第6話 冒険者になる
朝の空気は、あまり酒に向かない。
そう分かっていたはずなのに、宿の分厚い扉をくぐって外へ出た途端、俺の視線は誰に断るでもなく通りの先へと流れていった。
山にいた頃なら、まず耳が獣の気配を拾い、それから眼が追う。
この街でも順序は変わらず、眼だけが先に、通りの向こうの店へ吸い寄せられていた。
朝日に照らされた街路の先に、木樽をいくつも積んだ店が見える。
扉はまだ固く閉じられているが、看板の墨の色と樽の並べ方を見れば、素人目にも分かった。あれは酒屋だ。
今は眠っているだけで、昼を過ぎればきっと目を覚ます。
「……あそこだな」
「違う」
言い終える前に、隣から遮られた。
タマは腕を組んだまま、俺の視線の先など端から存在しないもののように、正面の通りへ小さく顎をしゃくる。
そこには古びた木の看板が掲げられ、"魔道具屋"の墨文字が読み取れる。
「まず魔道具屋。絶対に」
「急ぐ必要があ__」
「ある」
言葉を継ぐ間さえ、与えられなかった。
俺は少しだけ黙る、というより黙らされた、というべきだろう。
昨日から繰り返し聞かされている”魔力がない”という扱いを、俺自身はそれほど大きな問題とは思っていない。
魔力などなくとも、生きてはいける。
そもそも俺は、魔力というものの正体をまだ捉えかねている。
「魔力がなくとも、酒は飲める」
「そこを基準にしないで」
眠ることもできる。何の不便も覚えていない。
「冒険者登録をするんでしょ」
「そのほうがいいのだろう?」
「だったら、魔力ゼロは論外」
タマの声が、わずかに低くなる。剣呑というほどではないが、冗談を挟む声ではないことだけは、俺にも分かった。
「魔力がない=要注意人物」
タマの声がもう一段、低くなる。
「異物か、何かを隠している者。最悪、調査対象」
タマが人差し指を立て、眉間に皺を寄せる。
「目立てば狙われる。狙われれば、追われて、捕まる。排除される。この街でも、よその街でも」
「……そこまでか」
「そこまでよ」
タマの言葉には、迷いという隙間が一つもなかった。
この世界では、魔力とは血と同じものらしい。あって当然のもので、ないならば壊れているか、何かを隠していると疑われる。
そう思えば、昨日、門で向けられたあの視線にも、幾分か合点がいく。
「分かった。魔道具屋だな」
「よし」
腕を組んでいたタマの肩が、そこで初めて下がった。
タマは頷き、そのまま歩き出す。だが三歩と進まぬうちに、俺の視線は性懲りもなく、遠くの酒屋へ戻っていた。
「……冒険者ギルドの登録が終わったら」
「駄目」
「終わったら、だ」
「甘味処が先」
「なぜだ」
「昨晩、宿代を払ったのが私だって、覚えてる?」
「……ああ」
「今日も、私が払う予定なんだけど」
「……そうだな」
そこまで言われて、ようやく思い至る。
俺は、金というものを持っていない。
山にいた頃は、酒も食い物もどうにかなった。沢へ下れば水があり、季節が巡れば実が生る。薬草を摘めば、それが銭に変わることもあった。
だが、この街で故郷の銭が通じるとは思えず、黙るしかなかった。
「酒屋は贅沢。甘味は……必要経費!」
言い切った拍子に、タマの視線がほんの一瞬だけ横へ逃げた。耳の先が、心なしか赤い。
「必要経費というものは、目を逸らして言うものなのか」
「細かいことはいいの」
赤みを隠すように、タマは早口で答えると、そのまま歩調をわずかに速めた。
理屈で敵う相手ではない。財布を持たぬ者に、発言権など端から与えられていない。
……茨木……何故いない。
「……魔道具屋」
「うん」
タマは勝ち誇るように一歩前へ出た。この勝負は、初めから決着がついていたものらしい。
「外から魔力を入れて、溜めておける指輪がいいと思う。見た目は普通で、測定に引っかからないもの。ギルド職員が疑問に思わない程度に、平均的な魔力が出れば理想かな」
「そんな都合のいいものがあるのか?」
「ある……といいな」
最後だけ、声がわずかに萎んだ。
それでもタマの足は止まらない。彼女にとってこれは、買うか迷う品ではなく、”前提”そのものなのだろう。
魔道具屋の看板が、少しずつ近づいてくる。
古びてはいるが、傷んではいない。手入れの跡が、木目の艶に残っていた。
「……終わったら」
「なに?」
「甘味処、だな」
「当然」
タマは振り向かずに答えた。
俺はもう一度だけ、遠くの酒屋に視線を向ける。
そのあと、酒屋だな。
*
扉の脇には小さな金属板が吊るされていて、風が抜けるたびに、かすかな音を鳴らしていた。
魔道具屋の扉は、見た目よりもずっと重い。
押し込むと木と金属が擦れるギギ、という音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
中から流れてくるのは、金属と油、それにわずかに焦げた匂い。
店の奥に絶えず溜まっている魔力とやらの流れも、目を凝らすまでもなく視える。
「……いらっしゃい」
カウンターの向こうで、老人は口元をだらしなく緩めたまま腰掛けていたが、俺たちに気づくと目をこすり、それなりの挨拶を寄越した。
まずタマへ目をやり、頬にほんのわずかな赤みを乗せる。
それから俺へ視線を移すと、片方の眉だけをわずかに持ち上げ、緩んでいた瞼を今度はしっかりと開く。
カウンターの陰に隠れた手元で、何かを弄り始める。
測っているな。魔力だろう。
軽い咳払いを一つ挟んで、老人は何事もなかったような顔へ口調を整える。
「今日は何を?」
「魔力を貯められる指輪を探しています。外付けで、本人が魔力を持っていなくても使えるタイプ」
タマが、隠す素振りもなく応じた。
「……ほう」
老人の視線が、また俺へ戻ってくる。今度は、逸らさずに真っ直ぐ。
「冒険者用か?」
「はい。測定に引っかからないものを」
理由までは、言わなかった。
「増強じゃないんだな」
「ええ、増やす必要はありません」
老人は顎に手を当て、棚ではなく店の奥へと視線を投げる。
「おい、ドゥール」
奥から、重い足音が近づいてくる。
「はいはい、なんだい」
現れたのは、背は低いが横幅のある、がっしりとした体格の男。
短く整えられた髭、そして値踏みするような鋭い目つき。
確か、《ドワーフ》とかいう種族だったか。違ったか。
ドゥールと呼ばれたその男は、俺とタマを一瞥するなり、飾らずに言う。
「……なんだ、これ。魔力ゼロじゃないか」
「わかるのか」
「そりゃそうだろ。こっちはプロだぞ」
言いながら、ドゥールは腕を組み、目を細めて、俺をじっと見つめてくる。
「なのに生きてる。変だな」
「そうか」
「そりゃそうだろ。むしろ腰に吊るしてある、その変わった形状の武器の方が強そうだ」
視線は《終座》へ向いている。興味は隠さないが、そこに敵意はない。
「増強は無理だ。ゼロからは増やせない。蓄積型だな。本来、偽装は勧めない。バレた時が厄介だからな。だが……それじゃあ、この先苦労しそうだしな」
「できますか?」
「できる。けど……」
ドゥールの目が、タマへ向く。
「チャージがいるぞ、定期的に」
「問題ありません。私がやります」
間髪入れずに、タマが応えた。
「そっちが供給係か」
一瞬、ドゥールの目が細くなる。
タマの右手首の腕輪と、薬指の指輪。その二つを、確かめるように見比べている。
「なるほどな。魔力量に問題はなさそうだ」
彼は作業台の引き出しを開け、銀色の指輪を取り出す。飾り気はほとんどない。
「これは魔力を溜め込むタイプだ。中に小さな魔石が仕込んである。本人の魔力じゃなく、外から流し込んだ分だけ反応する」
「測定は?」
「引っかからない。ちゃんと”魔力持ち”に見える」
タマが、ほっと息を吐く。
俺は少しだけ期待をして、聞いてみた。
「戦闘で使う魔法は?」
「無理。出せても攻撃力は皆無だ。溜めた分は見せかけ用だな」
「それでいい」
指輪の内側に仕込まれた魔石へ、もう一度だけ視線を落とす。
溜めた水は、堰さえ切れば流れる。
「いま、別の使い方を考えたでしょ」
タマの声が、すぐ横から飛んできた。
「考えただけだ」
「考えなくていいの。これは隠れるための指輪」
「まだ何もしていない」
「”まだ”って言った」
ドゥールの髭の奥から、低い笑いが漏れた。
「割り切りがいいのか、諦めが悪いのか、どっちだ」
「必要ないものはいらない。興味はあるが」
「それを諦めが悪いって言うんだ」
ドゥールが、あらためて指輪を差し出してくる。
「つけてみろ」
右手を視ると薬指には、昨日タマから渡された指輪が、すでに収まっている。
「待って」
「どうした」
「左手、薬指はだめ!」
「どうしてだ」
そのやりとりを見たドゥールの目が、右手の指輪と、タマが押さえている俺の左手とを、順に行き来する。
この場の空気が軽くなり、ドゥールと老人がニヤつく。
タマの指が、俺の手首へほんの少し強く食い込む。
……なぜ俺が押さえられている。
「ははは、なるほどな」
「違う」
「いーや、違わないな」
タマが頬を染め、口元をきゅっと引き結ぶ。
……なぜだ。
結局、右手の中指に決まった。
大きさを合わせてもらう。これも魔法の一種だという。
魔力が金属を、湯に浸した飴のように緩ませていく。
嵌めてみると、驚くほど軽かった。ほとんど存在を主張しない。
老人がカウンターの手元から測定器を取り出し、俺へかざす。
「……平均値だな。冒険者としてはごく普通」
「よかった」
タマが深く息を吐き、肩の力がふっと抜けた。ドゥールも、満足そうに頷く。
「チャージは一日一回。多くても二回。無理に流すなよ」
「わかりました」
そこで、ドゥールがふと、何気ない声で問いかけてくる。
「そういやさ、昨日、門のとこにいたよな」
タマが一瞬だけ固まり、表情が抜け落ちる。
「昨日、街に着いたんだ。門を通るのは当たり前だろう」
ドゥールの指が、作業台の上を一度だけ叩いた。
「答えになってねぇな」
「嘘は言っていない」
タマが代金を数える指先から、硬貨が一枚だけ滑り落ちた。
乾いた音が、妙にはっきりと店の中へ響く。
「何かあったか?」
「門を通った」
「それはもう聞いた」
ドゥールは俺からタマへ視線を移し、髭を一度撫でた。
「まあいい。聞かなかったことにしといてやる」
タマは崩れた勘定を数え直し、残りの代金を払い終える。
その背中の向こうで、俺は指輪をもう一度眺めた。
これで、表向きは問題ない。しばらくは、普通に生きられるはずだ。
*
魔道具屋を出て、石畳の通りへ足を向ける。早朝と呼ぶには、もう少し遅い時間になっていた。
商人が店先の板戸を開け放ち、荷車が軋んだ音を立てて通りを進んでいく。
鎧の留め具を締め直す硬い音、革靴の底が揃って石を踏む音。
出勤の刻限が近いのだろう、人の流れが一気に厚くなっていた。
人混みの中、視線がやけにこちらへ集まる。
黒髪、というだけで、これほど目を引くものか。珍しさだけではない、どこか落ち着かない空気が混じっている。
もっとも、京の都に金髪だの茶髪だのが紛れ込んでいたら、同じことが起きたかもしれんが。
見られる理由は分かっているし、見られることには”慣れている”。
……今更だな。
隣を歩くタマは、そんなことは承知の上なのだろう。腕を組み、ため息まじりに前を見たまま言う。
「問題は、山積みね」
「……そうか?」
「そうよ」
金を持っていないこと。
それが目下、一番の問題だな。彼女にとっては、放置できない問題は別にあるようだが。
タマの視線が、ゆっくりとこちらの頭へ上がってくる。
「とりあえず、それが一番ね」
前髪へ指をやる。昨日までと、何も変わってはいない。
「髪なら、前からある」
「そういう問題じゃないの」
彼女の理屈は、いつも一歩先にある。
そんな会話をしていると、後ろから、やけに”軽い足音”が近づいてくる。
「おい、待て! まだ一つあった!」
振り返ると、ドゥールが人の流れを縫うように走ってくる。
「何がだ」
「お前の問題だよ」
隣で、タマが腰に手を当て、小さく息を吐く。
「ほら、増えた」
「減らしに来たんだよ!」
また魔法か……あれは走っているのではないな、地に運ばれている。魔力を地に通しているのだろう。
そして、俺達の前まで来ると、何か小さな物を俺に放る。
反射で身体が動く。
半歩ずらし、肩を引くと、空を切ったそれが、背後の石畳に跳ねる。
「「……」」
タマが呆れた顔でしゃがみ込み、転がったそれを拾い上げる。
「だから、なんで避けちゃうの?」
「……飛んできたからだが」
「前もそうだったでしょ」
言われて、思い出す。確かに以前、彼女に指輪を放られた時も、同じ反応をした。
投げる方が悪いと思うのだが、どうやら少数派らしい。
「いやー、反射良すぎだろ」
ドゥールは腕を組み、石畳へ落ちた指輪と俺を交互に見た。
「受け取れよ。別に、噛み付かないから」
「噛み付く、付かないの問題ではない。飛んできたものは避ける」
「贈り物でもか?」
「投げなければよい」
ドゥールの目が細くなり、それから隣のタマへ向く。
「髪を変えても、今の動きで普通じゃねえのは分かるな」
「そこまで隠すのは、もう諦めてる」
「何をだ」
二人とも、答えなかった。
タマは指輪を指先でつまみ、こちらに差し出す。
「はい。今度はちゃんと」
渋々、受け取る。
指輪は銅に近い色で、装飾は控えめだ。
内側には、流し込まれた魔力を細く分け、髪の一本一本まで届かせるための刻みが入っている。
「じゃ、つけてみろ」
指輪を持ち上げた途端、タマの指先が右手の人差し指を示す。
「そこ」
「まだ、何もしていない」
「する前に言ったの」
「自分で決めてもよいと思うが」
「前の二回で、信用がなくなったから」
ドゥールが、俺の右手に並んだ指輪へ目を落とす。
「指輪一つつけるのにも、監督がいるのか」
「大変なんだから」
腕を組むタマの返答には、迷いがなかった。
……そこまでか。
言われるまま、指輪を右の人差し指へ通す。
空気がわずかに揺れた。風がそよぐように、頭のあたりを通り過ぎていく。
通りの窓に映った己の姿に、目が止まる。
光の当たり方で、黒だった髪に、かすかな青みが差している。
完全に色を変えたわけではなく、滲むように、そこだけがずれていた。
魔力が髪の表を薄くなぞり、光の返り方だけを少しずつ変えているのだろう。
濃い藍色、深く静かな色。夜に輝く月を映す湖の色だ。
周りからの視線が、少しだけ逸れていくのが分かった。
「よし。これなら問題ない、だろ?」
ドゥールがタマに満面の笑みを向ける。
タマはしばらく俺の髪を見つめ、それから、組んでいた腕をようやくほどいた。
吐き出された息が、朝の通りのざわめきへ紛れていく。
「うん。これなら大丈夫」
「定期的に魔力は入れるから。切れたらすぐ言って」
「……世話をかけるな」
「今さらでしょ」
ドゥールが肩をすくめて笑う。
「仲いいねぇ。ま、これでギルド行っても浮かねえだろ」
仲がいい、という言葉に、タマが一瞬だけ視線を逸らす。
俺は何も言わず、指輪を確かめるように軽く握ってみる。
さて、これでようやく冒険者ギルドだ。
髪も、魔力も、外見だけなら人の群れへ紛れたらしい。
だが、酒屋までの道だけは、まだ遠い。まずは、この世界の銭を得なければならない。
人の流れへ歩調を合わせながら、俺は小さく息を吐いた。
*
冒険者ギルドの中は、思っていたよりも騒がしかった。
受付の隣、広いホールの一角には、堂々と食事処が併設されている。
朝と昼の境目という時間帯のせいか、鎧姿の者、軽装の者、いまだ眠そうな顔の者まで、思い思いの姿勢で腰を落ち着けていた。
そして、酒の匂いがする。
鼻の奥をくすぐる甘さ、かすかな酸味、樽の木そのものが放つ香り。
濁り酒とも焼酎とも違う。麦でも米でもないはずなのに、確かに酒だと分かる匂いが、ホール中に満ちている。
足が止まった。いや、止まってしまった、というのが正しい。
視線は勝手に、酒樽の並ぶカウンターへ吸い寄せられていく。
透明なものから琥珀色、赤みを帯びたものまで、色だけでも様々で、見たことのない酒ばかりが並んでいる。
香りを嗅いだだけで、喉の奥がじわりと熱を持つ。
「……ふむ」
思わず、感嘆が漏れた。
「……ふむ、じゃあ、ない」
隣から、即座に冷たい声が飛んできた。嫌な予感を隠しもしない顔で、タマが俺を見上げている。
「まさかとは思うけど、今、飲みたいとか考えてないわよね?」
「いや、飲むとは言っていない。ただ__」
「ただ、興味津々な顔をしてる」
言い返せなかった。
異世界の酒だ。どういう気で醸され、どういう場で飲まれるものなのか。
そうしたことを知るのは、嫌いではない。
「今日は登録。先にやることがあるでしょ」
「……わかっている」
タマはすぐには歩き出さず、俺と食事処の間へ、すっと身体を入れる。
「それと、ここでは勝手に動かないで。人も多いし、昨日のこともあるから、ちゃんと私の後ろにいて」
「分かった」
「約束よ」
「約束する」
それでもタマはしばらく俺の顔を見ていたが、やがて視線を緩め、いつもの調子で続ける。
「冒険者ギルドは王国から独立した組織なの。もらえるプレートは身分証にもなるから、持っていれば、よその街や国でも身元を証明できる。持ってないと、行く先々で面倒になるよ」
「……わかった」
渋々視線を引き剥がした、その時だった。
「なあ、聞いたか?」
背後の卓から、ひそひそとした声が流れてきた。
「門の件だろ。昨日の」
「そう、それ。それでさ……魔族だったって話」
耳が、勝手に拾ってしまう。
「しかもよ、正体が分かったらしい」
「誰だよ」
「ミルザだって」
その名が出た途端、周囲の空気が一瞬だけ固まった。
「……は?」
「ギルド職員の? あの?」
「真面目で、面倒見がよくて、新人に優しい?」
「冗談だろ……」
否定の言葉が次々と飛び交う。それだけ、その名が信頼されていた証だ。
タマの隣で、彼女の纏う気配が冷えていくのを感じる。
表情そのものは平静を保っているが、目だけが鋭くなっている。
「どうする?」
タマは首を横に振り、それから俺の袖を掴む。
「ちょ、待__」
「待たない。酒の匂いに釣られて、噂話に首突っ込んで、これ以上遅れたら面倒が増える」
有無を言わさぬ力で、ずるずると引っ張られていく。
腕を引かれながら、もう一度だけ振り返って食事処を見ると、冒険者たちは何事もなかったかのように杯を煽り、笑っていた。
「問題は山積みね」
タマが小さく呟く。
「……ああ。あれだけ種類があると、最初の一杯を決めるのも難しい」
袖を掴んでいた手が、ぴたりと止まった。
「そっちじゃない」
「違ったか」
「どうして合ってると思ったのよ」
次に足を止めたのは、受付の前。
そのカウンターの向こうで、若い受付嬢が顔を上げる。淡い桜色の髪を、肩のあたりで軽く巻いている。
「あ、タマさん、おはようございます」
事務的でもなければ、馴れ馴れしくもない。
それでいて、毎日顔を合わせている者同士が持つ距離感があった。
「おはよう、リーネ」
先ほどまでの張り詰めた空気が消え、タマが笑顔で応える。
「新規登録をお願い」
タマが一歩前に出て、カウンターの上に書類を差し出す。
「紹介ありで」
受付嬢のリーネは、書類を受け取りながら俺へ視線を移し、そこでぴたりと固まる。
「え?」
間の抜けた声を出したまま、完全に動きが止まった。
俺が首を傾げると、リーネははっとして、慌てて咳払いをする。
「し、失礼しました! えっと……」
視線が泳ぎ、そのまま勢いよくタマを見る。
「……か、かっこいいですね」
言ってから、はっと我に返り、両手で口を押さえた。
「い、今のは違います。仕事です! 仕事!」
頬が赤く染まり、視線が斜め下へ落ちる。
タマが、今日だけで何度目かのため息を吐く。
「一難去って……また一難」
何故か、俺をキッと睨む。
……俺が一体、何をした。
「落ち着いて、リーネ。いつも通りでいいから」
「は、はい!」
立て直しが早い。さすがだ。
「では、新規登録ですね。紹介者は__」
「私」
タマが被せるように即答する。
「タマさんですね。ゲドーマルさんとのご関係は……同行者、でしょうか」
「そうよ」
「彼氏ですか?」
「違う」
タマの返答は速かった。
「ち、違うのね!」
リーネはなぜか安心したように笑い、それからまた少しだけ頬を赤らめる。
「あのタマさんがパーティーを組むなんて、珍しいこともあるんですね。それも男の人と」
「べ、別に、いいじゃない」
タマは口を閉じ、俺から顔を逸らす。
咳払いを一つ挟んで、リーネが仕切り直す。
「では、お名前をお願いします」
「ゲドーマルだ」
ペンが一瞬止まる……だが、すぐにまた動き出す。
「通称ですね。問題ありません……種族は?」
「人族で通している」
「人族で……”通している”、とは?」
タマが即座に、俺の足を踏んだ。
痛い。
「人族よ、ただの」
「ただの」の一語を、タマが強調する。
「ただの、ねぇ……」
タマの踵が、もう一度わずかに持ち上がった。
「人族だ」
俺が言い直すと、足の甲に乗っていた重みが、ふっと消える。
タマが深く息を吐く。
一難去って……いない、らしい。
この世界で生きていくのも、なかなかに大変そうだ。
タマがもう一度俺を睨み、それから何かを諦めたように、「はあ」と声を出して息を吐く。
……何度目だ。
「では、ゲドーマルさん。登録を進めますね。まずは魔力測定です」
測定器に手を置く。水晶が淡く光り、静かに反応を示した。
「……安定していますね」
リーネは記録を取りながら頷く。
「突出はありませんが、平均的な魔力保持者です」
疑われることもなく、想定通りの結果が出た。何事もなく、一難去ったらしい。
タマの肩が、小さく下がるのが分かった。
「紹介者はタマさんですね」
「ええ」
リーネはにこやかに言った。
「タマさんは、依頼を選り好みせず、簡単な仕事でも必ず期限内に終わらせてくれます」
「当たり前のことをしてるだけ」
「それが一番難しいんですよ!」
リーネがはっきりと言った。
「ギルドとしては、とても”安定した冒険者”です」
タマが少し照れたように視線を逸らす。その様子を見ていると、なぜか俺の胸の奥が、静かに温かくなった。
「……あ、そうだ」
リーネが声を落とした。
「注意事項があります。昨日、門の付近で魔族が確認されました」
タマが表情を変えずに、小さく頷く。俺は、余計なことは言わないようにしていた。
「門周辺の混乱は収まっていますが、ミルザ本人は逃走中です。近衛騎士団が捜索に動いています」
「近衛騎士団?」
俺が尋ねると、リーネは少しだけ背筋を伸ばした。
「国王陛下直属の精鋭部隊です。五個団あり、それぞれに団長がいます」
「団長は全員、貴族」
タマが補足する。
「実力主義だけどね」
「ええ」
リーネが続ける。
「団長クラスになると、Sランク冒険者と同等か、それ以上とされています」
「Sランク? そういえば、今、この街にいるの?」
「この街の近くにいるのは一人だけです」
リーネが、真剣な眼差しでこちらを見た。
「……Sランク冒険者、《緑災》アウレオン」
その名が出た瞬間、周囲の空気がわずかに張り詰めた。
「……よりにもよって、危険な……」
タマが額に手を当て、低く呟く。
リーネが真剣な顔で続けた。
「ですので、無用な接触は避けてください」
「分かった」
俺は頷いた。
話はそこで終わり、リーネが冒険者プレートを差し出す。
「ゲドーマルさん。冒険者登録、完了です。ランクはFランクからです。詳しい内容はこちらの冊子に書いてありますので、必ずお読みになってください。まぁ、Dランクのタマさんが付いていれば安心ですね」
俺はそれを受け取り、思わずじっと視る。
くすんだ鉄に、名が刻まれている。”ゲドーマル”。読めないはずの文字が、なぜか意味を結ぶ。
上等な作りだ。タマが昨日、門でレオンに見せていたものとは、また違う金属らしかった。
「……これは?」
「身分証兼、実績記録ですね」
「……ほう」
角度を変えて光にかざし、裏返して縁を指でなぞる。最後に歯を当ててみると、鉄の冷たさが歯の根へ響いた。
「面白いな」
「ちょ、ちょっと……」
タマが眉をひそめる。
「夢中になりすぎ」
「いや、よくできている」
「目立つって言ってるでしょ」
リーネが手で口元を抑え、くすっと笑った。
「正直者なんですね」
「そうかしら?」
「はい。何をしても」
リーネの表情が、ふと真面目なものへ変わる。
「あ、それと。無くしたり壊したりすると、再発行には結構な料金がかかりますので、お気をつけてくださいね」
俺の手が、止まった。歯を立てるのも即座にやめる。
角度を確かめていたプレートを、迷いのない速さで懐へ収める。
タマが、呆れた顔でこちらを見た。
「……そこは、気にするのね」
「大事なものだ」
「さっきまで歯型つけようとしてたくせに」
言い返す言葉が、見当たらなかった。
タマが両手を腰に置き、ため息をついた。
「……また一難ね」
「ねえ、君さ……」
冒険者が、軽い足取りで近づいてくる。酒の匂いが混じっている。悪意は薄いが、節度もない。
「用事があるなら、受付を通してください」
すぐに、受付嬢のリーネが間に入った。動きが早い。声も落ち着いている。
おそらく、日常の光景なのだろう。
「いやいや、ちょっと話すだけじゃん? リーネちゃんは堅いんだから」
リーネが一歩も退かないと分かると、男は肩をすくめ、いったん食事処の方へ戻る素振りを見せる。
それで終わったものだと思った。
冒険者は、笑っている。それが余計に厄介だということを、本人だけが分かっていない。
胸には、Cランクと記された銀の冒険者プレートがある。
それよりも、俺は……先ほどの酒樽を、また視る。
ギルド併設の食事処には、見慣れぬ酒が、木樽や瓶、陶器の姿で並んでいる。
ここは危険だ。非常に、危険だ。
酒はあとにする。
”タマの後ろに立つ”。
それが、約束だ。分かっている。覚えている。だが、視界の端で酒瓶の一つが光る。
俺はギルドの出口へ向かって歩いていく。いや、”向かっている”のだと、自分に思い込ませようとしていた。
視線はまだ酒樽に張りついたまま、足だけが自然と、そちらへ引き戻されかける。
「……駄目だ」
無理やり、足を出口へ向け直す。
一歩でも近づけば、”味を確かめるだけだ”と自分へ言い訳して座る気がした。
出口へ数歩進んだところで、足音が一つ足りないことに気づいた。
人の声も、食器の触れ合う音も、酒樽から漏れる匂いも、すべてそこにある。
だが、すぐ後ろにあるはずの、あの軽い足運びだけが続いてこない。
背後の空気が張り、振り返った。
タマが、足を止めている。
その正面には、先ほどの冒険者がいた。今度はぐっと距離が近く、タマの腕を取っている。
「……調子に乗らないで」
タマの声が、低く落ちた。
魔力の流れは、何も変わっていない。
それなのに、男の笑みだけがふっと消え、喉の奥で息が止まったのが分かった。
周囲の卓でも、杯を置く音が一つ、また一つと途切れていく。
タマは、男の手を見ていた。自分の腕を掴んでいる、その手だけを。
金色の瞳は動かず、呼吸だけが浅くなっている。
リーネが名を呼ぼうとしたようだったが、声にならなかった。
あれは、昔、まだ”玉藻”と呼ばれていた頃に、覗かせることのあった目だ。
目の前のものが、自分へ害をなすかどうか。それを静かに測っている。
俺が後ろにいなかった。
……すまない、タマ。
何があったのか、そのすべてを理解しているわけではない。
それでも、今のあいつに必要なのが、その男をどうするか決めることではない気がした。
「タマ。甘味処には行かないのか?」
間の抜けた問いだった。
タマは、一瞬だけこちらを見て、それから、にっこりと笑った。
さっきまでの張り詰めた気配など、最初からなかったかのように。
冒険者の手を、ごく自然に振りほどき、そのまま俺の方へ走ってくる。
「行くわよ!」
勢いよく言い放ち、俺の袖を掴んで引っ張った。
「ちょ、待……」
ギルドを出る。背後で、ようやく空気が戻っていく気配がした。
外に出てしばらくしてから、タマが立ち止まる。
「……約束」
袖を離した手が、そのまま反対の腕を覆った。
先ほど男に触れられていた場所を消すように、指先が同じところを何度も摩っている。
「すまない」
タマの手が、止まった。こちらを見上げたものの、すぐには何も言わず、肺に残っていた息を、ゆっくりと吐き出す。
「次は、ちゃんと後ろにいて」
「約束だ。今度は守る」
それも、嘘ではなかった。
タマは、また笑って歩き出す。さっきと同じ笑顔で。今度は俺の歩幅を確かめるように、少しだけ、ゆっくりとしていた。
”約束”。
もう破ることはしたくない。
そう思いながら、俺はタマの歩幅から遅れないように、甘味処へ続く道を歩いた。
酒は……そのあとだ。




