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第38話 揺れる者、揺れない者 


 鐘が鳴った。朝の光を浴びた屋根の連なりを、冷たい風が渡っていく。


 カイランは、その音を、大教会の施療院へ続く戸口で聞いた。


 いつもと同じ鐘楼から出ているはずなのに、今日はその規則正しい音が鳴るたびに、胸の奥を突かれたような重い振動が残り、胃の底へ沈み込んでいく。


 瞼は重く、目の奥に熱を感じる。腕を持ち上げるのにも不自然な力が入る。


 夜のうちに歩いた場所や中身を確かめた木箱を、もう一度思い出してはみるが、今この場で使えそうなものはない。


 ここ数ヶ月の間、幾度となく調べた場所には、やはり新しい情報は残されていなかった。


 金の流れを示すものも、薬の出所を辿る方法も見つからない。


 ……大司教が思っている以上の大物が動いているのかもしれない。


 それでも、何もしないよりはいい。そう自分に言い聞かせて、カイランは扉をくぐった。


 王都大教会の施療院、その入口側にある待合広間は、すでに人で埋まっていた。


 普段なら、傷を負った者はここで順番を待ち、奥の治療室へ通される。だが今朝は、白木の卓が広間の正面に据えられ、その上に薬箱が積まれていた。


 卓の前には、信者や治療を求めて訪れた市井の人々の列が伸びている。


 奥では湯を沸かす音が絶え間なく続き、聖職者の一人が包帯を巻き直す手を止めない。


 列の端では、待つことに飽きた子どもが親の手を引いて足踏みをしている。


 列の中ほどには、粗末な外套に身を包んだハルが混じっていた。伏せられた目が、前に並ぶ者ではなく、卓の上の薬箱を見ている。


 カイランと視線が重なる。だがハルは、顔を逸らした。


 壁沿いの棚には、布や道具が整然と収められていた。誰もが見慣れた朝の光景の中で、その薬箱の山だけが、カイランにはひどく収まりの悪いものに見える。


 治療や相談の場ではなくなっていた。


 聖女が認可を与える瞬間を見せるために、あらかじめ”舞台”として組み上げられている。


 セレスティアは、すでにそこに立っていた。目の縁はほんのりと赤く、薄い唇が真一文字に結ばれ、胸の上下をほとんど見せない。


 白い法衣に朝の光を受け、聖なる長杖を静かについている。


 カイランが歩み寄っても、彼女はこちらと視線を合わせない。


 昨日のことにも、今日のことにも、これから起こることにも、どちらの口も触れない。


 ここまで顔を合わせる度に、何度か言葉が喉元まで上がってきたが、そのたびに行き場を失って喉の奥へ引っ込んだ。


 今は、遮る者すらいないというのに、それでも言葉にならない。


 やがて、ベネディクトが現れる。一つひとつの足音の間に、充分な間を空けながら歩いてくる。


 昨夜と変わらぬ、皺ひとつない司教服。狐を思わせる細い目が、セレスティアとカイランを一度ずつ見渡す。


 ベネディクトの口元が、わずかに横へ広がる。そのまま薬箱の脇へ歩み寄ると、胸元から懐中時計を取り出し、針を確かめ、乾いた音を立てて蓋を閉じる。


 その音を合図にするように、白い手袋が、卓の向こう、ベネディクトの隣に残された場所を示す。


 「どうぞ、聖女様」


 列の先頭では、腕に包帯を巻いた若い男が、痛みを堪えるように肘を抱えている。


 セレスティアの視線が、その包帯へ落ちると、伏せられた瞼が狭まり、眉間に細い皺が寄る。

 

 杖の石突きが一つ鳴った。


 セレスティアは卓の端を回り、ベネディクトの隣へ立つ。白木の卓と積まれた薬箱がカイランとセレスティアを隔てる。


 それだけで、列の前から順に頭が下がっていく。張り詰めていた肩が緩み、安堵したように息が漏れる。


 彼女はまだ、何ひとつ認めていない。それでも、薬箱の向こうに二つの白い衣が並んだ光景が、昨夜の言葉をカイランの耳の奥へ蘇らせる。


 『信者がどちらとして受け取るかは、私どもには決められませんので』


 ベネディクトは、それ以上何も言わなかった。


 ……口にする必要さえないのだろう。


 セレスティアは積まれた薬箱を見つめたまま、ベネディクトに聞く。


 「この薬を使った者たちを、その後も診ているのですか」


 「お使いになった方々からは、感謝のお言葉をいただいております。実績は何よりも雄弁でございます」


 セレスティアの視線が、列を作っている者たちの顔を順々に流れていく。


 人々の顔が一斉に上がり、全ての視線がセレスティア一点に集まっていく。


 傷を負った者も、腰の曲がった老人も、首を斜めに持ち上げたまま微動だにしない。


 瞬きすら忘れたかのように、誰もが目を丸く開いて彼女の姿を追い続けている。


 セレスティアは、二度目を問わなかった。


 カイランは黙ったまま、彼女の横顔から目を離さない。


 幾度も夜を潰して調べた末に、確かめられたことはひとつきりだ。


 この薬は、効く。肘を抱えたあの男の腕は、今日のうちに包帯を外せる。腰の曲がった老人は、明日には自分の足で戸口をまたげる。


 「私が確かめます」


 セレスティアの手が、包帯のある側の肩へ触れ、それから、ベネディクトへ差し出される。


 ベネディクトが小瓶をひとつ取り上げ、黙ってその手のひらへ載せる。


 白い手が小瓶を受け取り、栓へと指がかかる。


 自分が飲めないものを、人には飲ませられない。カイランの知る彼女なら、まず自分で試す。


 視界の端で、ハルの手が外套の内側へ滑る。


 袖口に隠されていた細い刃が、朝の光を拾いかける。だが、それが完全に姿を現すより先に、手首へ手が重なる。


 ハルの背後から、艶のある灰色の髪が一房こぼれる。


 女の唇は「まだ」と形取る。


 押さえ込むほどの力を込めたようには見えない。


 ハルの目が、その手から小瓶へと戻る。わずかな間のあと、柄を掴んでいた手が離れる。


 カイランはセレスティアを止める言葉を探したが、何ひとつ声にならなかった。代わりに、手が腰の柄へと動く。


 昨日、剣の届く間合いに立ちながら、結局その刃を鞘から抜くことはなかった。だが今、その手が、勝手に動き出す。


 腰を落とし、息を静かに吐き出すと、ベネディクトを視界の中心に入れる。


 ……全てを失うかもしれない。


 視線を外そうとしても、ベネディクトから離れない。


 「……構うものか」


 カイランの親指が鍔を押す。刃が指一本分だけ鞘を離れ、かすかな金属音が広間へ落ちる。


 ベネディクトが細い目を見開き、カイランの目を見る。


 視界の端では、栓にかかっていたセレスティアの指が止まっている。


 表情は動かない。背筋も変わらない。人々は彼女を待っている。


 そして、セレスティアは栓を開けることなく、小瓶を静かに卓へと置く。


 杖の石突きが、もう一度鳴る。


 セレスティアは来た時と同じように卓の端を回り、カイランのいる側へ戻る。


 カイランは彼女の横顔を見たまま、わずかに浮いていた刃を鞘へ戻す。


 セレスティアはそれを見て、頷く。


 それから、列の中の一人へ目を向ける。包帯を巻いた腕を胸元に抱え、順番を待っていた先頭の男だった。


 その視線が交わったところで、彼女はようやく口を開く。


 「この薬に、私は認可を与えていません」


 声は、大きくないが、施療院の隅々にまで届く強さを含んでいる。


 「何が入っているのかも、どこから来たのかも、私は知りません」


 そして視線を、列の端から端までゆっくりと巡らせる。


 「巡道教の名を信じてくださる方は、どうか今は、これを飲まないでください」


 『その呼び方やめて』と彼女は言った。『カイランには呼ばれたくない』と。


 その彼女が今、巡道教の名を借りて、列の隅々まで声を届かせ、人々を薬から遠ざけていく。


 「薬箱を奥へ運び、封じてください」


 薬箱の傍らに控えていた聖職者たちが顔を上げる。だが、箱へ手を伸ばす者はいない。視線が、ベネディクトへ集まった。


 「聖女様の仰せです」


 ベネディクトが告げて初めて、白い袖が動き出す。


 ベネディクトは、声を荒げなかった。整った笑みを崩さないまま、施薬は日を改めると告げ、静かに一歩退く。


 卓に置かれた栓の閉じたままの小瓶を、ベネディクトは取り上げると、それを司教服の内側へとしまい込む。


 立ち去りぎわ、ベネディクトが傍らに従者を呼び、短く告げる。


 「本部へ、伝えなさい」


 何を伝えるのか、それだけではカイランには分からない。ただ、鍔の鳴った音を、あの男は確かに聞いていた。


 司教が去っていく方角を、カイランは見ない。視線は、セレスティアの立つ方へと動いていく。


 薬は、結局配られなかった。列は少しずつ崩れ、待っていた者たちは、それぞれの理由でいつもの治療の列へと戻っていく。その中にハルと灰色の髪の女はもういなかった。


 誰も、礼を言わなかった。


 セレスティアは、聖なる長杖に体を預けたまま、空になった卓を見つめている。


 *


 冒険者ギルドの扉が閉まり、中の喧騒が遠ざかっていく。


 汗と鉄鎧と紙束の匂いが背中から離れ、代わりに人いきれと、焼いた肉や魚の脂の匂いが流れ込んできた。


 隣を歩くタマは、シオウから受け取ったばかりの紹介状を両手で持ち、ギルドの印と封を確かめている。手にはまだ細かな震えが残っていたが、それを気にする様子もなく、顔は明るい。


 「これがあれば、レグナを出たあとも、道中のギルドで仕事を受けられる」


 紙面を陽にかざしながら、タマが言う。


 「エルフの国まで時間がかかっても、帰りが遅くなっても、お金には困らないと思う」


 ”帰り”という言葉が、当たり前のようにタマの口から出てきたことで、なぜか胸の奥が少し温かくなる。


 「途中で依頼を受ければ、食費も宿代も稼げるし」


 「酒代もか」


 「治療に行く途中なんだから、少しは控えて」


 「少しなら飲んでいいのか」


 「そっちの少しじゃないから! もっと言葉の勉強して」


 タマは呆れたように息を吐いたが、口元は緩んだままだった。


 紙を鞄へしまいながら、タマが続ける。


 「酒屋はパフェの後だからね」


 「……わかっている。いつも通り酒は甘味の後だ」


 俺を挟んだ反対側を、ギルドの装いを解いたリーネが歩いている。


 「でも、お二人にしばらく会えないと思うと、寂しいです」


 リーネの肩が落ちて背中が丸くなる。いつもなら胸を張って真っ直ぐ前を見るリーネが、今は足元へ視線を落としている。


 丈の長いスカートの裾が足首の辺りで揺れる。


 「私もリーネに会えないのは寂しいよ……でも、リーネが今日早番の日でよかった。一緒にパフェ食べに行けるし」


 伏せていた顔が上がる。丸まっていた背が、もとの高さへ戻った。


 「はい! マスターが上がり時間を早くしてくれました」


 「普段からリーネが頑張っているから、気を利かせてくれたんじゃない?」


 「……そんなこと、ないです」


 リーネの白い頬が、内側からじわりと赤みを帯びていく。スカートの布地を、指先で小さくつまみ上げる。


 タマは今度こそ、という顔で俺を見上げる。


 「じゃあ、パフェ食べに行こう」


 「ああ。昨日の分だな」


 「今日の分はどうしようかな」


 その時、石畳を伝う微かな振動に気づく。


 大通りの威勢のいい呼び込みの声が、向こう側から順に途切れていく。商品を掲げていた商人の腕が宙で止まり、通行人たちが次々と街道の先へと視線を向け始めている。


 荷車の御者が、慌てたように馬を道の端へ寄せる。人の流れが、自然と左右へ割れていく。


 揃った蹄の音と、金属の擦れる音が、近づいてくる。


 やがて、大通りの向こうから、数にして十を超えるほどの銀色の一団が姿を現す。


 先頭を進む男は外套を着けず、背には暗褐色の大きな翼がある。片手には、白布に包まれた何かを持っている。腕は、その重さを気にしていない。


 ……剣……にしては大き過ぎる、か。


 タマは踏み出した足を途中で戻すと、銀色の隊列を見て、眉を顰める。


 「……《聖域騎士団》」


 唇がほんの少し開かれ、浅い吐息に近い音が零れ落ちた。腕を摩りかけた手が途中で止まり、代わりに鞄の紐へと触れる。


 「……あれが、噂の《聖域騎士団》ですか。この目で見るのは初めてです」


 呟いたリーネの視線は、目の前を進む銀色の鎧から離れなかった。


 重厚な金属の輝きが移動するのに合わせて、目が左右へ追いかけるように動く。


 隊列は、人波を割りながら、大教会の方角へ真っ直ぐに進んでいく。


 その中の先頭の翼を生やした大きな男が、一瞬だけ顔をこちらへ向ける。


 視線が重なる。だが、騎士は止まることはせず、顔を前へ戻すと俺たちの前を通り過ぎていく。


 隊列が通り過ぎても、タマはすぐには動かなかった。鞄の紐を握った手に力が残り、布へ細い皺が寄っている。


 やがて、タマは銀色の集団が向かった教会の方角から目を切ると、紐から手を離し、代わりに俺の裾を軽く引く。摘んだ指が、細かく震えている。それでも、離さない。


 「行こう。パフェ」


 「ああ、昨日の分からだな」


 「楽しみです」


 タマは背を向け、甘味処のある通りへ足を向ける。俺とリーネもその隣を歩く。


 前からは、焼いた菓子と甘い乳の匂いが流れてくる。


 *


 昼を過ぎても、教会の空気はまだ落ち着かなかった。


 薬箱はすでに奥の部屋に運び込まれ、施療院ではいつもの治療が続いている。


 それでも、広間の正面はまだ広く空いたままで、誰もそこを通らない。


 聖女はなぜ止めたのか、司教は何も悪くない。回廊の陰でも、水場の前でも、すれ違う者たちが口を寄せ合い、同じ言葉を繰り返している。


 セレスティアにも届く声だったが、彼女へ面と向かって言う者はいなかった。


 カイランとセレスティアは、その喧騒を離れ、教会の奥にある一室にいた。


 窓から差し込む光の角度が変わり、日差しも強くなっていた。


 セレスティアは、聖なる長杖を椅子の脇へ立てかけ、腰を下ろしている。少し俯き、包帯へ手を当てている。


 日の差さない側に座っているのに、額にはうっすらと汗が滲んでいた。


 カイランは、部屋の中央に据えられた、円柱状の通信水晶の前に立っている。


 大司教の密命に紐づく、本部への報告回線。呼びかければ、水晶の内側が応える。


 「カイラン・ブランクより緊急報告を開始します」


 言い終えてから、息を整え、返事を待つ。


 しかし、声に応じて強まるはずの光は、暗く沈んだままで反応がない。


 扉が叩かれる。開いた先には、蝋で封をされた書状を持った修道士が立っていた。


 「《聖域騎士団》の先触れがお着きです。こちらを預かって参りました」


 差し出された書状の印には、巡道教本部とだけあり、大司教の名は、どこにもない。


 カイランは書状を受け取り、修道士を下がらせてから封を切ると、整った公用文字が三行だけ並んでいた。


 一、聖騎士カイラン・ブランクに命じた薬物調査任務は、本状をもって終了とする。


 一、収集済みの資料および証拠は、速やかに《聖域騎士団》へ引き渡すこと。


 一、聖女セレスティアは療養のため、《聖域騎士団》の保護下に置く。


 カイランは末尾の発行日へ目を落とす。読み違えたかと思い、もう一度読む。


 そこには何日も前の日付が記されていた。


 三行で、調査はカイランの手を離れ、セレスティアはカイランの隣から外された。


 セレスティアが、椅子の上で首を傾げながらこちらを見ている。


 「終わったの、調査」


 「終わった、ことになっている……俺の知らないところで」


 セレスティアは長杖の柄へ視線を落とし、それからもう一度、顔を上げる。


 「大司教猊下の命令なの?」


 「分からない……でも、ここに大司教の名前はない」


 「直接会えば、撤回してもらえる……のかな」


 カイランはそれには応えず、じっと書状を見ている。


 ……この三行が大司教自身の意志なのか、大司教を通さずに出されたものなのか、それとも大司教がすでに、これに逆らえない場所にいるのか。


 どれであっても、今のカイランには確かめる術がない。


 カイランは書状から目を上げ、包帯を摩るセレスティアの手へ視線を向ける。


 息をひとつ吐いてから書状を折り、調査資料の上ではなく、自分の懐へしまう。


 「大司教本人から直接撤回されるまでは、任務は終わっていない」


 「じゃあ、証拠は?」


 カイランの手が、書状をしまった胸元へ一度当たり、それから、腰の柄を握り直す。


 「……どうせ大したものは持っていない」


 セレスティアはそれ以上問わず、包帯を摩っていた手を椅子の脇へ下ろす。長杖を見る目に、力がこもる。


 窓の外、通りのどこかで蹄の音が重なった。数が増え、近づき、教会のすぐ外で止まる。


 「セレスティア」


 「何?」


 「歩けるか」


 セレスティアは聖なる長杖を手に取り、椅子から立ち上がる。


 「走れるわ」


 立ち上がった身体は、目に見えて傾いている。


 それでもカイランは、もう一度座れとは言わなかった。


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