第5話 宿と約束
宿の扉が閉まった瞬間、外の喧騒が厚い壁に阻まれて嘘のように遠のいた。
石造りの建物は、見た目こそ派手ではないが、壁は厚く、窓は高いところに作られている。ここへ来るまでの廊下にも死角は少なく、角には槍を持った警備が立ち、入り口には魔道具らしき光る石が静かに据えられていた。
なるほど、女が一人で泊まる宿として、これ以上ない選択なのだろう。
部屋の中央で立ち止まった俺は、無意識に左腰へ手を伸ばしていた。
帯に沿うように静かに下げられた太刀、《終座》はそこにある。
抜くつもりはない。ただ、そこにあることを確かめるだけで、身体の奥に残っていたわずかな強張りが少しだけ落ち着いた。
それにしても、このような建物が当たり前に立っているのなら、この世界は俺のいた世よりもずいぶんと技術が進んでいるのだろう。都にもこれほど背の高い建物はなかった。
タマは部屋へ入るなり、自然な動きで鍵を閉めた。続けて窓から外を確認し、それでもまだ足りないのか、壁際に寄って耳を澄ませる。
しばらくの間、部屋には音がなかった。
扉の軋む音も、隣室の気配も、廊下を歩く足音も聞こえない。
それを確かめてから、タマはようやく肩の力を抜いた。
「……ごめん」
小さく息を吐いた声には、普段の軽さがなかった。
「癖みたいなものだから。気にしないで」
「気にはしていない。慎重なのは、いいことだ」
そう答えると、タマは一瞬だけ目を伏せ、それから軽く笑った。
「そう言ってもらえると助かる」
柔らかい声だったが、緊張が完全に解けたわけではない。
部屋は静かだった。上等な寝台が壁際に置かれ、きちんと磨かれた卓と椅子が窓の近くにある。
俺は窓の外を眺めながら、ぽつりと言った。
「街を、ほとんど見られなかったな。門からここまで、慌ただしかった」
「ごめん」
タマは即答した。
「今日は特に、目立ちすぎた」
「そうか?」
「そうだよ」
鬼として国中から追われていた頃に比べれば、さほど気にすることでもないように思えた。
ゴブリンと遭遇したことも、門前で魔族を見つけたことも、少し妙なことが続いただけだ。
この世界の者たちは、俺が何者なのかを知らない。
ならば、そこまで警戒しなくてもいいように思える。
俺は薬指にはめられた指輪を見下ろした。
タマが少し誇らしげに言う。
「翻訳の魔道具。言葉が通じるようになるの。ゴブリンとは話せなかったけど、レオンさんとは会話できたでしょ? 結構、貴重な物だよ。言葉が通じないのは、ごく一部の亜人だけだから」
まどうぐ。
また、新しい言葉だ。異世界というものは、知らない言葉がやけに多い。
指輪の内側には、細い流れがあった。
言葉そのものを変えているのではない。耳に入った音を意味に変え、意識の中へ落としているように視える。
符に近い。言葉の形を整え、聞く者の中で噛み合うようにしている。陰陽師の術式に、少し似ていた。
「……なるほど。理屈はわかる」
「わかるんだ?」
タマの目が見開く。
「ただし、“まほう”という言葉は理解できない。当て字のように、音だけが残る。俺のいた世界にない概念だからか」
タマは椅子に腰を下ろしながら、少しだけ目を細めた。
「知らない方が、安全なこともある」
その声には、冗談の色がなかった。
窓の外から遠くの通りの音がかすかに届いたが、部屋の中までは入ってこない。
「以前ね……ほんの一瞬、油断した」
タマは視線を落とした。
「それだけで、全部ひっくり返った」
追われた記憶のことだろう。
茨木から、玉藻が追い詰められたと聞いたことはある。だが、まさかこの世界に逃れてきていたとは思わなかった。
タマが両手で自分自身を抱くようにして、言葉を続ける。
「それと、言っておくことがある」
視線を少し落としたまま、彼女は言う。
「私はね、この世界の生まれなの」
その言葉は淡々としていた。
「あなたたちに出会ったのは、そのあと。長いこと前だし、事情もある」
長く生きていれば、大抵のことでは驚かなくなるものだと思っていた。
だが、どうやらそうでもないらしい。
まさか今日一日で、これほど何度も驚くことになるとは思わなかった。
「だから、この世界のことはあなたよりも詳しいの」
タマは少しだけ胸を張るようにして言った。
「危ないものも、何をすると追われるのかも」
「……そうか」
俺がそう答えると、タマは思わず眉をひそめた。
「それで終わり?」
むっとしたように言いながら、すぐに視線を逸らす。
驚きすぎて言葉が出ないだけだ。
「でも、だから……あなたが何も知らないまま突っ込むのが、すごく怖い」
その声が、少しだけ揺れた。
「私は……ここで生き残りたいの。不安のない生活をしたい」
その言葉は、よくわかる。本当によくわかる。
「わかった。なら、案内は任せる」
「……え?」
タマが顔を上げる。その目は俺の眼をじっと見る。
「知らぬ者は、知る者の後ろを歩く。それは理にかなっている。約束する。俺はタマの後ろを歩く」
タマの表情が固まる。
「後ろは任せろ」
タマは一瞬ぽかんとした顔になり、それから苦笑した。
「そういうところ、本当にズレてる」
「そうか」
「そう」
タマは少しだけ背筋を伸ばした。
「じゃあ、しばらくは私が教える」
今度は、しっかりと目を合わせてくる。その目に無駄な力は入ってない。
「だから……《終座》は抜かないで」
俺は左腰の太刀に一瞬だけ視線を落とした。
「わかった」
迷う理由はなかった。
「それも約束する」
タマはようやく小さく笑った。
*
「言っておくけど、私、軽い女じゃないから」
タマは腕を組んだ。
「あなたを部屋に入れた理由は、表向きには古い知人が困っていたから」
そこで少し目を逸らす。
「本当は……一人より二人の方が、生き残りやすいから」
「知っている」
俺は気にも留めずに答えた。本気でそう思っていた。
タマの眉が、ぴくりと動く。
「……もう少し、反応してもいいと思う」
「そうか?」
昔を知っている身としては、ここで妙な反応をする方が危ない気がした。目の前にいるのは、追われ、隠れ、なお生き延びてきた妖狐だ。下手な隙を見せれば、からかわれるだけで済むかどうかも分からない。
「そう!」
タマは少しむくれた。
昔よりも、感情が表に出るようになった気がする。
いや、元々こんなものだったか。
*
夜は静かだった。
空気の流れはほとんどなく、昼間の王都に満ちていた人の匂いも、ここまでは届かない。灯りを落とした部屋は暗く、窓の外から入るわずかな光だけが、寝台の縁と床板の線を淡く照らしていた。
俺は椅子に座り、盃に酒を注いだ。
寝台の上で、タマは眠っている。
外套は脱いでいない。動きやすい服のままで、靴だけを外し、何かあれば即座に起きて動ける姿勢を残している。
それでも、白銀の尾が布の隙間から覗いていた。
隠すことを忘れたように、無防備に。
寝息に合わせて、尾の先がかすかに揺れている。
油断している。
この部屋に俺がいること。何かあれば、彼女が起きる前に終わること。それを身体のどこかで分かっているから、隠し続けてきたものが、眠りの中で少しだけ緩んでいる。
「不器用だな」
眠っている相手に聞こえぬ声で呟いた。
何百年も追われ続け、隠し続け、疑い続けてきた者が、たった一晩同じ部屋にいるだけで、こんなにもわかりやすく気を緩める。
盃を傾け、濁り酒を喉へ流し込む。舌に慣れた甘みが残った。
ふと、囲炉裏の火が跳ねる音が聞こえた気がした。
気のせいだ。窓は閉じているし、ここに囲炉裏などあるはずもない。それなのに、盃を持つ指だけが、ほんの少しだけ温まっていた。
問題は、量だ。
この酒が切れた時、自分の中にあるものをどこまで抑えられるか。
鬼としての本能。
”鬼の衝動”。
《終座》を抜かずにいられるかどうかを、酒に委ねている部分が大きい。
盃を置き、左腰の太刀に視線を落とす。《終座》は何も語らない。ただ、そこにある。
「……酒屋は、あるのだろうな」
大きな街だ……きっとある。そうでなければ困る。
本当に困る。
寝台の上で、タマが小さく身じろぎした。白銀の尾が、ゆるりと揺れる。
ただ、眠っている。
その姿を見ながら、俺はもう一度盃を手に取った。
ここまで、お読みいただきありがとうございます。
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