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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
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第7話 ハイエルフ


 王都からそう離れていない森は、朝のうちなら驚くほど穏やかだった。


 鳥の声は高く、風にはまだ夜の冷たさが微かに残っている。


 夜露を含んだ土は踏み込むたびに柔らかく沈み、湿った草の青い匂いが下から立ち上ってくる。


 冒険者になって、三日が経つ。


 俺とタマは、その三日のあいだ同じ依頼を繰り返していた。


 ”薬草採取”。


 誰でも受けられて、危険も少なく、”目立たない”。

 王都に来たばかりの俺には、ちょうどいい仕事だった。


 腰に下げた袋の重みを指で確かめてから、俺は自分の姿を一度だけ見下ろした。


 濃い墨色の直垂ひたたれ


 結局、これに戻ってしまった。


 貴族が着る儀礼用の華美な衣とは違う。

 袖の形も、腰回りの帯の締まりも、激しい動きを妨げないように仕立てられている。


 長く実戦に耐えた武家の衣には、飾りではない強さがあった。


 街で買った冒険者用の服は、宿に置いたままだ。


 あれも悪くはない。動きやすく、この世界の者たちの中に紛れやすく、余計な目を引きにくい。


 タマも似合っていると言っていた。


 それでも、朝になって宿を出る時、自然とこの衣を取っていた。


 「……ねえ」


 少し前を歩いていたタマが振り返る。

 白銀の髪が朝の陽の光を受け、肩のあたりでふわりと舞った。


 「せっかく買ったのに、なんで戻すのよ。似合ってたのに」


 腕を組んで唇を尖らせ、視線を斜め下に落とす。


 俺は足元の薬草に手を伸ばし、根の周囲の土を指で崩しながら答える。


 「体に馴染んでいる」

 「それだけ?」

 「落ち着く」


 そこで少し考え、根を傷つけないように薬草を抜き取ってから、もう一つだけ付け足した。


 「動きやすい」


 それ以上の理由は、自分でも言葉にしにくかった。


 長いあいだ、この姿で生きてきた。


 ただそれだけのことだが、その「それだけ」が身体に染み付いている。


 タマは一瞬、口を開き、何か言い返そうとして、けれどそのまま口を閉じた。


 「……もう」


 小さく息を吐きながらそう言う声には、諦めが混じっている。


 タマの視線が、俺の襟元、袖口、小手、草履へと流れていく。


 この世界にはない装い。

 王都の通りを歩けば、多少は視線を集めることもある。


 けれど、森を歩けば話は違う。

 

 生地は枝に引っかからず、踏み込みの衝撃もうまく逃がす。


 初日の報酬で買った革の防具よりも、こちらの方がよほど信頼がある。


 それに、茨木の手が入っている。


 袖の内側や帯の締め、動く時に負荷が集まる箇所には、俺の目ではすぐに気づかない補強がされていた。


 濃い墨色の中に、所々、茨木の好む濃褐色が紛れ込んでいる。


 タマは目を細め、少しだけ頬を膨らませた。


 「……ほんと、あの子、何でもできるわね。しかも、所々手を入れた部分が濃褐色で残ってるし。ちゃっかりしてる」


 タマの服装は、俺とは対照的だった。


 この世界の斥候用軽装を元にしながら、どこか和の気配が混じっている。


 無駄がなく、動きやすく、それでいて人目を引きすぎない。


 腰には短刀があり、布の下には幾つか小さな魔道具も隠されている。


 本気の装備である大鎌も、九尾の姿も、今は魔法で完全に隠している。


 彼女は、選んでこの姿をしている。

 俺はただ、戻ってきてしまっただけだ。


 薬草はよく育っていた。

 風の流れも穏やかで、木々の隙間から差し込む光が地面を照らしている。


 この三日、俺たちは何事もなく仕事をこなしていた。


 目立たず、問題を起こさずに少しずつ信用を積む。


 この世界に馴染む。人にあらぬ噂を立てられないようにする。


 それでいい。今は、それが正しい。


 薬草採取は、思っていた以上に仕事だ。


 根を傷つけないように掘り、葉を折らず、土を戻す。

 

 ただ数を集めればいいわけではない。


 売るための依頼品である以上、状態がよければ、それだけ評価も上がる。


 昔、山で薬草を採っていた頃のことをふと思い出した。


 季節によって葉の色は違う。獣が通った後の土は崩れやすく、日当たりがよすぎる場所の葉は硬い。


 そういうことを、誰に教わったわけでもなく、いつの間にか覚えていた。


 ……サエは教えるのが下手だったな。いや、俺の物覚えが悪かったのか。


 タマは手慣れていた。


 しゃがみ込み、迷いなく選び、短い時間で必要な分を揃えていく。


 指の動きに無駄がなく、草を踏む足音も薄い。


 俺は、その少し後ろで、別のやり方を取っていた。


 土の湿り気、葉の色、根の張り方。踏み荒らされていない場所。若い株と、採っていい株の違い。


 こういうのは、昔から嫌いではない。


 気づけば、袋の中身はそれなりに揃っていた。


 タマがそっと近づき、俺の袋を覗き込む。


 「……ちゃんと選んでるじゃない」


 先程までと声の調子が、少し変わった。


 「これ、質いいわよ。根も傷んでない」

 「そうか」


 口にしたのはそれだけだったが、胸の奥に小さな熱が残った。


 悪くない。こういうのも、悪くない。


 タマが袋を軽く揺らすと、薬草の青い匂いがふわりと立った。


 「今日は出来がいいわね」

 「ああ」


 口角が上がりそうになるのを、意識して抑えた。


 気づかれてはいないはずだ。


 冒険者としては地味な仕事らしい。

 剣を振るわず、魔物を倒したりもしない。ダンジョンとやらにも潜らない。


 だが、こうして根を傷めずに採った草が、どこかで薬になり、誰かの熱を下げるのなら、それも仕事なのだろう。


 悪くない。むしろ、少し嬉しい。


 三日間、同じ時間帯に、同じ森で、同じ依頼をこなしていた。


 変化はないが、安定している。


 ずっとこういう生活を望んでいた。あの日から。


 これでいい。


 ふと、森の空気が変わった。鳥の声が途切れ、木々が息を潜める。


 先に反応したのは、タマだった。


 薬草へ伸ばしかけていた手が止まり、顔が上がる。

 視線は森の奥へ向けられていた。


 「……ねえ」


 声を落とし、目が鋭くなる。


 俺も同じ方向を見た。


 気配がある。


 隠す気のない、強い存在感だった。

 ここ数日、出会った獣や魔物の気配とは種類が違う。


 そこにいると言うより、そこに在る。


 「……来る」


 森の中に、何かが立っている。


 まるで最初からそこにいたかのように、木々も草も、その存在を拒んでいなかった。


 タマが半歩、前に出る。

 自然な動きで、俺を庇う位置に立った。


 俺はその背中を見ながら、タマに気付かれないよう、静かにため息を吐く。


 ただ、静かに暮らすということは、この世界でも難しいらしい。


 少し、嫌になる。


 森の奥から現れたのは、ひとりだった。


 背が高く、細身だが弱さは視えない。

 淡い翠の髪が肩に流れ、長い耳が木漏れ日の中で細く浮かんでいる。肌は白く、瞳は深い翡翠の色をしていた。


 王都の門で、遠くから俺を観察していた者だ。


 「エルフ……いえ、ハイエルフね。その翡翠色の目は、エルフの皇族」


 タマが静かに言った。


 ただ者ではないことは、視れば分かる。

 だが、それ以上に異様だったのは、森の反応だった。


 木々がざわめかない。足元の草でさえ、踏みしめられた形跡をほとんど残していない。


 まるで森の方が、彼を自分の一部として受け入れているようだった。


 俺は思わず眼に力が入った。

 自然と完全に調和している存在を、俺は初めて視た。


 「……二人だけか」


 その男の声は低く、澄んだ声だった。


 敵意は隠していないが、すぐに斬りかかってくる様子もない。


 こちらの呼吸、立ち方、重心、視線の動きまで測っている。


 タマが一歩、前に出る。


 「何の用?」


 相手はタマを一瞥し、それから俺を見た。

 その視線が、わずかに鋭くなる。


 「門の事件」


 その一言で、タマの肩が微かに反応する。


 「黒髪の魔力のない男と、無詠唱の女がいた。そして、その後、冒険者になり、三日間、薬草採取をしていると聞いた」


 こちらを知っている。

 いや、調べてきた。


 「随分と、地味なことをしているな」


 声の調子は変わらず、腰にある細身の剣を抜く様子もない。


 タマが腰を落としたまま、返す。


 「それが仕事だから。それに、黒髪ではないわ。魔力ゼロの生き物なんて存在しない」


 そう言って、タマはちらりと俺を見た。


 今の俺の髪は、指輪のおかげでわずかに青みがかっている。


 「見間違いじゃない?」


 タマの声は穏やかだった。


 ハイエルフはしばらく俺を見つめた。


 首をほんの少しだけ傾ける姿は、敵意というよりも、困惑の方が近いように視える。


 「……そうかもしれないな」


 そう言いながらも、警戒は解いていない。


 「私はアウレオン」


 その名と同時に、森の空気がさらに重くなる。


 「……《緑災(りょくさい)》」


 タマが呟いた。


 聞いたことがある。

 ギルドでリーネに距離を置くようにと言われたSランク冒険者。


 その存在が、なぜか今、目の前にいる。


 「私の里は、魔王に壊された」


 淡々とした声だった。


 だが、その奥で燻る怒りは隠しきれていない。

 乾いた枝の下で火種だけが残っている時のように、表には炎を出さず、けれど熱だけは確かに残っていた。


 「私は、三人いる魔王のうち一人を討つ。私の里を壊した魔王を」


 そして、その視線が再び俺に向く。アウレオンの身体を魔力が巡り始める。


 「そのために、疑わしいものは排除する」


 タマの肩が、わずかに強張った。


 俺はそこで初めて、アウレオンを正面から視た。


 少し興味が湧いた。


 自然と一体になった存在が、それほどの力を持ちながら、なお焦っている。


 「……随分と、急いでいるな」


 俺がそう言うと、アウレオンの眉がわずかに動いた。


 タマが小さく息を吸う音が分かった。


 森の空気が、静かに張り詰めていく。


 土の中を巡っていた何かが、無理やり引き上げられるような感覚があった。


 アウレオンは森の中心に立ったまま目を閉じ、深く、長く息を吸った。


 タマが息を止め、腰の短刀に触れた。


 アウレオンの澄んだ声が、木々のあいだへ広がっていく。


 「我が血脈に宿る翠よ、根を巡り、葉を結び、土と空を繋げ、奪われた命の記憶を呼び覚ませ」


 言葉と同時に、地面が脈打った。


 木々の根が、見えないところで絡み合い始めるのが分かる。

 土の中を走る水と魔力が、同じ方向へ引き寄せられ、幾つもの流れが輪を描こうとしていた。


 アウレオンの足元に魔法陣が、生まれかけている。


 完全な円ではない。わずかな歪みがある。


 今まで視てきた魔法陣に必ず存在していた、あの歪みだ。


 俺は魔力の流れを視ていた。


 大事なのは魔力の量でも、速さでもない。

 流れが少しだけ偏っている場所がある。そこだけ、糸の結び目が強すぎるように、巡りの向きが硬い。


 左腰に手をやり、懐から一枚の銅銭を取り出した。


 先日、魔族に投げた貨幣と同じものだ。

 指に馴染む重さがある。


 タマの肩に手をそっと置くと、タマが振り返る。


 銅銭を指先で弾く。


 氣を纏わせたわけではない。


 多少、生活を乱された程度で、やり過ぎるほど幼くはない。


 ただの銅銭が空気を切り、魔法陣の縁へ吸い込まれるように飛んでいった。


 触れた瞬間、音もなく、魔法陣が散った。


 根のざわめきが収まり、風が元の向きを取り戻す。持ち上がりかけていた土の気配が下へ沈み、木々の葉がゆらりと落ちる。


 アウレオンの目が、大きく見開かれる。


 タマも、言葉を失ったままこちらを見ていた。


 「……何をした?」


 問いは低かった。だが、確かに震えていた。


 「魔法は、何度も視た」


 俺は落ちた銅銭の方を一度だけ見てから答える。


 「仕組みを理解すれば、これくらいはできる」


 詳しく説明できるわけではない。できてしまった、というのが本当のところだ。


 アウレオンがこちらを睨んでいると、森の外縁で別の気配が跳ねた。


 「反応確認! 第三団、ストライゼン部隊、到着!」


 金属音と足音が重なり、数秒遅れて鎧を着た者たちが姿を現した。


 先頭に立つのは、背中まで届きそうな赤髪を一つにまとめ上げた女騎士。


 リラ・ヴァン・ストライゼン。


 《緋髪纏雷》。


 その後ろには、重厚な鎧に赤い縁取りのマントを流した騎士が槍を片手に立ち、もう一人は杖と魔道具を手に、帯に巻物をぶら下げていた。


 「……やはり、ここだったわね。探したわよ」


 リラの視線は、まずアウレオンを捉えた。


 「アウレオン。これで三度目よ」

 「警告は、通じぬ」


 「通じなくても、告げる。これ以上の争いは、Sランク冒険者であっても許されない。冒険者ギルドにも正式に報告し、抗議するわ」


 アウレオンはゆっくりと息を吐くと、森が、それに合わせてわずかに揺れる。


 「ふむ。一つ、忠告をしておこう」


 その視線が、リラへ向いた。


 「魔族は……近衛騎士団と繋がっている可能性がある」


 リラの表情が変わった。


 「な……っ!」


 魔力が雷のように放電し、空気が細かく震える。足元の草に、赤みを帯びた細い火花が一つ弾けた。


 「そんなこと、あるはずがない!」


 「お前自身も、疑っているはずだ」


 リラの呼吸が荒くなる。


 彼女の後ろに立つ騎士たちが、反射的に身構えた。

 だが、誰も前には出ない。

 リラの怒りを止めることも、アウレオンの言葉を否定することもできず、ただその場で刃を握っている。


 アウレオンが手をリラたちへ向けた。


 「__地に伏すがいい」


 短い詠唱だった。


 地面から伸びた木の根が、リラを含む近衛騎士たちの足を絡め取る。


 自然による拘束。太い根は鎧の上から膝と足首の動きを奪っていく。


 「ッ!」


 リラの魔力が潰された。

 雷が走るより先に、根の圧が身体の軸を押さえ込んでいる。


 タマが一歩、踏み出した。


 「風よ、刃となりて、巡りを断ち、縛りを解け」


 短くはないが、迷いのない詠唱だった。


 風が生まれる。


 それは荒れた風ではなく、細く研がれた刃のように根の隙間を抜け、絡み合った木の筋だけを綺麗に断ち切った。


 根がばらばらと崩れ、リラたちの足元から力が抜ける。


 木々が大きく揺れ、視線を戻した時にはアウレオンの姿は、もうなかった。


 残ったのは、静まり返った森と、重い沈黙だけだった。


 散った魔法の余韻が、まだ土の中にわずかに残っている。


 リラは歯を食いしばり、拳を握っていた。


 俺は足元に落ちていた銅銭を拾い上げる。


 いつ、どこで、何が役に立つか分からないものだ。


 誰も倒れていないし、血も流れていない。


 それでいい。


 「……二人とも、大丈夫?」


 声をかけてきたのは、リラだった。

 さきほどまでの怒気は影を潜め、今は純粋な心配が顔に出ている。


 「ええ。問題ないわ」


 タマが一歩前に出て答えると、リラはほっと息を吐いた。


 「……よかった」


 その言葉は、立場や規律から出たものではなく、彼女自身の口からこぼれたものだった。


 俺は二人のやり取りを黙って見ていた。


 リラの視線が、ちらりとこちらへ流れる。

 その目には安心と警戒が、視える。


 タマが静かに詠唱を始めた。


 「風よ、巡れ。痕を辿り、残り香を示せ__」


 簡潔だが、丁寧な詠唱だった。


 薄い風が円を描き、森の奥へと流れていき、情報を集める。


 「……彼は完全に離脱したわ。追跡は無理ね」


 タマの声は落ち着いていた。


 リラはその様子をじっと見つめ、やがて小さく頷いた。


 「……やっぱり。門の時の無詠唱も、私の勘違いだったみたいね」


 そう言って、俺の髪を見る。

 魔道具の効果で、黒ではなく、わずかに青みがかっている。


 「その色なら……納得」


 完全に疑いが消えたわけではないだろう。


 だが、敵意は消えた。

 しばしの沈黙のあと、リラは急に姿勢を正した。


 「……その、よければ」


 一瞬だけ、言葉を選ぶ間があった。


 戦場の警戒心を完全に解いたわけではないだろう。

 ただその中で、彼女は少しだけ頬を赤くして言った。


 「食事でも……どう?」


 タマがすぐに口を開いた。


 「お気持ちは嬉しいけど、今日はこのあと__」


 だが、その途中で。


 「酒は出るのか?」


 しまった。つい、出た。


 リラの顔が、ぱっと明るくなる。


 「はい!」


 リラの声は大きかった。森中に響き渡ったかもしれない。


 「王都で評判の店です。お酒も、かなり揃っていて!」


 ああ、これはもう決まったな。


 タマを見ると、目を見開いた後、両肩はすとんと落ち、最後に奥歯を噛み締めた。


 「……ゲドーマル」


 「いや、その、少しだけなら……いいかな、と」


 言い訳になっていないのは分かっている。


 近衛騎士たちが、困ったように頭を下げた。


 「ご迷惑だと思いますが、隊長を、どうかお願いします……」


 あれだけ強い連中が、こんな顔をするとは思わなかった。


 タマは一瞬だけ天を仰ぎ、深く息を吐く。


 「……分かったわ」


 そして俺を睨む。


 「あとで覚えてなさい」


 背筋が少し寒くなった。それでも俺は、少しだけ胸を張る。


 「冒険者の仕事で、多少は稼いだ。自分で払える」

 

 タマが深く息を吐く。

 

 だが、リラは目を丸くした。


 「え、本当? すごい!」

 「ああ。地道にな」

 「まだ、たったの三日だけどね。しかも、薬草採取のみ」


 タマは呆れた顔で、けれどどこか安心したように笑った。


 森を出る足取りは、先ほどよりも少し軽い。


 次は、酒の席か。俺は少しだけ、楽しみになっていた。


 *


 王都の夜道は静かで、石畳に靴音が響く。


 俺は彼女を背負っていた。いや、正確には、背負わされていた。


 「うぅ……だから第三団の団長はねぇ……」


 背中から聞こえてくる声は、完全に出来上がっている。

 近衛騎士団第三団隊長、リラ。たった一杯しか飲んでいない。


 あの後、騎士たちはわざわざ一度宿舎へ帰り、汗を落としてきた。


 おかげで空いた時間に、タマに甘味をおごらされた。


 紅い外套の雰囲気とは違い、決して派手ではない騎士服風の私服を着ている。鍛え抜かれた身体なのだろう、動きに無駄がない。


 「静かにしろ。夜だ」

 「……あ、ごめんなさい……?」


 素直だ。両脇を歩く近衛騎士たちは、申し訳なさそうな顔をしている。


 そしてその少し後ろを歩くタマは、明らかに機嫌が悪かった。


 「……ゲドー」


 背中のリラが、急にしみじみとした声を出した。


 「第三団の団長……本当に、すごい人なのよ」

 「……ほう」


 俺は歩調を崩さず、相槌だけを打つ。


 「規律を守るだけじゃなくて……ちゃんと、部下を見てくれるの。危ない時は、一番前に立って……少し怖くて、取っ付きづらいけど」


 酔ってはいるが、言葉に嘘はない。尊敬が、そのまま声になっていた。


 タマが少しだけ意外そうな顔をした。


 「へぇ……」


 リラは続ける。


 「第三団は、街の治安と調査が主な役目なの。表には出にくいけど……神経を使う部署だし、揉め事も多い」


 タマが淡々と補足する。


 「第一団みたいに戦場に立つわけじゃない。けど、火種を放置しない役目。冒険者とも、貴族とも、全部に目を配らないといけない」


 リラは嬉しそうに俺の背を何度も叩いた。


 「そう! そうなの!」


 酔っていなければ、もう少し落ち着いているのだろうが。


 「でもねぇ!」


 急に声が大きくなった。


 「第一団は、本当に別格で! 全員が隊長級! 王国最強の剣と盾! それに、第一団長! 第二団長! それから、第三団長!」


 「……それ、今言った団長だろ」

 「そうっ! だからすごいの!」


 理屈が崩壊している。


 タマはため息をついた。


 「はいはい……」


 リラがコツンと、俺の背中に頬を寄せてくる。


 「……でも__」


 声が、少しだけ緩くなった。


 「今日、一番すごかったのは……ゲドー、あなた」


 空気が、はっきりと変わった。


 タマの足音が一瞬だけ止まり、それから再び歩き出す音が少しだけ強くなる。


 「魔法を、壊したでしょう? 少し離れたところからだったけど……見えたの」

 「壊した、というほどでもない」


 事実を言っただけだ。


 「でも、あんなの見たことない、ただの一度も。あんな……魔法の止め方」


 悪意とか計算ではなく、ただの好意だ。

 酔った勢いで、心が緩んでいるだけだろう。


 「私、実家は貴族なの……子爵」


 急に身の上話が始まった。


 「でも、兄が家を継ぎますし、姉もいますし……私は近衛騎士で……だから……」


 少し迷った末に、続ける。


 「自由に、結婚しても……いいかも、って。父も__」

 「ダメ」


 タマの声は、食い気味だった。


 リラは「え?」という顔をする。騎士たちも、思わず顔を見合わせた。


 「ダメよ」


 二度目は、もっと強く言った。


 俺は状況を完全に理解しているわけではない。

 子爵と言われても元の世界にはないものだが、空気は察している。


 昔から、こうだった。

 顔を見て寄ってくる。期待を乗せられる。勝手に物語を作られる。


 "人喰い鬼"と呼ばれた頃も同じだった。

 一度も女を攫ったことなどない。だが寄ってきた者の数だけ、罪を着せられた。説明する機会など、なかった。


 俺は夜道を歩きながら、別のことを考え始めた。


 この世界の酒は、悪くない。

 慣れるのには、もう少しだけ時間がかかりそうだが。


 背中で、リラが静かになった。

 完全に眠ったようだ。近衛騎士団の建物が見えてくると、騎士たちが駆け寄り、慌てて彼女を受け取った。


 「ありがとうございました……!」


 俺は軽く頷くだけだった。

 タマは少し歩調を緩めた。


 夜は静かだ。酒の余韻が残っている。

 やはり、酒は皆で飲むものだ。今夜はそれなりに楽しめた。


 そう思いながら、俺は王都の灯りを見上げた。


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