第15話 レグナ群像
朝の空気は、澄んでいた。
鳥が歌い始め、夜露を葉の表面に残した草の匂いが風に乗ってくる。
王都の東に広がる《迷いの森》の隠れ家は、元々はアウレオンの居住地だったものだ。
恒久的な住処ではなく、必要最低限の設備しかなく、長く留まることを想定していない。
今ここに住んでいるのは、俺とタマのみ。
寝室は同じだが、寝台は二つ。距離は近いが、踏み込まない線は最初から引かれている。
追われる身としては、ひとりで眠るよりも二人でいた方が安全だ、というタマの意見によりこの形になった。
それが、今の二人には自然なだけ。
タマは朝から台所で弁当を作っていた。
火を弱く保ち、干し肉を刻み、野菜を包む。
香草は、ほんの少しだけ。俺もタマもこの世界の匂いの強い料理は避ける傾向にある。
タマの作る料理は、どこか懐かしい味がする。
「日帰りがいいからね」
こちらを見ずに、言う。
「それと……帰ったら、絶対に湯浴み。だいぶ気温が下がってきたけど、汗はかくからね」
「分かった」
理由は聞かなくても、声の調子だけで、譲れない一線だと分かる。
当然のものとして受け取れば、それ以上の説明はいらない。
外で枝を踏む音がした。
夜は森で過ごしていたらしいアウレオンは、すでに戻ってきていて壁際で外の様子を窺っている。
戸を叩く音が一度だけ鳴る。
「朝の顔出しだ」
扉が開き、ドゥールが荷物を背負って入ってくる。
工房は王都にあるが、朝こうして隠れ家に顔を出し、情報を共有していく。
魔道具職人としても仲間としても、頼れるドワーフ。
ここでの生活はドゥールが取り仕切ってくれている。
少し遅れて、レオンも現れる。
武装はしているが、いつもと違い、門番責任者の正装ではない。
立場を示すものを身につけておらず、傍目には腕に覚えのある冒険者か旅人に見える。
「……朝早く、すまない」
「構わん」
そう返すと、レオンは一度、その場で深く息を吸い、胸の奥に止まっている思いを押し出すように、息を吐く。
「俺は仕事を辞めてきた」
料理をしているタマの手元から何かが床に落ちる音がした。
レオンの少し強張っていた頬から力が抜け、視線が真っすぐ前を向く。
「中途半端な位置では、お前たちの側に立てない。それが俺自身、許せなかった」
何千回と門の前で立ち続けた男が、その門を自分の足で離れてきた。
その覚悟がレオンの目からは視える。
「分かった」
俺はレオンの目を視たまま、それだけ言った。
レオンは一瞬だけ口を開きかけ、すぐに閉じ、それから静かに頭を下げた。
一通りの確認が終わったあと、俺は包みを一つ、床に置いた。
布の上からでも分かる。中身は、壊れた金棒だ。
「……ひでぇな、これは」
ドゥールが眉をひそめ、布をめくって断面を覗き込む。
整えた髭を一度撫で、それから舌の先で小さく音を鳴らした。
「死んでるな」
「修復できるか」
「修復というよりも、新しく作り直した方がいいな。だが、それも用途次第だな。どんな性能が欲しい?」
俺は少し考えてから、真顔で答えた。
「甘いものが出てくる」
完全なる沈黙が、場を支配した。
台所にいるタマの手元からまた何かが、落ちた。
「……は?」
「タマの機嫌が悪い時に使いたい」
ドゥールの声が、跳ね上がった。
「ふざけるな!! 魔道具は菓子箱じゃねえ!!」
隠れ家に怒声が響く。
「万能だと思うな! 職人を何だと思ってる!!」
俺は、眉一つ動かさない。
「本気だ」
「余計に質が悪いわ!!」
完全に噛み合っていない。だが、こちらは本気だ。
ドゥールは舌打ちし、金棒を睨みつけてから、工具ベルトの金具を軽く鳴らした。
「……考えとく。ただし期待はするな」
「分かった」
それ以上は言わず、金棒を包み直す。
ドゥールは文句を言いながらも、包み直した金棒を自分の荷の横へ置いた。
この話は、今すぐ結論を出すものではないのだろう。
俺はとりあえず、急拵えで自作した木刀を《終座》と一緒に腰へ差した。
「行こうか」
俺がそう言うと、誰も異を唱えなかった。俺、レオン、アウレオン、タマの四人で、森へ向かう。
ドゥールは王都にある魔道具屋へ戻る。
目的は、《風の古竜》アウル=ヴェイルの調査。
隠れ家の空気は穏やかだった。
*
王女殿下の声は、いつもと変わらず澄んでいた。
言葉遣いも、視線の向け方も、それ以外のすべて、どれを取っても今までと何も変わっていない。
それなのに、何かが、おかしい。
リラの手が、無意識に腰に佩いている剣の柄を探る。
王女の前で剣に触れる不敬に気づき、慌てて手を戻す。
王女が指示を出し、リラを含む第三団はそれを聞き、理解し、頷く。
表面上はこれまで通り、問題など何一つないように見える。
それでも、何かが引っかかる。
私のほうが、おかしいのだろうか。
部屋を出たあと、リラは歩きながら唇を結んだ。
……ゲドー、タマさん。
名前が脳裏をよぎり、すぐに振り払う。
違う。今は、任務だ。考えるより、動こう。そうすれば、迷いは消える。
リラは仕事に没頭することを選ぶ。
迷いを見つめれば、足が止まる。足が止まれば、あの引っかかりが追いついてくる。
だから、止まらない。
任務は明確だった。対象はゲドーマルと、その同行者。
私情や憎しみがあるのではなく、ただ、斬るべき存在として指定されている。
探索は論理的に進める。足取り、時間、情報の流れを順に考えていく。
「……王都には、いない」
直感などではなく、職務判断としての結論だった。
同行しているガルムとエルネストは、何も言わない。
そのまま探索を続けようとした、その時だった。
「今日はここまでにしろ」
低い声が、背後から耳に届き、振り返ると、そこにはヴァルクス団長が立っている。
自然と背筋が伸び、肩に力が入る。
「これ以上は、俺が引き受ける」
異論を挟む余地のない、口調。
リラは一瞬、言葉に詰まる。
団長は自分を休ませようとしている、それは分かる。
けれど同時に、わずかな戸惑いが胸をかすめた。
ヴァルクスは先ほど、王女への報告の一部を独断で止めた。
以前も、そうだった。一瞬、過去の記憶がよぎる。
ヴァルクス団長が、森で魔族調査を単独で行っていたときのこと。
だが、それ以上は考えない。
ヴァルクスの目には迷いがなく、それが何よりの答えのようにも思えた。
リラは小さく息を吸い、頷く。
「……ありがとうございます」
そして胸の内で、静かに決めた。
やっぱり、私の手で斬る。迷いは、表に出さない。正義は、自分で背負う。
その決意の奥底で、ごく小さな声が、確かに何かを呼んでいた。
あまりに微かで、自分でも聴き取れないほどの声が。
*
ミルザは、不機嫌だった。
ゲドーマル。あの存在は、理屈に合わない。
理解できないものが己の行動範囲の中に居座っている。
それだけで、ひどく不快になる。
自分は上位存在であり、世界は常に理解できる形で動くべきだ。
その前提が、あの男の存在によって、静かに傷つけられている。
だが、状況把握は冷静だった。ゲドーマルは近衛騎士に狙われている。
そう仕向けたのは、自分自身だ。
王女に我らの計画に邪魔な冒険者を消すよう伝えた。
実際に動いているのは第三団のみで、街に手配書は出ていない。
それでもいい。王女は体面を重んじる。
公式の手配書を出せば、王家が一介の冒険者を脅威と認めたことになる。
あの女は、そんな選択をしない。
ミルザは視線だけわずかに横へ流すと、そこには、数体の魔族が控えている。
名前を覚える必要はない。ただの、数だ。
彼らはただ命令を待つ存在であり、ミルザにとって、それ以上の意味を持たない。
頭に登った血を落ち着かせるため、数秒間だけ目を瞑る。
奴も王都内に留まるような危険は犯していないはず。
非公式とはいえ近衛騎士に狙われている以上、都市部は避けるはずだ。
筋は通っている。だから、間違っているはずがない。
少し落ち着いてきた。
「探れ」
薄暗い中、金色の瞳を輝かせ、控えている魔族たちに命令する。
「王都の外だ。森、街道、周辺の集落、すべてだ」
魔族たちは、無言で頷く。
「本人でなくていい。痕跡、関係者、流れを拾え」
居場所の確定が目的。成功しても、失敗しても構わない。どうせ、使い捨てだ。
命令を受け、魔族たちは静かに散っていく。
自分は、全体を制御している。そう信じて、疑わない。
近衛騎士による非公式追跡と、魔族による探索。
どちらも、自分が仕掛けたものだ。
王都外という曖昧な領域を探ることになるなど、その程度のことは制御できると、考えていた。
*
教会の朝は、相変わらず静かだった。
大きな窓から差し込む光は柔らかく、祈りの声は小さい。
その中で、カイランは軽く肩を回していた。
象牙色に近い白のマントに、控えめな金の縁取りは、飾りというより、立場を示すための印といえる。
肩や腕の装甲は軽く、脚部が動きやすさ重視なのは、カイラン自身が見た目より、使い勝手をとったからだ。
「助かりました、カイラン様」
「大げさですよ。祈りの時間に遅れなければ、大丈夫です」
そう言って笑うと、相手の表情も和らぐ。
こういう場で肩肘を張るのはどうにも性に合わず、信頼されていることは分かっていても、それを誇る気にはなれなかった。
書類を片付けていると、教会の扉が開いた。
「お、やっぱここだったか」
ラグスの声だ。隣にはいつも通りセインがいる。
二人とも軽装だが、これから仕事らしいのは短い付き合いでもわかる。
「この前は助かったぜ。ちゃんと礼、言ってなかっただろ?」
「ああ、あれね。酒の量を減らしてくれれば、それでいいよ」
冗談めかして言うと、二人はケラケラと笑った。
「そういえばさ」
ラグスが、思い出したように言う。
「タマちゃんって子、覚えてるだろ?」
カイランは書類をまとめる手を止めずに、答えた。
「うん。冒険者の子だろ?」
なんとも、不思議な少女。
教会に身を置く者として、あの笑顔の裏に、何かを隠しているのは感じている。
「この前、近衛騎士に追われてた件。結局、理由は分からなかったんだよな」
ラグスが腰に手を当て、セインの方を見ながら言う。
セインは顎に手を当てるようにして、首を傾げる。
「俺たちから見ると、正直、理不尽だったっスね」
「まあ……そう感じるだろうね」
カイランは、曖昧に頷いた。
「でもさ……」
ラグスがカイランを見ながら、続ける。
「動いてたの、第三団だったろ?」
その言葉に、カイランは一瞬だけ視線を上げた。
「最近は魔族関係はほとんど第三団だ。タマちゃんを追ってたのも、あいつらだし」
彼らにとっては、ただの事実共有。
深読みする話じゃない。
だが、カイランの中では、何かが自然と形になっていく。
タマを追っていた理由は分からないが、それでも、第三団が動いている。
王都の中だけの案件なら、もう何かしら片がついているはず。
「……たぶん、動きは広がってるな」
カイランは口調を軽くし、世間話の域を出ないようにする。
「俺も王都を一度見てくるよ」
「お、聖騎士も調査するっすか?」
「じゃあ、聖騎士の本領発揮を見れそうだな」
ラグスとセインは、カイランの狙い通り、気楽にそう言った。
カイランは胸にある巡道教の印に手を置くと、馴染んだ形が、手のひらに返ってきた。
魔族のことを思うと、胸の奥でわずかに熱が灯る。
だが、それを顔に出すことはない。
職務だ。たまたまだ。そう整理する。
「出世とかさ、正直向いてないんだよね」
冗談めかして呟き、歩き出す。
教会を出ると、王都の外へ続く道が、朝の光の中に伸びていた。
*
南の川沿いの停泊場では、第三団の検問によって船が止められていた。
理由は告げられていないが、拒否は許されない空気が立ち込めている。
河岸の掲示板には冒険者ギルドへの通達が貼られ、王都近郊のいくつかのダンジョンが一時的に封鎖されていた。
「……これで揃ったわ」
停泊場の脇、簡易的なテントの中。
リラ、ガルム、エルネストは検問が指示通りに進められているかを確認していた。
そう呟いたと同時に、リラは自分の推論がもはや推測ではなく、状況そのものに裏付けられたものへ変わったことを悟った。
リラは一瞬、頭の中でヴァルクスの顔を浮かべ、すぐに打ち消す。
「……報告の必要はない」
今ここで職務として判断し、動かなければ、時間を与えた分だけ相手の逃げ道は増え、この機を取り逃がす。
先日の夜が、脳裏をよぎる。
近衛騎士に追われているとわかっているはずのタマが、それでも王都にいた以上、十分な物資を整えられているとは考えにくい。
ならば途中で補給が必要になるはずで、彼女の向かう先には宿のある町か村。
単独ではなくゲドーマルと行動している可能性が高い。
思考は、途切れずに繋がっていく。
リラはテーブルの上に地図を広げた。
北はダンジョンが封鎖中で、通過には時間がかかる。東は迷いの森で、物資補給は望めない。南の河は、検問中。
残るのは、西。農地が広がり、小さな町が点在する、王都の物資調達の要。
追われる側が選ぶなら、最も現実的な道。
リラは思考を整理し、顔を上げる。
「……西を主軸に動くわよ」
隣に立つガルムは、リラの広げた地図から顔を上げ、即座に頷いた。
「だな。ここまで来たら、やるしかねえ」
ガルムの覚悟は、すでに固まっている。その一方で、エルネストは一瞬、言葉が詰まる。
「……団長には?」
その問いに、テーブルに手をついたまま、リラは首を振る。
「後で報告するわ。今は時間がないの。休んでる場合でもない」
エルネストは、唇を結んだ。
「……分かりました。ただ、独断になります」
「ええ、わかってる」
リラの中で結論は、もう出ていた。
*
別の場所で、ミルザもまた配下の魔族より情報を拾い上げていた。
第三団の動き。
ゲドーマルを斬った《緋髪纏雷》がわずか三騎で西へと足を進めている。
やはり、僕の読みは正しい。
「待ってなよ、ゲドーマル。仲間にならなかったことを後悔させるよ」
ミルザは牙を剥くように唇を歪め、王都外縁の西側へと金色の瞳を細めた。
*
王城の回廊は、相変わらず静かだった。
石床を踏む足音だけが、ほんの少しだけ反響する。
その中を、ハルは気取らない足取りで歩いていた。
「……第三団、か」
隣で、ルキアス・セリウス・レグナが低く呟いた。
「非公式で、王都内外を横断して実働している、か」
「一介の冒険者を追うには、力が入りすぎていますね。それに、ひとつおかしいことがあります」
ルキアスは歩みを止めずに、ハルの方に顔だけ向ける。
ハルは視線を一瞬だけ、周りに飛ばし、先ほどよりも声を小さくする。
「ダンジョンも封鎖され、南では船の検問も始まっています。なのに、ヴァルクス団長や、主な騎士は詰所から動いていない。実際に動いているのはストライゼン卿のみです。独断の可能性が高いといえます」
ルキアスは手を顎に当て、目を細める。
「……魔族関連か?」
「ええ。諜報部の勘としては、かなり近い。情報の流れも、異様に速い……第三団が黒幕と断定はしませんが、中心に近い場所にいるのは間違いないでしょう」
隣を歩くルキアスが、ふと歩調を緩めた。
近衛騎士団の配置を、頭の中で順に並べているのだろう。
第一団は国王直属で守護のみ。現在は主にアルティシアの警護。第二団は国境守備。第五団は儀礼。
いずれも、今回の件とは無関係だ。
消去法の果てに、第三団だけが浮いて見える。
ハルはルキアスの横顔から、ルキアスが考えているであろうことを、読み取る。
しばしの沈黙の後、ルキアスが別の名を口にした。
「もう一つ。聖騎士の件だ」
ハルの細い目が、更に細くなる。
ルキアスは、そのまま続ける。
「カイラン・ブランク。巡道教所属の聖騎士。最近王都に現れ、王国と一定の距離を保つ立場と言っていたな」
「魔族を追っています。それ自体は問題ないですが、リラの職務を一度、妨害しました」
ルキアスが黙って聞いているのを確認し、ハルはそのまま続ける。
「表向きは、酔って捕まった友人の冒険者、ラグスとセインの解放……ですが、実際にはタマというゲドーマルの関係者である冒険者を守る行動だった可能性が高いかと」
ルキアスは静かに考え込み、やがて思考をまとめるように、視線だけを前に向ける。
「近衛騎士とも、王国とも、摩擦を恐れていない、か」
「ええ」
「善人か、敵か」
ルキアスが呟くように言う。
「どちらとも言えません。少なくとも、我々の指示系統には属していない」
それは危険でもあり、同時に、王女直属ではないという意味でもある。
「……面倒な駒だな」
「ええ。ですが、今のところ王国の敵ではありません」
ルキアスは腰に手を当て、短く息を吐く。
「分かった。聖騎士は、保留だ」
「妥当な判断です」
ハルは一礼し、続けた。
「殿下。もう一つ、単独で当たっておきたい線があります」
「許可する。だが、深入りはするな」
「心得ています」
*
対象は、王城に長く出入りする商人。
表向きは王族用酒蔵の仕入れ担当で、祝宴用の特別品、儀礼用の銘酒を納める立場。
完全に正当で、誰にも疑われたことのない初老の男。
「今日はいつもと違う方なんですね」
男は、慣れた調子で声をかけてくる。
「帳簿の確認です」
次の瞬間、ハルの指の先が男の首筋に触れ、袖口に仕込まれた細い針から、無色無臭の薬が静かに流し込まれた。
効き始めると、男は膝から崩れ落ちた。
「参ったね、これは。酒蔵の仕入れにまで魔族が紛れてるんだもんな……殿下、これ以上忙しくなると、本当に寝てる暇もなくなるぞ」
そう呟くと、ハルはそこに倒れている”魔族”を肩に背負い、音もなく歩き始める。
*
《迷いの森》は、王都の”東”にある。
隠れ家よりもさらに東の奥に進むと、音が減っていく。
風も虫の声も遠くなり、代わりに、足元の土を踏む音や身につけている服や装備の擦れる音だけが残る。
先の方で、アウレオンが進路を選んでいる。
立ち止まって、悩んだりすることもなく、枝の流れや草の伸び方を確かめては、静かに歩みを進めていく。
隣で小さく光っている精霊と、感覚を重ねているのだろう。
俺には詳しいことは分からないが、精霊にも迷っている様子は感じない。
アウレオンの後ろを歩くレオンは、周囲から目を離さない。
握っている槍の穂先には、まだ乾ききっていない血が残っている。
さっき、魔物を一体倒したばかりだ。
この森は一見、穏やかに見えても、安全じゃない。
タマはレオンの少し後ろを歩き、時折こちらを振り返っては、小さく笑う。
弁当のことや休憩の場所のことを考えているのだろう。
騎士達の追っ手も見当たらず、古竜とやらの調査という緊張も、今のところほとんど感じられない。
俺は最後尾をゆっくりと歩いている。
足元に落ちていた赤い木の実を拾い、懐へ入れる。
削った跡の残る木刀は、左腰の《終座》の隣に差してある。
「さっきから、何を集めてるの?」
タマが振り返り、首を傾げながら聞いてきた。
「この赤い実が、好きらしい」
俺はちょうど拾ったその赤い実をタマに見せながら、そう答える。
「……好き、らしい、って何だ?」
レオンが、少し不思議そうな声を出した。
「ほら」
俺は、肩を示す。
そこには、小さな影がいて、赤い実を食べている。
手のひらほどの大きさで、半透明の影のような身体は黒紫から紺、漆黒へと色が変化する。
小さな角が一対に、細い尾。暗い身体の奥で、金色の目だけが静かに光っていた。
「懐いてる魔物、だな」
「……かわいい」
タマが顔を近づけ、微笑みながら観察する。
拾った赤い木の実を差し出すと、影はそれを受け取って俺の肩に身を丸めた。
周囲の影に溶けたり、また現れたりを繰り返している。
敵意はない。ただ、居心地がいいらしい。
「……何故、《闇精霊》ノクティスが……! ……ありえない……」
先頭のアウレオンが振り返り、その場に立ち止まったまま、目を剥いている。
俺にはその驚きの理由がわからなかった。
肩の上の影は、ただ居心地がよさそうに丸まっているだけだ。
ふと思って、腰に手をやる。
取り出したのは、昔から使っている徳利だ。
口当たりも重さも、手に馴染んだやつ。
「……少しくらい、いいか」
そう言って、徳利を傾けかけた。
「精霊に酒を呑ますな!!」
アウレオンの叫びが、森の静けさを引き裂いた。
全員が一斉に視線を、その《闇精霊》ノクティスからアウレオンに向ける。
アウレオンがここまで声を荒げるところを、誰も見たことがないはずだ。
「え、あ……?」
俺は徳利を持ったまま、動きを止める。
「それは!!」
アウレオンがさらに声を張る。
だが、口が何度か開閉しただけで、説明はそこで途切れた。
小さな影は何事もなかったように、俺の肩で丸くなる。
俺は首を傾げて徳利を腰に戻し、また足元の赤い木の実を拾い上げた。




