第16話 王国最強の男
西側には、何もなかった。
農地は整然と畝を連ね、街道にこれといった問題もなく、通り過ぎていく小さな町々は、いつもどおりの昼下がりを迎えていた。
だが、リラは軍馬の速度を落とさなかった。
馬の蹄が土を叩く音だけが一定のリズムを刻み続け、急ぎすぎていると頭では理解していながら、手綱を緩める気にはどうしてもなれない。
ここまで、彼らの足跡も、誰かが誰かと争ったという気配もなかった。
目撃証言は曖昧で、魔力反応すら拾えなかった。
それでいて、いない、と断じられる材料も、どこにもない。
いるはずだ、という感覚だけが消えない。
距離は縮まっている。
理由も分からぬまま、そう思ってしまう自分がいて、その事実がリラの背を、前へ前へと押していた。
「……今からでも、団長へ報告を」
並走するエルネストが、馬上から静かに言った。
リラは答える代わりに手綱を強く引く。
軍馬が応えて、さらに脚を伸ばし、風が頬を打ち、視界の端が後ろへ流れていく。
背後からは重い鎧を乗せた馬の音が、遅れずについてくる。
ガルム。
何も言わず、ただ一定の距離を保って追従している。
独断だと、自分でも承知していた。それでも、止まれない。
刹那、街道脇の茂みから、子供が転がるように飛び出してきた。
距離が足りない。このままでは間に合わない。
判断は一瞬。
リラは手綱を引き切り、全体重を後ろへ預ける。
軍馬が悲鳴に近い嘶きをあげ、前脚が地面を深く削った。
土が跳ね、骨まで届く衝撃が肘から肩へと駆け上がる。
子供は尻餅をついていたが、蹄には触れていなかった。
馬が完全に止まるのと同時に、リラは鞍から飛び降りる。
喉の奥で、息が詰まる。
「……ごめんなさい」
近衛騎士の言葉としては、正しいものではないのかもしれない。
それでも、考えるより先に、口がそう動いていた。
子供は一瞬きょとんとした顔でリラを見上げ、それから自分で立ち上がると、指で鼻の下を擦りながら笑う。
「だいじょうぶ!」
気づけば、リラはその小さな身体を抱きしめていた。
鎧越しの腕の中の柔らかい感触だけが、今のリラには確かなものだった。
馬へ戻る数歩のあいだ、胸の内側で何かが引っかかる。
子供を守ることに、迷いはなかった。謝ることも、自然にできた。
ならば……なぜ私は、ゲドーマルを斬らなくてはならないと思っている。
手のひらに視線を落とすと、籠手の内側で手がまだ細かく震えていた。
心は斬りたくないと言い、身体は斬る準備を終えている。
風が街道脇の草を撫でて通り過ぎたはずなのに、その風は頬まで届かない。
「……心と剣が、噛み合わない……わね」
顔を上げると、ガルムとエルネストが馬上からこちらを見下ろしている。
短い付き合いではないはずなのに、その顔から感情を読み取ることができない。
読めないのは彼らのせいではなく、いまの自分の目が曇っているせいかもしれない。
ガルムは何も言わない。エルネストも、それ以上は口を開かなかった。
リラは鐙に足をかけ、再び鞍へ身を預ける。
胸の奥に刺さった小さな棘だけが、馬の揺れにも関係なく、いつまでもそこに残っていた。
*
王都西側の外縁は、静かだった。
乾いた街道の土を踏む足音は軽く、点在する集落からは昼時の煙が細く立ちのぼっている。
森と呼べるほどの木はなく、街道はよく整備され見渡しはいい、つまり隠れる余地は少ない。
痕跡の残りやすい土地といえる。
それなのに、足跡も、魔力反応も、目立った人の流れも……ゲドーマルという存在を指し示すものは、何ひとつ網にかからない。
道のはずれ、人影の絶えた場所を、ミルザは歩いていた。
白灰色の肌の上で、紫の長髪が風に揺れている。
近衛騎士が動いている以上、王都の内側はあの男にとって危険だ。
逃げるなら、間違いなく外。
理屈は合っている。だからここにいる。なのに、手応えがまるでない。
「……妙だね」
口から零れた声は穏やかだった。
苛立ちはある。だがそれは焦りではなく、理解できないものが目の前にあるという事実そのものが、気に入らないだけ。
彼は考えながら歩き続け、部下たちはその背中の速度に合わせて黙々と進んでいる。
「あぁ、いいこと思いついた」
ミルザは唐突に足を止めた。
思考の底へ沈み込んだ末の、無意識の停止。
後ろを歩いていた部下のひとりが、避けきれずにその背へぶつかる。
肩が触れた。
ほんの一瞬の、それだけの接触だった。
ミルザは振り返らない。
「……邪魔だね」
感情の温度を持たない言葉だけが、見通しのいい街道へ、ぽつりと落ちた。
右腕に、魔力が集まっていく。これは詠唱を伴う魔法ではない。
魔力を纏わせただけの、力任せの一撃。
空気が弾け、衝撃音がひと呼吸、遅れて野へ響く。
地面が土埃を巻き上げ、魔力の残滓が波紋のように四方へ広がっていく。
音が消えたとき、そこにいたはずの魔族は街道脇の草地まで吹き飛ばされ、土煙の向こうで形を失っていた。
代わりに、歪んだ気配だけがそこへ残されている。
強い魔力がここで放たれた。
その事実だけが、隠しようもなく周囲へ知れ渡っていく。
ミルザは、一瞥もくれない。最初から、隠すつもりなどない。
何事もなかったかのように歩き出すと、背後には淀んだ気配だけが漂い、あたりは不自然なほどの静けさに包まれていた。
「……逃げ道、そろそろなくなるよ」
牙を覗かせるように口の端を持ち上げて、ミルザはその先へと進んでいく。
*
近衛騎士の詰所は、インクと紙の匂いが染みついた場所だった。
石壁に囲まれた廊下を進むたび、カイランの白い外套が騎士たちの視線を集める。
胸元に刻まれた巡道教の紋章に気づいた者は一瞬だけ足を止め、それからすぐに目を逸らして自分の仕事へ戻っていく。
聖騎士を珍しがっている暇はない、という顔。
だが、その暇のなさの中身が、本来の近衛騎士の業務とは違って見える。
書類の束を抱えた伝令が、早足で通り過ぎる。
すれ違いざま、短いやり取りだけが耳に落ちてきた。
「……リラ隊長、西に馬で出たらしい」
「休暇中だろう。誰の許可で__」
カイランは視線を変えないまま、小さく飛び交う言葉を一つずつ拾い集めていく。
今日はラグスとセインに約束した調査の続きのつもりで来た。
それなのに、詰所の空気のほうが勝手に情報を運んでくる。
廊下の反対側、扉一枚を隔てた向こうから、押し殺した声が漏れてくる。
「南の船着場、止められてるって」
「ダンジョンも封鎖だ……団長の正式な通達は出てないよな?」
ここまでして、か。
カイランはそばの窓に手をかけ、何気なく外を眺めるふりをする。
手の先に、石の冷たさがじわりと伝わってくる。
いったい、何を斬りに行ったんだ。
あの夜、タマと近衛騎士のあいだに割って入ったときの、リラの目を思い出す。
迷いと、その迷いを力ずくで振り切ろうとする意志が、同じ瞳の中に同居していた。
あれは職務の目ではない。もっと心の内側から来る、何かだ。
窓から手を離して歩き出したカイランの足は、しかし詰所の奥で止まった。
向こうから来たのは、ヴァルクス。
赤い縁取りのマントが、薄暗い廊下でもよく目を引く。
濃い栗色の短髪に、鋭い目。
第三団団長としての威厳は、ただそこに立っているだけで周囲の空気を重くしている。
予定されていた面会ではなく、ただの偶然。
それでもカイランは立ち止まり、軽く頭を下げる。
近衛騎士団長といえども、聖騎士を無下にはできない。
形式どおりの挨拶が、短く交わされる。
「休暇中の部下が、西に出ているようですが」
カイランは、わざと角の取れた柔らかい声で言った。
ヴァルクスの顎が、ほんのわずかに動く。
右手が無意識にハルバードの柄へ触れ、すぐに離れた。
「報告は、まだ上がっていない」
声そのものは、淡々としていて、緊張もない。
だが、その「まだ」に込められた意味を、カイランは見逃さない。
知っている。知っていて、動いていない。
あるいは……止めるべきかどうかを、この男はまだ決めかねているのか。
それ以上は踏み込まない。聖騎士が近衛騎士団の内側へ首を突っ込む道理はない。
カイランは一礼して、踵を返す。
詰所を出ると、午後の日差しが目に刺さった。
石畳に落ちる影は短く、王都の通りでは商人が荷を運び、子供たちが歓声をあげて駆け回っている。
平穏そのものの光景。
詰所の中で嗅いだインクと紙の匂いが、まだ鼻の奥に貼りついて離れない。
「……外か。面倒だな」
カイランは首の後ろを掻きながら、西の城門へ向かって歩き出した。
背後で、詰所の扉が重く閉まる音がした。
*
その扉の内側で、ヴァルクスは廊下に立ったままでいる。
壁に掛けられた王都周辺の地図を、ただ見つめている。
視線が、西側の街道の上で止まった。
右手が、今度はゆっくりと、確かめるようにハルバードの柄を握り込む。
「……外か」
言葉は短く、それきり続かなかった。
*
森の奥に、わずかな違和感を覚えた。
空気は澄んでいるし、風も穏やかで、木の枝の揺れる音にも乱れはない。
それでも、脚を一歩踏み込んだ瞬間に、土が教えてくる。
ここを、”何か”が通ったと。
俺は足を止め、地面を注意深く視てみるが、魔力の残滓は薄い。
意図して消したというより、立ち止まらずに通り過ぎただけの残り香のような魔力。
だが、ところどころ魔物の足跡が、途中で不自然に途切れている。
何かに驚いて慌てて逃げたのではなく、増水した沢を前にした獣が、流れの強い場所を避けて回り込むときのような動き方。
「……もう、いないな」
肩の上で、ノクティスがふいに小さく身じろぎする。
影がほんの一瞬揺らぎ、金色の瞳が木々の間をきょろきょろと追っていく。
「……ありえないな」
アウレオンが視線をノクティスに向けながら、低く呟いた。
「闇精霊が人族の肩の上にいる……それも契約で呼ばれたのではなく、自分で選んでいる」
翡翠色の目が、細められる。
「理屈では否定できない……だが、世界の前提が崩れている」
「それよりも、調査を続けるべきだろう」
レオンが周りを警戒しながら、淡々と言った。
”古竜案件”。
非公式とはいえ、ルキアス王子からの依頼だ。
長いこと、王都の門番をしていたレオンとしては感情ではなく、責務としてやり遂げる必要があるのだろう。
「うーん……」
タマが周囲をぐるりと見回してから、俺を見上げる。
「ここまで来たし、少し休もう? ノクティスも落ち着かないみたいだし」
返事を待たずに背負い袋を下ろし、弁当を広げ始める。
包みを解くと、干し肉と硬めのパンの香りが、木や土の匂いを打ち消すように広がる。
タマは俺の肩の上にいるノクティスの頭を、手のひらで撫でている。
影が嬉しそうに揺れ、尾の先がくるりと丸まった。
俺はそれを横目に見ながら、《終座》と木刀を地面へ置く。
……少しだけ、面白くない。
タマの手がノクティスの頭を撫でるたび、パンの味が少し薄くなる。
理由は分からない。分からないまま、その味の薄くなったパンをちぎって口へ運ぶ。
「移動しただけだな」
深追いする理由はなく、ここに留まる意味もなかった。
アウレオンが幹に背を預け、レオンは水筒の蓋を開けている。
木漏れ日が、弁当の包み紙を持つタマの手の甲を、まだらに照らしている。
干し肉を噛みながら空を見上げ、俺は立ち上がり、《終座》と木刀を腰に差し直す。
枝の隙間から視える空は、まだ十分に明るい。
*
森を抜け、視界がひらけた、その瞬間、空気の質が重く変わる。
風が弱まり、あらゆる音が一段、遠くなった。
前方には、二人の人影が視える。
ひとりは、若い女。
最初に眼へ飛び込んできたのは、顔や服装ではなく、彼女の魔力。
体内を巡る魔力の流れが、異常だ。
淀みがほとんどないどころか、周囲に漂う細かな力の粒までもが、彼女を中心にゆるやかに引き寄せられている。
深い渦が、水面の落ち葉を音もなく呑んでいくときの、吸い込み方に似ている。
淡い金色の髪には銀の光沢が混じり、陽射しの下で冷たく輝いている。
灰青の瞳が、こちらを捉える。
興味の色を微塵も見せないまま、ただ、測っている。
威圧されているわけでもないのに、その場の空気だけが確実に重くなっていく。
レオンが真っ先に反応し、迷いなく片膝をつき、息を詰める。
「……王女殿下」
アウレオンが小さく、緊張を帯びた声で教えてくれる。
「王女の隣にいるのは、グラウ・アイゼン。近衛騎士団第一団団長。“王国最強”と呼ばれる男だ」
王女の半歩後ろに立つ男は、黒と灰を基調とした装いで、短い髪も目も、同じ色合いを持っている。
威圧感はあるのに、それを誇示するそぶりがない。
腰には短い剣を二振り、そして装備の各所に魔道具を仕込んでいるのが、視える。
左右の耳飾りからは魔力が絶え間なく循環し、身体強化と回復とを同時に維持している。
そのうえで、器に湛えられた魔力の量が桁外れに多く、内側の循環は、寸分の乱れもなく澄んでいる。
強いな。真正面から立ち合う相手ではない。
タマが俺の隣に立ったまま、小さく息を吐く。
「ゲドーマル、気をつけて。あの人……人を人だと思ってない、絶対」
タマは視線を王女へ向けたまま、静かに腰を落とす。
俺は声を出さずに、頷いた。
王女の目が、俺へ向く。
魔力を見ている……いや、それだけではないな。
右手の指輪ひとつひとつの、魔道具としての性質まで見抜こうとしている。
「……あなたは、私に忠実ですか?」
初めてその綺麗な口元から漏れたのは、淡々とした声。
だが、タマの肩も、アウレオンの目も、レオンの膝もわずかに硬くなる。
「話を聞くつもりはあるのか?」
俺はそう返した。
王女の表情には、ほんのわずかの変化も訪れない。
「なぜ、私があなたの話を聞く必要があるのかしら?」
「対話ができないなら、無理だろう」
張り詰めた沈黙の中で、タマの指が無意識に、右手首の飾りへ触れる。
戦う構えではなく、ただ守りを確かめただけの仕草。
だが、王女の灰青の瞳がその小さな動きを捉え、視線だけを隣のグラウへ流す。
”王国最強の男”が、半歩前へ出た……次の瞬間、風を切る音のほうが遅れて聞こえた。
ナイフが一直線に、タマの喉元へ向かっている。
考えるより先に、身体が動き、伸ばした手が、それを掴む。
衝撃が腕を貫き、指先が少し裂け、血が一滴だけ、地面に落ちた。
周囲が、凍りついた。
グラウの目が、わずかに見開かれる。だが、この男は何も言わない。
代わりに、淡く光っている両耳の魔道具が、強さを増している。
俺は、それを視る。
耳飾りに巡っていた魔力の環が、身体強化と回復、二つの役目を同時に果たしながら、寸分の乱れもなく澄んだままでいる。
この男は、もう次の一手の準備を終えている。
……厄介だな……だが、そんなことは、どうでもいい。
隣で、アウレオンの呟きだけが、やけに遠くで聞こえた。
「ゲドーマル、その反応の速さ……もはや、人族の域を超えているな」
「ゲドーマル!」
タマがすぐに駆け寄って俺の手を取り、回復魔法をかけてくれ、温かい光が傷ついた指先を包んでいく。
だがそのあいだにも、俺の胸の奥では、”何か”が静かに立ち上がっていた。
タマを狙われた。何もしていないのに。話も聞かず。
肩に乗っていたノクティスが、俺の気配に当てられたのか、ふわりとタマの肩へ移った。
俺は《終座》ではなく、急拵えの木刀を手に取る。
木は素直だ。昔から、そうだった。
丹田に力を据え、氣を通す。
集めるのは表面にだけ。中までは満たさない。
焚き火に薪をくべるとき、火が燃え移るぎりぎり手前で手を引くように、壊れる一歩手前で止める。
それでも、腹の底にわだかまった熱が、引いた手のほうへじわりと滲み出てこようとする。
指先に勝手に入る力を抑えるため、眼を閉じ、意識して息をゆっくりと吐く。
木刀が微かに、バチッ、と鳴る。
刀身の周りを、蒼く白い光が細く飛び回りはじめる。
湿った空気が氣の震えに耐えきれず、焼けるような甘い匂いを放つ。
その火花の縁が、ひと息ごとに、わずかに紫を帯びていく。
「少し、感情的になってるな」
閉じていた眼を開きグラウを視ると、俺は言った。
「王国最強の男。これは金棒と違って、手加減がしづらい。目を離すなよ」
グラウが腰を落とし武器に手をかけると、それに反応するように耳飾りが光を滲ませる。
だが、王女はそれ以上、踏み込まなかった。
「王都に住みたければ、私に忠実になりなさい」
静かなのによく通る声で、それだけ言うと、王女は踵を返す。
グラウも何も言わずに続いた。
*
去り際、王女が一度だけ足を止めた。
「……ゲドーマル?」
少し考えるように、首を傾げる。
「どこかで聞いた気がするわ」
「ミルザが言っていた男です」
グラウが淡々と補足した。
「……そうだったかしら?」
王女は、その言葉を言い終えるよりも先に、もう背を向けていた。
関心は、すでにこの場から消え去っている。
*
膨大な魔力の残滓を、視覚より先に肌が拾う。
魔力が使われた痕。それも強く、そして雑に。
リラは足を止めた。
魔物が残す粗い波紋などではなく、もっと密度が高く、明らかに意図的な、上位の魔族が通り過ぎたあとに残る、嫌な重さがある。
背後でガルムとエルネストがわずかに馬を引き、距離を取る。
前へ出るのは、リラだけ。
人影がひとつ、こちらに背を向けて立っている。
逃げる気配はなく、隠れる様子もない。むしろ、待っていた。
「……来ると思っていたよ。想定していた人物ではなかったみたいだけどね」
振り返らないまま男が放った声は軽く、警戒も敵意も含んでいなかった。
リラは剣の柄へ手をかけようとして、その手が途中で止まった。
相手はまだ、背を向けたままだ。
男が、ゆっくりと時間をかけるように振り返る。
白灰色の肌に、異様なまでに発達した筋肉。
黄金色の瞳が、値踏みするように細められる。
額から伸びる二本の黒い角の根元を、深い紫の長髪が覆っていた。
魔族幹部。
一目で、それと理解できた……いや、できてしまった。
「へえ……《緋髪纏雷》」
通り名を、正確に呼ばれることで、情報量の差が、そのまま胸へ突き刺さる。
「思ったより、ちゃんと人族だ」
からかうような笑みには、隠す気のない余裕が滲んでいる。
「……名を……名乗りなさい」
低く、感情を削ぎ落とした、職務のための声音。
男は、わざとらしく大袈裟に肩をすくめる。
「僕? ミルザだよ」
子供が新しくできた友人に自分を紹介するような軽さ。
口角を上げると、牙がはっきりと見える。
「王女の犬、ってわけでもなさそうだ」
胸の奥が、微かに跳ねた。
私は王女のために剣を振るっている……そう、思っている。
それなのに、否定の言葉がすぐには出てこなかった。
ミルザは口元へ手を当てて愉悦を噛み殺したが、堪えきれないものの代わりに、魔力だけが周囲へ滲み出す。
この魔族……何かを知っている。
空気が重くなり、視界の端がはっきりと揺れる。
リラの身体の周りを雷が走りだし、周囲に何かが焦げた匂いが立ち上る。
詠唱はしていない。剣も、まだ抜いていない。
身体が勝手に起こした、本能による防衛の反応。
赤い髪がふわりと浮き上がり、地面に細い放電の跡が刻まれていく。
ミルザはこみ上げるものを楽しむように、ゆっくりと息を吐いた。
それから、値踏みを終えたとでもいうように、ゆっくりと顎を持ち上げる。
「ああ……なるほど。うん、君は、壊す価値がある」
人差し指の先が、リラの喉元をなぞるように、宙で止まる。
「壊れたあとの君が、どんな顔するか……楽しみだね」
リラは歯を食いしばり、剣の柄に手を伸ばす。
今度は止まらない。
ミルザの存在感がさらに濃さを増し、リラの足元で雷が鳴る。
空のどこにも落ちてはいないのに、雷鳴だけが、この地に低く響き続けていた。




