第20話 最高の右腕
号外です。
次回からはまた火曜日22時、金曜日22時の投稿になります。
空気が、肌に張りついていた。
鉄と油、その下に滲む血の匂いが、本来この森にあるはずの木々の香りを、塗り替えていた。
王女の魔力が重い蓋のようにアウル=ヴェイルの風を押さえつけているが、アウル=ヴェイルの輪郭の縁で、大気がまだ細かく震え、逃げ道を探し続けている。
視れば、押さえつける糸は、もう何本も切れかけていた。張り直す端から、ほつれていく。
グラウは魔道具の光を全身に纏ったまま、俺から視線を一度も外さない。
背後の黒と灰の騎士たちも、斥候の騎士たちも、共に腰を落とし、刃の先を揃えてこちらへ向けている。
視界の端に、タマが倒れている。
膝をついたドゥールが、その口元へ薬の瓶を傾けている。
どうやら血は止まったらしいが、頬からは色が引き、九つの尾が、己の身を抱くように固く巻きついている。
ノクティスが影の手を伸ばし、その腕を、何度も撫でた。
アウレオンは脚の傷へ布を巻きつけながら立っている。奥歯を噛み、汗が顎まで伝っている。
レオンは血を流していないが、それでも頬が強張り、息の整わないまま、槍の柄を握り直している。
ハルは小太刀を抜いたまま、脇腹を庇って腰を落とし、視線だけを四方へ走らせている。
口元にいつもの軽さを無理やりつくりあげ、だが、その目だけは少しも笑えていない。
そして、俺の前に、”茨木”が片膝をついている。
濃褐色の直垂。束ねた黒髪。長い間、見飽きるほど隣にあった姿。
俺は短く息を吐くと、その茨木に声をかける。
「遅い」
茨木が顔を上げる。まっすぐ俺を捉えた目は、揺れもしない。
「……は?」
「今までどこに行ってた。おかげで随分と苦労したぞ」
茨木の眉が、ぴくりと動いた。
「……それ、そっくりそのままお返しします。あなたが勝手に消えたんでしょう。探す側の身にもなってください」
返す言葉が、見つからない。
だが、こうして息をして、口うるさく俺を責めている茨木の顔を見ているだけで、胸の奥にあった大きな強張りが、解けていく。
「大体にして、ここは一体どこですか。見たこともない木々に、空に、匂い……私の知る場所ではございません。斬られたからといって、こんな場所まで逃げてきますか。理解不能です。そもそも__」
説教を続けていた茨木の瞳が、ふと横へ逸れると、黒い目がそのまま、点になる。
息を呑む音だけが響く中、信じられないものを見るように彼女の双眸が見開かれる。
その視線の先には、タマがいた。
ドゥールが、タマの口元へ傾けたままの瓶から、中身を地面へ零している。
アウレオンの口は開いたきり塞がらず、レオンの槍は手の中で滑りかけ、ハルは実際に取り落とした小太刀を、慌ててつかみ直す。
「……!? 玉藻?」
茨木の声が、掠れた。
「……生きて、いる?」
顔から血の気が失せていたタマも、目を見開いていた。
「……茨木? どうして……ここに……」
茨木はタマから目を離さないまま、ゆっくりと立ち上がる。
「……死んだと、聞いてました」
タマの耳が、力なく垂れた。それから、弱く笑う。
「……色々、あったの」
グラウの刃はまだ下りていない。騎士たちの切先も、こちらを向いたまま。
昔話は、後だ。
「仕切り直しだ」
茨木が俺へ視線を戻し、ふたたび静かに片膝をつく。
「茨木」
「はっ」
「こいつらを排除しろ」
間を置かず、声が返る。
「御意。制限は?」
「殺すな」
「他は?」
考えようとして、口を開きかけた、その先で視界の端にタマがいた。
己の身を抱いて巻きついた、九つの尾。乾きかけた血。言葉が勝手に零れる。
「自由だ」
茨木の口角が、わずかに上がるのが視えた。
「……あ」
しまった。
「随分と緩いですね、今回は」
「待て……やはり__」
止める声へ被さるように茨木の額から角が、伸びた。
漆黒の二本。
黒かった瞳の奥に真紅が差し、見る間に染まっていく。
氣が一息に膨れ上がり、紫の火花がバリバリと爆ぜて、空間を縦横に跳ねまわりはじめると、肌を炙る熱気が、頬に届く。
……遅かった。
茨木が騎士団へ向き直った。
「貴方達、今なら降伏を認めます」
騎士たちは剣をこちら側に向けたまま、焦点の合わない目で、ただ茨木の唇の動きを追う。
茨木がわずかに首を傾げる。
「直ちに、頭を垂れなさい」
一部の騎士たちは、ぽかんと口を開けたまま、目の前の相手と仲間の顔を交互に見つめる。
ああ、そうだ……翻訳の指輪……こいつには、ない。
視界の端のタマを視ると、ドゥールに介抱されたまま、頭を抱えて呆れている。
ドゥールたちがさっきから目を点にしていたのは、これか。
茨木の言葉は、騎士たちに一言も届いていない。
グラウは、鬼化した茨木を前にしてなお、一歩前へ出る。
「古竜を置いて、去れ」
茨木が首を傾げ、そのまま、こちらに顔を向ける。
「……天狗には、言葉が通じないようですね」
髪も、目の色も、見慣れぬ装備も……まとめて《天狗》で片づけたらしい。
再び、騎士たちに顔を向けると同時に、茨木の気配が、すっと平らになり”遊び”が抜けていく。
騎士たちが構える。仲間たちも息を詰めた。アウレオンが低く呟く。
「……グラウだけでも厳しいのに、これは不味いな」
レオンが歯を食いしばる。
「せめて、タマだけは……」
ハルが乾いた笑いを漏らした。
「これ、労災とか、そういう次元じゃないよね」
俺は振り返らないまま、アウル=ヴェイルのほうへ歩き出す。
もはや視る必要もなくなった。
背後で風がわずかに揺れ、次の瞬間、重い鎧が地を打つ音が一つ、森に響き渡る。
倒れたのはグラウ、斬ったのは茨木。
必要だったのは、たったのひと太刀。
紫電のパチパチと爆ぜる音だけが、グラウの周辺にしばらく残る。
背後の気配が、ことごとく凍りついたのが肌に伝わってきた。タマのものだけを、残して。
俺はアウル=ヴェイルの正面に立つと、これ以上こいつを脅かさないように、漏れていた氣を静かに引く。
肌の外で躍っていた火花が鎮まるのを待ち、そして、視る。
人の形をとった古竜の、その内側に脈打つ核に、何かが絡みついている。
アルティシアの魔力。
締め縄のように編まれ、結ばれ、固く留められている。そこに居座って、本来の脈を、乱し続けている。
「原因はこれだな」
その時、タマが、ふらつきながら立ち上がった。
ドゥールが手を貸そうとするが、タマはそれをやんわりと断り、アウル=ヴェイルの隣まで歩いてきた。
そして、両手で包み込むように、そっとその手を取ると、それだけで荒れていた風が、落ち着いていく。
視れば、乱れていた脈が整いはじめ、暴発寸前だった力が、引いていくのがわかった。
アルティシアの内側で、魔力が新たに練り直されていくのも視えた。
王女が両の手のひらをこちらへ向け、放つと、研ぎ澄まされた魔力が、唸りを引き連れて、襲いかかってくる。
茨木が音もなく俺たちの前に立つ。
刀身へ氣が満ちていくと、紫の火花が刃の輪郭をなぞり、表面へ張りつくように纏わった。
放たれた魔法は、結び目を断たれ、瞬く間に形を失う。
アルティシアの目が見開かれ、息が止まり、頬が強張る。
その隙に、グラウが立ち上がる。
耳飾りの魔道具が淡い光を放ち、回復の力が、その身を包んでいく。
アウル=ヴェイルの内側で、魔力がふたたび暴れはじめた。
だが、タマの手の中で、その身体は動かない。荒れる力に抗うように、じっと堪えている。
「これならできるな」
俺がアウル=ヴェイルの頭へ、そっと手を伸ばすと、びくりと細い肩が跳ねる。
「……大丈夫」
タマが優しく微笑みかけると、アウル=ヴェイルは全身の力を抜いていく。
その頭へ触れ、氣を流し込んでいく……脳を傷つけぬよう、丁寧に、慎重に。
そして、焼く。
肉ではない。
締め縄のように編まれた魔力が、内側から焼け崩れていく。
支配の痕跡が、跡形もなく消え、強張っていたアウル=ヴェイルの身体から、縛りが消える。
俺は”彼”を視る。
「……あとは、お前次第だ」
だが、答えを返したのは、王女の身体のほうだった。
視れば、その体内で魔力が荒れはじめている。
整然と巡っていた流れが乱れ、指先から順に、震えが這い上がっていくと、呼吸が浅く、速くなり、喉の奥で細い音が鳴った。
その視線は、俺やアウル=ヴェイルに向けられず、剣を杖に、辛うじて立っているグラウへ、まっすぐ注がれている。
そして、諦めたようにゆっくりと俺に戻ってくると、灰青の瞳が俺を捉えた瞬間、その奥の揺らぎが、ふっと消えた。
「近衛騎士団……殲滅命令。対象、ゲドーマル」
その声に応じて騎士たちが動く。
目の前の化け物への怯えを、鍛え上げた型と心で塗り潰すように、足音が揃い、剣が抜かれ、呼吸までもが、ひとつに重なっていく。
先頭の若い一人が、踏み込んでくる。
視れば、魔力の流れに乱れはなく、積み上げてきた鍛錬の跡がそこにあり、振り下ろされた剣には、迷いはなく、確かな殺意が宿っている。
茨木の刀が、鞘を払う。
俺は背を向けたまま、アウル=ヴェイルの傍から動かない。
……じきに、終わる。
背後で、空気が裂ける。
金属のぶつかる音ではなく、氣の生む、キィィィン、と高い音が、ひとつ、ふたつと重なって、間を置かず、鎧が地を叩く重い音が続く。
三つ目が落ちたあたりで、揃っていた足音に恐怖による乱れが混じり、四つ目はそれを踏み越えて前へ出て、刃の届く前に、膝から崩れる音を生む。
五つ目は、剣を打ち合わせる音すら、なかった。
仲間を庇おうと伸ばされた手が、空を掻き、その腕ごと構えの折れる音が聞こえる。
空気の爆ぜる音、膝が地を打つ音、剣が手を離れて土を転がる音。
それらが幾重にも重なり、ひとつ、またひとつと、近衛騎士の身体が地へ伏していく。
背後では、紫の氣が爆ぜる気配だけが、絶え間なく続いていた。
それでも、立っている足音が、ひとつだけ残る。
グラウ・アイゼン……王国最強の男。
耳飾りの淡い光が、まだ身体強化と回復を走らせている。
茨木の足音がその前で、止まった。ほかの誰の前でも、止まりはしなかったのに。
一瞬の間があったのちに、パキン、と乾いた音が森に響き渡る。
それはグラウの左耳から、欠片の散る音。続けて、もう一度。右の耳飾りも、砕けた。
あいつが、足を止め、わざわざ耳飾りだけを狙ったのなら、この男の中に、斬り捨てるには惜しいものを、見たのだろう。
耳飾りが砕け、グラウを支えていたものが、断たれると、堪えていた傷の痛みが、一息に押し寄せたはずだ。
膝の鳴る音がしたが、それでも、剣を取り落とす音は、しない。
俺は背を向けたまま、聴いている。
地に伏した騎士たちの、かろうじて残った呼吸、そして、まだ立っている男の震える膝の音を。
やがて、その音も、なくなる。
最後に鎧が地を打つ、鈍い音が、ひとつ、小さく鳴った。
そして、森が静まり返る。
茨木の前に立っているのはアルティシアのみ。
その足元には、もう動かない王国最強の騎士たちが伏し、最後に倒れたグラウが横たわっている。
王女の手がわずかに震えたまま、力なく下がっている。
その体内の魔力が、川筋を失った水のように、淀んだ淵へ溜まり、今まさに巡りを止めようとしている。
王女を視ると、アウル=ヴェイルの内にあった、あの締め縄。
同じものが、アルティシアの中にもある。
ただし、深さがまるで違う。古竜のそれは、表面近くにあったが、王女のものは、もっと奥、根そのものに食い込んでいる。
思考と絡み、判断と混じり、どこからが本人の意志なのか、その境目すら、視えない。
誰かが、気づかれぬよう、少しずつ、長い時をかけて、丁寧に編み込んだものだろう。
古竜を縛ろうとした者が、その実、とうの昔に縛られていた事実。
「……お前の中にも、同じものがある」
「……え」
アルティシアの灰青の瞳が、揺れた。
「……何を、言っているの」
「魔力による締め縄だ。お前がアウル=ヴェイルに施したものと、同じ形をしている。ただし、もっと深い。お前自身の根に、食い込んでいる」
王女の唇がわずかに動いたが、音にはならなかった。
「お前が正しいと信じてきたものの中に、お前のものではない糸が混じっている。いつからかは分からん。だが、長い時をかけて、編み込まれたものだ」
アルティシアの膝が震え、張り詰めていた背筋が、わずかに崩れる。
彼女をよく視れば、その確信には芯がない。
”古竜を縛れ”、その衝動だけ先にあって、理由の方は後から、本人の手で塗り重ねられている。
「なぜ、あの竜を縛り上げねばならなかった」
「……守りたかった、だけよ。この国を」
表情から色の抜けたアルティシアの声は、震えている。
「帝国も……魔族も……強い。抑止力が、必要で……」
「それは、国を守りたい理由だ。竜を縛る必要はないはずだろう」
アルティシアの、息を呑む音が漏れる。
「自分より強い古竜をいつまでも縛っておけると、本当に考えているのか? そのやり方の方が、よっぽど国を脅かす」
アルティシアは震える口を開き、何かを言おうとするが、言葉は生まれてこない。
「力はな……」
自分の手のひらを、視る。かつて、何もかもを薙ぎ払えたはずの、この手を。
「より大きな力に……殺される」
全てを失った、あの夜が、胸をよぎる。
酒に毒を溶かされ、指の先から、身体の自由が抜け落ちていった、あの瞬間。
手のひらを、ゆっくりと握る。
「俺自身の、結末だ。それで……大事なものは守れない」
アルティシアの膝が折れ、地についた。
音はなく、ただ空気だけがかすかに震え、地に触れた白い指は、土を、掴んでいる。
その姿を、タマがアウル=ヴェイルの傍らから見ていた。
仲間たちも、黙って立ち尽くしている。
風は止み、古竜の内で暴れていた力も、今は静かになった。
タマの手は、まだそっと、その身へ添えられている。
森に残るのは、鎧と血と土の匂いだけ。
「……終わったな」
隣に立ったレオンが、槍を持つ手から力を抜き、アウレオンを見て呟く。
「……ああ」
アウレオンは答えながら、そのまま地面に座り込む。
その時、嫌な感触が、場の空気を塗り替える。
肌の表面がざわつき、森の匂いが、一瞬、ふっと途切れる。
気配を殺して歩み寄っていた、二人の魔族。
白灰色の肌に、黄金の瞳。額から伸びた二本の黒い角の根元を、深い紫の長い髪が覆っていた。
隠しきれない、不敵な笑みを浮かべるミルザ。
その隣には、黒を基調とした長衣の男、ヤグ。
感情の読めない灰紫の目が、静かにこちらを捉えている。
ミルザは牙を見せながら、アウル=ヴェイルへ、そして地に膝をついたアルティシアへと視線を流していった。
これはもう、王国だけの話では収まらない。肌で、そう理解した。




