正体が知れれば、追われるのは自分だけでは済まない。
森の隠れ家には、ゲドーマルがいる。
捕まって自白の薬や魔法をかけられれば、どこまで隠し通せるかわからない。
この場に長居をする理由も、もうない。
タマは静かに踵を返すと、リラも特に深追いはしないようだった。
剣の柄から手を離しかけ、酔客に絡まれた一般人が帰るのを見送る……はずだった。
「タマさーん!!」
酔いきったセインの声が、夜の通りに響き渡った。
「行かないでー!!」
その一言で、空気が凍りつき、リラの目が、はっきりと細められた。
「……今、何て呼んだのかしら?」
ガルムとエルネストが一斉に身構え、通りに戦場のような冷たく重い空気が広がっていく。
ラグスとセインは完全に固まり、タマの背を、冷たい汗がひと筋伝った。
リラが剣の柄を握り、低く詠唱を始めると、淡い光が刃に宿り、迷いのない構えが夜に浮かぶ。
「……どこに行くのかしら?」
タマは、思わず足を止めた。
騒ぎに向けられていたはずのリラの視線は、もうラグスもセインも見ていない。
白銀の髪をフードで隠したタマの横顔をじっと測っている。
ガルムとエルネストが左右へ散り、逃げ道を塞いでいく。
近衛の連携には、無駄がない。
「身分を確認するわ」
リラの声は低く、普段なら少しだけ覗く年相応の柔らかさが、綺麗に消えていた。
そして、剣を持つ手には、既にこちらを斬る準備が整っている。
職務としての警戒にしては、明らかに常軌を逸しているとしか思えない。
リラ自身、身体の反応を持て余しているように見えたが、彼女はそれを呑み込むように奥歯を噛み、視線だけはタマから外さなかった。
「ちょ、ちょっと待てって」
「そうっスよ。タマさんと話すのは俺らが先っス」
ラグスとセインの酔い声が、場違いに響く。
「だから待ってほしいっス!!」
「黙れ、酔っぱらい!」
ガルムの声と同時に、エルネストが拘束魔法を放った。
淡い光の帯が二人の足元へ絡みつき、その動きを縛る。
ラグスが歯を食いしばり、通りの空気が完全に張りつめて、酒場からこちらを見ながら漏れていた笑い声まで途切れた。
リラが剣をタマに向けたまま、視線だけを二人に向ける。
「部外者は下がりなさい」
そして、そのまま鋭い眼光が、タマへ向けられる。
「そこまでにしてください」
そのとき、場に似合わない穏やかな声が、割って入った。
通りの奥から、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
白を基調にした外套に、無駄のない装備。
剣は抜かれていないが、それでも立ち位置だけは明確だった。
タマの前、リラ達騎士とのちょうど間。
その声が耳に届いた瞬間、タマの肩から、わずかに力が抜けた。
「……カイラン?」
タマの意図せず、こぼれ落ちた声。
男は足を止め、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「無事そうでよかった」
タマに掛けた言葉はそれだけだったが、その一言で場の温度が変わる。
リラの眉がわずかに動くが、剣は相変わらずカイラン越しにタマに向けられている。
「……あなたは?」
「この街にいる聖騎士です」
街を巡回している近衛騎士に対して、簡潔すぎる答え。
この場で名を名乗るつもりはないらしい。
胸元の紋章を見て、リラは即座に理解したらしく、構えた剣は下げないが、無理にカイランを退けようとはしない。
ガルムとエルネストも、知らぬうちに動きを止めていた。
「忘れ物を届けに来ただけですよ」
カイランは柔らかい声色のまま言って、拘束されたままのラグスとセインへ視線を向ける。
「彼らと先ほどまで一緒でしたから」
リラの視線がわずかに下へ落ち、ガルムとエルネストの構えにも、ほんのわずかな緊張が生まれた。
市民、聖騎士、近衛騎士。ここで踏み込めば、事は大きくなる。
リラは短く息を吐いた。それでも、視線はタマから外さない。
この場でタマを逃がす気のない目だということは、経験上、わかる。
あれは、タマを追いかけ続けた陰陽師や武士と同じ目の色をしている。
今しかない。
手にしたばかりの酒瓶を、強く握る。
ひと呼吸だけ整えて、迷っている時間はないと腹を括った。
せっかく選んだ一本だ……けれど、彼の命と天秤にかけるものではない。
カイランがほんの一瞬だけ、こちらを見た。
刹那、リラの足が地面に沈み、こちらを向いていた剣先がわずかに下がる。
それが、彼女の踏み込みの合図。
斬られる。
そう察したのと同時に、タマは迷うことなく、反射で酒瓶を投げていた。
狙いはリラではなく、雷を纏った、彼女の剣。
乾いた音とともに、閃光が弾けた。
雷と酒精がぶつかり、小さな爆発が通りの空気を裂く。
芳醇な香りが一瞬だけ空間に漂い、すぐに雷に焼かれて、焦げた匂いへ変わった。
衝撃は強くないが、視界を奪うには十分すぎる威力。
「っ……!」
リラの喉が鳴り、反射的に目を細める。
その一瞬の隙を、タマは逃すことなく、瞬時に身を翻し、人影の多い路地へ真っ直ぐ駆け込む。
「逃がさないで!」
リラの声が飛び、ガルムとエルネストが即座に動いた。
「待ってください」
カイランが、静かに立ちはだかる。
剣は抜いていない。それでも、彼の選んだ場所は追撃の線上。
これ以上進めば、接触は避けられない。
「その前に__」
カイランは、拘束されたままのラグスとセインを手で示した。
「彼らを解放してもらえませんか」
リラの動きが、止まる。
「……理由は?」
「理由ですか……ふむ」
カイランは、少しだけ考える素振りを見せてから、続けた。
「この街では酔って騒いだだけで、騎士に拘束されるんですか?」
ここで事を荒立てれば、守るべきものが逆さまになる。
リラは剣を下げ、短く息を吐いた。
「……解放して」
エルネストが魔法を解き、ラグスとセインがよろめきながら自由になる。
「す、すみ__」
「後にして」
リラはそれだけ告げ、路地の奥へ目を向けた。
もう、タマの姿はない。追えた。だが、追わなかった。
剣を納める。雷の気配が、まだ完全には消えきらない。
カイランと視線が交わった。
言葉はない。それでも、互いに理解していた。今夜は、ここまでだ。
*
夜の通りに、再びざわめきが戻ってくる。
割れた瓶から漂う燃えた酒の匂いだけが石畳に残り、夜風が吹き抜けるたびに浮かんでいた魔力が薄れていく。
人の声は戻りつつあったが、音がどこか遠く感じる。
先ほどの緊張がまだ身体の奥に残っているのか、誰もが目をリラには向けず、俯き、少しだけ早足に去っていく。
リラは視線をタマの消えた路地の奥へ向けたまま、その場から動かない。
”タマ”を斬ろうとした。
その事実を、今になってはっきりと自覚する。
先日の戦いで、ゲドーマルやタマへ刃を向けたときとは違った。
あのときは胸の奥が締めつけられ、命令だと頭ではわかっていても心が拒んだ。
剣を構えるたびに自分の中の何かが削られていくようで、手は震え、呼吸は乱れていた。
だが、今夜は、タマへ刃を向けた身体の動きが、あまりにも自然だった。
手も呼吸も震えることなく、躊躇もなかった。わずかとはいえ、確かに殺意も湧いた。
任務だからではなく、斬るべきだと、身体が心を追い越しはじめていた。
リラは無意識に拳を握りしめる。
”何か”が、軽くなりすぎている。
あれほど重かったはずの抜く手に、今夜は指一本ぶんの重さもなかった。
そのとき、胸の奥がわずかにざわついた。
魔力の感触……はっきりとした干渉ではない。
だが、間違えようがなかった。
アルティシア王女殿下の、魔力だ。
王女の冷たい感触だけが、胸の内側へ静かに沈んでいる。
気づけば、誰に見られているわけでもないのに、リラは背筋を正していた。
剣を見下ろし、ゆっくりと息を吐く。
今夜の判断は、間違っていない。騎士としての務めも、果たした。
それでも、と。自然に手がもう一度、柄を握り直した。
「……私は」
何を、自然だと感じたのか。
*
森の奥で、結界が淡く光った。
描かれた魔法陣が一瞬だけ明滅し、次の瞬間、空間を切り開くようにしてタマが現れる。
小屋の扉が、勢いよく開いた。
「……っ、はぁ……」
その音に、俺は顔を上げた。
膝に手をつき、肩で息をしているタマの額に、汗が浮いている。
相当、無理をしてきたらしい。
ぎりぎりだった、というのは、視ればわかった。
俺とアウレオンは、テーブルを挟んで腰を下ろしていた。
木皿の上には簡単なつまみとして干し肉と香草、それから焼いた木の実が置いてある。
盃は、空だ。
「戻ったか」
言いながら、俺の眼は自然とタマの手元へ向かう。
「……酒は?」
口に出してから、タマが答えるまでにはわずかな間があった。
「……ない」
その一言で、肩が静かに落ちる。
「……そうか」
正直な反応だったと思う。
タマの視線が突き刺さってくる……今、そこか、という顔だ。
アウレオンが視線を俺とタマに交互に移した後、わずかな間だけ視線を落とし、それから顔を上げ、軽く咳払いをした。
「……森の様子が、少しおかしい」
アウレオンには珍しく、少し上擦った声。
「風が安定しない。迷いの森の境界も__」
「あとで聞く」
俺はアウレオンの言葉を切るように、被せた。
「今は、酒だ」
タマが膝に両手をついたまま、眉を、ぴくりと動かした。
ふう、と息を吐くと背筋を伸ばし腕を組む。
「……投げた」
「……うん?」
「リラに。剣に雷、纏ってたから」
説明は、それだけだった。
それ以上、この場で話すつもりはないのか、顔ごと視線を横に逸らす。
俺はしばらく考えてから、呟く。
「……そうか」
タマはもう一度こちらを見ると、何か言いたげに口を開きかけ、結局、こちらに聞こえるように、大きなため息を吐いた。
「この状況みればわかるでしょ? ”便利な眼”持ってるじゃない」
「いや、まあ……」
「命か酒かで、酒を先に心配するのはどうかと思う」
アウレオンは椅子に腰掛けたまま、身体ごとそっと視線を逸らす。
「……空気が重い」
それだけ言って、つまみへ手を伸ばした。
タマはもう一度深く息を吐く。
俺は何も言わなかった。
ここに戻ってこられた……それが一番だと思ったからだ。
隠れ家の外で、虫が一度だけ静かに鳴いた。
*
王都の外れ、地下深く。灯りは最低限だけ。
壁面に刻まれた魔法陣だけが脈打つように明滅を繰り返し、その光が石壁の湿った表面を照らすたび、地下道の輪郭が浮かんでは沈んでいく。
ミルザは石を削り出した簡素な台座の、その前に立っている。
その上に載っているのは小さな水晶球で、内側に砂嵐のような画面が映っていた。
特定の人物の現在を中継するために使った、ヤグの作った魔道具の残骸だ。
指先で、その表面を撫でる。
滑らかで、冷たい。だが、もう何も映ってはいない。
ミルザはそれを片手で握り潰すように、砕く。
水晶の欠片が手のひらを裂き、青白い血が石の床へ落ちる。
痛みは感じない。魔族の身体は、その程度の傷は無いにも等しい。
使えなくなったものを手元に置いておく趣味は、ない。
王女が施した干渉は、機能した。
近衛騎士リラの身体は確かに動き、剣は振るわれた。
仕組みとしては、完璧だったはずだ。
だが、殺せなかった。あの男は、まだ生きている。
ミルザは手のひらの血を見る。
すでに塞がりはじめている。魔族の再生能力とは便利なものだ。
だが、あの男の前では役に立たない。
魔力を視るあの眼は、構造も経路も、魔法陣の核すら見抜いてしまう。
おそらくは。あの眼がある限り、魔力を介した策はすべて裏目に出る。
手駒を使えば使うほど、こちらの手の内が削られていくだけだ。
「……ヤグ」
あの研究者の顔が浮かぶ。
無機質な声……感情を持たないわけではなく、持つ必要がないと考えている男。
研究対象だ。あの眼が欲しい。生かしておけ。
奴のただの願望と提案だ。
だが、奴の願望を無視した者がどうなるか、ミルザは知っている。
壁際に背を寄せると、冷たい石が肌に触れ、湿気を含んだ地下の空気が腕に絡みつく。
魔法陣の明滅が、ゆっくりと間隔を広げていく。
隠蔽魔法を生み出す魔道具の魔力が薄れている証。
この場所も、もう長くは使えない。
苛立ちの正体は、はっきりしている。あの男が、こちらを恐れていないからだ。
力を見せ、脅しもした。
それでも、ゲドーマルは変わらなかった。
恐れもしなければ、媚びもしない。怒りすら見せない。
まるで、こちらの存在がそもそも思考の外にあるかのように、ただ平然としている。
下等種族に無視されている……それが、何より気に入らなかった。
ミルザは壁から背を離す。
手のひらに残る水晶の粉を払い、地下道の奥へ足を向ける。
歩くたび、床の石が低く鳴った。
策は、もういい。道具も、駒も、いらない。
黄金の瞳が、暗がりの中でゆっくりと細まる。
あの眼が何を視ているのか、壊してから剥ぎ取ればいい。
地下道の奥で、魔法陣の最後の光が消えた。
闇がミルザを呑み込み、その中で、ゆっくりとした足音だけが規則正しく響いていた。
*
夜の隠れ家。
扉がノックされ、次いで開いた。入ってきたのは、ドゥール。
「遅くなった……って何かあったのか?」
背負っていた袋を下ろしながら、短く切り揃えてある髭を摩るドゥール。
ドゥールの視線の先には、テーブルを挟んで俺とアウレオンが腰を下ろしている。
タマは俺の隣の椅子に座ってはいるが、俺に背を向け腕を組み、頬を膨らませている。
「……別に」
タマは視線も動かさずに、短く答える。
アウレオンは口元に苦笑を浮かべかけ、けれど、タマの視線がアウレオンに向いた瞬間、何事もなかったかのように表情を消す。
ドゥールは袋を触ったまま、見なかったことにするように息を吐いた。
俺はほんのわずかだけ眉を寄せ、ドゥールへ視線を送る。
ドゥールはその視線を受け取り、ゆっくりと首を横に振った。
「知らん。自分で切り抜けろ」
切り捨てるように言い、ドゥールが袋の中から取り出したのは、酒瓶だった。
俺は反射的に立ち上がる。
「助かる」
「分かりやすいな、お前は」
ドゥールは苦笑しながら、髭を一度撫で、テーブルに酒を並べていく。
タマは腕を組んだまま、相変わらず不機嫌そうだ。
「……私は?」
「飲むだろ」
「扱いが雑」
そう言いながらも、タマは前に向き直した。
アウレオンは立ち上がり壁際から、外の様子を確かめる。
「追跡はないようだな」
ドゥールが頷いて、指を一本ずつ折りながら続ける。
「……王女、魔族、近衛騎士。どれも、味方じゃない」
「ギルドも、か?」
俺が聞くと、ドゥールは一瞬だけ黙り、視線を落とす。
「組織としては、な」
ドゥールが酒を注ぐ。
「優先順位を決めよう」
ドゥールが進行役に回る。
彼の指先が、考えるようにテーブルの縁を一度叩いた。
「まずは、ドラゴンの情報だ」
アウレオンが窓から目を離し、ドゥールを見て、頷く。
「森の異変は偶然じゃない。だが、確証はない」
「確証が出る前に動くと、潰される。目立たずに動くべきだな」
そう言うドゥールの声は冷静だ。
「だから、王子側の事情が欲しい」
タマが、ちらりと俺を見る、もう腕は組んでいない。
「王都には戻らないで」
「分かってる__」
俺は表情を変えずに頷くが、視線はドゥールの注いだ盃から離せない。
「戻らない。行く意味がない」
「大将とタマは、ここから離れない方がいいな」
ドゥールは酒の入った盃や木のジョッキを配りながら、否定しなかった。
「酒の補給は、俺がやる」
「頼む」
「ここは元々、私の隠れ家だ」
アウレオンが淡々と告げる。
「食材は、私が集める」
俺は首を振った。
「それだと、野菜と果物だけになる」
「……否定はしない」
「肉と魚は、俺が行く」
「あなた、茨木がいないと血抜きも捌くこともできないでしょ」
言葉に詰まる。タマの言う通りだった。
その時、扉が、再び叩かれる。
「……来たか」
ドゥールが視線を向け、アウレオンが扉を開けると、そこにいたのはレオンだった。
「遅くなった」
「本当にいいのか?」
ドゥールが目を軽く細め、確かめるように聞く。
「ああ、大丈夫だ」
レオンが手にした大きな袋を掲げてみせた。
タマの表情が一気に明るくなり、テーブルに両手をつきながら立ち上がる。
「……お肉?」
「魚もある」
「……甘いのは?」
レオンは胸を張るようにして、少しだけ誇らしげに言った。
「ある」
次の瞬間、タマがレオンに抱きついた。
「レオンさん、大好き!!」
「ち、ちょ……」
慌てるレオンを見て、ドゥールが呆れたように笑う。
「……命の危機から、随分と平和になったな」
俺は盃を手に取った。
「こういう時間も、必要だ」
*
夜は、思ったより静かだった。
テーブルの上には酒瓶が並び、レオンが運んできた肉と魚、それに甘い菓子の皿もある。
「……ふふ、甘い」
タマはぽつりと呟いたあと、目に見えて表情を緩めた。
珍しいな。
酒を飲むと、だいたい途中で止めるのに、今日は頬が赤い。
ドゥールがレオンに小声で何か話しかけ、レオンが苦笑する。
アウレオンは壁際で、静かに木の実をつまんでいた。
「甘いのがあると、こうなるんだな」
「今日は特別」
俺は盃を見た。
いつもの盃だ。
この世界に来て、割れもせず、欠けもせず、ここまで来た。
ふと、囲炉裏の火と薬草の匂いがよぎり、ほんのわずかだけ、瞼の裏にあいつの顔が視えた……気がした。
遠い昔の、懐かしい記憶。
「なあ」
声をかけると、全員がこちらを見る。
「飲むか」
盃を、テーブルの真ん中に置いた。
少しの間、誰も動かない。
ただ、心地のいい空気が身体を包むように、そこにあった。
最初に手を伸ばしたのは、ドゥールだ。
「……いいのか?」
「駄目なら出さない」
俺は盃にそっと酒を注ぐと、ドゥールはフッと口角を上げ、盃を口に当てた。
一口飲んで、レオンへ渡す。レオンは黙って受け取り、口につけて少し目を細めた。
アウレオンは壁から離れてこちらに近づき、受け取った盃をしばらく眺めてから、静かに傾ける。
盃が、タマに回ってくる。
彼女はそれを、両手で包むように持ちじっと見つめる。
指先が、少しだけ震えている。
「……なんか、懐かしいね……」
それだけ言って、飲む。
盃が俺に戻ってくる頃には、全員の手を経た酒は、注いだときとは少しだけ温度が違っていた。
しばらく、誰も喋らないが、それは悪い沈黙ではなかった。
ただ、酒が身体に馴染むのを待っているような時間。
酒と料理と、建物の木の匂いが混じり合って、じわりと沁みていく。
タマが、ふと思い出したように口を開いた。
「……ねぇ」
「ん?」
「宿屋で、置き手紙」
「……ああ」
「……真っ白な紙、置いてったよね」
声は、穏やかだった。
酒の勢いで、ずっと胸にあったものが自然と滑り出てきた、という感じだった。
「置いた」
「あれ、どういう意味?」
ドゥールとレオンが、何の話だという顔でこちらを見る。
「特に意味はない」
俺は正直に答えた。
レオンの目が見開かれる。
「時間がなかったから、書かずに置いていった」
森の風が窓を叩き、カタッと小さく揺らした。
「…………それだけ?」
「その方が雰囲気が出るだろう?」
俺は顎を少し上げ、胸を張って答えた。
場が固まった。
タマの瞳が、わずかに潤み、ドゥールが眉を寄せる。
「待て。白紙を? 何も書かずに?」
ドゥールが額を押さえ、レオンが天を仰ぐ。
アウレオンは木の実を口へ運ぶことで、意見を述べるのを放棄する。
「大将、雰囲気で白紙は一番困る」
ドゥールが静かに、しかしはっきりと言う。
「タマがどれだけ心配したと思ってるんだ。心配する側の身にもなれ!」
レオンが続けて、俺を責めた。
俺は盃を傾ける。
「まぁ、生きているんだから問題ないだろう」
タマは、何も言わずに、少しだけ視線を落としている。
「……あの紙」
声が、さっきよりも小さい。なんとか聞き取れる大きさ。
「裏も表も、何度もひっくり返した」
テーブルの上で、その指先が盃の縁を静かになぞっている。
「透かしたら何か書いてあるかもって、窓に当ててみたりもした」
ドゥールとレオンは、もう何も言わなかった。
「……何もなくて」
タマは、少しだけ笑った。
「……ばか、って思った」
あの夜の不安が、そのまま声になって、今ようやく俺の耳へ届いている。
「……そうか。それは、すまなかった」
タマは深く息を吐き、それから、俺の直垂の袖を、軽く掴む。
「……でも」
声を落とす。
「逃げなかったのは、嬉しかった」
それだけ言って、また酒を飲んだ。甘い酒の香りが、夜に馴染んでいく。
森は、静かだった。
「……明日も、飲もう」
森の奥で、風が一つ、鳴った。
最後までお読みいただきありがとうございます。
おかげさまで累計500PVを突破することができました。
また、身に余る評価ポイントもいただき、執筆の大きな励みになっております。
こうして読んでくださる方々と繋がれることに、深い喜びを感じています。
ゲドーマルとタマの旅はこれからさらに加速していきます。
この世界の理を今後とも共に見届けていただければ幸いです。
次回は金曜日22時に更新予定です。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。




