表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
19/51

第18話 アウル=ヴェイル


 ……おかしい……なぜだ。


 気がついたら、酒を飲んでいた。


 飲むつもりなど、なかった。


 タマへの土産に甘味はもう買って、懐にしまってある。


 次は、タマの好きな、度数が低くて香りが少し強い甘い酒。


 それを「ちょっと見るだけ」と自分に言い訳しながら酒屋へ向かい、店先で瓶の並びを眺めていたつもりが、いつの間にか盃を手にしている。


 ……おかしい……なぜだ。


 手元の盃を見下ろしても、そこに答えは書かれていない。


 「だからよー、あの依頼は割に合わねぇって話なんだよ」


 「それ、今さらじゃないっスか?」


 目の前では、ラグスとセインが出来上がっている。


 場所は、ギルド併設の酒場。


 仕事終わりの冒険者たちで賑わい、笑い声と酒の匂いが場を埋めている。


 木の床は椅子の揺れに軋み、ジョッキのぶつかる音が、やけに軽く跳ねて響いている。


 俺は盃の中身に目を落とすと、そこには鼻を抜ける香りが強く、舌に甘さの残る酒がある。


 頭の芯は醒めているのに、身体だけがほどよく緩んでいる。


 山で言うなら、火にあたって身体の表面だけが先に温まる感覚に近い。


 「で、ゲドーマル」


 ラグスが肘をつき、こちらを覗き込んできた。


 「お前、一人でなにしてたんだ?」

 「甘味を土産に、買いに来た」


 即答すると、セインが盛大に吹き出す。


 「ははっ! それで酒っスか! 甘味の次は酒、完璧じゃないっスか!」


 「ちょっとだけ、のつもりだった」


 言ったところで、ラグスが肩を揺らして笑う。


 「冒険者の『ちょっとだけ』ほど信用ならねぇ言葉はねぇな」


 返す言葉が見つからず、俺は盃を口へ運ぶ。


 肩の上で、ノクティスがもぞりと動く。


 するりと腕を伝い、卓に置いた俺の盃まで進んでいく。


 昼間の森の中では酒の匂いを避けて通っていたくせに、今は盃の前で腰を落とし、影の先端だけを少しずつ伸ばしていた。


 酒の表面に触れるか触れないか、その際で止め、様子を窺っている。


 飲む気だな。


 あのエルフの叫び声が、頭の隅で響いた。


 「やめておけ」


 小さく言ったが、影はぴくりと縮んだだけで、結局、小指の先ほどの範囲だけ舐める。


 途端、影がふわりと丸く膨らみ、腹の底からくすくすと笑うように波打つ。


 丸まった輪郭の端が、二度、三度と震えた。


 セインがそれを見て、目を輝かせる。


 「え、なにそれ! 可愛いっスね! 精霊って酔うんスか!?」


 「味だけ、だろう」


 答えながら、俺は盃を傾ける。


 ふと、ラグスが声の調子を変える。


 肘が卓からわずかに浮き、ジョッキを持った手が止まる。


 「なあ」


 隣の卓で誰かがジョッキを割り、笑い声が弾ける。その音が、やけに近く聞こえた。


 「……タマちゃんのことなんだが、どうにかならないのか? マジでやばかったぞ、あの赤髪の女。目が逝ってた。大体、なんでタマちゃんが近衛騎士に追われてるんだ?」


 笑い声が、一瞬だけ遠のく。


 「追われているのは、俺だ」

 「「はっ?」」


 ラグスとセインの顔が、同じ角度で傾く。


 「近衛騎士が追っているのは、どうやら俺らしい」


 ラグスの目が点になった。


 「……お、おま……ここにいちゃ、ダメだろう」

 「そ、そうっスよ! 何で呑気に酒飲んでるんスか!」


 セインがすぐに身を乗り出した。膝が卓にぶつかり、置かれたジョッキの水面が揺れる。


 「今すぐ帰るべきっス! 王都を出るべきっス! 捕まったらマジで取り返しつかなくなる気がするっス! これ以上タマさんが危険な目に遭うのを、見てられないっス!」

 

 「セインの言うとおりだ。すぐ、王都を離れろよ」


 つい今し方まで、据わっていたはずのラグスの目が、まっすぐになっている。


 戦うという話ではなく、逃げるという話。


 俺は盃を置き、少しだけ眼を瞑ると、瞼の裏に、タマの顔が浮かぶ。


 丘の上で一緒に朝日の昇るのを見たとき、彼女の指先が一瞬だけ震えた。


 あの震えが、まだ手のひらに残っている。


 「……いや、いっそ、こちらから行くか……俺、一人で」


 口にした途端、盃が軽くなった気がした。


 中身は減っていない。手の中の重さだけが、確かに違って感じられる。


 懐にしまってある包みが、揺れた気がした。


 「……い、いや、それは、ダメだろう」


 ラグスの目がまた点になる。


 奥の部屋から扉の開く音がして、ギルドマスターが出てくる。


 書類仕事の途中だったのだろう、疲れた顔で表へ出てきて、俺を見つけ、その足が止まる。


 「……お前……まだ王都にいるのか?」


 冗談の調子を作る余裕もない、素の声だった。


 「狙われてる身だろ! 普通はとっくに、王都を出てる」


 酒場の喧騒は、続いている。笑いも、酒も、止まらない。


 この場で異常なのは、俺がここにいることのほうらしかった。


 肩の上で、ノクティスが腹を上に向けて、ゆるく揺れた。


 窓の外では荷馬車が通り過ぎ、子供の笑い声が酒場の壁を越えて、こちらまで届いていた。


 *


 西側の草原は、もう戦場と呼ぶには歪みすぎていた。


 倒れた魔族の残骸から漂う血と焦げた土の匂いが、風に乗って鼻の奥にまとわりつく。


 草の根まで焼かれた場所では、乾いた灰が舞うたびに喉と目を刺した。


 魔力の残滓が漂い、呼吸のたびに、胸の空いた痛みを思い出させる。


 その中央で、ミルザは距離を保ったまま立っている。


 リラは少し離れた場所で、ガルムとエルネストに支えられていた。


 ヴァルクスとカイランが現れた時に、足元の闇は消えた。


 立っているだけで視界が揺れる。


 目だけは逸らさない。それでも、剣を握る手の力が、震えに堪えられないほど弱い。


 ヴァルクスのハルバードが、地面に触れるか触れないかの高さで構えられている。


 あの構えを、リラは訓練場で何度も見てきた。


 赤いマントの裾が風に揺れているのに、その下の身体は、微動だにしない。


 その隣に立つ男は、この戦場にそぐわないほど汚れていない。


 銀の鎧に刻まれた教会の紋章が、くすんだ空気の中でも鈍く光を返している。


 赤茶の髪が風に靡いても、視線の強さだけは揺れなかった。


 カイラン・ブランク。聖騎士。


 タマを守ったあの夜の男が、今はまるで別人のように見えた。


 ヴァルクスが、手にしていた魔道具を腰の袋へしまう。


 「以前、王都周辺の森にいた魔族だな……」


 「便利な探知機ですね。教会にも一台、欲しいです」


 カイランの声は軽い。だが、剣を握る右手の指の先が、白くなっていた。


 「ストライゼン……動くな。今は見るだけでいい。意識だけ、保て」


 視線をミルザに向けたまま、ヴァルクスが叫ぶ。


 リラは唇を噛みしめながら、頷いた。


 ヴァルクスとカイランは、ミルザの正体を知らない。


 あの、文字のような何か。魔法とも呪いともつかない、異質な力。


 だが、リラには分かっていることがあった。


 あれは即死の攻撃ではなく、発動までに間がある。空間に何かを残す手間が要る。


 二人の視線が、一瞬だけ交わった。


 最初に動いたのは、カイラン。


 片手で剣を構え、風の流れを掴むように反対の手を上げる。詠唱は、短い。


 「空よ、退け」


 ミルザの周囲から、音が消えた。


 風が引き剥がされ、呼吸が強引に止められ、そこにあったはずの空気が、跡形もなく失われる。


 残ったのは、鼓膜が痛むほどの無音だけ。


 リラの腕に、鳥肌が立つ。


 焦げた匂いすら届かなくなって、あの場所だけが、世界から切り取られたように見える。


 間髪を入れず、カイランが踏み込む。


 「裂けろ」


 剣が振り下ろされる。空気が刃になった……のではなかった。


 抜き取られた空気の縁に、外側から流れ込もうとする風がぶつかり、圧の差が薄い刃となって走る。


 斬られた空間の断面から、白い粉のようなものが、さらさらと崩れ落ちていく。


 急激に冷えた水気と、砕かれた微細な塵が、形を保てずに落ちているだけ。


 それは切断ではなく、消失。静かに、空間が削れていく。


 ミルザが半歩だけ後退する。


 その隙を、ヴァルクスは逃さない。


 ハルバードを地面に突き立て、準備していた魔法を短く詠唱して、仕上げる。


 「沈め」


 足元の土が、凝縮した。


 瞬時に密度を増した地面が、ミルザの足を吸い寄せるように引き込む。


 靴底が沈み、踏み出そうとした足が、地面に縫い止められる。


 圧縮された土の周囲で、空気中の水分が搾り出されるように霧となる。


 焼けた土の匂いに、鉄錆のような臭いが混じって広がり、続けて、もう一言だけ。


 「潰せ」


 今度は地面が、陥没した。


 極限まで凝縮された土が、周囲のすべてを中心へ引きずり込んでいく。


 ミルザの身体が、下へ、下へと引かれる。


 文字を刻むための平面そのものが、消えていく。


 地面も、空間も、まとめてねじ曲げられ、潰され、力を置く場所が失われていった。


 ここはもう、魔法を組み立てる場所ではなかった。


 複数の災害が同時に襲いかかる、異常地帯だ。


 ミルザの口元から、笑みが消えていく。


 視線が目まぐるしく動き、頻りに距離を測り、間合いを取り直し続ける。


 「なるほど」


 独り言のように呟いたその声から、先程までの遊びの色は、すっかり抜け落ちていた。


 リラは、その光景を見つめたまま、息を止めていた。


 自分は雷を当てようとし、効かせようとして、届かなかった。


 ヴァルクスとカイランは何も知らないまま、すでにミルザの手を封じている。


 そこに、極大魔法はいらなかった。


 膝の上で、リラの拳から震えが収まっていく。


 「……私は、結局……」


 言葉が喉で止まり、口元にまで達しない。


 ガルムが、静かに言う。


 「気づけただけ、上等だ」


 エルネストは何か言いかけて、結局、口を閉じた。


 代わりに、リラの肩に触れた手に、ほんの少しだけ力がこもる。


 焦げた風が吹き、灰が頬をかすめて、涙のように流れていった。


 リラは拳を握りしめたまま、それでも前を見続けた。


 *


 隠れ家は、騒がしくはなかった。


 テーブルに広げた地図の端が、窓から入る風でめくれかける。


 ドゥールが、それを手で押さえる。


 紅茶の匂いがまだ残っているのに、どのカップからも、湯気は上がっていない。


 日常の延長だと言い切れてしまう程度には、穏やかな空気が流れている。


 タマの指先が、テーブルの溝を同じ速さで幾度もなぞっている。


 迷ったときに卓の溝をなぞるのは昔からの癖で、それが本人も気づかぬうちに、静かな待ち時間の上を滑っていた。


 ゲドーマルが、戻ってこない。


 タマは、場にいる顔ぶれを目で追う。


 レオンが壁際で腕を組み、アウレオンが地図に視線を落とし、ドゥールが工具ベルトの金具を指で弾き、ハルが戸口の近くで肩の力を抜いている。


 判断力も戦力も、これ以上ないほど揃った布陣。


 普通なら安心して待てる状況だと、タマ自身も分かっている。


 ゲドーマルがここにいないという、その一点だけが、胸の奥に細く尖った棘となって残っていた。


 「……じゃあ」


 ハルが軽く息を吐いて立ち上がり、いつもの調子で荷物へ手を伸ばす。


 「俺は一度、殿下のところに戻るね。王女側の動きが読めねぇ。連絡役が一人いた方がいい」


 言葉は軽いのに、中身は的確といえる。


 「何かあったら、すぐ戻る」


 正しい判断だと分かるから、タマは口を開けない。


 そのとき、タマの白銀の髪が、風もないのに一斉に逆立った。


 ハルが扉に手をかけた、ちょうどその瞬間だ。


 空気が、変わった。


 音が消えたわけではないのに、風の流れが急に押し返されるような感触がある。


 皮膚がじわりと粟立ち、全員が同時に顔を上げる。


 「……なに?」


 レオンが、低く息を呑む。ドゥールが、窓の外を睨みつけた。


 「……これはまずいな」


 空の向こうから圧が届き、窓の外の木々が、一瞬だけ揺れる方向を見失う。


 風は東から来ているはずなのに、枝が南へ倒れている。


 タマの耳の奥で、聞こえないはずの音が鳴った。


 そこに在るだけで、周囲の魔力の流れを捻じ曲げていく、異常な重さ。


 ハルが扉から手を離し、小さく舌打ちする。


 「……タイミング、最悪だな」


 普段なら絶やさない笑みが顔から消え、目はいつもより細く据わっている。


 「一人で動く状況じゃねぇ」


 ドゥールが、短く言う。


 「古竜……だろうな。しかも、ちっとばかし寝起き、なんて可愛い気配じゃねぇ」


 隠れ家にいた全員が、同じ結論へ辿り着いていた。


 もう、待つ段階ではない。外へ向かう支度をしながら、タマの胸に、自然と言葉が浮かぶ。


 ゲドーマル、早く帰ってきて。


 祈りでもなく、命令でもなく、ただこぼれ落ちた本音だった。


 それを口に出す余裕は、もう残っていない。


 *


 東の迷いの森では、空気のほうが先に壊れた。


 風向きが乱れ、森の上空で見えない層がずれていく。


 木々がざわめくよりも前に、魔物たちが一斉に逃げ出した。


 鳥は飛び立つのではなく、落ちるように散っていく。


 迷いの森の中央で空が裂け、その裂け目の向こうから、”それ”が滲み出してくる。


 巨大な、風の塊。輪郭の内側で幾筋もの気流が渦を巻き、かろうじて竜の形を保っている。


 《風の古竜》アウル=ヴェイル。


 薄い鱗は光を反射するたびに輪郭を揺らし、確かな実体を持たないかのようにも見える。


 翼が一度ゆっくりと広がるだけで、周囲の大気が削れ、空気そのものが根こそぎ失われていく。


 現れた瞬間から、嵐が成立していた。


 《迷いの森》の一角が、音もなく空間ごと持っていかれた。


 ”何か”が、冷たく硬い鎖のようなものを、古竜の身体の奥へ絡めようとした。


 アウル=ヴェイルが翼を一度振るだけで、それは千切れて消えた。


 身体の内側に残ったのは、縛られているという、その感触だけ。


 アウル=ヴェイルに怒りがあるわけではなく、肌に障る方向を、無造作に均していくだけ。


 翼がわずかに傾く。それだけの動きで、迷いの森の外縁が削れ落ちた。


 風は直線に吹き抜け、地表を撫で、魔物たちを巻き上げていく。


 群れは抗う術もなく、そのまま王都の方へと流されていった。


 古竜にとって、それは侵攻ですらなく、目障りなものを払いのける、ただの環境の調えにすぎない。


 *


 西側の戦場では、風は裂かれ、地は押し潰され、空間は安定することを許されない。


 ヴァルクスとカイランの魔法によって、ミルザの足元には、もはや静止した余白が残っていなかった。


 《狂智》を刻もうとすれば削れ、留めようとすれば歪む。


 厄介だ。相対する近衛騎士団長と聖騎士を、ミルザは初めてそう値踏みした。


 初めて、はっきりと戦いづらいと判断している。


 力でも相性でもなく、状況そのものが、戦いを成立させない形へ組み替えられている。


 そこへ別の重さが、かなり遠くの東の先から届いた。


 ミルザの《狂智の錨》が、手の中で震える。


 今まで一度も、この武器が震えたことはなかった。


 ミルザの動きが、止まる。


 ヴァルクスも、カイランも、反射的に呼吸を止めた。


 ミルザの背後で空間が歪み、振り返ると、そこにヤグが音もなく立っていた。


 転移の魔道具を使ったのだろう。


 切り札のはずのそれを切ってまで現れたヤグの顔から、いつもの余裕が抜けている。


 「古竜……力が足りなかった」


 ヤグの視線は、迷いなく東を向いている。


 ミルザは、短く舌打ちした。


 「《魔女》が、やったな」


 ヤグの表情は、苦い。この男のこんな顔を、ミルザは初めて見た。


 「魔道具による支配を試みて、失敗したな……勝手なことを」


 ミルザも東にある《迷いの森》の方角に視線だけ送る。


 支配は成立していない。それでも干渉は行われ、結果として、古竜は”支配の元”の排除行動に入っている。


 最悪に、近い。ミルザは舌打ちの代わりに、小さく笑った。


 「……なるほど。これは、勝つ負けるの話じゃないな」


 ヴァルクスとカイランへ、視線を流す。


 二人とも、間違いなく強い。今この場だけを見れば、厄介な相手。


 本音をいえば、ここで潰しておきたい。それでも、この状況下で続けるのは悪手といえる。


 文字を書く以前の問題で、戦う次元が、すでに一段上へ移ってしまっている。


 ヤグが即座に指示を出す。


 「一度、古竜を直に観測する。深入りはしない。この件は、魔王様へ直接報告だ。恐らく、”奴”も動くだろう」


 ミルザは、迷わず頷く。奴――魔王様の、片腕。


 「了解……八つ当たりは、また今度だな」


 冗談めかした声とは裏腹に、足はもう引いていた。


 ミルザ陣営は、追撃を許さぬ速さで戦線を切る。


 戦果も損耗も気にせず、ただ盤面の更新だけを取った。


 ヴァルクスとカイランは、追わない。


 この国の盤面は、もう別の何かに握られている。


 去り際、ヤグが低く呟いた。


 「思ったより面倒だ……これが、古の伝説か」


 その視線の先で、風の古竜が、見えない嵐を巻き起こしていた。


 *


 ギルド併設の酒場は、相変わらず騒がしい。


 笑い声が重なり、ジョッキがぶつかり、酒の匂いが濃く漂っている。


 木の床は軋み、椅子を引く音さえ、どこか楽しげに聞こえる。


 俺の向かいでラグスが上機嫌に杯を重ね、その隣ではセインがとうに限界を超えている。


 そこへいつの間にか、ギルドマスターのシオウ・ベルクまで混ざっていた。


 たった今、初めて知った名前。


 ラグスは上機嫌で声が大きく、セインは話の半分がもう意味を成していない。


 シオウも今日は肩の力が抜けているのか、ジョッキを傾ける手つきが、やけにゆっくりだ。


 「今日は荒事はなさそうだな」


 酒場のどこかで誰かがそんなことを言って、否定する声は上がらなかった。


 俺は盃を口元へ運ぶ。


 甘い香りが、さっきより薄くなった気がする……同じ酒のはずなのに、鼻の奥へ届く前に散っていく。


 気のせいだ、と自分に言い聞かせる。


 王都は、いつも通りに回っている。少なくとも、この酒場の中では。


 その時、扉が勢いよく開いた。


 転がり込んできた冒険者が、何か言おうとして膝から崩れる。


 甲冑の胸当てに引っ掻き傷が三本走っていて、まだ乾いていない血が滲み出ている。


 それだけで、酒場全体が凍りつく。


 笑い声が止まり、ジョッキを持つ手が止まり、さっきまでの喧騒が、息を呑むように消えた。


 冒険者が床に手をついたまま、絞り出す。


 「迷いの森から……街の方へ……」


 最後まで言えなかったが、それだけで伝わる。


 シオウは、すでに立ち上がっていた。


 「緊急依頼を出す。討伐対象は、街へ向かう魔物群。冒険者は即時対応だ」


 力強い声が、酒場の奥の席まで届いていく。


 「門へ集合。騎士団と連携して迎撃する」


 その一声で、酒場はもう酒場ではなくなっていた。


 椅子が倒れ、武器を探す手が卓を叩き、足音が重なっていく。


 シオウの視線が、俺で止まる。


 盃を持ったままの手ではなく、俺の眼をまっすぐ見ている。


 「……お前も、だ」


 断れない何かが、その目にはあった。


 俺は手元の盃を見下ろす。つい先程、軽くなったはずの盃が、今は重い。


 中身は変わっていないのに、手の中の重さだけが、違っていた。


 酒は、もう終わりだ。


 盃をテーブルへ置くと、乾いた音が、騒がしいはずの酒場に、妙にはっきりと残る。


 椅子を引いて、立ち上がる。


 「……行くか」


 扉を開けた瞬間、風の匂いが変わっていた。


 さっきまで届いていた子供の笑い声は、もうない。


 代わりに、東の空から、視たことのない風が吹いている。


 *


 扉を開けた瞬間、湿った風がタマの顔を打った。


 空気そのものが、内側から張り詰めている。


 木々の匂いが消え、代わりに金属を舐めたときのような乾いた味が、舌の奥に残った。


 タマは思わず空を見上げる。


 魔力がこれまで感じてきたものと、根本から違っていた。


 質そのものが、普通の物差しでは測れない。


 風がきしみ、空間が引き伸ばされるような感覚が、肌を撫でていく。


 完全に目を覚ました、《風の古竜》。


 ドゥールが手にもつ魔道具で何かを測りながら、口を開いた。


 「……魔道具の支配だ。壊れてるが、方向性だけが残ってる。魔力の発信源は……王城だな」


 表情は渋いなどというものではなく、ドゥールは歯を食いしばっている。


 タマは風の流れに意識を向ける。


 風の向かっている先は王都……正確には、王城。魔道具のある場所だろう。


 ふと、王女の冷たい表情が瞼の裏側に浮かぶ。


 線が、一本に繋がる。


 なぜ今朝、王女が迷いの森になんかいたのか……彼女は、確認しに来ていた。


 「……古竜の痕跡」


 タマがドゥールを見ると、ドゥールも静かに頷く。


 「魔道具を使っているのは、王女だろうな」


 あの王女が魔族の魔道具を使い、古竜を支配しようとして、失敗した。


 これから起こるのは、その代償の支払い。


 「それなら、王女殿下の護衛を優先すべきだろ」


 レオンが風に目を細めながら、冷静に言う。


 判断としては正しいけど、王女には第一団がいて、王国最強がいて、王都には防御結界もある。


 タマはゆっくりと首を横に振った。


 「……違う」


 自分の声が思ったよりはっきりしていて、少し驚いた。


 「古竜は、王女を攻撃してるんじゃない」


 支配の痕跡。中途半端に触れられた枷。それが古竜を縛り、同時に、進路を与えている。


 「原因に、引っ張られてる。止める場所は、王女のそばじゃない。枷そのもの」


 ハルが目元を引き攣らせ、この暴風の原因を指さす。


 「古竜、だよな? あれと向き合うのか?」


 タマは一度だけ視線を落とすが、すぐに上げ、そのまま頷いた。


 ハルの手が、腰の短剣の柄に触れて、また離れる。


 「……王子殿下には、後で俺が説明する」


 それは、タマを止めないという選択だ。


 レオンは槍を握り直し、東の暴風を一度だけ見据えて、短く息を吐く。


 「……確かに、原因を叩かない限り、終わらないな」


 アウレオンは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。


 ドゥールは、すでに腰の工具ベルトへ手を走らせている。


 こちらの進路は、迷いの森の上空、風の古竜。


 風が、さらに強くなり、隠れ家の屋根の板が、一枚だけ甲高い音を立てた。


 タマは震える両手で胸を強く押さえ、願う。


 ゲドーマル、今は間に合わなくていい。でも、戻ってきて。


 タマたちは走り出す。東の空が、低く唸っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ