第37話 震える手
《大宮の間》の入り口に、その女は立っていた。身体には、見慣れた客用の衣が掛けられている。
額の左右から漆黒の角が後ろへ流れるように伸び、深緑がかった水色の髪が肩を越えて背まで落ちている。
息が浅く、吸い込む音よりも、細く吐き出す音の方が長い。
顔からはすっかり血の気が引き、唇も青白い。
扉の枠に手を添え、身体を支えるようにしているが、膝が微かに震えていた。
だが、半分閉じた瞼の奥から放たれる眼光は、力強い。
……以前、カルミラを狙っていた、こちらの世界の鬼か。
エルヴィナ、ゼノン、ルヴィンが椅子から立ち上がり、腰を落とす。三人の立つ位置が、示し合わせたわけでもないのに前後へ綺麗に分かれている。
手に武器は持っていないが、代わりに各々、フォークやら皿やらを握り締めている。
……丸腰の弱っている女に、なぜ武器を持つ。
リラは卓に手のひらを強く押しつけ、少し揺れながら身体を持ち上げると、強張る膝を無理やり伸ばし、隣に座るアルティシアの前に立つ。
青ざめた唇を固く引き結んだまま、真っ直ぐ鬼を見る。
俺の隣に座っていたタマが立ち上がると、その勢いで椅子が後ろに倒れるが、彼女は気にしなかった。
リラの元まで駆け寄ると、倒れそうになる彼女を支える。
「無理しないで……お願い」
入口に立つ女鬼は俺の眼をしっかりと見ながら、ゆっくりと口を動かす。
「妾も……連れて行ってもらえぬで、あろうか」
息を吸い込むたびに胸が大きく上下して、声を出すだけでも苦しそうに視える。
それでも、扉の枠に添えた手には力が入り、細く開いた口から言葉の終わりまでしっかりと声を押し出した。
「……洗脳を解いてもらいたい」
レオンが椅子から腰を浮かせている。
以前なら槍の柄を握りしめていた手には、今は手拭いが固く握られている。
女鬼の足元から腰、そして手元、水色の髪へと順番に視線を流し、右足を半歩後ろへ引いて重心を低く落としていた。
いつでも一歩前に出られる形を保ちながら、相手の動きをじっと見つめている。
「以前、王都の外でカルミラを追っていた羅刹だな」
「妾の名前はスイウン。其方の言うとおり、羅刹だ。魔族に……ヤグに縛られた、この呪いを解きたい」
イバラキは俺の湯呑みを持ち上げ、冷めきった茶を別の器へ静かに空けると、急須から新しく淹れた茶を注ぎ入れる。
茶が湯呑みへ注がれる細かな音が響くと、湯気が白く立ち上り、香ばしい葉の香りがこの場に広がっていく。
エルヴィナとゼノンが口を半開きにしたまま、イバラキとスイウンを交互に見る。
イバラキは手を止めることなく、口を開く。
「倒れていたので運んできました」
アルティシアはじっとイバラキの所作を見ていたが、一度静かに頷くと、スイウンの方へと視線を向ける。
「起きられるようになったのですね。ただ、魔力も体力も戻っていないように見えます。まだ、横になっていた方がよろしいのでは」
スイウンはアルティシアに向かってゆっくりと首を横に振ると、視線を俺に戻す。
唇を噛み締め、じっと俺の眼を見続けたまま、小さく声を漏らす。
「頼む」
俺はスイウンを視る。タマの内にあるものとは違い、ひとつの命令で身体を縛っているだけだ。
以前、アルティシアに掛けられていた締め縄よりも軽い。
解こうと思えば、すぐにでも解ける。だが、細い結び目をほどくのは、昔からイバラキの手の方が上手い。
俺が視線で合図すると、イバラキは手に持っている急須を卓の上に置く。
濃褐色の直垂が皆の前を横切り、ほとんど足音を残さないままスイウンの前で止まる。
スイウンの肩が強張り、扉の枠へ添えていた手に力が入る。息を詰めたのが、衣擦れの止まり方で分かる。
「動かないでください」
イバラキの手がスイウンの頭へゆっくりと伸び、指先は触れる手前で止まる。角の根元、髪の生え際のあたりだ。
氣が流れると、水面へ落ちた一滴から波紋が広がるように、広間の空気が重さを増し、それから何事もなかったかのように散っていく。
「終わりました」
スイウンの目が見開かれ、扉の枠を掴んでいた指がゆっくりと離れる。
「……終わった?」
「あなたの身体へ通されていた命令は、もう残っていません」
「……どういう、ことじゃ」
「あなたはこれで自由です」
それだけを告げると、イバラキは迷いなく踵を返す。
卓の前に戻ると、当たり前のような顔で再び急須を手に取る。静かに湯を注ぎ足し、空になっている湯呑みから順番に、温かい茶を注いでまわり始める。
リラを支えながら椅子に座らせたタマが、声をかける。
「もう、自由だよ」
スイウンの唇が何度か動いたものの、声にはならない。
レオンが腕を組んだまま、口の端をわずかに持ち上げる。
「彼らはそういう人たちだから」
やがてスイウンの膝がゆっくりと折れ、その場へ座り込むと、深緑を含んだ水色の髪が肩から滑り落ちる。
目に溜まった涙が頬を一筋伝い、床へ落ちる。
「……感謝する」
震える声で口にしたあと、スイウンの視線がタマへ動く。
「其方の縛りは、妾のものよりも深いのじゃな」
タマは一度かすかに視線を落とすが、それでも顔を上げるとスイウンの目を見て頷く。
「うん。でも、治す方法は見つかったから」
スイウンは頬に残った雫を拭わず、扉の枠へ手をかけて立ち上がろうとする。
身体が一瞬だけ傾く。イバラキは手にしていた急須を、いちばん近くにいたゼノンの手のひらへ押しつけてから、スイウンの肘へ手を添える。
今度は、自分の足で立った。
急須を抱えたまま、ゼノンがエルヴィナへ視線を向ける。
「……わたくしを見ないで」
スイウンが改めて口を開く。
「この恩に報いるためには、妾はどうしたら良い?」
……なぜ、俺に聞く。
俺が眉をひそめると、アルティシアが静かに一歩を踏み出す。
「まずは身体を治したらいかがですか?」
アルティシアは優しく声をかけながら、今にも膝が折れそうなスイウンの肩の下へそっと手を差し入れ、その華奢な身体を支え直す。
イバラキはスイウンをアルティシアへ任せ、ゼノンの手から急須を取り戻す。
「リラと一緒にここでゆっくり治したら?」
リラの隣からタマがのぞき込むように顔を出し、スイウンの目をまっすぐ見つめて、首を傾けて問いかける。
「よいのか?」
「もちろん」
タマは目を細め、微笑む。
俺は何も言わなかった。スイウンがどこへ行き、何をするかは、スイウンが決めることだ。
エルヴィナが髪を耳の後ろにかけ、扉の方を向く。
「で、いつ出発するのかしら?」
「明朝だな」
「無理。手続きがあるから」
リラの隣で、タマの指が木の溝を辿りかけて、途中で止まる。
「……そうか」
「里へ手紙を出して、返事を待たなければならないの。里を出た者が人族や獣人、竜人を連れて戻るのよ。無茶を通すことになるわ」
言い終えると、エルヴィナは髪をもう一度耳にかけ直す。かけ直す必要のない髪だった。
スイウンは、しばらく黙って卓の上の湯気を見ている。やがて、扉の枠にあった手を、自分の胸の前へと戻す。
スイウンの息が、また少し浅くなっている。長くは保たない。
「妾は……」
スイウンの視線は、まっすぐイバラキへ向く。
イバラキは手を止め、少しだけスイウンを見返したが、何も言わずに、また茶を注ぐ手を動かす。
「ゆっくりと考えたらいいと思います。ここにいる誰もあなたに今すぐに答えを求めていません」
スイウンを支えたまま、アルティシアが微笑む。
「……すまない」
スイウンはアルティシアに連れられて、客間に向かう。
タマが俺の隣へと戻ってきて、手を握る。
震えは止まっていない。
……必ず、止める。
タマが俺の顔を見上げる。
「……パフェ……忘れてた」
「明日だな」
*
窓も装飾もなく、ただ高く、無言で夜の中に在り続ける《隔離の円塔》。
夜の風が壁を撫でているのに、その流れは塔の外壁に触れたところで途切れ、外の音も人の気配も、内側には届いてこない。
見張りの目をかいくぐる手管は、とうに慣れている。ハルはいつもの通り道を使って、この部屋まで降りてきていた。
灯りはギリギリまで小さく絞られていた。その淡い光は部屋の半分ほどまでしか届かず、部屋の形がはっきりとしなかった。
その灯りの届かない壁際で、ハルはしばらく声をかけずにいた。暗がりに目が馴染むのを待つ間だけ、足も呼吸も止めておく。
塔の中央に座したルキアスは目を閉じ、背筋を伸ばしたまま、一定の呼吸を繰り返している。
無精髭が伸び、頬はわずかにこけていた。それでも壊れてはいないと、ハルには見えた。
膝の上に置かれた両手は、かすかに震えている。それでも固く握られたまま、床へだらりと落ちることはない。
だが内側から静かに削られた跡が、以前よりも濃く顔に残っている。
もう何日、この石の匂いだけを吸って過ごしたのか。
ハルは足音を残さないまま、暗がりから声をかける。
「ご報告に参りましたよ」
ルキアスの肩が、わずかに動く。目を閉じたまま、一度頷く。
「すこし……痩せましたね」
軽い調子で言うと、ルキアスの口元がほんのわずかに緩む。
「報告があるんじゃなかったのか」
「ありますよ。今のも一応、報告です」
ルキアスはそれ以上笑わなかったが、拒む様子も見せない。
「アルティシア王女殿下は、お元気にされています。今はゲドーマルのもとに身を寄せています。俺が知る限りの最強の御仁がついているので、安全に問題はありません。ご安心を」
その言葉が届くと、硬く結ばれていた眉間の皺がわずかに緩み、呼吸がゆっくりと深くなっていった。
「そうか」
ハルが聞いたことのない優しい声だった。このまま報告を終えられればどれだけよかったか。
だが、ハルの口は一度閉じられる。次の言葉が出るまでに、短い間が生まれた。
「ただ……ゲドーマルたちの方ですが、タマが狂帝に洗脳されました。いま、解除の道を探しています」
ルキアスの顔から一切の動きが消え、淡い灯りの作った影だけがわずかに揺れ、何も返ってこない時間が続く。
「……父は?」
「変わりありません」
「……そうか」
ルキアスの声から、先ほどまで残っていた温度が消える。
肩をすくめてみせる、いつもの軽さが出てこない。声を落とし、目の細さが増していく。
「王都はきな臭さが増してます。例の薬は、もう一般人の手にまで回っています。明朝には、聖女立ち会いのもとで公に配られる予定です。そこを越えれば、止めるのは難しくなるでしょう」
膝の上に置かれていたルキアスの手が、さらに強く握り込まれる。爪が食い込み、関節の色が薄く変わっていくのを、ハルは黙って見ている。
「ナギ団長とメアリ副団長も戻りました。俺も、今まで通りとはいかなくなりそうです」
ハルの左手の親指が、人差し指の節を撫でる。その先の言葉には、いつもの軽さが乗らなかった。
「それでも、俺はゲドーマルには引き続きつきます」
ルキアスは目を開き、何も言わずにハルの目を静かに見つめ返す。
「よろしく頼む」
「もう少しの辛抱です」
「……ああ」
ルキアスの返答は小さいが、石壁へ吸い込まれることなく、ハルの耳まで届いた。
ハルは踵を返し、入ってきた方へ向かう。
扉へ手をかける直前、背後で衣の擦れる小さな音がした。
肩越しに振り返ると、握り込まれていたルキアスの手が緩み、開いた手のひらが膝へ伏せられている。
背筋は先ほどより前へ傾いていた。
ハルは何も言わないまま、扉を押した。
扉の向こうには、塔の中では忘れていた夜気が、いつもと変わらぬ重さで満ちていた。




