第41話 やっぱりダメ
空間の裂け目を抜けた足が、柔らかな土を踏む。
店の床を踏んでいた時よりも足がわずかに沈み、草の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
白銀の尾を後ろへ流しながら数歩進んだところで、背後に鎧の擦れる音が続く。
タマが肩越しに目を向けると、セレスティアがカイランの腕を支え、淡い光を放つ裂け目を跨いでいる。
長杖がこちら側へ入り込み、彼女の身体が傾きかけたが、カイランも腕を回し、互いを支えるようにして外へ出てくる。
二人の身体が完全に裂け目を越えたのを確かめ、開いていた空間を閉じる。
細くなった光の向こうから流れてきていた甘い乳の匂いが途切れ、風に揺れる草と、踏み荒らされた土の匂いが残る。
背後には王都の東門があり、そこから伸びる高い城壁が、左右へ長く続いている。
門を出入りする者の姿は、すぐ近くにはない。道の端には荷車が一台、片輪を草の中へ落としたまま置かれ、転がった袋から穀粒がこぼれている。御者台の上には男が口から泡をこぼしながら倒れている。
門の内側からは、何人もの慌てたような声が届き、ざわついている。
タマが道の先へ顔を戻すと、少し離れた右手の地面に、暗褐色の翼が広がっている。
片方は大きく投げ出され、もう片方は身体の下へ巻き込まれるように折り重なっている。風が羽の先を揺らしても、翼からは動きがなく、土に伏せた背が、ごく浅く上下している。
その向こう、道の中央に、青みがかった髪の間から五本の角を生やしたゲドーマルが立っている。
墨色の直垂の裾を風に揺らしながら、手を下ろし、倒れた翼の男をじっと視ている。
背後で、息が喉に詰まる気配がする。
「……あのエドガー団長が、この一瞬の間に……倒された、のか」
カイランの掠れた息が、口から溢れる。
短く息を呑む音にタマが目を戻すと、セレスティアも、エドガーと呼ばれた翼の男を見つめている。
支えていたカイランの腕へ指が食い込み、目を見開いたまま動かない。
タマは二人から視線を離し、ゲドーマルの顔へ戻す。
……ゲドーマルが負けるとは思っていない……けど。
けれど、倒したのなら、もうこっちを向いてもいいはず……だよね。
ゲドーマルの足元で、小石が一つ転がる。身じろぎひとつしていない彼の足元から、纏った氣に押し出されるようにして、薄い砂の層が滑り落ちていく。
直垂の縁へ張りつく白紫の光から、紫の筋が外へ走る。白い芯を残した紫の光は地面を這い、草の先を震わせながら消える。
揺らめくように立ち上る熱が、タマの頬を撫でていく。
門の内側で、男の声が張り上げられる。
「通りを空けろ! 第三団がこっちへ向かっている!」
車輪が激しく鳴り、いくつもの怒鳴り声や鎧の擦れる音が平原に響き渡る。
タマの指が、脇に掛かった鞄の紐を握る。
リーネの声が浮かびかけたが、口を結び、掴んだ紐を離す。今ここで立ち止まっているうちにも、門の向こうでは人が動いている。
タマは大きく息を吐き出し、ゲドーマルへ一歩近づく。
……《鬼の衝動》になんか呑まれてない、よね。
「ゲドーマル」
風が髪を頬へ運び、唇の端に触れる。指で払うこともせず待ったが、いつもの返事はなかった。
ゲドーマルの顔が、ゆっくりと動く。
エドガーから離れた真紅の瞳がこちらへ向き、タマはもう一歩進みかけて、その足を止める。
目は合っているのに、近づいてくるタマを受け入れるように頬が緩むことも、名前を呼ぶ声に頷くこともない。
ただ、その瞳にタマの姿が映っている。
背後で衣が擦れ、肩の脇から、長杖の先が視界の端へ差し込んでくる。
セレスティアの唇が開いている。短く繰り返す呼吸の間に言葉はなく、杖の先にも光は宿っていない。こめかみから滲んだ汗が、一筋、頬を滑り落ちていく。
カイランの腕を離れた手が長杖の柄へ移り、差し出すようにして、その先をゲドーマルへ向ける。
タマは顔をセレスティアへ向け、杖の先を手で押し下げる。
「ダメ!」
その瞬間、目を離したばかりの方から、右手の持ち上がる気配が伝わる。
振り向くと、ゲドーマルの開いた手のひらが、長杖を構えたセレスティアへ向いている。
……まずい!
カイランがセレスティアの前へ身体を滑らせる。剣が鞘を擦る音とともに、銀の鎧がタマのすぐ横まで進み出る。
踏み出した膝が一度折れかけるが、足を開いて堪え、空いた手でセレスティアを後ろへ押す。
「下がって!」
タマは二人へ声を掛けながら右手を伸ばし、手のひらに魔力を一気に集める。
唸りが空気を震わせ、頬へ当たっていた風の向きが変わる。白銀の髪が後ろへ流れ、背後でセレスティアの法衣が激しくはためく。
タマは足を開いて身体を支え、手のひらを返す。
光が縦に走り、歪んだ景色の中央が割れると、裂け目から波打つような揺らぎが広がる。
その奥へ右手を差し入れると、手のひらに触れた柄を握り込み、腕を引く。
長い柄が空間の裂け目から滑り出し、続いて、大きく湾曲した刃が光を押し広げる。
刃先が抜けきる瞬間、張り詰めていた空気が弾け、足元に寄っていた土埃が輪を描いて吹き払われる。
タマは引き抜いた懐かしい大鎌の重みを左手でも受け止め、そのまま柄を身体の前へ回す。
閉じていく裂け目から吹き返した風が九本の尾を広げる。
両手の間隔を開いて握り直し、タマはカイランより前へ踏み出す。逃げるように散っていた九本の尾の先を背後へ揃えながら、大鎌の刃をゲドーマルへ向ける。
ゲドーマルの手のひらが、その向こうに見える。
タマはその手の向こうにある顔を見つめる。
「ゲドーマル!」
呼び終えるより先に、彼の足元から土が跳ねた。手のひらの周りで空気が大きく歪み、正面の草が根元から伏せていく。
タマが構えた時には、押し寄せる氣が地面を削りながら迫ってきている。
強い……それに、広すぎる。
刃の先を越えた向こうでも、土と小石が巻き上がっている。自分一人が横へ飛んでも、後ろには二人がいる。もう一度空間を開き、傷ついた身体を通している間はない。
タマは片足を後ろへ引きながら、柄を斜めに構えると、握った両手から大鎌へ魔力を巡らせる。
柄を伝った光が湾曲した刃へ届くと、周囲の風が引き寄せられ、足元から風が渦を巻いて舞い上がる。
刃の内側へ巻き込まれた風が、鋭い唸りを上げながら重なり合う。
ぶつかり合う流れが大鎌の周囲で激しくうねり、白銀の髪を跳ね上げ、袖を引き千切らんばかりにはためかせる。
タマは肘を曲げて力を受け止め、足を目一杯踏み込み、地面へと沈める。
広がろうとする風を刃の周りへ繋ぎ留める。九本の尾を背後へ流し、巻き上がる土埃の向こうにゲドーマルを捉えたまま、タマは嵐を纏わせた大鎌を、迫る氣へ差し向ける。
背後でカイランの鎧が鳴ったが、それ以上、足音は遠ざからない。
大鎌に纏わせた嵐が轟き、迫る氣とぶつかる。
その途端、刃の前で渦巻いていた土埃が押し潰されるように左右へ噴き出し、幾重にも重ねた風が、外側から引き剥がされていく。
……やっぱり、ダメ。
柄を握る両手へ衝撃が返り、肘が胸元まで押し戻される。タマは後ろへ引いた足で踏み堪え、刃へさらに魔力を送るが、巻き直した風は渦を結びきる前に散らされ、背後へ吹き抜けていく。
風の唸りが途切れた隙間から、熱が頬を打つ。正面の地面が抉れ、押し寄せる氣は勢いを緩めることなく、大鎌の刃先へ迫ってくる。
タマは歯を食いしばり、傾きかけた柄を支え直す。踏みしめた草履が土を削り、後ろへ滑る。
その前へ、濃褐色の裾が翻った。
藍色の髪が横へ流れ、二本の漆黒の角が見える。
「茨木!」
呼ぶ声に応じる間もなく、刀が走る。
ばりばりと唸る紫の稲光を纏った刃が迫る氣の中へ斜めに食い込む。
その刃が振り抜かれるにつれ、目の前を塞いでいた流れが左右へ押し開かれ、真っ二つに分かれる。
タマの両脇を熱が抜けると、髪も尾も背後へ激しく引かれ、踏みしめていた足元から土が削り取られた。
直後、背後で二つの衝突音が重なる。
腹の奥まで突き上げる揺れに身体が傾くが、タマは大鎌を握ったまま姿勢を支える。
門扉の金具が激しく打ち合う音へ、石が砕ける衝撃が続き、遅れて吹き返した風が髪を大きく揺らす。
何かを叫んでいた声が途切れ、代わりに、逃げろ、と怒鳴る声が上がる。
小さな石片がタマの足元まで転がり、草履の縁へ当たって止まる。
イバラキがすぐ前に立っている。
刀を振り抜いた腕を戻し、ゲドーマルへ刃を向けたまま、その場を動かない。
直垂の裾には土がこびりつき、周囲を走る紫の光が、その濃褐色を幾度も照らしている。
背後ではまだ石が落ち続けていたが、大きな崩落音の合間に、門の内側から新たな声が届く。
「第三団だ! 道を開けろ!」
石壁に跳ね返るその声を聞きながら、タマは大鎌を持ち上げ直す。
イバラキは刀を鞘へ戻さず、こちらを振り向きもしない。
その右肩の外に見える、柄を握った手が震えている。
タマは一歩踏み出すと、イバラキの隣に立つ。イバラキの横顔を見ようとしたが、流れた藍色の髪に遮られ、表情までは分からない。
ゲドーマルの視線が動き、イバラキへ据わる。彼女も何も言わず、刀を構えたまま正面から受け止めている。
タマは大鎌を下ろせないまま、二人を見つめる。門の内側から、揃った足音が近づいてくる。
その音の中で、ゲドーマルの右手がゆっくりと下がり、徳利の栓をかすめて、その隣、太刀《終座》の柄へ、指が掛かった。
*
回廊から鎧の音が絶えて、執務室には羽根ペンが羊皮紙に擦れる音が響いていた。
壁際には、封じられた薬箱が積まれている。戸口では、本部への通信担当へ書面を運ぶ従者が待っていた。
「書き上がり次第、本部へ。急ぎの返答を求めなさい」
机の向こうでベネディクトが告げ、書記は紙を整えるが、ペンを止めるたび、戸口の従者へ目が動く。
机の上で組んだ手に顎を乗せたベネディクトの口述が進む。
カイランが本部の命令に背き、療養中の聖女を連れ出し、制止に応じず逃走したこと。
長期の不眠と負傷による乱心の疑い。
そして、聖女様の安全確保を最優先とし、聖騎士資格の停止と、抵抗時には生死を問わず制圧する正式な許可を求める旨。
本部の承認を求める一文で、書記のペンが止まる。
回廊で挨拶をした時、足を止めて応じてくれたカイランの姿が浮かぶ。
ペンの先は、紙の上で止まったまま動かない。
「あのカイラン殿が、聖女様を害するとは思えませんが……」
「善良に見えることと、正しい判断ができることは別です」
ベネディクトの瞳に揺れはない。
わずかな間があり、書記は改めて下を向くと、ペンを紙へ戻す。
薬の配布中止についての追記も命じられる。カイランの虚偽が聖女の判断へ影響した疑いがある、という一文。
今朝、セレスティア自身が『この薬に、私は認可を与えていません』と告げた声が、耳の奥に残っている。
書記のペンが再度、止まる。
「聖女様ご自身が、認可していないと仰った薬です」
「そのご判断が、カイラン殿の誤った報告によるものだった可能性があります」
淡々とした声のまま、ベネディクトは、聖女の保護後、衰弱と負傷からの回復を促すために薬を投与する許可も、急ぎ求めるよう命じる。
書記の手は、まだ動かない。
だが、薬を望んでいた貴族家の名が、ベネディクトの口から出た瞬間、書記の背が強張る。
書記はその家の使者から、申請を先へ回し、必要数を事前に伝える見返りとして金を受け取ったことがある。
「……司教様、あの__」
「本部へ送るべき報告は、ほかにもありましたか」
書記の話を遮るようにベネディクトが声を被せた。
彼はベネディクトの視線から逃げるように、戸口を見ると、従者は身動きひとつなく、先ほどと同じように書記を見ている。
耳の奥で、自分の鼓動ばかりが鳴っている。
ペン先から落ちた一滴が、書きかけの行の端に小さな染みを作る。書記はその染みを避けるようにして、ペンを取り直し、書き進める。
「よろしい。では続きを……聖女様の保護後、回復に必要な処置として、速やかな投薬の許可を求める」
再び動き出したペンの音の中、ベネディクトが薬箱へ目を向け、呟く。
「飲ませ続ければ、いずれ薬なしでは生きていけなくなる。先代が口にしたように、聖女を辞めるなどとは、言えまい」
ペンが止まる。
「……司教様、今、何と?」
「何でもありません。手を止めないように」
書記はベネディクトと薬箱を見比べ、書きかけの紙へ目を落とす。それでも、羽根ペンを置かない。
聖女保護後、速やかに投薬の許可を求める一文が、紙の上に加わっていく。
書き上がった紙に、挨拶を返したカイランの姿も、セレスティア自身の声も、記されてはいなかった。
書記はそれを正さず、ベネディクトへ差し出す。
内容を確かめた司教が書面を封じ、教会印を押す。戸口の従者がそれを受け取り、回廊の向こうへ消えていった。
紙を押さえていた手のひらは汗で濡れていた。




