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第6話 冒険者になる


 朝の空気は、あまり酒に向かない。


 そう分かっていたはずなのに、宿の分厚い扉をくぐって外へ出た途端、俺の視線は誰に断るでもなく通りの先へと流れていった。


 山にいた頃なら、まず耳が獣の気配を拾い、それから眼が追う。


 この街でも順序は変わらず、眼だけが先に、通りの向こうの店へ吸い寄せられていた。


 朝日に照らされた街路の先に、木樽をいくつも積んだ店が見える。


 扉はまだ固く閉じられているが、看板の墨の色と樽の並べ方を見れば、素人目にも分かった。あれは酒屋だ。


 今は眠っているだけで、昼を過ぎればきっと目を覚ます。


 「……あそこだな」


 「違う」


 言い終える前に、隣から遮られた。


 タマは腕を組んだまま、俺の視線の先など端から存在しないもののように、正面の通りへ小さく顎をしゃくる。


 そこには古びた木の看板が掲げられ、"魔道具屋"の墨文字が読み取れる。


 「まず魔道具屋。絶対に」


 「急ぐ必要があ__」


 「ある」


 言葉を継ぐ間さえ、与えられなかった。


 俺は少しだけ黙る、というより黙らされた、というべきだろう。


 昨日から繰り返し聞かされている”魔力がない”という扱いを、俺自身はそれほど大きな問題とは思っていない。


 魔力などなくとも、生きてはいける。


 そもそも俺は、魔力というものの正体をまだ捉えかねている。


 「魔力がなくとも、酒は飲める」


 「そこを基準にしないで」


 眠ることもできる。何の不便も覚えていない。


 「冒険者登録をするんでしょ」


 「そのほうがいいのだろう?」


 「だったら、魔力ゼロは論外」


 タマの声が、わずかに低くなる。剣呑というほどではないが、冗談を挟む声ではないことだけは、俺にも分かった。


 「魔力がない=要注意人物」


 タマの声がもう一段、低くなる。


 「異物か、何かを隠している者。最悪、調査対象」


 タマが人差し指を立て、眉間に皺を寄せる。


 「目立てば狙われる。狙われれば、追われて、捕まる。排除される。この街でも、よその街でも」


 「……そこまでか」


 「そこまでよ」


 タマの言葉には、迷いという隙間が一つもなかった。


 この世界では、魔力とは血と同じものらしい。あって当然のもので、ないならば壊れているか、何かを隠していると疑われる。


 そう思えば、昨日、門で向けられたあの視線にも、幾分か合点がいく。


 「分かった。魔道具屋だな」


 「よし」


 腕を組んでいたタマの肩が、そこで初めて下がった。


 タマは頷き、そのまま歩き出す。だが三歩と進まぬうちに、俺の視線は性懲りもなく、遠くの酒屋へ戻っていた。


 「……冒険者ギルドの登録が終わったら」


 「駄目」


 「終わったら、だ」


 「甘味処が先」


 「なぜだ」


 「昨晩、宿代を払ったのが私だって、覚えてる?」


 「……ああ」


 「今日も、私が払う予定なんだけど」


 「……そうだな」


 そこまで言われて、ようやく思い至る。


 俺は、金というものを持っていない。


 山にいた頃は、酒も食い物もどうにかなった。沢へ下れば水があり、季節が巡れば実が生る。薬草を摘めば、それが銭に変わることもあった。


 だが、この街で故郷の銭が通じるとは思えず、黙るしかなかった。


 「酒屋は贅沢。甘味は……必要経費!」


 言い切った拍子に、タマの視線がほんの一瞬だけ横へ逃げた。耳の先が、心なしか赤い。


 「必要経費というものは、目を逸らして言うものなのか」


 「細かいことはいいの」


 赤みを隠すように、タマは早口で答えると、そのまま歩調をわずかに速めた。


 理屈で敵う相手ではない。財布を持たぬ者に、発言権など端から与えられていない。


 ……茨木……何故いない。


 「……魔道具屋」


 「うん」


 タマは勝ち誇るように一歩前へ出た。この勝負は、初めから決着がついていたものらしい。


 「外から魔力を入れて、溜めておける指輪がいいと思う。見た目は普通で、測定に引っかからないもの。ギルド職員が疑問に思わない程度に、平均的な魔力が出れば理想かな」


 「そんな都合のいいものがあるのか?」


 「ある……といいな」


 最後だけ、声がわずかに萎んだ。


 それでもタマの足は止まらない。彼女にとってこれは、買うか迷う品ではなく、”前提”そのものなのだろう。


 魔道具屋の看板が、少しずつ近づいてくる。


 古びてはいるが、傷んではいない。手入れの跡が、木目の艶に残っていた。


 「……終わったら」


 「なに?」


 「甘味処、だな」


 「当然」


 タマは振り向かずに答えた。


 俺はもう一度だけ、遠くの酒屋に視線を向ける。


 そのあと、酒屋だな。


 *


 扉の脇には小さな金属板が吊るされていて、風が抜けるたびに、かすかな音を鳴らしていた。


 魔道具屋の扉は、見た目よりもずっと重い。


 押し込むと木と金属が擦れるギギ、という音を立てながら、ゆっくりと開いていく。


 中から流れてくるのは、金属と油、それにわずかに焦げた匂い。


 店の奥に絶えず溜まっている魔力とやらの流れも、目を凝らすまでもなく視える。


 「……いらっしゃい」


 カウンターの向こうで、老人は口元をだらしなく緩めたまま腰掛けていたが、俺たちに気づくと目をこすり、それなりの挨拶を寄越した。


 まずタマへ目をやり、頬にほんのわずかな赤みを乗せる。


 それから俺へ視線を移すと、片方の眉だけをわずかに持ち上げ、緩んでいた瞼を今度はしっかりと開く。


 カウンターの陰に隠れた手元で、何かを弄り始める。


 測っているな。魔力だろう。


 軽い咳払いを一つ挟んで、老人は何事もなかったような顔へ口調を整える。


 「今日は何を?」


 「魔力を貯められる指輪を探しています。外付けで、本人が魔力を持っていなくても使えるタイプ」


 タマが、隠す素振りもなく応じた。


 「……ほう」


 老人の視線が、また俺へ戻ってくる。今度は、逸らさずに真っ直ぐ。


 「冒険者用か?」


 「はい。測定に引っかからないものを」


 理由までは、言わなかった。


 「増強じゃないんだな」


 「ええ、増やす必要はありません」


 老人は顎に手を当て、棚ではなく店の奥へと視線を投げる。


 「おい、ドゥール」


 奥から、重い足音が近づいてくる。


 「はいはい、なんだい」


 現れたのは、背は低いが横幅のある、がっしりとした体格の男。


 短く整えられた髭、そして値踏みするような鋭い目つき。


 確か、《ドワーフ》とかいう種族だったか。違ったか。


 ドゥールと呼ばれたその男は、俺とタマを一瞥するなり、飾らずに言う。


 「……なんだ、これ。魔力ゼロじゃないか」


 「わかるのか」


 「そりゃそうだろ。こっちはプロだぞ」


 言いながら、ドゥールは腕を組み、目を細めて、俺をじっと見つめてくる。


 「なのに生きてる。変だな」


 「そうか」


 「そりゃそうだろ。むしろ腰に吊るしてある、その変わった形状の武器の方が強そうだ」


 視線は《終座》へ向いている。興味は隠さないが、そこに敵意はない。


 「増強は無理だ。ゼロからは増やせない。蓄積型だな。本来、偽装は勧めない。バレた時が厄介だからな。だが……それじゃあ、この先苦労しそうだしな」


 「できますか?」


 「できる。けど……」


 ドゥールの目が、タマへ向く。


 「チャージがいるぞ、定期的に」


 「問題ありません。私がやります」


 間髪入れずに、タマが応えた。


 「そっちが供給係か」


 一瞬、ドゥールの目が細くなる。


 タマの右手首の腕輪と、薬指の指輪。その二つを、確かめるように見比べている。


 「なるほどな。魔力量に問題はなさそうだ」


 彼は作業台の引き出しを開け、銀色の指輪を取り出す。飾り気はほとんどない。


 「これは魔力を溜め込むタイプだ。中に小さな魔石が仕込んである。本人の魔力じゃなく、外から流し込んだ分だけ反応する」


 「測定は?」


 「引っかからない。ちゃんと”魔力持ち”に見える」


 タマが、ほっと息を吐く。


 俺は少しだけ期待をして、聞いてみた。


 「戦闘で使う魔法は?」


 「無理。出せても攻撃力は皆無だ。溜めた分は見せかけ用だな」


 「それでいい」


 指輪の内側に仕込まれた魔石へ、もう一度だけ視線を落とす。


 溜めた水は、堰さえ切れば流れる。


 「いま、別の使い方を考えたでしょ」


 タマの声が、すぐ横から飛んできた。


 「考えただけだ」


 「考えなくていいの。これは隠れるための指輪」


 「まだ何もしていない」


 「”まだ”って言った」


 ドゥールの髭の奥から、低い笑いが漏れた。


 「割り切りがいいのか、諦めが悪いのか、どっちだ」


 「必要ないものはいらない。興味はあるが」


 「それを諦めが悪いって言うんだ」


 ドゥールが、あらためて指輪を差し出してくる。


 「つけてみろ」


 右手を視ると薬指には、昨日タマから渡された指輪が、すでに収まっている。


 「待って」


 「どうした」


 「左手、薬指はだめ!」


 「どうしてだ」


 そのやりとりを見たドゥールの目が、右手の指輪と、タマが押さえている俺の左手とを、順に行き来する。


 この場の空気が軽くなり、ドゥールと老人がニヤつく。


 タマの指が、俺の手首へほんの少し強く食い込む。


 ……なぜ俺が押さえられている。


 「ははは、なるほどな」


 「違う」


 「いーや、違わないな」


 タマが頬を染め、口元をきゅっと引き結ぶ。


 ……なぜだ。


 結局、右手の中指に決まった。


 大きさを合わせてもらう。これも魔法の一種だという。


 魔力が金属を、湯に浸した飴のように緩ませていく。


 嵌めてみると、驚くほど軽かった。ほとんど存在を主張しない。


 老人がカウンターの手元から測定器を取り出し、俺へかざす。


 「……平均値だな。冒険者としてはごく普通」


 「よかった」


 タマが深く息を吐き、肩の力がふっと抜けた。ドゥールも、満足そうに頷く。


 「チャージは一日一回。多くても二回。無理に流すなよ」


 「わかりました」


 そこで、ドゥールがふと、何気ない声で問いかけてくる。


 「そういやさ、昨日、門のとこにいたよな」


 タマが一瞬だけ固まり、表情が抜け落ちる。


 「昨日、街に着いたんだ。門を通るのは当たり前だろう」


 ドゥールの指が、作業台の上を一度だけ叩いた。


 「答えになってねぇな」


 「嘘は言っていない」


 タマが代金を数える指先から、硬貨が一枚だけ滑り落ちた。


 乾いた音が、妙にはっきりと店の中へ響く。


 「何かあったか?」


 「門を通った」


 「それはもう聞いた」


 ドゥールは俺からタマへ視線を移し、髭を一度撫でた。


 「まあいい。聞かなかったことにしといてやる」


 タマは崩れた勘定を数え直し、残りの代金を払い終える。


 その背中の向こうで、俺は指輪をもう一度眺めた。


 これで、表向きは問題ない。しばらくは、普通に生きられるはずだ。


 *


 魔道具屋を出て、石畳の通りへ足を向ける。早朝と呼ぶには、もう少し遅い時間になっていた。


 商人が店先の板戸を開け放ち、荷車が軋んだ音を立てて通りを進んでいく。


 鎧の留め具を締め直す硬い音、革靴の底が揃って石を踏む音。


 出勤の刻限が近いのだろう、人の流れが一気に厚くなっていた。


 人混みの中、視線がやけにこちらへ集まる。


 黒髪、というだけで、これほど目を引くものか。珍しさだけではない、どこか落ち着かない空気が混じっている。


 もっとも、京の都に金髪だの茶髪だのが紛れ込んでいたら、同じことが起きたかもしれんが。


 見られる理由は分かっているし、見られることには”慣れている”。


 ……今更だな。


 隣を歩くタマは、そんなことは承知の上なのだろう。腕を組み、ため息まじりに前を見たまま言う。


 「問題は、山積みね」


 「……そうか?」


 「そうよ」


 金を持っていないこと。


 それが目下、一番の問題だな。彼女にとっては、放置できない問題は別にあるようだが。

 

 タマの視線が、ゆっくりとこちらの頭へ上がってくる。


 「とりあえず、それが一番ね」


 前髪へ指をやる。昨日までと、何も変わってはいない。


 「髪なら、前からある」


 「そういう問題じゃないの」


 彼女の理屈は、いつも一歩先にある。


 そんな会話をしていると、後ろから、やけに”軽い足音”が近づいてくる。


 「おい、待て! まだ一つあった!」


 振り返ると、ドゥールが人の流れを縫うように走ってくる。


 「何がだ」


 「お前の問題だよ」


 隣で、タマが腰に手を当て、小さく息を吐く。


 「ほら、増えた」


 「減らしに来たんだよ!」


 また魔法か……あれは走っているのではないな、地に運ばれている。魔力を地に通しているのだろう。


 そして、俺達の前まで来ると、何か小さな物を俺に放る。


 反射で身体が動く。


 半歩ずらし、肩を引くと、空を切ったそれが、背後の石畳に跳ねる。


 「「……」」


 タマが呆れた顔でしゃがみ込み、転がったそれを拾い上げる。


 「だから、なんで避けちゃうの?」


 「……飛んできたからだが」


 「前もそうだったでしょ」


 言われて、思い出す。確かに以前、彼女に指輪を放られた時も、同じ反応をした。


 投げる方が悪いと思うのだが、どうやら少数派らしい。


 「いやー、反射良すぎだろ」


 ドゥールは腕を組み、石畳へ落ちた指輪と俺を交互に見た。


 「受け取れよ。別に、噛み付かないから」


 「噛み付く、付かないの問題ではない。飛んできたものは避ける」


 「贈り物でもか?」


 「投げなければよい」


 ドゥールの目が細くなり、それから隣のタマへ向く。


 「髪を変えても、今の動きで普通じゃねえのは分かるな」


 「そこまで隠すのは、もう諦めてる」


 「何をだ」


 二人とも、答えなかった。


 タマは指輪を指先でつまみ、こちらに差し出す。


 「はい。今度はちゃんと」


 渋々、受け取る。


 指輪は銅に近い色で、装飾は控えめだ。


 内側には、流し込まれた魔力を細く分け、髪の一本一本まで届かせるための刻みが入っている。


 「じゃ、つけてみろ」


 指輪を持ち上げた途端、タマの指先が右手の人差し指を示す。


 「そこ」


 「まだ、何もしていない」


 「する前に言ったの」


 「自分で決めてもよいと思うが」


 「前の二回で、信用がなくなったから」


 ドゥールが、俺の右手に並んだ指輪へ目を落とす。


 「指輪一つつけるのにも、監督がいるのか」


 「大変なんだから」


 腕を組むタマの返答には、迷いがなかった。


 ……そこまでか。


 言われるまま、指輪を右の人差し指へ通す。


 空気がわずかに揺れた。風がそよぐように、頭のあたりを通り過ぎていく。


 通りの窓に映った己の姿に、目が止まる。


 光の当たり方で、黒だった髪に、かすかな青みが差している。


 完全に色を変えたわけではなく、滲むように、そこだけがずれていた。


 魔力が髪の表を薄くなぞり、光の返り方だけを少しずつ変えているのだろう。


 濃い藍色、深く静かな色。夜に輝く月を映す湖の色だ。


 周りからの視線が、少しだけ逸れていくのが分かった。


 「よし。これなら問題ない、だろ?」


 ドゥールがタマに満面の笑みを向ける。


 タマはしばらく俺の髪を見つめ、それから、組んでいた腕をようやくほどいた。


 吐き出された息が、朝の通りのざわめきへ紛れていく。


 「うん。これなら大丈夫」


 「定期的に魔力は入れるから。切れたらすぐ言って」


 「……世話をかけるな」


 「今さらでしょ」


 ドゥールが肩をすくめて笑う。


 「仲いいねぇ。ま、これでギルド行っても浮かねえだろ」


 仲がいい、という言葉に、タマが一瞬だけ視線を逸らす。


 俺は何も言わず、指輪を確かめるように軽く握ってみる。


 さて、これでようやく冒険者ギルドだ。


 髪も、魔力も、外見だけなら人の群れへ紛れたらしい。


 だが、酒屋までの道だけは、まだ遠い。まずは、この世界の銭を得なければならない。


 人の流れへ歩調を合わせながら、俺は小さく息を吐いた。


 *


 冒険者ギルドの中は、思っていたよりも騒がしかった。


 受付の隣、広いホールの一角には、堂々と食事処が併設されている。


 朝と昼の境目という時間帯のせいか、鎧姿の者、軽装の者、いまだ眠そうな顔の者まで、思い思いの姿勢で腰を落ち着けていた。


 そして、酒の匂いがする。


 鼻の奥をくすぐる甘さ、かすかな酸味、樽の木そのものが放つ香り。


 濁り酒とも焼酎とも違う。麦でも米でもないはずなのに、確かに酒だと分かる匂いが、ホール中に満ちている。


 足が止まった。いや、止まってしまった、というのが正しい。


 視線は勝手に、酒樽の並ぶカウンターへ吸い寄せられていく。


 透明なものから琥珀色、赤みを帯びたものまで、色だけでも様々で、見たことのない酒ばかりが並んでいる。

 

 香りを嗅いだだけで、喉の奥がじわりと熱を持つ。


 「……ふむ」


 思わず、感嘆が漏れた。


 「……ふむ、じゃあ、ない」


 隣から、即座に冷たい声が飛んできた。嫌な予感を隠しもしない顔で、タマが俺を見上げている。


 「まさかとは思うけど、今、飲みたいとか考えてないわよね?」


 「いや、飲むとは言っていない。ただ__」


 「ただ、興味津々な顔をしてる」


 言い返せなかった。


 異世界の酒だ。どういう気で醸され、どういう場で飲まれるものなのか。


 そうしたことを知るのは、嫌いではない。


 「今日は登録。先にやることがあるでしょ」


 「……わかっている」


 タマはすぐには歩き出さず、俺と食事処の間へ、すっと身体を入れる。


 「それと、ここでは勝手に動かないで。人も多いし、昨日のこともあるから、ちゃんと私の後ろにいて」


 「分かった」


 「約束よ」


 「約束する」


 それでもタマはしばらく俺の顔を見ていたが、やがて視線を緩め、いつもの調子で続ける。


 「冒険者ギルドは王国から独立した組織なの。もらえるプレートは身分証にもなるから、持っていれば、よその街や国でも身元を証明できる。持ってないと、行く先々で面倒になるよ」


 「……わかった」


 渋々視線を引き剥がした、その時だった。


 「なあ、聞いたか?」


 背後の卓から、ひそひそとした声が流れてきた。


 「門の件だろ。昨日の」


 「そう、それ。それでさ……魔族だったって話」


 耳が、勝手に拾ってしまう。


 「しかもよ、正体が分かったらしい」


 「誰だよ」


 「ミルザだって」


 その名が出た途端、周囲の空気が一瞬だけ固まった。


 「……は?」


 「ギルド職員の? あの?」


 「真面目で、面倒見がよくて、新人に優しい?」

 

 「冗談だろ……」


 否定の言葉が次々と飛び交う。それだけ、その名が信頼されていた証だ。


 タマの隣で、彼女の纏う気配が冷えていくのを感じる。


 表情そのものは平静を保っているが、目だけが鋭くなっている。


 「どうする?」


 タマは首を横に振り、それから俺の袖を掴む。


 「ちょ、待__」


 「待たない。酒の匂いに釣られて、噂話に首突っ込んで、これ以上遅れたら面倒が増える」


 有無を言わさぬ力で、ずるずると引っ張られていく。


 腕を引かれながら、もう一度だけ振り返って食事処を見ると、冒険者たちは何事もなかったかのように杯を煽り、笑っていた。


 「問題は山積みね」


 タマが小さく呟く。


 「……ああ。あれだけ種類があると、最初の一杯を決めるのも難しい」


 袖を掴んでいた手が、ぴたりと止まった。


 「そっちじゃない」


 「違ったか」


 「どうして合ってると思ったのよ」


 次に足を止めたのは、受付の前。


 そのカウンターの向こうで、若い受付嬢が顔を上げる。淡い桜色の髪を、肩のあたりで軽く巻いている。


 「あ、タマさん、おはようございます」


 事務的でもなければ、馴れ馴れしくもない。


 それでいて、毎日顔を合わせている者同士が持つ距離感があった。


 「おはよう、リーネ」


 先ほどまでの張り詰めた空気が消え、タマが笑顔で応える。


 「新規登録をお願い」


 タマが一歩前に出て、カウンターの上に書類を差し出す。


 「紹介ありで」


 受付嬢のリーネは、書類を受け取りながら俺へ視線を移し、そこでぴたりと固まる。


 「え?」


 間の抜けた声を出したまま、完全に動きが止まった。


 俺が首を傾げると、リーネははっとして、慌てて咳払いをする。


 「し、失礼しました! えっと……」


 視線が泳ぎ、そのまま勢いよくタマを見る。


 「……か、かっこいいですね」


 言ってから、はっと我に返り、両手で口を押さえた。


 「い、今のは違います。仕事です! 仕事!」


 頬が赤く染まり、視線が斜め下へ落ちる。


 タマが、今日だけで何度目かのため息を吐く。


 「一難去って……また一難」


 何故か、俺をキッと睨む。


 ……俺が一体、何をした。


 「落ち着いて、リーネ。いつも通りでいいから」


 「は、はい!」


 立て直しが早い。さすがだ。


 「では、新規登録ですね。紹介者は__」


 「私」


 タマが被せるように即答する。


 「タマさんですね。ゲドーマルさんとのご関係は……同行者、でしょうか」


 「そうよ」


 「彼氏ですか?」


 「違う」


 タマの返答は速かった。


 「ち、違うのね!」


 リーネはなぜか安心したように笑い、それからまた少しだけ頬を赤らめる。


 「あのタマさんがパーティーを組むなんて、珍しいこともあるんですね。それも男の人と」


 「べ、別に、いいじゃない」


 タマは口を閉じ、俺から顔を逸らす。


 咳払いを一つ挟んで、リーネが仕切り直す。


 「では、お名前をお願いします」


 「ゲドーマルだ」


 ペンが一瞬止まる……だが、すぐにまた動き出す。


 「通称ですね。問題ありません……種族は?」


 「人族で通している」


 「人族で……”通している”、とは?」


 タマが即座に、俺の足を踏んだ。


 痛い。


 「人族よ、ただの」


 「ただの」の一語を、タマが強調する。


 「ただの、ねぇ……」


 タマの踵が、もう一度わずかに持ち上がった。


 「人族だ」


 俺が言い直すと、足の甲に乗っていた重みが、ふっと消える。


 タマが深く息を吐く。


 一難去って……いない、らしい。


 この世界で生きていくのも、なかなかに大変そうだ。


 タマがもう一度俺を睨み、それから何かを諦めたように、「はあ」と声を出して息を吐く。


 ……何度目だ。


 「では、ゲドーマルさん。登録を進めますね。まずは魔力測定です」


 測定器に手を置く。水晶が淡く光り、静かに反応を示した。


 「……安定していますね」


 リーネは記録を取りながら頷く。


 「突出はありませんが、平均的な魔力保持者です」


 疑われることもなく、想定通りの結果が出た。何事もなく、一難去ったらしい。


 タマの肩が、小さく下がるのが分かった。


 「紹介者はタマさんですね」


 「ええ」


 リーネはにこやかに言った。


 「タマさんは、依頼を選り好みせず、簡単な仕事でも必ず期限内に終わらせてくれます」


 「当たり前のことをしてるだけ」


 「それが一番難しいんですよ!」


 リーネがはっきりと言った。


 「ギルドとしては、とても”安定した冒険者”です」


 タマが少し照れたように視線を逸らす。その様子を見ていると、なぜか俺の胸の奥が、静かに温かくなった。


 「……あ、そうだ」


 リーネが声を落とした。


 「注意事項があります。昨日、門の付近で魔族が確認されました」


 タマが表情を変えずに、小さく頷く。俺は、余計なことは言わないようにしていた。


 「門周辺の混乱は収まっていますが、ミルザ本人は逃走中です。近衛騎士団が捜索に動いています」

 

 「近衛騎士団?」


 俺が尋ねると、リーネは少しだけ背筋を伸ばした。


 「国王陛下直属の精鋭部隊です。五個団あり、それぞれに団長がいます」


 「団長は全員、貴族」


 タマが補足する。


 「実力主義だけどね」


 「ええ」


 リーネが続ける。


 「団長クラスになると、Sランク冒険者と同等か、それ以上とされています」


 「Sランク? そういえば、今、この街にいるの?」


 「この街の近くにいるのは一人だけです」


 リーネが、真剣な眼差しでこちらを見た。


 「……Sランク冒険者、《緑災(りょくさい)》アウレオン」


 その名が出た瞬間、周囲の空気がわずかに張り詰めた。


 「……よりにもよって、危険な……」


 タマが額に手を当て、低く呟く。


 リーネが真剣な顔で続けた。


 「ですので、無用な接触は避けてください」


 「分かった」


 俺は頷いた。


 話はそこで終わり、リーネが冒険者プレートを差し出す。


 「ゲドーマルさん。冒険者登録、完了です。ランクはFランクからです。詳しい内容はこちらの冊子に書いてありますので、必ずお読みになってください。まぁ、Dランクのタマさんが付いていれば安心ですね」


 俺はそれを受け取り、思わずじっと視る。


 くすんだ鉄に、名が刻まれている。”ゲドーマル”。読めないはずの文字が、なぜか意味を結ぶ。


 上等な作りだ。タマが昨日、門でレオンに見せていたものとは、また違う金属らしかった。


 「……これは?」


 「身分証兼、実績記録ですね」


 「……ほう」


 角度を変えて光にかざし、裏返して縁を指でなぞる。最後に歯を当ててみると、鉄の冷たさが歯の根へ響いた。


 「面白いな」


 「ちょ、ちょっと……」


 タマが眉をひそめる。


 「夢中になりすぎ」


 「いや、よくできている」


 「目立つって言ってるでしょ」


 リーネが手で口元を抑え、くすっと笑った。


 「正直者なんですね」


 「そうかしら?」


 「はい。何をしても」


 リーネの表情が、ふと真面目なものへ変わる。


 「あ、それと。無くしたり壊したりすると、再発行には結構な料金がかかりますので、お気をつけてくださいね」


 俺の手が、止まった。歯を立てるのも即座にやめる。


 角度を確かめていたプレートを、迷いのない速さで懐へ収める。


 タマが、呆れた顔でこちらを見た。


 「……そこは、気にするのね」


 「大事なものだ」


 「さっきまで歯型つけようとしてたくせに」


 言い返す言葉が、見当たらなかった。


 タマが両手を腰に置き、ため息をついた。


 「……また一難ね」


 「ねえ、君さ……」


 冒険者が、軽い足取りで近づいてくる。酒の匂いが混じっている。悪意は薄いが、節度もない。


 「用事があるなら、受付を通してください」


 すぐに、受付嬢のリーネが間に入った。動きが早い。声も落ち着いている。


 おそらく、日常の光景なのだろう。


 「いやいや、ちょっと話すだけじゃん? リーネちゃんは堅いんだから」


 リーネが一歩も退かないと分かると、男は肩をすくめ、いったん食事処の方へ戻る素振りを見せる。


 それで終わったものだと思った。


 冒険者は、笑っている。それが余計に厄介だということを、本人だけが分かっていない。


 胸には、Cランクと記された銀の冒険者プレートがある。


 それよりも、俺は……先ほどの酒樽を、また視る。


 ギルド併設の食事処には、見慣れぬ酒が、木樽や瓶、陶器の姿で並んでいる。


 ここは危険だ。非常に、危険だ。


 酒はあとにする。


 ”タマの後ろに立つ”。


 それが、約束だ。分かっている。覚えている。だが、視界の端で酒瓶の一つが光る。


 俺はギルドの出口へ向かって歩いていく。いや、”向かっている”のだと、自分に思い込ませようとしていた。


 視線はまだ酒樽に張りついたまま、足だけが自然と、そちらへ引き戻されかける。


 「……駄目だ」


 無理やり、足を出口へ向け直す。


 一歩でも近づけば、”味を確かめるだけだ”と自分へ言い訳して座る気がした。


 出口へ数歩進んだところで、足音が一つ足りないことに気づいた。


 人の声も、食器の触れ合う音も、酒樽から漏れる匂いも、すべてそこにある。


 だが、すぐ後ろにあるはずの、あの軽い足運びだけが続いてこない。


 背後の空気が張り、振り返った。


 タマが、足を止めている。


 その正面には、先ほどの冒険者がいた。今度はぐっと距離が近く、タマの腕を取っている。


 「……調子に乗らないで」


 タマの声が、低く落ちた。


 魔力の流れは、何も変わっていない。


 それなのに、男の笑みだけがふっと消え、喉の奥で息が止まったのが分かった。


 周囲の卓でも、杯を置く音が一つ、また一つと途切れていく。


 タマは、男の手を見ていた。自分の腕を掴んでいる、その手だけを。


 金色の瞳は動かず、呼吸だけが浅くなっている。


 リーネが名を呼ぼうとしたようだったが、声にならなかった。


 あれは、昔、まだ”玉藻”と呼ばれていた頃に、覗かせることのあった目だ。


 目の前のものが、自分へ害をなすかどうか。それを静かに測っている。


 俺が後ろにいなかった。


 ……すまない、タマ。


 何があったのか、そのすべてを理解しているわけではない。


 それでも、今のあいつに必要なのが、その男をどうするか決めることではない気がした。


 「タマ。甘味処には行かないのか?」


 間の抜けた問いだった。


 タマは、一瞬だけこちらを見て、それから、にっこりと笑った。


 さっきまでの張り詰めた気配など、最初からなかったかのように。


 冒険者の手を、ごく自然に振りほどき、そのまま俺の方へ走ってくる。


 「行くわよ!」


 勢いよく言い放ち、俺の袖を掴んで引っ張った。


 「ちょ、待……」


 ギルドを出る。背後で、ようやく空気が戻っていく気配がした。


 外に出てしばらくしてから、タマが立ち止まる。


 「……約束」


 袖を離した手が、そのまま反対の腕を覆った。


 先ほど男に触れられていた場所を消すように、指先が同じところを何度も摩っている。


 「すまない」


 タマの手が、止まった。こちらを見上げたものの、すぐには何も言わず、肺に残っていた息を、ゆっくりと吐き出す。


 「次は、ちゃんと後ろにいて」


 「約束だ。今度は守る」


 それも、嘘ではなかった。


 タマは、また笑って歩き出す。さっきと同じ笑顔で。今度は俺の歩幅を確かめるように、少しだけ、ゆっくりとしていた。


 ”約束”。


 もう破ることはしたくない。


 そう思いながら、俺はタマの歩幅から遅れないように、甘味処へ続く道を歩いた。


 酒は……そのあとだ。


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