第39話 翼の男
少し前に正面広間の方角から、厚い扉が開く腹の底へ響くような重い音が届いた。
回廊の奥から流れてきた風に、冷たい鉄と濡れた鎧の匂いがもう混じり始めている。
両脇に立ち並ぶ石柱の影が昼を過ぎて少し傾いた日差しに引かれて、細い帯となって石床を横切っていた。
光と影が交互に並ぶ回廊を進むと、眩しさと暗がりが交互に顔をかすめる。
先ほどまで、所々から聞こえていた話し声が、入口側から波が引くように消えていく。
代わって硬い靴音と、鎧の金具が触れ合う低い響きが石床を伝って来る。足音は正面広間で一度止まり、すぐにいくつかの方向へ分かれていく。
カイランに手を引かれ、セレスティアは教会の奥へ続く回廊を進む。
額に浮いた汗が頬を伝う。走れる、とカイランには告げたが、長杖を突くたび、包帯の下では塞がりきらない傷が疼き、歩く速さは思うように上がらない。
角の先から現れた修道士は、二人を見るなり背後を振り返り、怯えたように壁際へ身を寄せる。
その脇を通り過ぎたところで、カイランが、引いているセレスティアの手を強く握り直す。
カイランは振り返らない。道中で一度、腰の後ろへ指先を這わせた。そこに小さな革の袋が下がっているのを、セレスティアは見た。中身を尋ねる余裕はなく、尋ねる必要も感じなかった。
その時、すぐ前を行く背中が、前触れもなく揺れを止めた。止まりきれずにその背に額を打ちつけ、傾きかけたセレスティアの身体を、振り向きざまに伸びてきたカイランの腕が抱きとめる。
その腕の中で姿勢を戻し、セレスティアがそっと視線を上げると、すぐ目の前にある横顔は強張っていた。鋭く細められた瞳が、外へ続く扉の周り、その暗がりの一点を捉えている。
「……思っていたよりも早い」
返事をするより先に、来た道の奥で、別の扉が開く音がした。
カイランの手が裏口の扉へかかる。木の扉が開いた瞬間、外の光を塞ぐようにして、そこに人影が立っている。
長身で、胸板が厚く、背には暗褐色の翼が畳まれている。片手には白布に包まれた大剣が提げられている。布の結び目はまだ固く締まったままで、まだ解かれた様子はない。
その斜め後ろには、狐のような細い目を更に細くしたベネディクトが微笑んでいる。
ベネディクトの目が、二人の繋いだ手へ落ちる。口元の笑みを崩さないまま、半歩だけエドガーの背後へ身を引いた。
「聖女様には、療養のお部屋をご用意しております。カイラン殿も、本部からの書状はお読みになったはずですが」
……エドガー。
セレスティアの手を包むカイランの指に、強い力がこもる。
「……お久しぶりです、エドガー団長」
声はいつもと変わらない。それなのに、握られた手のひらからは、微かな震えが伝わってくる。
息を詰めるカイランの視線がエドガーの姿に捉えられたまま動かない。
だが、エドガーはカイランの声など聞こえていないかのように一切の反応を示さない。
彼の鋭い眼光がセレスティアを捉えた瞬間、翼はさらに体側へきっちりと重ねられ、《聖女》を迎えに来た顔に、まず豪快な笑みが浮かぶ。
だが、明るい青の目がセレスティアの包帯へ落ち、次に額に浮いた汗、そして傾いだ身体へと移っていく。
最後にその視線は、カイランと繋がれた手の上で止まり、目元の隈が隠しきれないカイランの顔へと上がっていく。
笑みが、そこで消えた。
「先日、魔王に敗れたことは聞いている。聖女様がお怪我を負われたことも、今朝、貴様がヴァイン司教へ刃を向けたこともな!」
裏口の狭い石壁を震わせるほどの声量だった。エドガーの視線がもう一度、カイランの手の中にあるセレスティアの手へ落ちる。
「そのうえ今度は、療養命令に背き、聖女様を裏口から誘拐するつもりか」
カイランがセレスティアの手を離し、彼女を庇うように一歩前へ出る。
「違う。これは__」
カイランが言い終えるより早く、エドガーの拳が動く。カイランは腕を上げて受けたが、受けた腕ごと身体が宙に浮く。
腹の底まで揺らす重低音が鼓膜を打つ。
一瞬遅れて吹き荒れた風圧にセレスティアの衣類が大きく煽られ、カイランの身体が消えたと錯覚するくらいの速さで壁際へと叩きつけられた。
激突の瞬間、背後の石壁が大きく凹み、クモの巣状の亀裂が一瞬で天井まで走ると、破砕された石の粉塵が白く爆ぜ、周囲の空気を覆い尽くす。
手を離されたセレスティアの身体が暴風のような衝撃に傾き、長杖の石突きが床を打つ。
音を拾ったエドガーの目がセレスティアに流れ、自力では立ちきれずに傾いていく細い身体を捉えるや、太い腕がためらいなく彼女の脇の下へ滑り込む。
そのまま軽々と引き揚げ、腕の中にセレスティアの身体を支え上げる。
「何をしていた、カイラン!」
廊下のすべてを破裂させるような怒声が響きわたる。
「貴様が先に帝国で魔王に敗れ、聖女様にまで戦わせた! そのうえ、今のお姿を見てもまだ歩かせるか! それに何だ、その腑抜けた面は!」
セレスティアを支えたまま、エドガーは壁際へ顔を向け、低く詠唱を始める。鎧に触れた頬へ、その声の響きが伝わってくる。
「やめて、エドガー! カイランに手を出さないで!」
セレスティアの声が届いた瞬間、詠唱が途切れ、湧き上がっていたエドガーの魔力がぴたりと止まる。
セレスティアが長杖を突き直し、足元を確かめるまで腕を添えてから、エドガーはゆっくりと支えを解いた。
セレスティアに向き直ると、広がりかけていた暗褐色の翼をもう一度畳み直し、片膝を突く。
怒鳴るような響きはどこにも残らず、聖女にだけ向ける、静かで丁寧な声で話す。
「……お優しい。御心、確かに承りました」
……私が時間を、稼ぐ……なんとしても。
「どうかご安心ください。まだ殺しはいたしません。聖女様をお守りできる騎士へ、必ず戻してみせます」
エドガーの視線が壁際のカイランへ戻る。先ほどの豪快な笑みが再び浮かぶ。
「立て、カイラン! その程度で死ぬほど柔に鍛えた覚えはない! もう一度、俺が一から叩き直してやる!」
説得が実る見込みなど端からないことを、セレスティアは分かっている。
言葉の意味をすり替えられることも、彼女の意思より都合のよい”御心”を彼が選び続けることも、これまで幾度となく見てきた。
それでも、話している間だけは、あの目は自分から離れない。
視界の端で、カイランが床へ手をつき、身体を起こしていく。痺れの残る腕を一度振り、片膝を立て、腰の後ろへ手が回るのが見える。
セレスティアは顔をエドガーから動かさず、傷の疼きを我慢して背筋を立て直す。
深く、長く、息を吐き出す。吐息とともに、頬の強張りがゆっくりと解けていく。
「エドガー。私の話は、まだ終わっていません」
エドガーが再びセレスティアへ向き直り、片膝をついたまま口を閉じる。
「あなたが受けた報告には、私が自分で魔王の前へ立ったことも含まれていましたか」
「聖女様が責をお引き受けになる必要はございません。カイランめが役目を果たしてさえいれば__」
「では、私が自分の意思でここを出ると言ったことは?」
「今は傷と疲労により、御心と言葉が一致しておられないのでしょう」
視界の端で、カイランが完全に立ち上がるのが見えた。
その向こうで、ベネディクトの細い目がカイランを追っている。腰の後ろへ伸びた手に気づいたのか、口元の笑みが薄れ、エドガーの方へ顔が向く。
カイランが腰の後ろの袋から取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな玉。
「誰を傍に置き、誰と行くのかは、私が決めます。最後まで聞きなさい、エドガー」
ベネディクトの声が、初めて跳ねた。
「エドガー団長、カイラン殿が!」
エドガーはベネディクトの声を気にする様子も見せずに、セレスティアを見続けている。
「恐れながら、今の聖女様は__」
読み替えが始まりかけた、その言葉の途中で、乾いた破裂音が裏口一帯に響いた。
カイランが叩きつけた玉が割れ、灰白色の煙が瞬く間に膨れ上がる。
白く閉ざされていく視界の端で、ベネディクトが袖を口元へ当て、戸口の脇へ身を退くのが見えた。
「カイラン! 貴様、卑怯な手を使いおって!」
エドガーの怒声が廊下に広がる。
カイランの呟くような詠唱が、白く煙る廊下に聞こえる。
その声が結ばれると、すぐ前にいたはずのエドガーの声が、不意に途切れる。鎧の金具が触れる音も聞こえなくなり、長杖を握る指に力がこもる。
煙は薄れることなく、開いた扉から差す光さえ白く滲ませている。
その中から伸びてきた腕が、セレスティアの背と膝の裏へ回る。傷のある肩に触れないよう身体を引き寄せられ、足が床を離れたところで、思わず息を詰める。
頬のすぐ傍では、カイランの呼吸が聞こえている。身体を支え直す腕に合わせて衣が擦れ、その小さな音も耳へ届く。それなのに、エドガーのいた方からは何も聞こえない。
セレスティアは長杖を握ったまま、傷のない側の腕をカイランの首へ回し、耳元へ唇を寄せる。
「行って」
頬に触れるほど近くでカイランが頷き、セレスティアを抱く腕に力がこもる。
身体が横へ運ばれ、すぐに裏口の方へと進み始める。煙に隠れた床を見ることはできないが、踏み出すたびに伝わる揺れで、カイランが足を速めているのが分かる。
先ほどとは違い、エドガーにも二人の姿は見えていないはずだ。聖女がどこにいるか分からなければ、あの拳も振るえない。
カイランの首へ回した腕を離さず、セレスティアは白い煙の向こうを見つめる。
やがて頬を外の空気が撫で、目の前を覆っていた煙が途切れると、昼過ぎの日差しに目が眩む。
カイランは足を緩めない。短く詠唱すると、風を纏い速度を更に上げる。
セレスティアも顔をその肩へ寄せ、走るたびに疼く傷を庇うように、長杖を身体へ引き寄せる。
裏口の方角、背後から強い風が追いつき、衣の裾を煽り、セレスティアの琥珀色がかった髪が乱れる。
振り返ると、裏口から煙が噴き出し、外の光の中へ流れていく。その切れ間に、暗褐色の大きな翼が見える。
カイランの肩越しに遠ざかっていくエドガーは、戸口に立ち、”聖女”を探すように首を何度も左右へ振っている。
*
「俺の目の前で聖女様を……誘拐するとは」
胸に湧いた戸惑いは、長くは続かなかった。すぐに翼の付け根が大きく盛り上がる。
「そこまで堕ちたか、カイラン!」
暗褐色の翼が限界まで開かれ、足元の小石が震え始める。
白布に包まれた大剣は、依然として片手に提げられたままだった。
翼の巻き起こした風が地面を打ち、土煙と小石を弾き飛ばして、エドガーの身体が空へ舞い上がる。
*
順番待ちの列に並んでからずいぶんと待たされて、俺たちはようやく卓へ着いたところだった。
窓際の四人掛けの卓に、俺は窓に近い側、隣にタマ、向かいにリーネという並びで座っている。
店内には、焙った豆のほろ苦い香りと、焼き菓子や温めた乳、果実を煮詰めた甘い匂いが幾重にも混じり合っている。
どの卓にも客が座り、空いている椅子は一つもない。客のほとんどは女で、若い娘や身なりを整えた婦人たちが二人、三人と卓を囲み、服や菓子の話に声を弾ませている。
その間を、木盆を抱えた店の者たちが、客の椅子や荷物を避けながら忙しなく歩いている。
「ギルドにも、ここの豆を卸してもらっているんです。マスターがこの店のご主人と古い付き合いで、特別に回してもらっているそうです」
リーネが店内へ目を向けながら言う。
西方から届く豆を扱う店は、王都でもここくらいらしい。そのせいか、店の外にはまだ長い列が伸びている。
横へ眼をやれば、ついさっきまで俺たちが並んでいたその列が、窓越しに視える。
隣の卓へは、薄く延ばした生地を花びらのように畳んだクレープと呼ばれる菓子が運ばれていく。
注文を終えて品を待つ間、タマの目がリーネの装いへ吸い寄せられていた。
受付に立つ時の、動きやすい形の服とは違い、足首の近くまで届く長いスカートを履いている。
「その裾、素敵。前は見なかった形だね」
タマが言うと、リーネは頬を染めながら裾の端を指でつまんでみせる。
「最近、王都で流行っているんです。裾のところに違う色の布を重ねて縫うんですよ。歩くと、こう、内側の色がちらっと見えて」
言いながら、足を踏み替えると、裾の奥から、深い色の布地が覗く。腰紐や小さな留め具にも明るい色を合わせるのが今の流行りらしい、とリーネは続ける。
「あ、さっき歩いてたときに見えたの、それだ」
「貴族の方々は、もっと布を重ねたり、刺繍を入れたりするそうですけど」
「……それは、なんか、重そう」
「とても重いらしいです」
二人が揃って笑う。
……十二単か。
「タマさんの髪、白銀でしょう。淡い青とか、深い赤とか、絶対似合うと思います」
タマは自分の髪を少しつまみ、興味深そうに目を細める。それから、困ったふうに眉を下げて笑う。
「着てみたいけど……これからエルフの国まで歩くから、裾が長いのは向かないかも」
「なら」と、リーネが即座に返す。
「帰ってきてから、一緒に選びに行きましょうよ」
「うん。帰ってきたら行こう」
タマは何のためらいもなく、笑顔でそう答える。
俺には布地の重ねだの色の合わせだのは、正直よく分からない。
それでも、声を弾ませながら話すタマを視ているだけで、悪くないと思える。
卓の上で組んだ指先には、まだ細かな震えが残っている。タマの声は、それでも途切れない。
程なくして、盆を手にした店の者がやってくると、タマとリーネの前には、それぞれ色の違うパフェが、背の高い硝子の器に盛られて置かれる。
片方は赤い実を粒のまま重ねた層に、白く泡立てた乳がとろりと掛けられている。もう片方は、蜜で炊いた粘り気のある飯を白く固めた層の上に、薄く切った干し果実が並べられていた。
俺の前には、湯気を立てるコーヒーが置かれる。
焙じた豆の、苦みを帯びた香りが鼻の奥まで届く。
棲家で出るのは茶か紅茶と決まっているから、この香りを嗅ぐのは、この店へ来た時だけの楽しみだ。
俺が取っ手に指をかけて持ち上げるのに合わせ、タマとリーネも柄の長い匙を手に取る。
タマの匙の先が、震える指に引かれて器の縁へ軽く当たり、高い音を立てる。
それでも三人とも、ようやく最初の一口へ辿り着こうとしていた。
その時、窓の外の列に並んでいた誰もが、通りの向こうへ一斉に顔を向ける。
短い悲鳴が上がり、そのすぐ後を追うように、空気を打つ大きな音が届く。
窓際に立っていた人波が、左右へ弾かれるように割れ、ついさっきまで人で埋まっていたはずの窓の正面が、不自然なほど広く開かれる。
その向こうから、陽の光を弾く銀色の塊が、まっすぐこちらへ迫る。
俺は空いている手をタマの前へ出し、窓の正面から身を引く。
……銀色の鎧を纏った男。
硝子の欠片が四方へ散る。背中を向けて飛んで来た男は俺たちの卓へ叩きつけられ、その上を勢いよく滑ると、端から床へ転がり落ちる。
タマとリーネの前にあった二つのパフェが弾き飛ばされ、床へ落ちていた。
リーネは声も出さず、身体を強張らせたまま動けずにいる。
タマは匙を握ったまま、目を丸くして動かない。
俺はコーヒーの入った器を落とさずに持っていたが、滑ってきた男がぶつかった拍子に、中身が手の甲へこぼれた。
……熱い。
タマはゆっくりと床へ目を落とす。器は割れ、赤い実と白い層とが砕けて広がっている。それから、瞳に涙を滲ませて、俺を睨みつけてくる。
「……一難去ってまた一難」
……俺が、何をした。
店の中の客も、店の者も、誰ひとり動けずにいる。
割れた窓の向こうから、セレスティアが現れる。白い衣に金の飾りをつけ、長杖を店内の床へ突いてから、残った硝子の破片を避けながら窓枠を越えて来る。足元が定まらないまま、それでも倒れた男の傍らへ急ぐ。
窓の外に眼をやると、暗褐色の翼を広げた大男が立っている。翼がすぐさま畳まれる。
……先ほどの隊列の先頭にいた翼の男だな。
片手に提げているのは、剣にしては大き過ぎる白布の包み。窓からの距離の取り方が、獲物を測る獣の間合いに似ている。その立ち方だけで、只者ではないと視て取れる。
床に倒れていた男が、卓へ手をつき、身体を起こそうとする。
セレスティアがその腕を支えるが、彼女自身も包帯の上から傷が疼くらしく、肩で息をしながら顔を歪めている。
男が、ゆっくりと立ち上がり顔を上げる。
タマの手から、握ったままだった匙が滑り落ち、床で乾いた音を立てる。
「……カイラン」




