第42話 琥珀色の酒
抉れた土と焦げた草の匂いが、熱を帯びた風に混じって流れている。背後の城門では石の落ちる音が続き、鉄の鎧の擦れる慌ただしい気配がする。
《終座》の柄へ掛かった指が、ゆっくりと握り込まれていく。
「ダメ、外道丸! ”約束”思い出して!」
タマは大鎌を握ったまま、身を乗り出す。隣ではイバラキの刀の柄を握る手に力が入る。
ゲドーマルの手がぴくりと止まり、柄へ添えられた指も動かず、鞘から刃が覗くことはない。
顔を見上げると、真紅の瞳がこちらへ向いている。タマは口を開きかけたが、その眼は先ほどと何も変わっていない。
名前を呼ばれた時の、顎を引いて応じるいつもの動きもない。
大鎌の柄を握り直す指に、力がこもる。
イバラキの唇が動き、目はゲドーマルから離れない。
「私が気を引きます。その間に、徳利を」
タマが頷いて彼の腰へ目を向けると、風に揺れる墨色の裾の陰で、徳利が見え隠れしている。
……あれを取って、口元へ運べれば。
イバラキが刀の切っ先を低く下げ、腰を落とすと、濃褐色の直垂を這っていた紫の氣が、全身から大きく噴き上がる。
ばりばりと爆ぜる稲光が腕へ絡み、刀身を走るたび、その周囲へさらに太い光が枝分かれしていく。足元の草が伏せ、土の表面に細かな亀裂が広がっていく。
……覚えのある氣。
昔、茨木が本気で刀を振るう時にも、こうして肌が粟立った。この世界へ来てから目にした彼女の戦いは、あの頃の半分にも届いていなかったように思える。
タマは目を瞑り、自身で抑えていた魔力を少しずつ解き放っていく。
足元を流れていた風が向きを変え、裾を巻き上げながら身体の周囲を駆け上がる。白銀の髪が浮き、背後に広がった九本の尾の間を、幾つもの風が唸りを上げて抜けていく。
目を開き、さらに魔力を解く。巡る風へ新たな流れが重なり、巻き上がった草や土埃が渦の外へ弾き出される。頬を撫でていた風は耳元で轟くほどに強まり、その中を白い稲光が走る。
ごろごろと雷鳴が頭上に響き渡り、消えきる前に次のいかづちが重なる。瞬く稲光に、影が伸びては縮む。袖を引く風へ逆らうように、タマは大鎌を持ち上げる。
身体の周囲を巡っていた嵐が、長い柄を伝って湾曲した刃へ絡みつく。タマは両足で地面を踏みしめ、吹き荒れる髪の向こうにゲドーマルを捉えたまま、さらに魔力を送り込んでいく。
すぐ後ろで、鎧が擦れる音がする。
肩越しに目を向けると、カイランの片足が後ろへ下がっている。剣を握り直して足を止めた隣で、セレスティアも一歩退き、長杖の石突きを地へ立てる。
唇を引き結んだ二人の視線は、イバラキとタマとを行ったり来たりしている。
タマは正面へ顔を戻す。
紫の氣が激しく爆ぜる中で、イバラキの構えが動く。
「行きます」
刀を握る手が引かれ、その身体が前へ出る。
濃褐色の裾が翻り、踏み込んだ足元から紫の稲光が地を裂くように走る。重なり合う氣の轟きとともに、刀が低い位置から斜めに跳ね上がる。
《終座》に掛かっていたゲドーマルの手が離れ、その隣に携えた木刀を引き抜く。
刀と木刀がぶつかった瞬間、重い振動が胸を打ち、二人の間から噴き出した土がタマの足元まで飛んでくる。
イバラキは刀を押しつけたままにはせず、身を低くして横へ抜け、返す刃をもう一度ゲドーマルへ向ける。
タマも大鎌を横へ振る。
刃に巻きついた嵐が、雷鳴とともに地面を削りながらゲドーマルの足元へ走る。巻き上がる土の中を稲光が駆け、風が両脚へ絡みつこうとした瞬間、白い芯を残す紫の光が渦の中央を貫く。
いくつも重なり合った風が内側から引き裂かれ、土埃とともに左右へ噴き出す。
その間も、ゲドーマルは汗ひとつかかずに、木刀一本で、あのイバラキの刀を捌き続けている。
タマは風を纏い、ゲドーマルの左側へ回り込む。九本の尾を後ろへ流し、荒れた地面を踏み越えるたび、腰の徳利が近くなる。
……もう少し。
空気が鳴り、視界の端から木刀が迫る。
タマが身を沈めるのと同時に、イバラキの刀が横から割り込む。頭のすぐ上で刀と木刀がぶつかり、噴き出した氣が足先の地面を抉る。
伸ばしかけた手を引いた刹那、熱を含んだ氣が顔へ押し寄せ、大鎌を立てるより先に身体が後ろへと吹き飛ばされる。草履が滑り、足元で千切れた草が舞い上がる。
尾を広げて姿勢を戻した時には、徳利はまた手の届かないところにあった。
「……ちょっとは、手加減してよ」
聞いてなどいないと分かっていても、思わず呟いてしまう。
イバラキの刀が、ゲドーマルの肩口へ走る。木刀が受け、打ち合った刃の下で紫の光が弾けると、踏み固められていた道に新たな亀裂が伸びる。
刀が返るたびに、タマは風を送る。イバラキが踏み込む側を避け、ゲドーマルの膝へ、木刀を振り戻す腕へと流れを重ねる。
風は彼の身体に届く前に散らされ、刀を受ける木刀は少しも止まる気配を見せない。
打ち合う位置が道を外れ、平原へ移っていく。草の根ごと剥がされた土が積もり、そこを踏み越えるイバラキの足が、着地のたびに深く沈む。
短く吐く息が、風の途切れた合間に聞こえてくる。
額に浮いた汗がこめかみを伝い、顎から落ちる。イバラキは顔を拭おうともせず、そのまま刀を振り上げる。
その刃を、ゲドーマルの木刀が下から押し上げると、イバラキの両腕が宙へ跳ね、濃褐色の袖の下で胴が空く。
タマは大鎌を振り抜き、纏っている風を飛ばす。
……間に合わない!
木刀が返るのと、イバラキが刀を身体の前へ引き戻すのが、ほとんど同時に見えた。
腹に響く振動とともに、イバラキの足が地面を離れる。
「イバラキ!」
タマは大鎌を引いて身を退き、空いた左手を伸ばす。だが、守るための風を送るより先に、イバラキは足を地へ戻し、土を長く削りながらタマのすぐ脇まで滑ってくる。
止まったところで片膝が落ち、刀を握る腕が下がる。吐き出した息の端に、咳が一つ混じる。
「……なかなかに、厳しいですね」
タマは彼女の肩へ手を伸ばしかけ、正面へ目を戻す。
ゲドーマルは追って来ていない。
……木刀の先が、小刻みに揺れている。
柄を握る指が一度緩み、また強く閉じられたが、手首から先の震えは消えない。
タマはその手を見つめたまま、唇を噛む。
「……外道丸」
ゲドーマルが木刀を持ち上げる。その動きに合わせ、イバラキも立ち上がる。
「まだ、いけます」
息を整えきらないまま告げ、こちらを振り向かずに前へ出る。タマの手はその肩に届かず、指先を濃褐色の袖がかすめていった。
「酒なら何でもいいのか?」
背後からの声に、タマは顔を向ける。
歪んだ銀の鎧の胸元が呼吸に合わせて上下し、カイランの目はゲドーマルの腰へ向いている。
「……どうして」
「森で見ていたんだ。君たちが古竜や魔族と争った時だ」
再び刀と木刀がぶつかり、声の続きが重い音に掻き消される。カイランは飛んできた土から顔を背け、すぐにタマを見返す。
「彼女が酒を飲ませたあと、手の震えが止まった」
カイランの視線がイバラキの背へ動く。
タマが前へ目を戻すと、木刀を受けた刀が傾き、イバラキが片足を引いて踏み堪えている。
「うん。いつも飲んでるお酒があれば……でも、あの徳利まで届かない」
カイランが隣へ顔を向ける。
「セレス」
長杖を握っていたセレスティアの指が、ぴくりと動く。目を見開いてカイランの顔を見上げ、口を開いたが、すぐには声が出てこない。
「……その呼び方……なんで、今更」
言い終えても、彼女の目はカイランから離れない。刀と木刀の打ち合う音が空気を揺らす中、彼はセレスティアの胸元へ視線を下げる。
「懐に持っている酒は、何だ」
彼女の片手が長杖から離れ、胸元へ動く。懐を押さえる寸前でその手が止まり、カイランへ戻った目が細くなる。
「……なんで、持ってるって知ってるのよ」
カイランの目が一度、城門へ流れ、すぐにセレスティアへ戻る。
「時間がない。何の酒だ」
セレスティアは眉を寄せたまま懐へ手を入れ、細長い小瓶を取り出す。
中の液体が揺れ、陽の光を受けて、琥珀色に透ける。
「……これだけど」
タマはすぐに頷く。
「たぶん、ゲドーマルのお気に入りと同じ。貸して」
大鎌の刃を下げ、目の前の空間へ魔力を通す。細く開いた裂け目へ湾曲した刃を入れ、長い柄を送り込むと、手から重みが消える。
空間を閉じると同時に、セレスティアから小瓶を受け取る。
手のひらに収まる硝子の入れ物は、セレスティアの体温を残している。タマが首の細いところを握り直す間に、長杖の先がカイランの胸元へ向けられる。
短い詠唱に続き、淡い光がカイランの身体を包み込む。
カイランの肩が持ち上がり、詰まっていた息が長く吐き出されると、剣の柄を握る手が一度開いて閉じ、片足が前へ出る。
「動けるようにしただけよ。治ってないんだから」
セレスティアの声に、カイランは頬を緩めると短く頷く。目にいつもの光が戻っている。
「助かる」
剣を持ち上げたところで顔が歪んだが、もう片方の手を柄へ添えると、ゲドーマルへ向かって走り出す。
タマも前を向き、その背を追う。
イバラキの刀へゲドーマルの木刀が振り下ろされる。彼女が両手で受けた瞬間、ゲドーマル目掛けて、横からカイランの剣が襲う。
ゲドーマルの顔がそちらへ向き、木刀が引かれる。カイランは剣を振り切る前に足を退いたが、追ってきた木刀へ刃を合わせた瞬間、肩ごと大きく持っていかれる。
足がもつれ、身体が傾く。
「……くっ」
その前へイバラキが入り、振り戻される木刀を刀で押し返す。
カイランは膝を折りかけながらも、片足を横へ開いて踏みとどまる。
「風よ」
剣を引き戻しながら短く唱えると、空いた手をゲドーマルへ向ける。カイランはその手を開いたまま、踏み込むイバラキの横へ動く。
ゲドーマルの木刀がイバラキの刃を防ぎ、ぶつかり合った氣が二人の足元から土を跳ね上げる。
カイランが手を突き出すと、ゲドーマルの腕の周囲で風が不意に途切れる。木刀が振り戻されても、風を切る音が聞こえない。
その一角で紫の氣が弾け、遅れて空気が短く鳴る。カイランは足を止めず、剣を構えたまま、さらに横へ回り込んでいく。
背後でセレスティアの詠唱が続いている。
長杖から放たれた淡い光がカイランの背へ届き、続く光がイバラキの腕を包む。
タマが肩越しに見ると、セレスティアは石突きを地へ押しつけ、杖に身体を預けながら、先端を二人の間へ向けている。
次の光は、細く鋭い筋となってゲドーマルへ走る。
……さすが、最強の聖女と呼ばれるだけあるね。
しかし、ゲドーマルの肩に届く手前で紫の氣に呑まれ、光は細かな欠片となって散る。
「……嘘でしょ……何なのよ、あれ」
セレスティアの杖が再度上がる。続けて放たれた光も、ゲドーマルが木刀を振るう氣へ触れ、形を保てないまま消えていく。
「少しくらい、通りなさいよ……!」
声の終わりに息が乱れ、杖を握る手が下がる。それでもカイランの脚が揺れるのを見ると、彼女はすぐに詠唱を変え、再び淡い光をその背へ送る。
タマは小瓶の栓へ指を掛けるが、強く押し込まれた栓がなかなか抜けず、握った硝子の表面を指が滑る。
「……ちょっと……お願い、言うこときいて」
袖で指先を拭い、もう一度つまんで引くと、軽い音とともに、甘みのある酒の香りが立つ。
栓を鞄へ押し込み、小瓶を胸元へ寄せる。
ゲドーマルが木刀を返し、イバラキの刀を横へ弾く。その脇へカイランが踏み込む。
剣を振る腕は、先ほどより低い。ゲドーマルの木刀がそちらへ向き、イバラキが足を踏み直す。
タマは小瓶を握った右手を身体へ引きつけ、左手を前へ伸ばす。
目の前の景色を、細い光が縦に割る。押し広げた向こう側に、墨色の直垂が見える。
その中へ、足を踏み入れると、頬を焼く熱に、息が詰まる。
衣の肩口で紫の光が弾け、右腕の内側へ鋭い痛みが走る。小瓶を握る手が強張り、硝子の口から酒が少しこぼれる。
タマが腕を引かずに顔を上げると、五本の角が、すぐ近くにある。
振り戻されかけていた木刀が止まり、ゲドーマルの真紅の眼がタマへ据わる。
肩も腕も動かず、二人の間で、白い芯を持つ紫の光が静かに走る。
タマは小瓶を持ち上げる。
袖の縁が焦げ、頬へ新たな痛みが走ったが、瓶の口を彼の唇へ当て、傾ける。
琥珀色の酒が唇を濡らし、一筋、顎へ伝う。
「お願い……飲んで」
タマは瓶を支える手に力を込める。
ゲドーマルの唇が開くと、中の酒が減り、喉が一度、ゆっくりと動く。
それを見届けたタマは、瓶を口元から離すと、小瓶を握ったままの右手ごと両腕を彼の背へ回し、その胸元へ頬を寄せる。
触れた途端、衣の下を熱が走る。タマは息を呑み、直垂の背を掴む指を強く閉じる。手のひらが痛み、擦れる布が、焼けた肌へ張りつく。
髪と衣の焦げる匂いに、こぼれた酒の甘い香りが混じっている。
押し当てた頬の下で、呼吸に合わせて胸が上下している。
タマは腕を緩めず、その顔へ声を向ける。
「外道丸、家に帰ろう」
背に回した腕を打っていた氣の圧が、弱まっていく。
タマは彼の身体を抱き寄せ直す。直垂の上を走っていた紫の光が細くなり、肩口で一度弾けたあと、消えた。
髪を引いていた風が収まり、白銀の尾がゆっくりと地へ下りる。
熱は引いても、頬と腕には痛みが残っている。タマは目を閉じ、掴んでいた布を離さないまま、細く息を吐き出す。
耳元で、長い吐息が聞こえた。
そのあとに届いたのは、土を踏むいくつもの足音だった。
タマが目を開け、ゲドーマルを抱いたまま肩越しに振り返ると、すぐ傍らで、イバラキは刀を下げたまま、城門の方を見ている。
その視線の先、土埃の向こうから、赤いマントをつけた騎士たちがこちらへ近づいてくる。
……近衛騎士団・第三団。
揃って進む足元で、踏み砕かれた小石が鳴っている。さらにその後ろに、大通りで見た銀の鎧が並び、陽の光を返している。
すぐ近くでカイランの呟く声が聞こえる。
「……聖域騎士団」
タマは顔を戻さないまま、直垂の背を掴んだ指に、もう一度力を込める。




