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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
18/50

第17話 雷 VS 闇

本日は19話まで30分おきに一挙更新します。

よろしくお願いいたします。


 王都西側、外縁。


 街道を外れた草原に、夕方前の風が少しだけ冷たく吹いている。


 刈り残された草が膝の高さまで伸び、踏み込めば土と草の匂いが同時に立ち上がる。


 だが、それを、空気の焼ける匂いが少しずつ塗り替えていく。


 空は高く、雲ひとつない。


 その澄んだ天のどこにも稲光は見えないのに、雷鳴だけが、絶えず地を這って響いている。


 虫の羽音が耳をかすめ、街道には昼間の太陽の熱の名残りがある。


 リラの赤い髪は浮き、空気が震え、細い放電が絶え間なく走り続け、地面に走るひびが淡く光る。


 剣を抜く準備はできている。抜けば始まる。始まれば、戻れない。


 数歩先に、魔族幹部ミルザが薄気味悪い笑みを浮かべながら、立っている。


 左手には棘付きのメイス。


 柄は短く、片手で扱える長さで、先端は三叉に分かれている。


 それぞれの棘は微妙に形が異なり、左右非対称。


 表面には細かな溝が刻まれ、傷のような線が無数に走っている。


 リラはこれまでの人生であれを見たことはないが、どこか文字のようにも見える。


 右手の指先の雷がほんの一瞬だけ消える。この辺りの魔力の流れが、あの溝へ向かって傾いている。


 目の前の男は、王国の近衛騎士を相手に構えもなければ、魔法を組む気配もない。


 違う、とリラは視線を巡らせて理解した。


 前、後ろ、左右。


 一定の距離を保ったまま、複数の気配がこちらを窺っている。


 包囲されているわけではない。逃げ道を塞ぐ気もなさそうな、陣形ともいえない配置。


 これは、観察……されている。


 「彼らにとってここは戦場ではなく、実験場……なのね」


 そう呟いた瞬間、冷たい汗が背筋を走った。


 同時に、空気が重くなる。圧がかけられている。


 魔力そのものが重さを持って押し寄せ、肺が圧されて呼吸が浅くなり、皮膚の上を、見えない何かが撫でていくような不快感がなぞる。


 腰にある剣の柄のすぐ側、小手の内側にじっとりとした汗が滲む。


 魔族たちが動き始める。


 一斉に襲ってくるわけではなく、様子を探るように、間合いをじっくりと詰めてくる。


 リラの手のひらが、押し寄せてくる恐怖に呑み込まれないように、無意識のうちに剣の柄に触れる。


 「隊長! 前に出るな!」


 背後から聞こえたガルムの声が、街道を越えて草原にまで響き渡る。


 巨体が一歩前へ出て、短い詠唱と同時に、愛用の槍を地面へ叩きつける。


 瞬時に、赤い魔法陣が展開される。


 「《焔壁えんぺき》!」


 轟、と音を立てて街道一帯に炎の壁が立ち上る。


 それは自然発生した火とは一線を画す、圧縮された魔力の炎。


 迫っていた魔族たちが、反射的に距離を取る。


 あの男を前にした時、ガルムはこの炎を最後まで振るわなかった。


 リラはそれを、確かに見ていた。


 ガルムは続けて叫ぶ。


 「エルネスト!」

 「分かっています!」


 いつの間にか詠唱を終えていたエルネストが、地面に手をつくと、複数の魔法陣が連なって街道に展開されていく。


 「《縛土ばくど》、展開!」


 地面が蠢く。


 土が盛り上がり、腕のように伸びて、魔族の足を絡め取り、その動きを止める。


 同時に、空間へ淡く光る線が伸びる。


 「《拘束陣・簡易》!」


 見えないはずの魔力が、周囲へ網のように張り巡らされていく。


 決して前には出ない。


 これは倒しに行くのではなく、生きのびるための守りの戦法。


 二人は最初から決めている。勝ちに行かない。


 きっと助けが来る。


 結果として、リラは中央に立たされる形になった。


 魔族の放つ重さがさらに増し、視界がわずかに揺れ、さらに息が浅くなる。


 「……それでも」


 大きく息を吸い、剣を抜くと、そのまま右の手のひらに力を込める。


 続けて、一歩踏み込む。足元でバチッと音を立てて雷が弾ける。


 「来るなら、来なさい」


 声は震えていない。魔力を一気に収束する。


 「《緋髪纏雷ひはつてんらい》の名の由来を、見せてあげるわ」


 リラの力が、足元に魔法陣を作り出す。


 「近衛の名において声を並べる。高き天の剣、我が身を器とせよ……光のごとき外套、我が鉄に宿れ。――《近衛迅雷・ストライゼン》!」


 透き通ったルビーのような紅赤色の閃光が、リラの周囲を螺旋状に弾け、暴れることなく、意図を持って走る。


 最初の一撃は、目で追える速さではなかった。


 横合いから飛び込んできた魔族へ、雷の剣が続けて走る。


 轟音がこの場へ広がり続ける。


 雷は、確実に通った。


 魔族の動きが、目に見えて鈍っている。


 最初は顔に笑みを貼り付けていた魔族たちが、徐々に距離を取り始める。


 雷が走るたびに、こっちを囲む者たちの顔に恐怖が浮かび、それが動きを狂わせ、足をもつれさせ、反応を遅れさせる。


 エルネストの拘束が、そこへ重なる。


 「今です、ガルム!」

 「おう!」


 ガルムが槍を構えたまま、一歩踏み出し、短く詠唱すると、槍の先に火が灯る。


 「《焔衝えんしょう》!」


 ガルムが槍を叩きつけると同時に、衝撃波が走り、炎を纏った衝撃が、拘束された魔族をまとめて吹き飛ばす。


 地面が抉れ、火花が散る。


 通っている。リラは、そう感じていた。


 いける。


 雷は嘘をつかない。このクラスの魔族が相手でも、届いている。


 圧は強い。数も多い。それでも、確実に押し返せている。


 その時、ほんの一瞬だけ、剣を握る手の力が緩む。


 ミルザが、少しだけ目を細める。


 だが依然、前には出てこないまま、腕を組み、口元に牙を見せながら楽しそうに眺めている。


 「おかしい……本気なら、もう前に出ているはず」


 違和感にリラが気づいた、その瞬間、魔族の一体が、確かに笑った。

 

 その背後で、空気が歪んだ。


 「なに?」


 雷がごくわずかに、だが確実に乱れた。


 まだ、正体は見えない。だが、魔法の手応えがほんの一瞬だけ、変わった。


 額に脂汗がじわりと滲み、リラは奥歯を噛み締める。


 長くはもたない。


 雷は走っている。仲間も、まだ立っている。だが、少しずつ削られている。


 ガルムの肩口が焦げ、エルネストの詠唱が、わずかに乱れ始めてきている。


 魔族たちは倒れている。それなのに、圧そのものは減っていない。


 むしろ、じわじわと重くなっていく。


 これは消耗戦だ。このまま続ければ、先に折れるのは……。


 ここで決めないと、後がない。


 リラは大きく息を吸い、剣を握り直した。


 雷が集まり、空気が張り詰める。


 「ガルム! エルネスト!」

 「分かってる!」

 「一瞬でいいわ!」


 詠唱しながら、ガルムは前へ出て、槍を構え、火を叩きつける。


 「《焔壁》、最大!」


 先ほどよりもずっと大きな炎が爆ぜ、視界を塞ぐ。


 エルネストが地面を踏み鳴らした。


 「《縛土》、重ねろ! 《拘束陣・完全》!」


 土があちこちで隆起し、暴れる魔族たちの動きを強引に止める。


 リラの赤い髪が重力を無視して逆立ち、周囲の砂粒が、パチパチと宙へ浮き上がっていく。


 「天蓋に満ちよ、見えざる琥珀の熱き呻き……万象の境界を焦がし、白銀の階梯を刻め」


 大気を燃やす紅赤色の閃光が、道筋を描くようにミルザへ向かって走り出す。


 「地の理は今、天の怒りに接続されん」


 周囲の音が消え、独特の焦げた匂いが、戦場を支配する。


 「降り注げ、昏き世界を穿つ裁きの柱」


 散っていた放電がひとつの流れになり、散らばっていた力が、嘘のように静まる。


 音が消え、光だけが残った。


 リラは、天を仰ぐ。


 「《天雷墜撃》!」


 次の瞬間。


 空が、落ちた。


 雲のない空から、極太の雷が垂直に叩き落とされる。


 空間が悲鳴を上げているような音で大地を貫き、拘束された魔族たちをまとめて飲み込む。


 轟音が鳴り、閃光が視界を埋め、衝撃が走る。地面が抉れ、土と魔力が爆風となって吹き上がった。


 熱の残り香が頬を撫で、焦げた土の匂いが鼻の奥に張りつく。


 戦場から、音と同じように魔族の気配が、いくつも消えていた。


 リラは、詰めていた息を、ようやく吐いた。


 手が震えている。剣の柄を握る手のひらは汗で湿り、それでも、確かな手応えだけが残っていた。


 「……効いた」


 口から自然とこぼれ落ちるように言葉が漏れる。


 「……へえ」


 出会った時とまったく変わらない、緊張感のない声色が煙の向こう側から、リラの耳に届く。


 土煙が薄れていくと向こう側に、左手にメイスを持ったまま、腕を組んでいるミルザがいた。


 見えるところには傷ひとつなく、髪の毛一本すら乱れていない。


 腕を下ろしたミルザが、一歩、前に出た。


 たったそれだけの動作なのに、場を満たしていた圧のすべてが、その一歩に吸われて消えていく。


 耳が、遠くなる。自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと響く。


 剣を持つ右手の手のひらに、自然と力が入る。


 「綺麗な雷だ。透き通って、赤くて……《緋髪纏雷》。うん、名前負けはしてない」

 

 ミルザはその金色の目を細めて深く頷いたあと、指を一本立てる。


 「近衛騎士。しかも、その若さで隊長。……ずいぶん、着込んでるねぇ」

 

 二本目。三本目。数えるように、折っていく。


 その横で、街道を縦横に走っていたはずの雷が、音もなく途切れた。


 「王女に信頼されて、仲間に慕われて、騎士としての誇りもある。全部、よく似合ってるよ」


 言葉のひとつひとつが、この身に着けていた大切なものを一枚ずつ剥ぎ取っていく。


 ミルザの足元の空間に、何かが浮かび上がっている。


 リラは視線をそこへ向け、それが何なのか、判別しようとした。


 模様のようにも見える。焦げ跡にも、引っ掻き傷にも……見える。


 「騎士としてのプライドも高そうだ」


 突然、思考がふっと途切れた。


 「でも、弱いね」


 目には、確かに映っている。なのに、意味だけが、指の間からこぼれていく。


 魔法ではない?


 少なくとも、リラの知る魔法陣とは、何かが決定的に違っていた。


 「……なに、あれ……文字?」


 反射的にミルザに向かって雷を叩き込むが、雷が彼に触れる直前、ミルザの手にあるメイスの傷のような模様が、淡く光る。


 リラの目が見開かれる。


 赤い光が枝分かれし、霧のように拡散し、網目状に霧散していく。


 雷という現象そのものが、成立する前に崩されている。


 呆然と立ち尽くすリラの足元の土が黒くなり、闇が広がったと思った瞬間、魔力の流れが、死んだ。


 ミルザは薄気味悪い笑顔をこちらに向けたまま、何事もなかったかのように続ける。


 「でもさ」


 ミルザは腕を組み直し、心底不思議そうに首を傾げた。


 「さっきからずっと君を見てるんだけど……肝心の“君”が、どこにも見当たらないんだよね」


 もう一度、魔力を込めようとした、その瞬間、リラの身体の中で、何かが確かに”触れられた”。


 痛みはなく、衝撃もない。なのに、力を入れようとしたと同時に、途中で何かが切れる。


 いつもなら当たり前に繋がっているはずの糸が一本、音もなく断たれた。


 意識は、ある。魔力も、涸れてはいない。剣を握る手も、動く。


 それなのに、その先が、繋がらない。


 手綱を握っているのに、手綱の向こうに馬がいないような……。


 「弱いって、そういうことだよ。力の話じゃない。中に誰もいない鎧は、どれだけ立派でも……ただ、軽いんだ」


 何の前触れもなく、膝から力が抜けた。


 「えっ?」


 踏ん張ろうとした足が、自分のものではないみたいに言うことを聞かない。


 手をつくこともできず、顔が地面に触れる。


 ガルムとエルネストが割って入る。


 「隊長!」

 「……っ!」


 「下がって」と叫ぼうとするが、喉が動くことを拒絶する。


 二人がリラの足元の闇に触れた瞬間、身体から力が抜けたように、受け身も取らずに地面を滑るように倒れ、そのまま動かなくなる。


 「ああ、分かった。なるほどね」


 ミルザの目が楽しそうに細くなる。


 「君は剣を握ってるんじゃない。“騎士”を握ってるんだ」


 地面に倒れたまま、リラの目が見開かれる。


 「だから、緩い」


 リラは倒れたまま、唇を噛み締めることしか出来ない。


 「ねぇ、ひとつ訊いていい?」

 

 それは、仲の良い友人とする世間話のような、あまりにも気安く軽い声。


 「その剣……君のもの? それとも、近衛のもの? 王女? 家族?」

 

 唇を噛み締めていた顎から力が抜けていく。


 ……もう、やめて……聞きたくない。


 「振る先を、君が選んだことは……一度でも、あった? いいや、ないでしょ。ないね、うん。ない」


 頬に触れている土から、昼間の太陽の熱が伝わってくる。


 視界は変わっていないのに、風景に色がゆっくりとなくなっていき、聞こえていた虫の羽音が消えた。


 剣が届かないのではない。剣を握っている自分の手が、はじめから空だっただけ。


 もしかしたら、この手のひらの中にあったのは、ずっと借りものだったのかもしれない。

 

 胸に迷いのある者を、騎士とは呼ばない。

 

 ぬるい土に触れたままの頬を、涙が一筋だけ伝った。


 ミルザは近づかない。


 倒れ伏すリラたちを、いつの間にか右手に持ち替えていたメイスをくるくると回しながら、見下ろすだけ。


 「いいね。空っぽの器ほど……壊した時、より綺麗な音がするんだよ」

 

 メイスが、くるり、と回る。


 「でも、まだだよ。もっと楽しませてもらってから」


 その時、地面が震えた。


 土そのものが意志を持ったように飛び跳ねる。


 同時に、頬を切り裂くような鋭い風圧が、ミルザの方向へ抜けていく。


 リラは顔を上げられない。だが、伏せた身体が拾っていた。


 土の匂いの奥に、知っている気配。


 訓練でも戦場でも、何度も、何度も、見てきた、重く、だが迷いのない、踏み込みの振動。


 第三団団長ヴァルクス・エーベルハルト。


 それに別の気配も感じる。こちらも一度だけだが、見たことがある。


 以前、タマを巡る職務の場で割って入ってきた男、聖騎士カイラン・ブランク。


 だが、ミルザは振り返らないまま喋る。


 「まだまだこれからだよ。ちょっと、ストレスが溜まっててさ」


 近衛騎士団長と聖騎士相手に笑っている。


 「八つ当たり、ってやつ」


 地面に伏したまま、リラは悟った。


 勝てなかったのではない。勝負にすら、なっていなかった。


 *


 夕陽が隠れ家の窓から差し込み、壁に立てかけた槍の柄や、テーブルに置かれたままのカップを、順番にオレンジ色に浮かび上がらせている。


 外ではカラスが短く鳴き、鳴いては黙り、またどこかで鳴く。


 風が枝を揺らすたびに、森の木の湿った匂いが開いている窓から入り込んでくる。


 皆で無事に、ここ、隠れ家に帰ってこられた。


 だからこそ、タマはほんの一瞬だけ、首を傾げる。


 「あれ?」


 ゲドーマルが……いない。


 不在そのものは珍しくない。


 昔からふらりと外へ出る人で、用事があれば一人で動く。ノクティスの気配もないから、きっと一緒だ。


 だから、まだ深刻ではない。


 「王女と一悶着あった、今この時に……いなくならなくてもいいのに……」


 小さい呟きが、意図せず、口からこぼれ出た。その直後、控えめなノックの音が隠れ家内に響く。


 扉を開けると、そこには軽い笑顔を浮かべるハルが立っている。


 口元だけ見れば、冗談の一つも言いそうなのに、目は違う。


 「よっ。ちょっと情報、持ってきた」


 友人を訪ねてきたかのような砕けた言い方だが、醸し出す空気に遊びの気配はない。


 これは雑談ではなく、”共有”。


 ハルは中に入ると、余計な前置きをしないまま話を進める。


 「王都は静か。王女はお前らの捜索に対して、最初の指示のみで、それ以降は、直接は動いていない。第一団もだ」


 椅子には座らず、入り口近くの壁に背を預けたまま、指を折る。


 「追ってるのは第三団、っていうか、ほぼリラ一人の判断だな。団として表立っては命令系統を通してない」


 そこで視線が少し緩くなり、タマに向く。


 「で、そのリラは今、王都の西にいる。ここからは、遠い」


 それを聞いて、隠れ家の空気がわずかに軽くなる。


 隣に座るレオンの息を吐く音がする。


 タマの中で、点と点が繋がっていく。


 あの子なら、独断で動く。良くも悪くも、そういう騎士だ。


 ハルが肩をすくめる。


 「つまり……」


 ひと呼吸置いて、結論を出す。


 「リラが戻ってくるまでは、気を休めてもいい。彼女はここのことも、気づいていない……というか、そもそも王城側でここを知っているのは俺とルキアス殿下だけだ」


 寄りかかりながら、少しだけ鼻を高くし、胸を張るハル。


 猶予がある。


 タマは小さく頷いた。胸の奥に詰めていたものが緩み、肩から力が抜けていくのがわかる。


 リラは王都におらず、第一団は動いていない。王女も、沈黙している。


 今すぐ何かが起きる状況ではない。


 レオンがタマの顔を覗きながら言う。


 「ゲドーマルも、流石に今は目立つことはしないだろう」


 ハルとは反対側の壁にもたれているアウレオンが続ける。


 「下手に動けば、注目を集めるだけだ。まぁ……ドゥールの工房、だろうな。壊れた武器の代わり、というところだろう」


 その一言で、全員が納得した。


 ゲドーマルが急ぎ、ドゥールに会いにいく理由は確かにある。


 金棒の件。装備の確認。情報の整理。


 特にさっき遭遇した王女の隣にいた黒と灰色の男、第一団団長は桁外れに強かった。


 ほんの少しのやり取りで、なんの躊躇もなくタマは殺されそうになった。


 何より、ドゥールがいれば安心だ。


 ゲドーマルにしては理にかなっている。


 冷静で、理にかなった見立てだと、タマも思う。


 穴はない。焦る理由は、どこにもない。


 それでもタマは、自分の胸の奥に残る、ほんの小さなざわめきを感じていた。


 九つの尾が、人の姿の内側で、かすかに揺れた気がする。


 隠しているはずの尾が、勝手に反応している。


 理由は分からない。ただ、何かが少しだけ、噛み合っていない気がした。


 「……うん。そうだね」


 タマは、そう言って無理に笑った。


 自分の声がほんのわずかに遅れた気がしたが、誰も気づかない。


 話はそのまま終わり、空気は穏やかなまま。


 緊張はなく、判断は正しく思える。誰も、間違えていない。


 でも、重大な事実が一つだけある。


 昔から、あの人は何もしなくても嵐を呼ぶ。


 本人にその気はない。なぜかいつも、巻き込まれる。


 ただ歩いて、ただ酒を求め、盃を傾けて、それだけで世界の方が、勝手に荒れる。


 窓から入った風が、テーブルの上に残っていた紙片をわずかに揺らした。


 タマはそれを見つめたまま、もう一度だけ、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


 「……本当に、ドゥールのところかな」


 *


 王都に入った理由は、単純だった。


 先日、酒を優先した結果、タマが怒った。


 当然だ。


 だから、今日は甘いものを買う。それを前にしたときのタマの顔は、覚えている。


 「少しだけ、だな」


 自分にそう言い訳して、東門をくぐると、夕方の気配が変わる。


 石畳に昼の熱がまだ残っていて、茨木の作った草鞋からじわりと伝わってくる。


 荷馬車が車輪の音を響かせ、すれ違う商人が腕まくりをしたまま、何かを怒鳴っている。


 露店が風に揺れ、果物の甘い匂いと、肉や魚の脂が焼ける匂いが、交互に鼻を掠めた。


 夕方の王都は、ほんのわずかだが京の都と同じ匂いがする。


 通りを歩いていると、いつもの酒屋の前を通りかかる。


 樽の匂いや発酵した甘さを思い出し、喉の奥が、ゴクリと反射で鳴る。


 「……今日は違う」


 視線を無理やり逸らすと、肩の上でノクティスが小さく揺れる。


 くすくすと、笑っているような気配。


 「今日は甘味だ」


 影が、楽しそうに波打つ。


 「お前も好きなのか」


 目的の甘味処に入りどれにするか決められずに悩んでいると、聞き覚えのある声が背後から耳に届く。


 「あれ? ゲドーマルさん?」


 振り向くと、見慣れた制服姿ではなく、長いスカートを履いたリーネが立っている。


 買い物帰りらしく、腕に籠を提げている。


 「ひとりでも甘味処なんてくるんですね」

 「……土産だ」


 それ以上は言わなかったが、リーネは一瞬だけ目を瞬かせ、それから、くすっと笑う。


 「タマさん、ですね?」


 どうやら、俺の眼は口よりものをいうらしい。


 「じゃあ、こっちがおすすめです」


 入り口付近に連れて行かれ、棚を指しながら、理由を並べていく。


 季節限定で、崩れにくく持ち帰りやすいうえ、甘すぎない。


 詳しいな。


 「タマさん、絶対好きですよ」


 その一言で、決めた。


 包みを受け取り、店を出ると、通りには、夕陽が傾き始めている。


 建物の影が石畳の上で伸びて、日の当たる側だけが橙に染まって、思わず眼を細める。


 子供が二人、路地の角を走り抜けて影の中へ消えると、ノクティスが影を伸ばし、子供の影に混ざって遊び始める。


 踏まれない位置を選び、笑うように揺れている。


 風が、穏やかだった。


 石畳の熱が足裏から抜けていくのを感じながら、俺も少しだけ息を抜く。


 第三団が動いていることも、リラのことも、王女のことも、頭の片隅には全部ある。


 手に在る甘味の包みを確かめてみると、壊れてはいない。


 こっちの方が、よっぽど大事だ。


 ノクティスが満足そうにして、肩の上に戻ってくる。


 ふと、足が止まる。


 空気の流れが、ほんの一瞬だけ偏った。


 川の流れが石に当たって、ほんのわずかに膨らむ。そんな心地がした。


 森の調査で感じたものに、近い。


 その場に立ち止まって、周囲をサッと視るが、人の動きは特に変わらず、風も匂いも、いつも通り。


 異質ではあるが、問題になるほどではない。


 放っておいてもいい、その程度の違和感。


 「……まあ、いいか」


 口に出してから、少しだけ自分で笑う。


 昔から、そうだ。全ては、茨木任せでよかった。


 纏っている墨色の直垂が、懐かしい森の緑の匂いを思い出させた。


 視線の先に、冒険者ギルドの建物がある。


 「……せっかくだし」


 土産はもう買った。


 足はもう、ギルド併設の酒場の方を向いていた。


 歩き出すと、肩の上で影が揺れる。


 *


 隠れ家の空気は、凪いでいた。


 いつも通り、ここは安全だ。それでも、胸の奥だけが、相変わらず波立っている。


 不安だと言える理由が、見つからない。それなのに、指先の体温が下がっていくのが分かる。


 アウレオンは地図を広げ、今日の調査について、ハルとレオンと話をしている。


 王女のことも、伝えた。でも、そこに差し迫った緊張感はない。


 ドゥールの工房なら間違いない、という認識が、自然と共有されている。


 誰も、間違っていない。これ以上、この人たちに重荷を増やすわけにはいかない。


 だからタマは口を開けなかった。笑顔で三人の話に合わせる。


 足音がして扉が開き、ドゥールが荷物を背負って現れる。


 おそらく、その背にはゲドーマルのお気に入りの琥珀色の酒が入っている。


 タマの視線が、無意識にドゥールの背後を追う……が、誰もいない。


 ドゥールは、いつもの調子で軽く手を上げた。


 「お、もう調査終わったのか?」


 声の大きさも色も、にこりとした表情も、普段通り。


 その一言では、何も変わらない。


 だが、ドゥールは一度、周囲を見回し、それから首を傾げる。


 整えた髭を、指の背でひと撫でする。


 「……で、大将はどこだ?」


 空気が、変わった。


 誰もすぐに答えなかった。視線は動かず、言葉が出てこない。


 タマの胸の奥で、ざわめきが、はっきりと形を持つ。


 状況は変わらず、問題はまだ起きていない。


 それでも……。


 「……茨木」


 ……今ならあなたの苦労が、少しはわかる気がするよ。


 *


 王都の地下深く。


 外界の喧騒とは切り離された区画で、最後の調整が終わった。


 床一面に広がった巨大な魔法陣は、幾重にも重なった円が中心へ向かって静かに収束し、刻まれた文様の一つひとつには、無駄というものが見当たらない。


 淀みなく巡る魔力に暴走の兆しはなく、流れも、反応も、すべてが想定内。


 「完成です」


 王女アルティシアは、静かにそれを見下ろしていた。


 彼女の手には、女性の手のひらに収まる、ペンダントのような形の魔道具がある。


 その大半を、蒼い魔石が占めている。


 手の中で、脈打つように断続的に光るそれは、あの川辺で魔族が握っていたものと、寸分違わない。


 魔力を持つものは、この光に抗うことが難しい。


 アルティシアの表情は、変わらない。


 隣には、グラウ・アイゼンが立っている。


 黒と灰の装備をまとい、余分な力の抜けた姿勢で立っていて、視線は、魔法陣と王女の間を行き来していた。


 「最終確認を。制御は安定し、反応の遅れも、遮断系統の異常もありません。万一暴走した場合も、王都側への影響は最小限に抑えられます」


 王女は、こくりと頷く。


 「古竜を動かすのは、東の《迷いの森》」


 静かに対象を口にする。


 グラウは短く息を吐く。


 「人族にとって管理外の森。それに、竜の痕跡も今後のことを考えれば残っていない方がいい……潰す理由として、十分です」


 王女は魔法陣から視線を外し、ゆっくりと踵を返す。その動作に、ためらいはない。


 「では、始めましょう」


 魔法陣が淡く光を増し、膨大な彼女の魔力が静かに流れ始める。


 グラウの魔力を、遥かに超える量。


 東の森で、何かが、その深い眠りから起こされた。


 これは戦争ではなく、ただの試運転。


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