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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
21/51

第20話 最高の右腕

号外です。

次回からはまた火曜日22時、金曜日22時の投稿になります。

 

 空気が、肌に張りついていた。


 鉄と油、その下に滲む血の匂いが、本来この森にあるはずの木々の香りを、塗り替えていた。


 王女の魔力が重い蓋のようにアウル=ヴェイルの風を押さえつけているが、アウル=ヴェイルの輪郭の縁で、大気がまだ細かく震え、逃げ道を探し続けている。


 視れば、押さえつける糸は、もう何本も切れかけていた。張り直す端から、ほつれていく。


 グラウは魔道具の光を全身に纏ったまま、俺から視線を一度も外さない。


 背後の黒と灰の騎士たちも、斥候の騎士たちも、共に腰を落とし、刃の先を揃えてこちらへ向けている。


 視界の端に、タマが倒れている。


 膝をついたドゥールが、その口元へ薬の瓶を傾けている。


 どうやら血は止まったらしいが、頬からは色が引き、九つの尾が、己の身を抱くように固く巻きついている。


 ノクティスが影の手を伸ばし、その腕を、何度も撫でた。


 アウレオンは脚の傷へ布を巻きつけながら立っている。奥歯を噛み、汗が顎まで伝っている。


 レオンは血を流していないが、それでも頬が強張り、息の整わないまま、槍の柄を握り直している。


 ハルは小太刀を抜いたまま、脇腹を庇って腰を落とし、視線だけを四方へ走らせている。


 口元にいつもの軽さを無理やりつくりあげ、だが、その目だけは少しも笑えていない。


 そして、俺の前に、”茨木”が片膝をついている。


 濃褐色の直垂。束ねた黒髪。長い間、見飽きるほど隣にあった姿。


 俺は短く息を吐くと、その茨木に声をかける。


 「遅い」


 茨木が顔を上げる。まっすぐ俺を捉えた目は、揺れもしない。


 「……は?」


 「今までどこに行ってた。おかげで随分と苦労したぞ」


 茨木の眉が、ぴくりと動いた。


 「……それ、そっくりそのままお返しします。あなたが勝手に消えたんでしょう。探す側の身にもなってください」


 返す言葉が、見つからない。


 だが、こうして息をして、口うるさく俺を責めている茨木の顔を見ているだけで、胸の奥にあった大きな強張りが、解けていく。


 「大体にして、ここは一体どこですか。見たこともない木々に、空に、匂い……私の知る場所ではございません。斬られたからといって、こんな場所まで逃げてきますか。理解不能です。そもそも__」


 説教を続けていた茨木の瞳が、ふと横へ逸れると、黒い目がそのまま、点になる。


 息を呑む音だけが響く中、信じられないものを見るように彼女の双眸が見開かれる。


 その視線の先には、タマがいた。


 ドゥールが、タマの口元へ傾けたままの瓶から、中身を地面へ零している。


 アウレオンの口は開いたきり塞がらず、レオンの槍は手の中で滑りかけ、ハルは実際に取り落とした小太刀を、慌ててつかみ直す。


 「……!? 玉藻たまも?」


 茨木の声が、掠れた。


 「……生きて、いる?」


 顔から血の気が失せていたタマも、目を見開いていた。


 「……茨木? どうして……ここに……」


 茨木はタマから目を離さないまま、ゆっくりと立ち上がる。


 「……死んだと、聞いてました」


 タマの耳が、力なく垂れた。それから、弱く笑う。


 「……色々、あったの」


 グラウの刃はまだ下りていない。騎士たちの切先も、こちらを向いたまま。


 昔話は、後だ。


 「仕切り直しだ」


 茨木が俺へ視線を戻し、ふたたび静かに片膝をつく。


 「茨木」


 「はっ」


 「こいつらを排除しろ」


 間を置かず、声が返る。


 「御意。制限は?」


 「殺すな」


 「他は?」


 考えようとして、口を開きかけた、その先で視界の端にタマがいた。


 己の身を抱いて巻きついた、九つの尾。乾きかけた血。言葉が勝手に零れる。


 「自由だ」


 茨木の口角が、わずかに上がるのが視えた。


 「……あ」


 しまった。


 「随分と緩いですね、今回は」


 「待て……やはり__」


 止める声へ被さるように茨木の額から角が、伸びた。


 漆黒の二本。


 黒かった瞳の奥に真紅が差し、見る間に染まっていく。


 氣が一息に膨れ上がり、紫の火花がバリバリと爆ぜて、空間を縦横に跳ねまわりはじめると、肌を炙る熱気が、頬に届く。


 ……遅かった。


 茨木が騎士団へ向き直った。


 「貴方達、今なら降伏を認めます」


 騎士たちは剣をこちら側に向けたまま、焦点の合わない目で、ただ茨木の唇の動きを追う。


 茨木がわずかに首を傾げる。


 「直ちに、こうべを垂れなさい」


 一部の騎士たちは、ぽかんと口を開けたまま、目の前の相手と仲間の顔を交互に見つめる。


 ああ、そうだ……翻訳の指輪……こいつには、ない。


 視界の端のタマを視ると、ドゥールに介抱されたまま、頭を抱えて呆れている。


 ドゥールたちがさっきから目を点にしていたのは、これか。


 茨木の言葉は、騎士たちに一言も届いていない。


 グラウは、鬼化した茨木を前にしてなお、一歩前へ出る。


 「古竜を置いて、去れ」


 茨木が首を傾げ、そのまま、こちらに顔を向ける。


 「……天狗には、言葉が通じないようですね」


 髪も、目の色も、見慣れぬ装備も……まとめて《天狗》で片づけたらしい。


 再び、騎士たちに顔を向けると同時に、茨木の気配が、すっと平らになり”遊び”が抜けていく。


 騎士たちが構える。仲間たちも息を詰めた。アウレオンが低く呟く。


 「……グラウだけでも厳しいのに、これは不味いな」


 レオンが歯を食いしばる。


 「せめて、タマだけは……」


 ハルが乾いた笑いを漏らした。


 「これ、労災とか、そういう次元じゃないよね」


 俺は振り返らないまま、アウル=ヴェイルのほうへ歩き出す。


 もはや視る必要もなくなった。


 背後で風がわずかに揺れ、次の瞬間、重い鎧が地を打つ音が一つ、森に響き渡る。


 倒れたのはグラウ、斬ったのは茨木。


 必要だったのは、たったのひと太刀。


 紫電のパチパチと爆ぜる音だけが、グラウの周辺にしばらく残る。


 背後の気配が、ことごとく凍りついたのが肌に伝わってきた。タマのものだけを、残して。


 俺はアウル=ヴェイルの正面に立つと、これ以上こいつを脅かさないように、漏れていた氣を静かに引く。


 肌の外で躍っていた火花が鎮まるのを待ち、そして、視る。


 人の形をとった古竜の、その内側に脈打つ核に、何かが絡みついている。


 アルティシアの魔力。


 締め縄のように編まれ、結ばれ、固く留められている。そこに居座って、本来の脈を、乱し続けている。


 「原因はこれだな」


 その時、タマが、ふらつきながら立ち上がった。


 ドゥールが手を貸そうとするが、タマはそれをやんわりと断り、アウル=ヴェイルの隣まで歩いてきた。


 そして、両手で包み込むように、そっとその手を取ると、それだけで荒れていた風が、落ち着いていく。


 視れば、乱れていた脈が整いはじめ、暴発寸前だった力が、引いていくのがわかった。


 アルティシアの内側で、魔力が新たに練り直されていくのも視えた。


 王女が両の手のひらをこちらへ向け、放つと、研ぎ澄まされた魔力が、唸りを引き連れて、襲いかかってくる。


 茨木が音もなく俺たちの前に立つ。


 刀身へ氣が満ちていくと、紫の火花が刃の輪郭をなぞり、表面へ張りつくように纏わった。


 放たれた魔法は、結び目を断たれ、瞬く間に形を失う。


 アルティシアの目が見開かれ、息が止まり、頬が強張る。


 その隙に、グラウが立ち上がる。


 耳飾りの魔道具が淡い光を放ち、回復の力が、その身を包んでいく。


 アウル=ヴェイルの内側で、魔力がふたたび暴れはじめた。


 だが、タマの手の中で、その身体は動かない。荒れる力に抗うように、じっと堪えている。


 「これならできるな」


 俺がアウル=ヴェイルの頭へ、そっと手を伸ばすと、びくりと細い肩が跳ねる。


 「……大丈夫」


 タマが優しく微笑みかけると、アウル=ヴェイルは全身の力を抜いていく。


 その頭へ触れ、氣を流し込んでいく……脳を傷つけぬよう、丁寧に、慎重に。


 そして、焼く。


 肉ではない。


 締め縄のように編まれた魔力が、内側から焼け崩れていく。


 支配の痕跡が、跡形もなく消え、強張っていたアウル=ヴェイルの身体から、縛りが消える。


 俺は”彼”を視る。


 「……あとは、お前次第だ」


 だが、答えを返したのは、王女の身体のほうだった。


 視れば、その体内で魔力が荒れはじめている。


 整然と巡っていた流れが乱れ、指先から順に、震えが這い上がっていくと、呼吸が浅く、速くなり、喉の奥で細い音が鳴った。


 その視線は、俺やアウル=ヴェイルに向けられず、剣を杖に、辛うじて立っているグラウへ、まっすぐ注がれている。


 そして、諦めたようにゆっくりと俺に戻ってくると、灰青の瞳が俺を捉えた瞬間、その奥の揺らぎが、ふっと消えた。


 「近衛騎士団……殲滅命令。対象、ゲドーマル」


 その声に応じて騎士たちが動く。

 

 目の前の化け物への怯えを、鍛え上げた型と心で塗り潰すように、足音が揃い、剣が抜かれ、呼吸までもが、ひとつに重なっていく。


 先頭の若い一人が、踏み込んでくる。


 視れば、魔力の流れに乱れはなく、積み上げてきた鍛錬の跡がそこにあり、振り下ろされた剣には、迷いはなく、確かな殺意が宿っている。


 茨木の刀が、鞘を払う。


 俺は背を向けたまま、アウル=ヴェイルの傍から動かない。


 ……じきに、終わる。


 背後で、空気が裂ける。


 金属のぶつかる音ではなく、氣の生む、キィィィン、と高い音が、ひとつ、ふたつと重なって、間を置かず、鎧が地を叩く重い音が続く。


 三つ目が落ちたあたりで、揃っていた足音に恐怖による乱れが混じり、四つ目はそれを踏み越えて前へ出て、刃の届く前に、膝から崩れる音を生む。


 五つ目は、剣を打ち合わせる音すら、なかった。


 仲間を庇おうと伸ばされた手が、空を掻き、その腕ごと構えの折れる音が聞こえる。


 空気の爆ぜる音、膝が地を打つ音、剣が手を離れて土を転がる音。


 それらが幾重にも重なり、ひとつ、またひとつと、近衛騎士の身体が地へ伏していく。


 背後では、紫の氣が爆ぜる気配だけが、絶え間なく続いていた。


 それでも、立っている足音が、ひとつだけ残る。


 グラウ・アイゼン……王国最強の男。


 耳飾りの淡い光が、まだ身体強化と回復を走らせている。


 茨木の足音がその前で、止まった。ほかの誰の前でも、止まりはしなかったのに。


 一瞬の間があったのちに、パキン、と乾いた音が森に響き渡る。


 それはグラウの左耳から、欠片の散る音。続けて、もう一度。右の耳飾りも、砕けた。


 あいつが、足を止め、わざわざ耳飾りだけを狙ったのなら、この男の中に、斬り捨てるには惜しいものを、見たのだろう。


 耳飾りが砕け、グラウを支えていたものが、断たれると、堪えていた傷の痛みが、一息に押し寄せたはずだ。


 膝の鳴る音がしたが、それでも、剣を取り落とす音は、しない。


 俺は背を向けたまま、聴いている。


 地に伏した騎士たちの、かろうじて残った呼吸、そして、まだ立っている男の震える膝の音を。


 やがて、その音も、なくなる。


 最後に鎧が地を打つ、鈍い音が、ひとつ、小さく鳴った。


 そして、森が静まり返る。


 茨木の前に立っているのはアルティシアのみ。


 その足元には、もう動かない王国最強の騎士たちが伏し、最後に倒れたグラウが横たわっている。


 王女の手がわずかに震えたまま、力なく下がっている。


 その体内の魔力が、川筋を失った水のように、淀んだ淵へ溜まり、今まさに巡りを止めようとしている。


 王女を視ると、アウル=ヴェイルの内にあった、あの締め縄。


 同じものが、アルティシアの中にもある。


 ただし、深さがまるで違う。古竜のそれは、表面近くにあったが、王女のものは、もっと奥、根そのものに食い込んでいる。


 思考と絡み、判断と混じり、どこからが本人の意志なのか、その境目すら、視えない。


 誰かが、気づかれぬよう、少しずつ、長い時をかけて、丁寧に編み込んだものだろう。


 古竜を縛ろうとした者が、その実、とうの昔に縛られていた事実。


 「……お前の中にも、同じものがある」


 「……え」


 アルティシアの灰青の瞳が、揺れた。


 「……何を、言っているの」


 「魔力による締め縄だ。お前がアウル=ヴェイルに施したものと、同じ形をしている。ただし、もっと深い。お前自身の根に、食い込んでいる」


 王女の唇がわずかに動いたが、音にはならなかった。


 「お前が正しいと信じてきたものの中に、お前のものではない糸が混じっている。いつからかは分からん。だが、長い時をかけて、編み込まれたものだ」


 アルティシアの膝が震え、張り詰めていた背筋が、わずかに崩れる。


 彼女をよく視れば、その確信には芯がない。


 ”古竜を縛れ”、その衝動だけ先にあって、理由の方は後から、本人の手で塗り重ねられている。


 「なぜ、あの竜を縛り上げねばならなかった」


 「……守りたかった、だけよ。この国を」


 表情から色の抜けたアルティシアの声は、震えている。


 「帝国も……魔族も……強い。抑止力が、必要で……」


 「それは、国を守りたい理由だ。竜を縛る必要はないはずだろう」


 アルティシアの、息を呑む音が漏れる。


 「自分より強い古竜をいつまでも縛っておけると、本当に考えているのか? そのやり方の方が、よっぽど国を脅かす」


 アルティシアは震える口を開き、何かを言おうとするが、言葉は生まれてこない。


 「力はな……」


 自分の手のひらを、視る。かつて、何もかもを薙ぎ払えたはずの、この手を。


 「より大きな力に……殺される」


 全てを失った、あの夜が、胸をよぎる。


 酒に毒を溶かされ、指の先から、身体の自由が抜け落ちていった、あの瞬間。


 手のひらを、ゆっくりと握る。


 「俺自身の、結末だ。それで……大事なものは守れない」


 アルティシアの膝が折れ、地についた。


 音はなく、ただ空気だけがかすかに震え、地に触れた白い指は、土を、掴んでいる。


 その姿を、タマがアウル=ヴェイルの傍らから見ていた。


 仲間たちも、黙って立ち尽くしている。


 風は止み、古竜の内で暴れていた力も、今は静かになった。


 タマの手は、まだそっと、その身へ添えられている。


 森に残るのは、鎧と血と土の匂いだけ。


 「……終わったな」


 隣に立ったレオンが、槍を持つ手から力を抜き、アウレオンを見て呟く。


 「……ああ」


 アウレオンは答えながら、そのまま地面に座り込む。


 その時、嫌な感触が、場の空気を塗り替える。


 肌の表面がざわつき、森の匂いが、一瞬、ふっと途切れる。


 気配を殺して歩み寄っていた、二人の魔族。


 白灰色の肌に、黄金の瞳。額から伸びた二本の黒い角の根元を、深い紫の長い髪が覆っていた。


 隠しきれない、不敵な笑みを浮かべるミルザ。


 その隣には、黒を基調とした長衣の男、ヤグ。


 感情の読めない灰紫の目が、静かにこちらを捉えている。


 ミルザは牙を見せながら、アウル=ヴェイルへ、そして地に膝をついたアルティシアへと視線を流していった。


 これはもう、王国だけの話では収まらない。肌で、そう理解した。


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