第18話 アウル=ヴェイル
……おかしい……なぜだ。
気がついたら、酒を飲んでいた。
飲むつもりなど、なかった。
タマへの土産に甘味はもう買って、懐にしまってある。
次は、タマの好きな、度数が低くて香りが少し強い甘い酒。
それを「ちょっと見るだけ」と自分に言い訳しながら酒屋へ向かい、店先で瓶の並びを眺めていたつもりが、いつの間にか盃を手にしている。
……おかしい……なぜだ。
手元の盃を見下ろしても、そこに答えは書かれていない。
「だからよー、あの依頼は割に合わねぇって話なんだよ」
「それ、今さらじゃないっスか?」
目の前では、ラグスとセインが出来上がっている。
場所は、ギルド併設の酒場。
仕事終わりの冒険者たちで賑わい、笑い声と酒の匂いが場を埋めている。
木の床は椅子の揺れに軋み、ジョッキのぶつかる音が、やけに軽く跳ねて響いている。
俺は盃の中身に目を落とすと、そこには鼻を抜ける香りが強く、舌に甘さの残る酒がある。
頭の芯は醒めているのに、身体だけがほどよく緩んでいる。
山で言うなら、火にあたって身体の表面だけが先に温まる感覚に近い。
「で、ゲドーマル」
ラグスが肘をつき、こちらを覗き込んできた。
「お前、一人でなにしてたんだ?」
「甘味を土産に、買いに来た」
即答すると、セインが盛大に吹き出す。
「ははっ! それで酒っスか! 甘味の次は酒、完璧じゃないっスか!」
「ちょっとだけ、のつもりだった」
言ったところで、ラグスが肩を揺らして笑う。
「冒険者の『ちょっとだけ』ほど信用ならねぇ言葉はねぇな」
返す言葉が見つからず、俺は盃を口へ運ぶ。
肩の上で、ノクティスがもぞりと動く。
するりと腕を伝い、卓に置いた俺の盃まで進んでいく。
昼間の森の中では酒の匂いを避けて通っていたくせに、今は盃の前で腰を落とし、影の先端だけを少しずつ伸ばしていた。
酒の表面に触れるか触れないか、その際で止め、様子を窺っている。
飲む気だな。
あのエルフの叫び声が、頭の隅で響いた。
「やめておけ」
小さく言ったが、影はぴくりと縮んだだけで、結局、小指の先ほどの範囲だけ舐める。
途端、影がふわりと丸く膨らみ、腹の底からくすくすと笑うように波打つ。
丸まった輪郭の端が、二度、三度と震えた。
セインがそれを見て、目を輝かせる。
「え、なにそれ! 可愛いっスね! 精霊って酔うんスか!?」
「味だけ、だろう」
答えながら、俺は盃を傾ける。
ふと、ラグスが声の調子を変える。
肘が卓からわずかに浮き、ジョッキを持った手が止まる。
「なあ」
隣の卓で誰かがジョッキを割り、笑い声が弾ける。その音が、やけに近く聞こえた。
「……タマちゃんのことなんだが、どうにかならないのか? マジでやばかったぞ、あの赤髪の女。目が逝ってた。大体、なんでタマちゃんが近衛騎士に追われてるんだ?」
笑い声が、一瞬だけ遠のく。
「追われているのは、俺だ」
「「はっ?」」
ラグスとセインの顔が、同じ角度で傾く。
「近衛騎士が追っているのは、どうやら俺らしい」
ラグスの目が点になった。
「……お、おま……ここにいちゃ、ダメだろう」
「そ、そうっスよ! 何で呑気に酒飲んでるんスか!」
セインがすぐに身を乗り出した。膝が卓にぶつかり、置かれたジョッキの水面が揺れる。
「今すぐ帰るべきっス! 王都を出るべきっス! 捕まったらマジで取り返しつかなくなる気がするっス! これ以上タマさんが危険な目に遭うのを、見てられないっス!」
「セインの言うとおりだ。すぐ、王都を離れろよ」
つい今し方まで、据わっていたはずのラグスの目が、まっすぐになっている。
戦うという話ではなく、逃げるという話。
俺は盃を置き、少しだけ眼を瞑ると、瞼の裏に、タマの顔が浮かぶ。
丘の上で一緒に朝日の昇るのを見たとき、彼女の指先が一瞬だけ震えた。
あの震えが、まだ手のひらに残っている。
「……いや、いっそ、こちらから行くか……俺、一人で」
口にした途端、盃が軽くなった気がした。
中身は減っていない。手の中の重さだけが、確かに違って感じられる。
懐にしまってある包みが、揺れた気がした。
「……い、いや、それは、ダメだろう」
ラグスの目がまた点になる。
奥の部屋から扉の開く音がして、ギルドマスターが出てくる。
書類仕事の途中だったのだろう、疲れた顔で表へ出てきて、俺を見つけ、その足が止まる。
「……お前……まだ王都にいるのか?」
冗談の調子を作る余裕もない、素の声だった。
「狙われてる身だろ! 普通はとっくに、王都を出てる」
酒場の喧騒は、続いている。笑いも、酒も、止まらない。
この場で異常なのは、俺がここにいることのほうらしかった。
肩の上で、ノクティスが腹を上に向けて、ゆるく揺れた。
窓の外では荷馬車が通り過ぎ、子供の笑い声が酒場の壁を越えて、こちらまで届いていた。
*
西側の草原は、もう戦場と呼ぶには歪みすぎていた。
倒れた魔族の残骸から漂う血と焦げた土の匂いが、風に乗って鼻の奥にまとわりつく。
草の根まで焼かれた場所では、乾いた灰が舞うたびに喉と目を刺した。
魔力の残滓が漂い、呼吸のたびに、胸の空いた痛みを思い出させる。
その中央で、ミルザは距離を保ったまま立っている。
リラは少し離れた場所で、ガルムとエルネストに支えられていた。
ヴァルクスとカイランが現れた時に、足元の闇は消えた。
立っているだけで視界が揺れる。
目だけは逸らさない。それでも、剣を握る手の力が、震えに堪えられないほど弱い。
ヴァルクスのハルバードが、地面に触れるか触れないかの高さで構えられている。
あの構えを、リラは訓練場で何度も見てきた。
赤いマントの裾が風に揺れているのに、その下の身体は、微動だにしない。
その隣に立つ男は、この戦場にそぐわないほど汚れていない。
銀の鎧に刻まれた教会の紋章が、くすんだ空気の中でも鈍く光を返している。
赤茶の髪が風に靡いても、視線の強さだけは揺れなかった。
カイラン・ブランク。聖騎士。
タマを守ったあの夜の男が、今はまるで別人のように見えた。
ヴァルクスが、手にしていた魔道具を腰の袋へしまう。
「以前、王都周辺の森にいた魔族だな……」
「便利な探知機ですね。教会にも一台、欲しいです」
カイランの声は軽い。だが、剣を握る右手の指の先が、白くなっていた。
「ストライゼン……動くな。今は見るだけでいい。意識だけ、保て」
視線をミルザに向けたまま、ヴァルクスが叫ぶ。
リラは唇を噛みしめながら、頷いた。
ヴァルクスとカイランは、ミルザの正体を知らない。
あの、文字のような何か。魔法とも呪いともつかない、異質な力。
だが、リラには分かっていることがあった。
あれは即死の攻撃ではなく、発動までに間がある。空間に何かを残す手間が要る。
二人の視線が、一瞬だけ交わった。
最初に動いたのは、カイラン。
片手で剣を構え、風の流れを掴むように反対の手を上げる。詠唱は、短い。
「空よ、退け」
ミルザの周囲から、音が消えた。
風が引き剥がされ、呼吸が強引に止められ、そこにあったはずの空気が、跡形もなく失われる。
残ったのは、鼓膜が痛むほどの無音だけ。
リラの腕に、鳥肌が立つ。
焦げた匂いすら届かなくなって、あの場所だけが、世界から切り取られたように見える。
間髪を入れず、カイランが踏み込む。
「裂けろ」
剣が振り下ろされる。空気が刃になった……のではなかった。
抜き取られた空気の縁に、外側から流れ込もうとする風がぶつかり、圧の差が薄い刃となって走る。
斬られた空間の断面から、白い粉のようなものが、さらさらと崩れ落ちていく。
急激に冷えた水気と、砕かれた微細な塵が、形を保てずに落ちているだけ。
それは切断ではなく、消失。静かに、空間が削れていく。
ミルザが半歩だけ後退する。
その隙を、ヴァルクスは逃さない。
ハルバードを地面に突き立て、準備していた魔法を短く詠唱して、仕上げる。
「沈め」
足元の土が、凝縮した。
瞬時に密度を増した地面が、ミルザの足を吸い寄せるように引き込む。
靴底が沈み、踏み出そうとした足が、地面に縫い止められる。
圧縮された土の周囲で、空気中の水分が搾り出されるように霧となる。
焼けた土の匂いに、鉄錆のような臭いが混じって広がり、続けて、もう一言だけ。
「潰せ」
今度は地面が、陥没した。
極限まで凝縮された土が、周囲のすべてを中心へ引きずり込んでいく。
ミルザの身体が、下へ、下へと引かれる。
文字を刻むための平面そのものが、消えていく。
地面も、空間も、まとめてねじ曲げられ、潰され、力を置く場所が失われていった。
ここはもう、魔法を組み立てる場所ではなかった。
複数の災害が同時に襲いかかる、異常地帯だ。
ミルザの口元から、笑みが消えていく。
視線が目まぐるしく動き、頻りに距離を測り、間合いを取り直し続ける。
「なるほど」
独り言のように呟いたその声から、先程までの遊びの色は、すっかり抜け落ちていた。
リラは、その光景を見つめたまま、息を止めていた。
自分は雷を当てようとし、効かせようとして、届かなかった。
ヴァルクスとカイランは何も知らないまま、すでにミルザの手を封じている。
そこに、極大魔法はいらなかった。
膝の上で、リラの拳から震えが収まっていく。
「……私は、結局……」
言葉が喉で止まり、口元にまで達しない。
ガルムが、静かに言う。
「気づけただけ、上等だ」
エルネストは何か言いかけて、結局、口を閉じた。
代わりに、リラの肩に触れた手に、ほんの少しだけ力がこもる。
焦げた風が吹き、灰が頬をかすめて、涙のように流れていった。
リラは拳を握りしめたまま、それでも前を見続けた。
*
隠れ家は、騒がしくはなかった。
テーブルに広げた地図の端が、窓から入る風でめくれかける。
ドゥールが、それを手で押さえる。
紅茶の匂いがまだ残っているのに、どのカップからも、湯気は上がっていない。
日常の延長だと言い切れてしまう程度には、穏やかな空気が流れている。
タマの指先が、テーブルの溝を同じ速さで幾度もなぞっている。
迷ったときに卓の溝をなぞるのは昔からの癖で、それが本人も気づかぬうちに、静かな待ち時間の上を滑っていた。
ゲドーマルが、戻ってこない。
タマは、場にいる顔ぶれを目で追う。
レオンが壁際で腕を組み、アウレオンが地図に視線を落とし、ドゥールが工具ベルトの金具を指で弾き、ハルが戸口の近くで肩の力を抜いている。
判断力も戦力も、これ以上ないほど揃った布陣。
普通なら安心して待てる状況だと、タマ自身も分かっている。
ゲドーマルがここにいないという、その一点だけが、胸の奥に細く尖った棘となって残っていた。
「……じゃあ」
ハルが軽く息を吐いて立ち上がり、いつもの調子で荷物へ手を伸ばす。
「俺は一度、殿下のところに戻るね。王女側の動きが読めねぇ。連絡役が一人いた方がいい」
言葉は軽いのに、中身は的確といえる。
「何かあったら、すぐ戻る」
正しい判断だと分かるから、タマは口を開けない。
そのとき、タマの白銀の髪が、風もないのに一斉に逆立った。
ハルが扉に手をかけた、ちょうどその瞬間だ。
空気が、変わった。
音が消えたわけではないのに、風の流れが急に押し返されるような感触がある。
皮膚がじわりと粟立ち、全員が同時に顔を上げる。
「……なに?」
レオンが、低く息を呑む。ドゥールが、窓の外を睨みつけた。
「……これはまずいな」
空の向こうから圧が届き、窓の外の木々が、一瞬だけ揺れる方向を見失う。
風は東から来ているはずなのに、枝が南へ倒れている。
タマの耳の奥で、聞こえないはずの音が鳴った。
そこに在るだけで、周囲の魔力の流れを捻じ曲げていく、異常な重さ。
ハルが扉から手を離し、小さく舌打ちする。
「……タイミング、最悪だな」
普段なら絶やさない笑みが顔から消え、目はいつもより細く据わっている。
「一人で動く状況じゃねぇ」
ドゥールが、短く言う。
「古竜……だろうな。しかも、ちっとばかし寝起き、なんて可愛い気配じゃねぇ」
隠れ家にいた全員が、同じ結論へ辿り着いていた。
もう、待つ段階ではない。外へ向かう支度をしながら、タマの胸に、自然と言葉が浮かぶ。
ゲドーマル、早く帰ってきて。
祈りでもなく、命令でもなく、ただこぼれ落ちた本音だった。
それを口に出す余裕は、もう残っていない。
*
東の迷いの森では、空気のほうが先に壊れた。
風向きが乱れ、森の上空で見えない層がずれていく。
木々がざわめくよりも前に、魔物たちが一斉に逃げ出した。
鳥は飛び立つのではなく、落ちるように散っていく。
迷いの森の中央で空が裂け、その裂け目の向こうから、”それ”が滲み出してくる。
巨大な、風の塊。輪郭の内側で幾筋もの気流が渦を巻き、かろうじて竜の形を保っている。
《風の古竜》アウル=ヴェイル。
薄い鱗は光を反射するたびに輪郭を揺らし、確かな実体を持たないかのようにも見える。
翼が一度ゆっくりと広がるだけで、周囲の大気が削れ、空気そのものが根こそぎ失われていく。
現れた瞬間から、嵐が成立していた。
《迷いの森》の一角が、音もなく空間ごと持っていかれた。
”何か”が、冷たく硬い鎖のようなものを、古竜の身体の奥へ絡めようとした。
アウル=ヴェイルが翼を一度振るだけで、それは千切れて消えた。
身体の内側に残ったのは、縛られているという、その感触だけ。
アウル=ヴェイルに怒りがあるわけではなく、肌に障る方向を、無造作に均していくだけ。
翼がわずかに傾く。それだけの動きで、迷いの森の外縁が削れ落ちた。
風は直線に吹き抜け、地表を撫で、魔物たちを巻き上げていく。
群れは抗う術もなく、そのまま王都の方へと流されていった。
古竜にとって、それは侵攻ですらなく、目障りなものを払いのける、ただの環境の調えにすぎない。
*
西側の戦場では、風は裂かれ、地は押し潰され、空間は安定することを許されない。
ヴァルクスとカイランの魔法によって、ミルザの足元には、もはや静止した余白が残っていなかった。
《狂智》を刻もうとすれば削れ、留めようとすれば歪む。
厄介だ。相対する近衛騎士団長と聖騎士を、ミルザは初めてそう値踏みした。
初めて、はっきりと戦いづらいと判断している。
力でも相性でもなく、状況そのものが、戦いを成立させない形へ組み替えられている。
そこへ別の重さが、かなり遠くの東の先から届いた。
ミルザの《狂智の錨》が、手の中で震える。
今まで一度も、この武器が震えたことはなかった。
ミルザの動きが、止まる。
ヴァルクスも、カイランも、反射的に呼吸を止めた。
ミルザの背後で空間が歪み、振り返ると、そこにヤグが音もなく立っていた。
転移の魔道具を使ったのだろう。
切り札のはずのそれを切ってまで現れたヤグの顔から、いつもの余裕が抜けている。
「古竜……力が足りなかった」
ヤグの視線は、迷いなく東を向いている。
ミルザは、短く舌打ちした。
「《魔女》が、やったな」
ヤグの表情は、苦い。この男のこんな顔を、ミルザは初めて見た。
「魔道具による支配を試みて、失敗したな……勝手なことを」
ミルザも東にある《迷いの森》の方角に視線だけ送る。
支配は成立していない。それでも干渉は行われ、結果として、古竜は”支配の元”の排除行動に入っている。
最悪に、近い。ミルザは舌打ちの代わりに、小さく笑った。
「……なるほど。これは、勝つ負けるの話じゃないな」
ヴァルクスとカイランへ、視線を流す。
二人とも、間違いなく強い。今この場だけを見れば、厄介な相手。
本音をいえば、ここで潰しておきたい。それでも、この状況下で続けるのは悪手といえる。
文字を書く以前の問題で、戦う次元が、すでに一段上へ移ってしまっている。
ヤグが即座に指示を出す。
「一度、古竜を直に観測する。深入りはしない。この件は、魔王様へ直接報告だ。恐らく、”奴”も動くだろう」
ミルザは、迷わず頷く。奴――魔王様の、片腕。
「了解……八つ当たりは、また今度だな」
冗談めかした声とは裏腹に、足はもう引いていた。
ミルザ陣営は、追撃を許さぬ速さで戦線を切る。
戦果も損耗も気にせず、ただ盤面の更新だけを取った。
ヴァルクスとカイランは、追わない。
この国の盤面は、もう別の何かに握られている。
去り際、ヤグが低く呟いた。
「思ったより面倒だ……これが、古の伝説か」
その視線の先で、風の古竜が、見えない嵐を巻き起こしていた。
*
ギルド併設の酒場は、相変わらず騒がしい。
笑い声が重なり、ジョッキがぶつかり、酒の匂いが濃く漂っている。
木の床は軋み、椅子を引く音さえ、どこか楽しげに聞こえる。
俺の向かいでラグスが上機嫌に杯を重ね、その隣ではセインがとうに限界を超えている。
そこへいつの間にか、ギルドマスターのシオウ・ベルクまで混ざっていた。
たった今、初めて知った名前。
ラグスは上機嫌で声が大きく、セインは話の半分がもう意味を成していない。
シオウも今日は肩の力が抜けているのか、ジョッキを傾ける手つきが、やけにゆっくりだ。
「今日は荒事はなさそうだな」
酒場のどこかで誰かがそんなことを言って、否定する声は上がらなかった。
俺は盃を口元へ運ぶ。
甘い香りが、さっきより薄くなった気がする……同じ酒のはずなのに、鼻の奥へ届く前に散っていく。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
王都は、いつも通りに回っている。少なくとも、この酒場の中では。
その時、扉が勢いよく開いた。
転がり込んできた冒険者が、何か言おうとして膝から崩れる。
甲冑の胸当てに引っ掻き傷が三本走っていて、まだ乾いていない血が滲み出ている。
それだけで、酒場全体が凍りつく。
笑い声が止まり、ジョッキを持つ手が止まり、さっきまでの喧騒が、息を呑むように消えた。
冒険者が床に手をついたまま、絞り出す。
「迷いの森から……街の方へ……」
最後まで言えなかったが、それだけで伝わる。
シオウは、すでに立ち上がっていた。
「緊急依頼を出す。討伐対象は、街へ向かう魔物群。冒険者は即時対応だ」
力強い声が、酒場の奥の席まで届いていく。
「門へ集合。騎士団と連携して迎撃する」
その一声で、酒場はもう酒場ではなくなっていた。
椅子が倒れ、武器を探す手が卓を叩き、足音が重なっていく。
シオウの視線が、俺で止まる。
盃を持ったままの手ではなく、俺の眼をまっすぐ見ている。
「……お前も、だ」
断れない何かが、その目にはあった。
俺は手元の盃を見下ろす。つい先程、軽くなったはずの盃が、今は重い。
中身は変わっていないのに、手の中の重さだけが、違っていた。
酒は、もう終わりだ。
盃をテーブルへ置くと、乾いた音が、騒がしいはずの酒場に、妙にはっきりと残る。
椅子を引いて、立ち上がる。
「……行くか」
扉を開けた瞬間、風の匂いが変わっていた。
さっきまで届いていた子供の笑い声は、もうない。
代わりに、東の空から、視たことのない風が吹いている。
*
扉を開けた瞬間、湿った風がタマの顔を打った。
空気そのものが、内側から張り詰めている。
木々の匂いが消え、代わりに金属を舐めたときのような乾いた味が、舌の奥に残った。
タマは思わず空を見上げる。
魔力がこれまで感じてきたものと、根本から違っていた。
質そのものが、普通の物差しでは測れない。
風がきしみ、空間が引き伸ばされるような感覚が、肌を撫でていく。
完全に目を覚ました、《風の古竜》。
ドゥールが手にもつ魔道具で何かを測りながら、口を開いた。
「……魔道具の支配だ。壊れてるが、方向性だけが残ってる。魔力の発信源は……王城だな」
表情は渋いなどというものではなく、ドゥールは歯を食いしばっている。
タマは風の流れに意識を向ける。
風の向かっている先は王都……正確には、王城。魔道具のある場所だろう。
ふと、王女の冷たい表情が瞼の裏側に浮かぶ。
線が、一本に繋がる。
なぜ今朝、王女が迷いの森になんかいたのか……彼女は、確認しに来ていた。
「……古竜の痕跡」
タマがドゥールを見ると、ドゥールも静かに頷く。
「魔道具を使っているのは、王女だろうな」
あの王女が魔族の魔道具を使い、古竜を支配しようとして、失敗した。
これから起こるのは、その代償の支払い。
「それなら、王女殿下の護衛を優先すべきだろ」
レオンが風に目を細めながら、冷静に言う。
判断としては正しいけど、王女には第一団がいて、王国最強がいて、王都には防御結界もある。
タマはゆっくりと首を横に振った。
「……違う」
自分の声が思ったよりはっきりしていて、少し驚いた。
「古竜は、王女を攻撃してるんじゃない」
支配の痕跡。中途半端に触れられた枷。それが古竜を縛り、同時に、進路を与えている。
「原因に、引っ張られてる。止める場所は、王女のそばじゃない。枷そのもの」
ハルが目元を引き攣らせ、この暴風の原因を指さす。
「古竜、だよな? あれと向き合うのか?」
タマは一度だけ視線を落とすが、すぐに上げ、そのまま頷いた。
ハルの手が、腰の短剣の柄に触れて、また離れる。
「……王子殿下には、後で俺が説明する」
それは、タマを止めないという選択だ。
レオンは槍を握り直し、東の暴風を一度だけ見据えて、短く息を吐く。
「……確かに、原因を叩かない限り、終わらないな」
アウレオンは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。
ドゥールは、すでに腰の工具ベルトへ手を走らせている。
こちらの進路は、迷いの森の上空、風の古竜。
風が、さらに強くなり、隠れ家の屋根の板が、一枚だけ甲高い音を立てた。
タマは震える両手で胸を強く押さえ、願う。
ゲドーマル、今は間に合わなくていい。でも、戻ってきて。
タマたちは走り出す。東の空が、低く唸っていた。




