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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
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第19話 鬼の頭領


 迷いの森の上空で、風がひとつの意思のように渦を巻き、収束していった。


 荒れているというより、向かっている。


 その行き先は東から真っ直ぐ王都へと、見えない道筋を引いたように定まっていた。


 その正面に、タマたちは立っている。


 ドゥールは工具へ手をかけたまま息を詰め、アウレオンは細身の剣の柄に指を添え、レオンは槍を握り直し、ハルは奥歯を噛んで風を見上げている。


 タマは胸に手を当て、大きく息を吸い込み、意識してゆっくりと吐いた。


 進めという命令を無視して動こうとしない足を、震える指を握り込んで押さえつけ、それでも湿った地面を一歩、踏みしめる。


 頬を叩くはずの風の感触は遠く、身体の奥で本能だけが静かに叫んでいた。


 近づくな、逃げろ、これは抗える相手じゃない、と。


 それでもタマは、足を前へ出した。


 「よし!」


 自分を鼓舞するように声を上げ、収束した風へ視線を据える。


 白銀の光がふっと揺らぎ、人の輪郭がほどけていく。


 狐の耳が現れ、身に着けていた軽装が、白と淡い灰を基調とした静かな衣へと変わった。


 白銀の尾が一本、二本と背に増えるにつれ、周囲の空気がわずかに震える。


 妖狐の姿になったタマの手には、何もなかった。


 大鎌も短刀も魔法陣もなく、ただ五本の指を開いたまま、風の正面に立っている。


 「タマ!」


 ドゥールが目を見開いて声を上げ、前に出るな、距離を、と続けようとしたが、その言葉はアウレオンの一歩踏み出す動作に遮られた。


 レオンは無意識に槍へ手をかけ、ハルは眉間に皺を寄せて奥歯を噛みしめる。


 アウル=ヴェイルの纏う風がタマに触れた瞬間、刃のような乱流が肌を裂き、血が滲む。


 九本の白銀の尾の毛並みが、みるみる赤く染まっていった。


 足元の大地が削れ、立っているだけで身体が持っていかれそうになる。


 一歩踏み出すたびに、傷が増えた。


 それでもタマは退かない。防がず、避けず、ただそこに立ち続けている。


 背中で九つの尾が、根元からばらばらに震えていた。


 一本一本が別の方角を向き、どこへ逃げるべきか身体が勝手に探っている。


 タマは震える指で衣の胸元を押さえ、そのまま空を見上げた。


 巨大な風の塊。だがそこにあるのは、怒りだけではなかった。


 「わかるよ。この風は……泣いてる」


 声が震えている。


 それでも両足で湿った地面を踏みとどまったまま、九つの尾がゆっくりと揃いはじめた。


 震えは消えていない。それでも一本ずつ後ろへ流れ、風に逆らわず、しかし退かない形をとっていく。


 「……もう、十分だよ」


 その声が届いたのか、風が一瞬だけ、はっきりと揺らいだ。


 「縛られるのは、苦しいよね」


 深く息を吸い、目を細め、タマは優しく諭すように言葉を継ぐ。


 「もう……あとは、私たちがどうにかする」


 アウル=ヴェイルの風圧がわずかに乱れ、その直後、風が止まった。


 完全な静止ではない。


 それでも、世界を壊していた暴力が、ここで足を止めている。


 誰も声を出せなかった。


 アウル=ヴェイルは初めて、目の前に立つ存在を認識した。


 タマは血を流しながらも、立っている。


 武器を持たず、力でねじ伏せることもなく、ただそこに在る。


 白銀の髪を揺らしていた風が止んだ。


 *


 王都正門は、すでに閉じられていた。


 重い鉄の扉が降ろされ、城壁の上には弓兵と魔導士が等間隔に並び、全員の視線が東、迷いの森の方角へと注がれている。


 東から吹き付ける風は湿り気を含み、木々の匂いに混じって金属を舐めたような酸っぱさを運んでくる。


 城壁に掲げられた旗が激しくはためき続け、その音が絶えなかった。


 地上には即席の防衛陣が組まれている。


 近衛騎士第三団、王都騎士団、急ぎ集められた冒険者たち。


 即興なうえ混成ではあるが、そこには確かに秩序があった。


 ただ鎧の錆と油の匂いに混じって、酒の残り香があちこちから漂っている。


 つい先ほどまで杯を傾けていた者が大半で、頬の赤みが引き切らないまま剣を握っていた。


 ヴァルクスの代わりに指揮を執る第三団の指揮官は、声がよく通り、戦場慣れした判断を淀みなく下していく。


 「前線、間隔を保て!」

 「魔導士隊、詠唱準備!」

 「弓兵、第一波を引きつけてから撃て!」


 防衛戦としては定石通りの布陣だった。


 その列の中に、俺もいた。


 ラグス、セイン、シオウとともに、肩にノクティスを乗せ、腰に木刀と《終座》を佩いただけの格好で立っている。


 装備だけを見れば異国の服を纏った冒険者の一人に過ぎず、誰も俺を特別扱いはしていなかった。


 ただ一人、ノクティスだけが落ち着かない。


 肩の上で影が小さく震え、気配が何度も森の方角へ引き戻されていた。


 しばらくして、地平線の向こうに土煙とともに幾つもの影が現れる。


 魔物の群れだ。


 数は多く、種類もばらばらで、隊列は崩れ、統率もなく、互いにぶつかり合いながら走ってくる。


 その中の何体もが、走りながら何度も後ろを振り返っていた。


 後ろを恐れている。


 これは王都を攻めるための突撃ではなく、逃走だ。


 その違和感に気づいた者は、ほとんどいなかった。


 「迎撃準備!」


 指揮官の号令が即座に飛ぶ。


 「魔物は城門前で叩く! 被害を絶対に王都へ通すな!」


 魔導士たちの詠唱が響き渡り、広域火炎が、土壁が、風撃が先頭の魔物を吹き飛ばして、城壁の上から歓声が上がった。


 それでも後続の魔物は止まらない。止まれないのだ。


 俺は森の方角を視ていた。


 魔物や人ではなく、もっと大きく、もっと古い何かが、森の奥からこちら側へ圧をかけている。


 ノクティスが肩の上で小さく震え、影がじわりと森の方角へ伸びた。


 行けと言っているのか、危ないと言っているのか。


 おそらく、その両方だ。


 魔物は敵じゃない。


 彼らは追い立てられているだけだ。


 このまま戦えば群れは殲滅できるし、王都も守れる。


 だが原因は何も消えない。森の奥にあるそれが、また次を生む。


 ここは戦場じゃなく、ただの通過点だ。


 ノクティスの影が、もう一度だけ細く森の方角を指すように伸びた。


 俺が木刀へ手をかけると、意識するまでもなく、氣が静かに満ちはじめる。


 前には魔物の群れ、背後には守るべき人々、そして視線の先に森がある。


 ……間に合わないかもしれない。


 「それでも」


 門前では火が走り、風が暴れ、土壁がせり上がり、魔物の群れは確実に削られていた。


 悲鳴と怒号、魔力が爆ぜる音が戦場に響き渡り、このまま押し返せると誰もが感じている光景だ。


 俺は列から一歩、前に出る。


 肩の上でノクティスが身を固くし、その影が俺の輪郭に沿うように縮んだ。


 風がノクティスの周囲だけを避けるように流れ、小さな身体から滲む気配が、わずかに青白がかっている。


 「俺の氣を真似ているのか」


 氣が静かに満ちていく。


 「ノクティス、行くぞ」


 木刀がバチバチと鳴り、地面を踏み込む。


 空気が弾け、木刀を振るうたびに、触れた魔物が内側から崩れ落ちていった。


 骨が軋み、血を吐き、膝から地面に落ちる。


 一体、二体ではなく、前線が文字通り割れていく。


 道が開いた。


 「……あれはなんだ?」

 「……一体、何が起こってるんだ?」


 冒険者たちが声を失う中、俺は止まらなかった。


 魔法でも剣技でもない、ただの現象として魔物の群れが左右へ割れていき、本能で近づいてはいけないと理解した群れが、道を空ける。


 門前の戦いを背に、俺は一直線に迷いの森へ向かった。


 「待て! どこへ行く!」


 遅れて指揮官の声が飛んだが、振り返らない。


 *


 門前には半壊した魔物の群れの、崩れた前線が広がっている。


 騎士や冒険者たちが呆然と立ちつくす中、ラグスが誰にともなく呟いた。


 「……あいつ、何を見てたんだ?」


 *


 同じ頃、迷いの森へ向かって二つの影が走っていた。


 ヤグとミルザが地面を蹴り、脚による純粋な速度だけで進んでいく。


 風を切り、木々を跳び越え、向かってくる魔物をヤグの魔道具で吹き飛ばしながら駆けた。


 「面倒だな」


 ミルザが顔をしかめ、楽しげでもなく呟く。


 「相手が古竜なら、なおさらだ。しかも、魔女が関わっている」


 ヤグは表情を変えず、手元の魔道具から指を離さないまま、前を見据えて答えた。


 「観測だけだ。深入りはしない。今は、どこまで狂ったかを観測する」


 二人の進路は迷いの森、風の古竜がいる場所だった。


 *


 別の方向では、土煙が上がっていた。


 ヴァルクスを先頭に、リラ、ガルム、エルネストが馬を駆る。


 ヴァルクスが懐の探知用魔道具をしまい、短く言った。


 赤い縁取りのマントが風に揺れても、その身体は鞍の上で微塵も動かない。


 「急げ。この魔力の流れ……大量の魔物の群れが王都へ向かってる」


 「門前が戦場になる。間に合わなければ被害が出る」


 リラは歯を噛みしめ、手綱を強く握った。まだ万全ではない。それでも目は逸らさない。


 「……はい」


 *


 そのどちらにも属さない影が、一つあった。


 カイランは足を止めていた。


 古竜の気配は、ここまで届いている。


 上層部から与えられた目的とは違う。


 だが、あの風の奥にあるものを放置すれば、王都にある教会の汚職問題どころの話ではなくなる。


 王都へ向かうヴァルクスたちの背を、ほんの一瞬だけ見送り、カイランは小盾の留め具を握り直した。


 風を纏う前に、一度だけ短く息を吐く。


 次の瞬間、進路を変えていた。


 「……俺は、森へ行く」


 独り言のように呟き、風を纏って走り出す。


 *


 タマの前で、アウル=ヴェイルは止まっていた。


 嵐はまだ生きている。


 森の上空で大気が軋む音が響き渡り、風は荒れ続けていた。


 それでも進まない。


 王都へ向かっていた意思が、ここで足を止めている。


 やがて、周囲の空気が一点へと収束しはじめた。


 巨大な竜の輪郭が削られるように縮み、ほどけ、風へと還っていく。


 暴力的な消失ではない。必要のない部分を、静かに手放しているだけだ。


 そこに立っていたのは、人の形だった。


 性別の判然としない細身の人型で、肌は風に近く、輪郭がわずかに揺らいでいる。


 淡い水色の髪は、色というより光の名残のようで、風に逆らうことなく揺れ、どこまでが髪でどこからが空気なのか、はっきりとは分からない。


 だが瞳だけは違った。


 水色の奥で焦点が少しずつ定まりはじめ、嵐だったものが、こちらを見ようとしている。


 ただ、その瞳の端に濁りがあった。自分のものではない何かが、まだ刺さっている。


 魔力による縛りの痕跡。


 タマは妖狐の姿のまま、一歩前へ出た。


 足が震え、九つの尾が揺れる。


 それでも目を逸らさず、構えも取らない。


 「……戻ってほしい」


 頬から血が流れ、声もかすれている。


 「ここは……あなたの居場所じゃない」


 水色の髪がわずかに揺れ、瞳の濁りが薄らいだように見えた。


 その瞬間、鳥肌が立つような歪な圧がかかる。


 タマたちが振り向くと、森の中から二つの人影がゆっくりと現れた。


 レオンの息が止まり、ドゥールの手が無意識に工具へ伸びる。


 王女アルティシア・クラウディア・レグナ。


 その半歩前に立つ男、近衛騎士団第一団団長グラウ・アイゼン。


 グラウは出現と同時に周囲を一瞥し、脅威の配置を確認し終えていた。


 両手は降ろしたまま、構えすらない。


 それが逆に、隙のなさを際立たせている。


 アルティシアの視線は、タマにも仲間にも向かなかった。


 背筋は寸分も崩れず、ただアウル=ヴェイルだけを見据えて、その手の魔道具へ魔力が集まりはじめている。


 タマの尾がピンと張り、顔が引き攣った。


 「まずい! 止めろ!」


 ドゥールの声が弾け、まずアウレオンが動いた。


 だが、王女との間に割り込もうと踏み込んだ瞬間、空気を裂く音がして淡い翠の長髪が揺れ、アウレオンの足が止まる。


 右の腿に、ナイフが突き刺さっていた。


 アウレオンの膝が折れ、片手で地面を突く。


 グラウが素早くナイフを投げていたようだ。


 彼は姿勢も表情も変わらず、最初から立っていた位置にいる。


 レオンの槍が震えた。


 握る手に力が入り、穂先が王女の方を向きかける。


 だが、上がらない。


 元門番として、王族に刃を向けるという一線を、身体が越えられずにいる。


 ハルが腰を落とし、真っ直ぐアルティシアへ向かう。


 三歩目で、視界からグラウが消えた。


 刹那、ハルの正面にグラウが立っている。


 いつ動いたのか分からない。音もなく、気配もなく、ただそこにいた。


 ハルは止まらず、即座に小太刀を横に薙ぎ、膝を狙い、肘を突き出して格闘の間合いに持ち込もうとする。


 そのすべてが、空を切った。


 グラウは避けていない。ハルの攻撃が届く前に、もう別の位置にいる。


 「……正真正銘の化け物だな」


 ハルが吐き捨てた瞬間、腹を蹴り飛ばされ、吹き飛んでいく。


 彼が蹴りだと理解したのは、地面に叩きつけられた後だった。


 誰も王女を止められない。


 アルティシアが魔道具を掲げ、以前よりも明らかに強い魔力が流れ込んでいく。


 それは”干渉”ではなく、”命令”だった。


 アウル=ヴェイルの水色の瞳が揺れた。


 定まりかけていた焦点が、再び濁る。


 瞳の奥で、刺さったままの縛りが脈打つように疼いた。


 せっかく戻りかけていたものが、もう一度引き剥がされていく。


 水色の瞳から光が消え、風が変わる。


 温度が下がり、空気が乾き、すべての音が遠のいた。


 アウル=ヴェイルの風が一点に収束し、王女へ向かって放たれた。


 グラウが即座に前へ出る。


 ピアス型魔道具が光り、無詠唱の身体強化が全身を駆け巡った。


 防御魔道具も全開にして王女を背後に庇い、風を正面から受け止める。


 轟音が森を揺らし、グラウの足が地面にめり込み、腕の表面が裂けた。


 それでもグラウは一歩も退かない。


 だが、この場にいる誰もが理解した。


 説得はもうできない。嵐を止める方法がなくなった。


 そして戦いになれば、”勝てない”。


 その嵐の前に、血を流しながら立つ妖狐がいた。


 タマはまだ、倒れていなかった。


 *


 迷いの森の中を進んでいく。


 逃げ惑う魔物たちが次々と前に出てくる。


 牙を剥き、悲鳴を上げ、理性もなく突っ込んできた。


 パチパチと蒼い火花を纏った木刀を振るうたびに、触れた瞬間、魔物たちは崩れ落ちる。


 吐血し、膝を折り、二度と立ち上がらない。


 「……タマ」


 木刀を握る手に、自然と力が入る。


 ノクティスが肩の上で、ふわっと揺れた。


 「……そうだな。焦っても仕方がない。焦らずに急ごう」


 森の奥から伝わる圧が、確実に強くなっている。


 だが、一瞬、足が止まった。


 前方の木々の向こう側に、武器を構えながらも突っ込んでこない影がある。


 他の魔物の群れとは明らかに違う、統制を持った動きだ。


 俺は木刀を下げたまま、短く言った。


 「……お前たち」


 *


 風が不安定に唸っていた。


 アウル=ヴェイルの周囲で大気が軋む音を響かせ、方向を失った風が暴れかけている。


 タマの喉が上下し、耳が伏せ、汗が頬を伝った。


 それでも足を一歩、前に踏み出す。血に濡れた身体のまま、ただ立つ。


 「……やめて」


 声はかすれている。


 「これ以上、誰かを__」


 言葉が終わる前に、風が乱れた。


 制御を失いかけた風圧がタマを正面から襲い、身体が宙を舞って地面に叩きつけられる。


 呼吸が詰まり、視界が白く弾けた。


 タマは起き上がろうとして、腕が折れるように崩れた。


 木々に囲まれた空が、歪んで見えた。


 その歪みの中で、アウル=ヴェイルが止まっているのが分かる。


 完全な静止ではないが、風が確かに迷いを見せていた。


 「タマ!」


 アウレオンの声が遠くから届く。レオンが駆け出す足音、ドゥールが地面を蹴る音。


 だが、その音が途切れた。


 別の気配が、風を揺らすこともなく割り込んでくる。


 木々の間から現れる、複数の人影。


 「第四団?」


 ハルの声がかすれて聞こえる。


 斥候装備に軽量鎧、音もなく展開する隊列。


 その動きに迷いはなく、刃の切先はすべて、タマたちの側へ向いていた。


 地面に伏せたまま、タマの視界の端で、アウレオンが前に出るのが見えた。右の腿に血が滲んでいるが、それでも立っている。


 レオンが即座に連携して間合いを切り、ドゥールが倒れたタマの前に立って身体で壁を作る。


 ハルは一瞬だけ森の奥を見て、それからタマの側に立った。手は脇腹を庇うように抑えている。


 息を吸う音が重なり、四人分の覚悟が空気の中で固まっていく。


 厳しい。それでも時間は稼ぐ、あいつが来るその時まで。


 その感覚が伝わってきた、矢先だった。


 第四団の動きが止まった。


 重心が落ち、呼吸が浅くなり、全員が同じ方向を向く。


 鉄の鎧の擦れる音が聞こえてくる。


 それは揃っていて、そこに乱れはない。


 魔法陣や閃光のような派手な登場はなかった。


 ただ踏み締められた空間が、完成された隊列として静かに現れる。


 《近衛騎士団第一団》。


 黒と灰を基調とした装い。王国最強部隊。


 グラウ・アイゼンを中心に陣形が組まれた瞬間、ドゥールの歯が鳴った。


 「……第一団かよ」


 呟くハルの額に、初めて汗が滲む。


 アウレオンの剣を持つ手がわずかに震え、レオンの槍が、下がった。


 地面に伏せたタマの身体にも、それは伝わっていた。


 空気そのものが重くなり、呼吸のたびに胸が軋む。


 さっきまで立っていられた場所が、もう立っていることを許さない。


 第三団や第四団とは、何かが根本から違う。


 王女の周囲に、二つの部隊が揃った。


 タマの側には、仲間たちだけだ。


 アウル=ヴェイルは停止と混乱の狭間で揺れている。


 人の姿を取った古竜は、身体の内側に残る、縛られているという違和感を、排除しようとしているだけだ。


 風が意思を持ってうねり、悲鳴のような軋みを上げる。


 その正面に、アルティシアが立っていた。


 タマは地面から、王女の横顔を見上げた。


 王女の額に汗はなく、呼吸も乱れていない。


 すると、手に持っていた魔道具が、音もなく地面に落ちた。


 拾い直す素振りはなく、代わりに伸ばした素手から魔力が溢れ出す。


 道具を介さない、生の魔力。


 空間がきしみ、空気が重みを持った。


 アウル=ヴェイルの動きが止まる。


 空間を削っていた暴力が途切れ、風が凍りついたように静まった。


 誰も声を出せない。


 第一団の騎士たちですら踏み込まず、グラウは剣を構えたまま動かない。


 地に倒れたタマだけが、必死に空を見上げていた。


 見上げた先で、アルティシアの額に汗が浮かんでいた。


 さっきまでなかったそれが、今はこめかみを伝って顎に落ちている。


 呼吸が乱れ、喉が鳴っていた。


 それでも王女は、視線を逸らさない。


 アウル=ヴェイルの内側で、風が暴れている。


 再び動けば、今度こそ全てが壊れる。


 

 その時だった。

 


 風とは違う気配が、場に割り込み、重心を変えた。

 

 

 第一団の数名が無意識に振り返り、グラウの視線が、初めて古竜から外れた。


 そこに立っていたのは、”一人の男”だった。


 木刀を肩に担ぎ、墨色の直垂は土と血で汚れているが、息は整っている。


 肩には影、ノクティスが静かに張り付いていた。


 「……ゲドーマル」


 タマが喉から搾り出すように、名前を呟く。


 彼は地に倒れているタマを視た。


 次に、アウル=ヴェイルを視る。


 視線だけが先に動き、身体は遅れてついてくるように、ゲドーマルは一歩、前に出た。


 アルティシアの魔力による停止が、わずかに揺らぐ。


 アウル=ヴェイルの意識がゲドーマルを捉え、第一団の全員が即応姿勢に入った。


 だが、誰も動かない。空はまだ、歪んでいる。


 *


 まず、視る。


 地に倒れているタマ。


 止まっているアウル=ヴェイル。


 限界まで魔力を絞り出している王女。


 剣を構え、呼吸を揃えた近衛騎士団。


 俺はタマのもとへ向かった。


 他にも大勢いるが、誰も動かない。


 タマの隣に膝をつき、そっと手を取ると、細い指がわずかに震えているのが分かる。


 「よく、立ったな」


 懐に手を入れ、小さな包みを取り出した。


 甘味だ。


 酒の前に買っておいた、タマの好きなやつ。


 それを手のひらにそっと乗せると、タマがかすかに笑った。


 「……遅いよ」


 胸の奥が、静かに痛んだ。


 「……すまない」


 それだけ言って目を伏せると、ノクティスが代わりに、タマの手のひらへ乗っかった。


 俺は立ち上がり、視線を上げて、王女を正確に捉える。


 睨む。逸らさない。逃がさない。


 周囲の空気が、じりじりと震えはじめた。


 空気が焼け、光が淡く歪み、肌のすぐ外で氣が熱を孕んでゆらりと立ちのぼる。


 雷が落ちる直前の、あの焦げた匂いが満ちて、紫がかった小さな火花がバチバチと音を立てて、肌の周りで躍った。


 少し、感情が抑えづらい。


 「……これで、三度目だ」


 声が、自然と低くなる。


 「お前らがタマを襲うのは」


 迷いの森全体の空気が、凍りついた。


 「鬼は、仏ほど寛大ではない」


 グラウが剣を構えながら一歩前へ出て、背後に短く合図を送る。


 近衛騎士団が完全戦闘態勢に入った。誰一人、動揺はない。


 だが空気は、張り付いたままだ。


 俺はもう、王女も騎士団も視ない。


 ただ、世界に向かって言う。


 











 「来い、茨木」











 


 一瞬、空気が淀んだ。


 


 そして、その淀の中から、人の姿で”茨木”が静かに歩いてくる。


 《濃褐色の直垂ひたたれ》。


 儀礼用の虚飾を排した、武骨でしなやかな実戦の仕立て。


 袖口から覗くのは、両手に嵌められた薄い鱗状金属板入りの小手。


 左腰に佩かれた刀は、主を待つ牙のように静まり返っている。


 ただ立っているだけで、周囲の空気がわずかに張りつめた。


 あちこちから、喉を鳴らす音が聞こえる。


 背中まで届く艶のある黒髪を一つに束ね、黒い瞳を静かにこちらへ向けた、切れ目の美女。


 威圧も殺気もない。


 だが、世界の格が、一段落ちた。


 茨木は迷いなく俺の前に膝をつき、衣擦れの音ひとつ立てず、静かに言った。


 「お待たせいたしました、お館様」


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