第40話 それとこれとは別
先ほどまで重なっていた話し声も食器の音も消え、割れた窓から吹き込む風の音だけが響く。
甘い香りで埋まっていた店内に、外の肉や魚の焼けた匂いが入ってきて重なる。
タマの声が消えたあとも、誰ひとり身動ぎすらしなかった。
匙を口元へ運びかけた客も、盆を胸の前に抱えた店の者も、割れた窓とカイランを見比べたまま、同じ姿勢で固まっている。
カイランの鎧が卓の縁に触れ、その静けさを破る。
卓へ片手をついた彼は、まだ息が乱れている。鎧のあちこちが歪み、傾きかける身体を、セレスティアが腕を支えて受け止める。
タマはカイランへ駆け寄ろうとして、床に転がった匙と、潰れて広がったパフェへ視線を落とす。赤い実と白い乳の層が硝子の破片と混ざっている。
タマはカイランと壊れたパフェを交互に見る。瞼の端が赤く滲む。
卓へついたカイランの手が、砕けた硝子の縁から少し離れる。
「……なんか、すまない」
「カイラン、前に助けてもらった借りはあるけど、それとこれとは別だからね」
「……君はいつでも、君のままだね」
無理に微笑もうとしたカイランが視線を落とし、卓へ手をついたまま咳き込む。
「カイラン!」
セレスティアが短く詠唱すると杖が強い光を放ち、カイランの傷を癒していく。
床へ落ちたままの匙を拾おうと伸びかけたタマの手が、途中で止まる。
「カイラン。何があったの?」
「……俺が、彼女を連れ出した。だが、攫ったんじゃない。セレスティアを守るためだ」
途切れる息の合間を縫うようにして、カイランはタマを真っ直ぐ見る。
タマが口を開こうとしたその時、砕けた窓の向こうから、大きな声が響き渡る。
「聖女様、その男からお離れください! 私とともに教会へお戻りを!」
翼の生えた聖域騎士が、窓の向こうに立っている。声は大きく、割れた窓越しでも店の奥の壁まで届いている。
セレスティアはカイランの側を動かない。
「戻りません。私は攫われていません。私が自分の意思で、カイランについてきました」
「御心、確かに承りました。そこまでして、その男の罪を御身へ引き受けようとなさるのですね」
翼の男は窓へ近づいてくる。カイランも剣へ手を伸ばすが、腕の痺れが残っているのか、柄を完全には握れない。
「お疲れなのでしょう、聖女様。その慈悲深い御心を、その男に利用されているだけです」
セレスティアはカイランの腕を強く抱える。起き上がろうとする力へ逆らうように引き、男が一歩近づくたびに、その腕を自分の側へ引っ張る。
器を置く機を逸したまま、コーヒーを片手に俺は口を開く。
「俺には、彼女が戻るのを嫌がっているように視えるが」
男の視線がこちらへ移る。
「聖女様は、この裏切り者を庇っておられるだけだ。御心を、貴様らの都合で利用するな!」
俺はそれ以上、何も言わなかった。話せば分かる相手ではない。そもそもこの男は、セレスティアの言葉そのものを聞いていない。
男が店へさらに近づいてくる。
カイランが身体を起こそうとするが、脚が震え、セレスティアに支えられなければ立っていられない。
それを見たタマが、俺より先に動く。卓を回り込みながら、左手で右手首のブレスレットに触れる。
「やめるんだ、タマ」
浅い呼吸を繰り返しながら、それでもカイランはタマを止めようとしている。
男の目が、カイランからタマへ動く。
その前へ進もうとしたところで、席を離れたリーネが震える手でタマの袖を掴む。
「ダメです、タマさん。ここで戦えば、近衛の第三団が来ます」
リーネは袖を離さず、割れた窓の向こうへ一度目を向けてから、声を落とす。
「あの方には教会がついています。でも、冒険者を、ギルドでは……庇いきれません。最悪、王国全土で指名手配されるかもしれないんです」
タマが足を止め、リーネへ顔を向ける。
「それだけじゃありません。聖女様を連れ出すのに手を貸したと見なされれば、教会からも追われます。王都を離れれば済む話じゃないんです」
リーネの視線が、タマの肩に掛かった鞄へ落ちる。
「……紹介状だって、使えなくなるかもしれません」
タマの手が鞄へ動き、紹介状をしまった辺りにそっと触れる。
リーネはその手を見てから、セレスティアへ目を向ける。
「聖女様は、教会へ戻られてもお命を奪われることはありません。だから、タマさんまで……」
袖を握る手に力がこもり、布へ細い皺が寄る。
「……帰ってきたら、一緒に服を選ぶって約束したじゃないですか」
タマはしばらくリーネを見つめ、それから背後の二人へ顔を向ける。
カイランは卓に手をついたまま、肩でセレスティアを男から遠ざけようとする。歪んだ鎧が卓の縁を擦り、短い音を残して身体が傾き、セレスティアがその腕を抱え直す。
彼女自身も長杖に体重を預け、肩で息をしている。それでも、カイランの腕から手を離そうとはしない。
タマの手が鞄から離れる。
「……ごめんね、リーネ」
袖を掴んでいる手へそっと手を添え、一度握ってから外す。
そのまま二人の前へ進み、カイランとセレスティアを背にして、男へ向き直る。
「セレスティアは、戻りたくないって言ってる。二人とも、渡せないよ」
リーネの手は、タマの袖があったところに残っている。やがて、何も掴んでいない手がゆっくりと握られ、胸元へ引き寄せられる。
俺は、先ほどまで服の話をしていたタマを思い出す。
『帰ってきたら行こう』
タマはそう言って笑っていた。卓の上で組んだ指にはまだ震えが残っていたが、リーネと似合う色を話す声は弾んでいた。
このままタマが前に立ち続ければ、タマもまた教会に仇なす者として覚えられる。同じ卓についていたというだけで、リーネまで巻き込まれるかもしれない。
……罪人になるのは、俺だけでよい。
手に残っていたコーヒーの器を、倒れずに残っていた椅子の座へ置く。
器の底が木へ触れる小さな音に、タマが振り返る。
俺は静かに息を吐き出すと、タマの隣まで歩く。カイランたちの前に立つタマと、男との間へ、割って入るようにして。
「タマ。リーネを頼む」
タマが息を詰める。伸びてきた手が、俺の袖に触れる。
「ゲドーマル、何を__」
その指が袖を掴むより先に、砕けた窓枠を越え、店を背にして大通りへ降り立つ。男からタマたちへ続く道を、俺の身体で塞ぐ。
通りには、俺たちが並んでいた列の名残がまだ散らばっており、荷を抱えた商人や、店先を覗いていた者たちが、遠巻きにこちらを見ている。
カイランたちへ向けられていた男の目が、今度は俺だけへ据わる。白布に包まれた大きなものを提げた腕は、さっきから揺れもしない。
「退け。貴様には関係のないことだ」
「断る」
男から眼を外さないまま、群衆の割れた空間を進み、大通りの中央へ出ると、男の視線がついてくる。
……ここで刃を合わせれば、タマは必ず隣に立つ。だから、この男をタマから遠ざける。それで近衛騎士はタマとリーネを捕まえはしない……はずだ。
纏う魔力の流れ、踏み込みの重さ、身体のまわりで絶えず鳴っている風。どれも俺ではなく、店の中の一点へ向いたまま動かない。
この姿のままでは、この男を店から引き離し、王都の外まで連れ出すことはできない。
……ならば、使うべき姿は一つしかない。
背にした店の中で、短く息を呑む音が聞こえる。
……すまない、タマ。
足元で、草履が石畳を噛む。
押さえていたものを解く。
ガグンと立ち合った時、ようやく掴んだ白紫の巡りは、押さえを解いても崩れない。
それでも、収まりきらぬものがある。
身体に薄く張りついていた白紫の光が、留めきれずに外へ剥がれた。空気へ触れた端から紫へ変わり、白い芯を残した太い雷となって、幾筋にも分かれながら、人の退いた石畳を走る。
石の継ぎ目からわずかに覗いていた草が震え、閉じていた蕾を膨らませる。小さな花が、一つ、また一つと開いていく。
だが、そこまでで止める。以前のように、触れた根から根へと広がってはいかない。
走り抜けた紫雷に、窓枠へ残った硝子が細かく鳴る。雷が途切れたあとも、俺から溢れる重い気配は消えず、大通りの空気を沈ませていく。
青みがかった髪を押し分け、根元は黒く、先端へ向かうほど真紅を帯びた五本の角が伸びていく。その重みが、頭へ戻ってくる。
本来の重さに戻った頭を、正面へ向ける。
男を、視る。
*
玄関先には、乾かすために並べられた薬草の青い匂いが漂っていた。
前広場ではゴブリンキッズたちが毬杖に興じており、木の球が土を転がる音と笑い声が途切れることなく続いている。
玄関先に腰を下ろした療養中のリラの前で、アルティシアは薬草の茎の向きを揃え、風が通る程度に緩く紐を巻いてみせる。
リラも真似るが、剣を握ってきた手の力が抜けず、束の端で葉を数枚潰してしまう。
アルティシアはそれを咎めたりせず、リラの指へ手を添え、紐をわずかに緩めさせる。
スイウンは玄関近くで身体を休めながらも、折に触れてイバラキの姿を目で追っている。
少し離れた前広場では、レオンがゴブリンジェネラルと何かを指さし合いながら話し込んでいる。
その中央で、イバラキが毬杖の柄へ、ほつれた布を巻き直している。周囲へ目を配りながらも、手先は乱れず、結び目が一つ一つ正確に締まっていく。自分の手では潰してしまう作業が、あの指では音もなく片づいていくのを、リラはしばらく目で追っていた。
布の端を折り込み、結び目を締めようとしたイバラキの指が、不意に……止まる。
ゴブリンキッズの声も、木の球が土を擦る音も、薬草を揺らす風も、何も変わってはいない。
結びかけの布が、毬杖の柄から垂れている。それを直すこともなく、イバラキは毬杖を玄関脇へ置くと、王都の方角へ顔を向ける。
黒かった瞳が真紅へ変わり、藍色の髪を押し分けるようにして、二本の漆黒の角が伸びていく。
人の姿だったはずの彼女は、すでに”何か”へ変わっていた。
同時に、濃褐色の直垂の周囲で紫の光が一息に膨れ上がる。幾筋もの光が枝分かれし、ばりばりと音を立てて地面と空気を走る。
雷に似ている。リラ自身、幾度となく手の内に生み出してきたものだ。その光は紅赤だ。こんな紫でも、こんな大きさでもない。
……ゲドーと、同じ。
押し寄せた熱が頬に触れ、膝の上の薬草が震える。潰した葉の青い匂いが、強くなる。
その中心で、イバラキは身じろぎ一つしていない。さっきまで毬杖の柄へ布を巻いていた手が、今は紫の光の中にある。
リラの手から、束ねかけていた薬草が数本こぼれ落ちる。膝が先に動き、アルティシアの前へ身体を入れようとするが、腰が上がりきる前に力が抜け、横へ揺れる。
アルティシアはリラの腕へ手を添え、揺れを支える。背筋は崩れていないのに、添えられた指が、リラの腕の上で一度、強く閉じる。その薄い灰青の瞳は、イバラキではなく、王都の方角へ向いている。
リラは支えられた腕から、その横顔へ目を上げる。アルティシアは退こうとも、イバラキを止めようともしない。
スイウンは目を見開いたまま、開いた口から声を出せずにいる。
レオンはジェネラルとの会話を止め、玄関脇に立てかけていた槍を取り、棲家の入口を守る位置へ身体を移す。
イバラキは、王都へ向けて地を蹴る。
リラが顔を向けた時には、もうその姿を追えない。巻き上がった土埃だけが、前広場を流れていく。
*
割れた窓から押し寄せる氣に、タマは息を詰める。
店の者が取り落とした木盆が床を打ち、その音が消えるより先に、客たちが卓へ突っ伏していく。
窓の向こうでも、商人が荷を抱えたまま膝を折り、隣の男もそれを支えようとして崩れ落ちる。
すぐ横でリーネの身体が傾く。タマは腕を伸ばして抱きとめる。リーネの口元へ頬を寄せると、微かな吐息が触れ、胸もゆっくりと上下している。
……気を失っているだけ、ね。
リーネの重みを膝へ受けながら、通りへ顔を上げる。
ゲドーマルが、翼の男へ片手を向けている。暗褐色の翼が大きく開き、石畳を打つ風が土埃を跳ね上げると、男の巨躯が屋根より高く舞い上がった。
その姿を追って、ゲドーマルの手が上を向く。放たれた氣が空気を押し、タマの頬を叩く。
翼を広げた姿が大きく仰け反り、そのまま空の向こうへ吹き飛んでいく。白布の包みが陽の光を返したのが最後で、もう目では追えない。
「ゲドーマル!」
呼びかけた時には、彼も地を蹴っていた。墨色の直垂の裾が翻り、巻き上がる埃の向こうへ消えていく。
タマは唇を結び、腕の中へ目を落とす。リーネの頭がタマの腕に沈み、頬へ落ちた髪を払っても、閉じた瞼は動かない。
「……彼は、魔族なの?」
セレスティアの声に顔を上げる。長杖を握り締めた彼女の傍らで、カイランが窓枠へ手をついている。店の中で身体を起こしているのは、その二人とタマだけだった。
カイランが首を横に振る。
「違う。魔族じゃない。彼は……」
カイランが言葉を探している間に、タマはリーネを硝子の散っていない壁際へ抱え直して運び、椅子に掛かっていた外套を折って頭の下へ敷くと、そっと横たえる。
震える指で指輪を引き抜き、続けてブレスレットを外すと、二つを鞄へしまう。
抑え込まれていた魔力が、息を取り戻すように全身へと広がる。
頭の上で耳が立ち、白銀の尾が広がっていく。九本の尾の先が椅子の脚をかすめ、床に落ちていた紙片を揺らす。
冒険者として身につけていた軽装が溶けるように薄れ、白と淡い灰を基調にした布が幾重にも重なり和服に近い静かな衣に変わる。
「ほら!」
セレスティアの目が大きく開く。カイランの腕を掴む手に力がこもり、視線が白銀の尾と彼の顔とを往復する。
カイランは口を開きかけたままタマを見て、それから額へ手を当て、頭を抱える。
タマは短く息を吐く。
「私たちは魔族じゃないよ」
タマは静かに告げ、鞄の口を閉じる。
「でも、その姿……じゃあ、あなたたちは何なの?」
セレスティアの目が耳から尾へ動く。長杖を握る手には、力が入っている。
「とりあえず、あなたたちの敵ではない」
それだけ答えて、割れた窓の向こうを見る。舞っていた埃が薄れ、屋根の上には、もう何の姿も残っていない。
「行かなくちゃ」
タマが手を伸ばすと、手のひらから細い光が走り、何もない空間を縦に裂いていく。
裂け目の向こうに見えていた卓や壁が、縁へ引き寄せられるように歪む。低い唸りが床を伝い、落ちていた紙きれが浮き上がると、九本の尾が吹き込む風に大きく靡く。
タマは目を細め、伸ばした手を横へ払うと、光の縁が一気に押し広げられる。人が通れるほどの空間が口を開き、湿った土と草の匂いが、店に残る甘い乳の匂いと重なる。
セレスティアの視線がカイランに向く。
「……嘘、でしょ。次元魔法?」
タマは一歩進もうとして、リーネの方へ顔を向ける。
横たわる彼女の手が、床の上へ投げ出されている。さっきまで、自分の袖を掴んでいた手。
その傍らへ膝をつくと、鞄から紹介状を取り出す。ギルドの印がある面を上にして、リーネの手を腹の上へ戻し、その上へそっと置く。
紙の端に添えた指が、小さく震える。
「……ごめんね」
手を離し立ち上がると、大きく息を吐く。
背後で長杖の石突きが床を打つ音が聞こえる。
「待って。私たちも行く」
セレスティアがカイランの腕を支え、こちらへ進んでくる。
タマは二人を見返す。白い包帯を巻いたセレスティアの額には汗が浮かび、歪んだ鎧を纏うカイランも一歩踏み出すたびに顔を歪めている。
「その身体で?」
「ここには残れない」
カイランが答えると、セレスティアも頷く。二人とも、足を止めようとはしなかった。
タマは開いた空間へ目を移す。尾の一本が足元へ寄り、すぐに離れる。
「……責任は取れないよ。守ってあげられるかも……わからない」
「分かってる」
セレスティアは長杖を握り直す。カイランも、タマから目を逸らさずに頷く。
タマは二人へ背を向け、空間の裂け目へ足を踏み入れる。白銀の尾が揃って後ろへ流れ、そのあとを、互いを支える二人の足音が追ってくる。




