第43話 噛み付かないから
……身体の内側を掻き回していた衝動が、凪いでいく。
腹の底に残っていた熱が、息を吐くたびに少しずつ薄れていく。角が消え、額から頭にかけて張っていた重みも引き、角に押し分けられていた髪が頬へ落ちてくる。
崩れた東門の石組みのあたりからは、土と小石を踏む足音と、鎧の擦れる音が、平原へ流れ出してくる。
焦げた草の匂いが、風の絶えた平原の低いところに溜まっている。
伸びていた草は、タマの嵐の中を走った白い稲光と、俺の身体から溢れ出た紫の氣に焼かれ、黒く縮れた茎の先から細い煙を立ち昇らせている。
どちらへも傾かずに昇る煙の向こうには、根元まで焼け落ちた草がどこまでも広がっている。
焦げた匂いより手前、胸元に寄せられたタマの髪から、いつものほんのり甘い香りが届く。ただ、その甘さには、焼けた草とは違う焦げた匂いが重なっている。
……温かい。
目を落とすと、タマの白い衣は所々、焦げ茶に変色している。脇へ回された腕の袖も焼け、その裂け目から肌が覗いている。
指が直垂を握り込んでは緩み、緩んでは握り込み、その繰り返しが背中へ直に伝わってくる。
伏せられた耳の先が顎の下に触れ、足元では九本の尾が、俺を囲むように寄り添っている。
顔を伏せたままの彼女の髪が、呼吸に合わせてわずかに動く。その隙間から覗く頬には、赤く焼けたところがある。俺の胸へ押し当てているすぐ側まで赤みが広がり、そこへ細い髪が貼りついている。
その髪を払おうと指を持ち上げたが、頬へ触れる手前で止まる。
……すまない、タマ。
手にある木刀の切っ先を地へ向けたまま、柄を握った手ごと腕を彼女の背へ回し、傷つけてしまった身体に、これ以上負担をかけないよう慎重に抱きしめると、彼女の背が大きく一度波打つ。
傍らでは、イバラキの肩から張り詰めていたものがほどけていくのが視える。
それでも、二本の角は消さない。
下げられた刀の切っ先は、崩れた門の方角から動かない。額から顎へ落ちた汗が一筋、拭われないまま襟の内へ消えていく。
背の直垂を握るタマの手の力が一段と強まる。
「約束……ギリギリだったからね」
「ああ……すまなかった」
「……次の甘味はゲドーマルの奢りだから」
声はまだ震えているのに、甘味をねだる調子はいつものタマと変わらない。
俺が答えるより先に、尾の先が脛をとんと一度叩く。
「約束する」
「……なら、許す」
俺の胸元にある彼女の額が、ぐいと押し当てられる。
背後から、セレスティアの大袈裟な咳払いが聞こえて、続けざまに声が飛んでくる。
「いい感じのところ悪いんだけど、あれ、どうするの?」
語尾へ向かうほど速くなって上ずっている。
タマの髪から顔を上げると、セレスティアが門の方を指していて、その腕は肩の高さまで上がりきらず、肘が曲がったまま揺れている。
彼女の目は、指す先と俺たちの顔とを、忙しなく往復している。
平原の向こうを視ると、崩れた石組みの前から、赤い外套の一団と銀の鎧の一団が、同じ門を出て同じ方角へ歩きながら、道の片側へ広がっていく。
銀の鎧の一人が歩みを速め、赤い外套の列の脇へ出る。近くにいた騎士がそちらへ顔を向け、半歩、進路を寄せると、銀の鎧も足を緩める。肩が触れるほどの距離で視線が交わり、どちらからも声は出ない。
赤い外套の列は、銀の側へ背を見せないよう、歩きながら列の端を斜めに膨らませている。
……仲が悪そうだな。
その二つの騎士団と俺たちとの間へ、カイランが歩み出る。肩で息をしていて、額には汗が滲んだままだが、それでも背筋は伸びている。
「ここは俺が説明する。君たちはセレスティアを連れて行ってくれ」
セレスティアの目が見開き、すぐに長杖を持っていない方の手でカイランの外套の裾を力強く引っ張る。
「は? 待ちなさいよ。何、一人で勝手に残る気になってるの!」
セレスティアの眉が吊り上がり、掴んだ外套の裾が、二人の間で張っている。
カイランは振り向いて困ったように笑いかけたが、彼女の手は緩まない。その顔を見つめたまま、一度息を整える。
「セレス、頼むから聞いてくれ。これが一番__」
言葉の途中で、近づく足音に鎧の鳴る音が重なる。カイランは騎士たちへ顔を向け、先ほどよりも狭まった間を見たあと、外套を掴まれたまま俺たちへ向き直る。
「……頼む。彼女を連れて行ってくれ」
そう言って頭を下げると、外套を握るセレスティアの手に、さらに力がこもる。
そこで、俺の背から手は離さないまま、タマが顔をカイランに向ける。
「カイラン、私たちはあなたをここには置いていかないよ」
カイランは目を細め、首を小さく横に振る。
「だが、この場を凌ぐにはそれしか__」
セレスティアが長杖を持ち上げ、その柄でカイランの頭をこつんと小突く。言葉が止まった彼へ顔を寄せる間も、外套を掴んだ手は離れない。
「カイランのバカ! なんでいつも勝手に決めて、私を置いていこうとするの!」
「……セレス」
カイランは小突かれたところを手でさすりながら、彼女を見返す。開きかけた口から言葉は続かず、外套を握る手へ、目を落とす。
視界の端で、イバラキが動く。下げていた刀の切っ先が持ち上がり、こちらへ向かってくる騎士たちを捉える。
右足が半歩前へ出ると、門の方角へ向けていた目が、カイランにもセレスティアにも触れずにまっすぐ俺へ移る。
俺は一度空を仰ぎ、”彼ら”が来たことを確かめてから、イバラキへ首を横に振る。彼女はそれ以上踏み込まず、持ち上げた切っ先を騎士たちへ向けたまま、俺へ小さく頷く。
そのとき、俺たちの足元が、一瞬のうちに暗くなる。
陽の光が翳り、焦げて黒く縮れた草の上を、大きな影が広がっていく。上から吹き下ろしてきた風が髪を揺らし、伏せかけていた草が根から波打つ。
立ち昇っていた煙を横へ押し流すと、焼けた匂いの中へ土埃が混じる。
空へ眼を上げると、鱗の縁に陽の光を返しながら、アウルが大きく弧を描いて高度を落としてくる。その背には、身を起こした人影がある。
深い銀を含んだ淡い金色の髪が風に広がっているが、アルティシアは背筋を伸ばしたまま、地上の騎士たちへ顔を向けている。
「近衛騎士団、巡道教聖域騎士団、止まりなさい。それ以上、近づかないように」
声を張り上げているようには聞こえない。それでも、その言葉は頭上を渡る風の音に紛れず、はっきりと耳へ届いた。
赤い外套の列から声が漏れる。
「殿下……?」
「アルティシア殿下だ」
「なぜ、竜の背に……」
先頭の騎士が立ち止まり、すぐ後ろを歩いていた者が、その背にぶつかりかける。後続も次々に足を止め、揃っていた赤い外套の間隔が詰まる。
銀の鎧の列でも、騎士たちが空を見上げている。
「なぜ……竜が、こんなところに……」
「まさか、古竜の噂は」
「怯むな!」
叱声が飛んだが、一人が後ずさると、隣の騎士も片足を引く。盾が持ち上がり、その陰から竜を見上げる顔が覗く。剣の柄を握ったまま、まだ抜けずにいる者もいる。
崩れた石組みの陰では、槍を杖にしていた門番たちまで空を仰いでいる。
一人は口を半ば開けたまま動かず、隣の男は槍を胸元へ引き寄せている。その後ろで、石屑を踏む音がした。後ずさった門番が腰を落とし、槍を握ったまま尻餅をつく。
銀の列の中から一本の声が飛ぶ。
「王国の魔女め! 聖女様を解放しろ!」
声を張り上げた騎士は腰が引けていたが、剣の柄を握る手は離さず、こちらを睨んでいる。最後の一言は裏返りながらも足は退かない。
頭上を視ると、アウルの鱗へ添えられていたアルティシアの指が、わずかに縮む。その指はすぐにほどけ、もう片方の手が静かに重なるが、伸びた背筋は揺れず、顔は叫んだ騎士へ向いたまま動かない。
その声に、セレスティアの肩がぴくりと動き、カイランの外套を握る手に力がこもる。長杖を支えに身体を起こすと、銀の鎧の列へ顔を向ける。
「捕まってなんかいないわ。私が、自分でここまで来たの!」
声を張り上げた騎士は、アウルへ目を据えたまま剣を抜く。
「聖女様、ご安心を! 今、お助けいたします!」
セレスティアが再び口を開きかけた、その瞬間、アウルが咆哮を放つ。
腹の底を叩かれたような響きが身体を貫き、足元の土まで震える。続いて押し寄せた風に、黒く縮れた草が折れ、灰とともに地面を転がっていく。
赤い外套が激しく煽られ、騎士たちが踏ん張ろうと足を開く。銀の鎧がぶつかり合う音も咆哮に呑まれ、空を仰いでいた顔が、掲げた腕や盾の陰へ隠れる。
その間に、俺は踵を地へ沈めると、草履の底へ氣を通し、正面の土へ細く流す。
草履の縁に蒼白い火花が散り、ジジッと鳴る音が足元から先へ走る。草の根元を縫うように紫の稲光が地表を這い、騎士たちとの間で、枯枝の先のように三つ、四つと分かれていく。
いちばん長い筋を騎士の手前で留めると、乾いた破裂音が重なり、跳ねた土粒が低く散る。光の通ったところでは草の縁が黒く縮れ、焦げた匂いが新たに立つ。
足元から送り込んでいた氣を止めると、地表を走る光も途切れ、焦げ跡から細い煙が立ち昇る。
騎士たちの足は、すでに後ろへ下がっている。先頭の男が盾を胸元へ引き寄せながら退いたせいで、その肩に押された銀の鎧が隣の鎧とぶつかる。
赤い外套も互いの肩を擦りながら、列の間隔を広げていく。騎士たちは、俺ではなく足元の黒い焦げ跡を見ている。
空いた土へ、アウルが翼を広げて降りてくると、巻き上がっていた土埃が左右へ押し流され、焼け残った草が地に伏し、舞い上がった煙が一度に払われる。
アウルの大きな脚が地を捉え、重い響きが足元へ伝わってくる。背へ眼を向けると、アルティシアが身を低くして、こちらへ手を差し伸べている。
俺の背の直垂を握っていたタマの左手が下がり、俺の裾を二度引く。腕を緩めると、タマは鞄から栓を取り出し、右手に持っていた小瓶へ押し込んでから、懐へしまう。
俺が木刀を《終座》の隣へ差すのを見届けてから、イバラキも刀を鞘へ戻すと、小さく息を吐き、そのまま肩を下げる。
アウルが首と肩を低く下げ、片方の翼を地面へ傾けてくれる。俺はタマの手を取って、その緩やかな斜面を上がり、イバラキも後に続く。
アルティシアが身体をずらし、俺たちの座る場所を空ける。目が合うと、彼女は小さく頷き、すぐに騎士たちへ視線を戻す。
セレスティアはカイランの外套の裾を掴んだまま、アウルの手前で足を止め、その巨大な身体を眺めている。目を大きく開いたまま、喉が動く。
タマがアウルの背に座ったまま、セレスティアに向けて手を伸ばす。
「大丈夫、噛み付かないから。早く来て」
「……それで安心できる大きさじゃないでしょ」
セレスティアは傾けられた翼から、その上の高い背へ目を移す。返ってきた声は強いのに、長杖を握り直した手にも、翼へ向けた足にも動きは続かない。
銀の鎧の列から、数人が武器を構えて進み出る。アウルの動きを窺いながらも、その足が次第に速まり、赤い外套の騎士たちも動き始める。
カイランはセレスティアの隣で剣を鞘へ戻してから、左手を差し出す。差し出された指の節には、乾いた血が黒く固まっている。
「一緒にいこう。約束する。何があっても俺がセレスを守る」
先ほど、俺たちへ向けた声より柔らかく、ゆっくりしている。
セレスティアの視線が、差し出された手から彼の顔へ上がり、そこで鋭くなる。外套の裾を握り込んでいた指がほどけ、次の瞬間、その手が叩くような勢いで彼の手を掴む。
「ついさっき、私を置いていこうとしたくせに」
言い終わるより先に、彼女の片足はもうアウルの翼へ掛かっている。
セレスティアが握った手を引くと、カイランも翼へ足を掛ける。引かれた拍子に顔を痛みに歪めながらも、彼はその手を握り返し、彼女に続いて斜面を上がってくる。
二人が背へ乗り移ると、タマが手を添え、セレスティアを隣へ座らせ、カイランもそのすぐ横へ腰を下ろす。
向かってくる騎士たちの間から、詠唱が聞こえる。
アウルの背が持ち上がる。翼が大きく開かれ、その一打ちで、腰がアウルの背へ強く押しつけられる。吹きつける風に直垂の袖が後ろへ流れ、足元にあった平原が遠ざかっていく。
二打ち目で、崩れた門の石組みが手のひらに隠れるほどに小さくなる。
その前の赤と銀は小さな染みになり、やがて平原の草の色に紛れて、見分けがつかなくなる。
地上の足音はもう届かず、最後に残った呼び声も、何を叫んでいるのか聞き取れないまま、風の音に呑まれていく。
視界の端で、カイランとセレスティアの手は、風が強まっても握り合ったままだった。




