第36話 揺れない音の中で
洞窟棲家の"大宮の間"には、食後の余熱がまだ空気に残っていた。
火は落ちているのに、壁に染み込んだ熱がゆっくりと広がっている。
皿に残った香草の匂いと、焼けた魚と肉の香りの名残が入り混じり、その奥に薪の匂いがある。
外からはもう、ゴブリンキッズの声が聞こえない。あれほど鳴り響いていた鞠の音も止み、寝入る前の静けさが広がっていた。
卓に並ぶのは、キッズが作った不揃いな木皿ばかりで、どれも綺麗に空になっている。
タマが立ち上がり、使った皿を片付けようと手を伸ばす。指先にはまだ、細かな震えが残っている。
それより先に、アウルが動く。庭から入る夜気は揺れもせず、小さな手がタマの皿をそっと持ち上げて、木皿同士の触れ合う乾いた音が残った。
掴むもののなくなったタマの指先が、卓の木目を一度、なぞって、離れた。
それを見たゼノンが素早く立ち上がり、「ここは私が」と手を差し出す。だがアウルは首を横に振り、そのまま歩き出す。
ゼノンの手が宙に残り、腰の計測器が触れ合って小さく鳴ると、開きかけた口からは「あ」とだけ漏れた。
アウルの背を追っていた視線が、行き場を失った自らの手へ戻り、やがて卓に残したままの自分の皿へ落ちると、ようやくそれを持ち上げる。
横で、エルヴィナが小さく吹き出した。
イバラキは何も言わず、ただ食器を前にまだ座ったままのエルヴィナとルヴィンへ、視線を据えている。
「……ひっ」
二人の呼吸が同時に止まる。次の瞬間、皿を抱えて立ち上がり、厨房の方へ逃げるように去っていく。二人の肩がぶつかり、慌ただしい足音が厨房の方へ遠ざかっていく。
リラが卓に手をつき、少し揺れながら立ち上がると、それに気づいたレオンがリラの皿に手を伸ばす。
「座ってろ。まだ無理するな」
リラが何か言おうとする前に、レオンは皿を持って背を向ける。
リラは伸ばしかけた手を卓へ戻し、すぐ後ろにある椅子へ目を落とす。
それからレオンの背へ視線を戻すと、卓からゆっくり手を離し、覚束ない足取りで厨房へと入っていく。
俺は皿を厨房に置いたついでに、酒瓶を持ってきていた。そして、イバラキの目が、エルヴィナたちの消えた戸口から離れないうちに、俺は縁側へと向かう。
大事な話をしなくてはならないことは、わかっている……だが、それとこれとは別だ。
アルティシアの茶が出るまでなら一杯くらいは飲めるはずだと、俺は厨房から続く片付けの音に耳を向ける。
縁側から見える天穿ち庭の上には月が出ている。
雲は薄く、月が明るいため、星はあまり見えない。夜気は乾いて、昼のうちに温められた土の匂いがまだ底に残っている。どこかで虫が鳴き始めていた。
俺は縁側に腰を下ろし、懐からそっと取り出した盃へ酒を注ぐ。
瓶の口から伝う一滴が、盃の底に触れて小さな音を立てた。
背中の向こうでは、まだ皿を片す水音が聞こえてくる。それが少しずつ小さくなっていくのが分かる。
もうアルティシアが茶を配る頃だろう。イバラキに手ほどきを受けてから、日に日に味も香りも良くなっている。
レオンもジェネラルの元へ、明日の作業の確認に行くはずだ。
アウルはノクティスと布団に入る時間だ。
それに、そろそろ湯を温め直さないと、タマが怒る。
それだけはなぜか、俺の仕事らしい。
背後で盆に茶碗を置く音がすると、さっきまで続いていた水音が、もう止んでいることに気づく。
ほどなくして、魚と香草の名残に混じり、淹れたばかりの茶の香りが縁側まで届いた。
……だが、その前に。
俺は盃に口をつけた。
*
”大宮の間”に残った者たちが、それぞれの席に着いている。
アルティシアとイバラキが席を回り、湯呑みの底が卓に触れる音を一つずつ置いていく。
立ち上る湯気には茶葉の香りがあり、食後に残った魚の脂と香草の匂いを、少しずつ薄めていた。
椅子に座って少し俯いた表情のタマの隣に、俺は腰を下ろし、そのまま手を包むように握る。
俺に触れた途端、タマの肩がぴくりと跳ね、手の震えが強くなる。
指先だけではなく、手のひらから腕を通り肩まで揺れている。抑えようとしているのか、下唇を噛み締めているが、呼吸も乱れ始める。
握り返す力はあるが、止められないものが内側から押し出されている。
茶を配り終えたアルティシアが向かいに立ち、両手のひらでそっとタマの頭に触れる。
「それでは、魔力の流れ、狂帝による魔法の組み方を診断します」
淡い光がタマの頭部を包み込み、場の全員の視線が集まる。
タマは固く瞼を閉じていたが、俺の腕に触れていたその手のひらから、伝わる震えの波が変わる。
閉ざされていた瞼が重々しく持ち上がる。
アルティシアの口元を確かめるように見つめながらも、瞳は揺れ、今にも瞼を閉じてしまいそうに細められている。
それでも、その目を閉じることはなかった。手のひらに力が入り、握り締められる。
光が消え、手を下ろしたアルティシアが静かに息を吐く。
「ゲドーマルの見立て通りです」
タマの金色の瞳を真っ直ぐ見つめながら、結果を伝えるアルティシアの細い指には力が入っている。
「魔力の流れは、かなり特殊で、念入りに作り込まれています。仕組みまでは私にも理解できませんでした……以前見た、狂帝陣営のものでしょう。簡単には解けません。氣で無理に触れれば、レオンの時よりも危険です」
タマの視線が一度落ちるが、すぐに顔を上げ、笑顔を作る。
……昔と同じ笑い方をしている。
「大丈夫! ゲドーマルもイバラキも”衝動”にはずっと耐えてるし、私も自分で抑えるよ」
タマが言い終えるのを待たずに、イバラキが果物を乗せたお盆を手に、厨房の奥から戻ってくる。
「そんな簡単なものではありませんよ」
「うっ……」
取り繕った表情がイバラキに看破され、タマの顔が引き攣る。
視線を落とすと、俺が包んでいる手と反対の手で、俺の直垂の裾を掴む。
眉間に力を込め、定まらない視線が泳いでいる。
俺はタマの頭に手を置く。
「大丈夫だ」
髪の上をゆっくりと撫でると、タマが上目遣いで俺を見上げる。
泳いでいた瞳が落ち着き、それから口元が緩むと、静かに頷く。
俺は視線を移しエルヴィナを視ると、エルヴィナが気づき、慌てて顔を逸らす。
この場の全員の視線がエルヴィナに流れる。
エルヴィナの隣に座るゼノンが一度、眼鏡を人差し指で押し上げる。
「エルヴィナ……もしかして、君の力で彼女の洗脳は解けるのか?」
エルヴィナは椅子に座ったまま、膝の上で拳を握っている。
俺はタマの手を離すと、立ち上がりエルヴィナの前までいく。
エルヴィナは眉間を寄せながら横を向く。唇を固く結び、俺と目を合わせようとはしない。
その拳がほどけて卓の湯呑みへ伸び、そのまま器を強く握り込む。
「頼む」
俺はエルヴィナに向かって頭を下げる、深く。
頭を下げたまま待っていると、背後で椅子の倒れる音が響き、卓の上の茶器がかすかに鳴った。
顔を上げると、タマが卓に両手をつき、こちらへ身を乗り出している。
エルヴィナは腰を浮かせ、追い払うように突き出しかけた手を宙で止めていた。その指先が震え、開きかけた唇からは何も出てこない。
「エルヴィナ」
ゼノンは彼女の顔を覗き込むように首を傾け、穏やかな目で見つめる。
翡翠色の目が床に落ち、そこに留まる。喉が一度、言葉を飲み込むように動いた。
「……治る、と思う」
彼女の声は小さかった。
「世界樹のポーションで……」
呟いた拍子にゼノンの顔の力が抜け、ずれ落ちてきた眼鏡越しに、見開かれた瞳が覗いている。
「まさか……そのポーションを持っているのか?」
エルヴィナは眉を八の字に歪め、諦めたように目を細めると、無言のまま静かに首を横に振る。
「……基本的には国から持ち出すことは許されないわ」
レオンが口を開く。
「だが、俺らは以前、それ飲んだぞ。エルフの国には行ってない」
エルヴィナが軽く目を閉じて一度だけ首を振ると、澄んだ瞳でレオンの目をまっすぐに見つめ返す。
「アウレオンでしょう? あの子からの手紙にお前たちのことが書いてあったわ」
レオンは「……え」と、息が漏れる。
いつもは崩さない背筋が、かすかに引き攣っている。
エルヴィナの声が柔らかくなる。
「もっと早く気づくべきだったわ。見たこともない異国の服に、変な形の容器に酒を入れて持つ男と、美しく透き通った白銀の髪を持つ女……真面目で誠実で仲間思いの元門番、それにドゥールもいるんでしょう? お前たち、よっぽど気に入られたみたいね」
エルヴィナは瞼をふんわりと下げて目を細めると、首を少し傾けてレオンの顔を覗き込む。
その口元には、柔らかな優しさが滲んでいる。
「とても珍しいことよ……だからこそあの子も無茶したんでしょう」
「アウレオンを知ってるのか?」
「えぇ」
エルヴィナは肩をすくめるように、だが視線は逸らさずに言う。
「だって、弟だもの」
レオンの身体がぴくりと動いた。振り返り、俺たちを順に見る。
俺は頷く。タマも頷く。イバラキ、リラ、アルティシアも順に頷く。
レオンの目がさらに開く。
「……お前ら全員知ってたのか」
……レオン以外は全員気づいていたのか。
俺はエルヴィナに向き直る。
「俺らを連れて行ってくれないか?」
エルヴィナの指が湯呑みの縁から離れ、卓の上でゆっくりと握り込まれる。
その口が開きかけたところで、ゼノンが眼鏡を外し、胸元へ仕舞う。
「いいのか? 二度と国には戻らないのではなかったか?」
エルヴィナはすぐには答えず、握った拳を見下ろしている。やがて顔を上げると、俺の向こうにいるタマへ一度目を向け、それから、卓についていた手をゆっくりと離した。
「……いいわ。わたくしが連れていってあげる。エルフの国に」
視線がイバラキの方へ流れ、そこで止まる。
「……そこのイバラキ……さん……に……命助けられたようなものだから」
俺はもう一度、頭を下げる。
「助かる」
タマが身を卓の上に乗り出す。
「ありがとう、エルヴィナさん」
エルヴィナの頬が赤くなる。
「……エルヴィナ……で、いいわ」
横からゼノンの手が伸びて、エルヴィナの頭に触れ、撫でようとする。
その手を、エルヴィナが即座に払い落とす。
「気安く触らないで」
ゼノンの手が宙に残る。二度目だった。
エルヴィナが腕を組む。
「ゼノンたちも来るでしょう?」
ゼノンは揺れていた目元を伏せると、胸元から取り出した眼鏡をゆっくりと耳へ掛け直す。
指先で位置を直すと、そこにはいつもの隙のない表情が戻っている。
「いいのか?」
「いいわ。それに《血の血統》を倒すなら、来た方がいい」
ルヴィンがしっかりとエルヴィナと目を合わせ、それから頷く。
ゼノンは瞼を細める。
「わかった。行こう、エルフの国に」
その時、アルティシアが静かに声を出す。
「申し訳ございません。今回は私は残ります」
片手で反対の手の甲をしっかりと抑えている。
リラが少しぎこちない動きで身体ごとアルティシアの方を向く。
「殿下は、ご一緒されないのですか?」
アルティシアがリラに微笑む。
その笑みを見た瞬間、リラの呼吸が止まる。
口元だけを持ち上げ、その奥にある温度を隠すような、以前の微笑みでは、もうなかった。
目の奥に光がある。暖炉の火のようにまだ小さくはあるが、そこには確かな温もりが宿っている。
「私は、兄とどうにか連絡をとってみようと思います。ハルを頼ればどうにかなるでしょう」
リラの長い睫毛が影を落とし、手元の湯呑みに入っている茶を見つめる。
開かれていた手のひらを静かに閉じ、固く握り拳を作ると、顔を上げる。
アルティシアはその視線を受け止めたまま続ける。
「大丈夫ですよ」
窓から入り込んだ夜風が、広間の灯りの影を揺らしていく。
「私も王女に生まれたからには、自分の成すべき事を成したいと思うようになっただけです」
声の柔らかさはそのままに、芯が一本通っている。
「ここにいて、ここの暮らしの中で、以前とは少しものの見え方が変わりました」
壁に染み込んだ薪の匂いの中で、アルティシアの視線がゆっくりと広間を巡る。灯りに照らされた木の皿、誰かが拭き残した卓の水滴。
それらの一つ一つを確かめるように、アルティシアの目が動いた。
「今度は兄と、どうすればこの国を守れるのか、話して決めたいと思っています」
その一言のあと、リラの背筋が伸びる。
「私は殿下について行きます!」
勢いで立ちあがろうとして、すぐに顔が歪み、身体を抑えるようにかがみ込む。
「ちょっと! まだ治ってないんだから」
タマが慌ててリラの身体を支える。
リラの視線はそれでも真っ直ぐアルティシアを捉えている。
「ありがとう。頼りにしているわ」
「はい!」
リラの声が、広間の高い天井にまで響き渡る。
レオンが頭の後ろを掻く。反対の手には槍ではなく、手拭いが握られている。
「タマ、悪いが、俺も今回は残るよ。まだ、作業が終わってないんだ。どうしても、森に置いた分を仕上げておきたいんだ」
タマはレオンの顔をしばらく黙って見つめていたが、やがて「ふふっ……」と短く笑うと、噛み締めるように一度深く頷く。
「レオンさん、なんか肩の力抜けたね」
「そうか?」
レオンは自分の爪の間に入り込んだ土の色を眺めている。
「まぁ、充実はしているよ」
「よかった」
タマの声は柔らかかった。その声で広間の空気が緩んだ。
俺はイバラキの方を向く。
「イバラキ、アルティシアとリラを頼む」
イバラキは背筋を崩さないまま、短く応じる。
「御意」
卓に置かれた茶からは、もうほとんど湯気が上がっていなかった。縁側から入る夜風が足元を冷やし、湯呑みの中に映った灯りを細かく揺らしている。
エルヴィナは、肩にかかった一筋の翡翠色の髪を指先で後ろへそっと追いやると、ゆっくりと立ち上がり、顎を上げたまま、この場を見下ろした。
「決まったかしら?」
扉が開く音が広間に短く広がり、廊下の空気が流れ込んでくる。
籠もっていた温もりが薄れ、代わりに冷えた空気が入り込んでくる。
最初に目に入ったのは、角だった。




