第35話 揺れる灯りの中で
王城の夜は、外の世界とは違う速さで時が流れている。
城壁の向こうにはまだ人の声が残っているはずなのに、この一室の扉を隔てた途端、それらはどこか遠くへ押しやられてしまう。
すべてが、あるべき位置に保たれていた。
灯りは等間隔に並んで揺れず、空気は誰の思惑にも動かされない。
何も勝手に動かない場所を、ワイスは生まれてから一度として疑ったことがない。
高い位置の窓はもう外の色を返さず、壁の灯りだけが石を照らしている。
会議室の扉が閉じられる。長机を挟んで、幾人かがそれぞれの定位置についている。
ワイスは椅子の背へ身体を預け、肘掛けへ手を置いたまま、目はどこにも据えずにいる。
隣には宰相バルタザールが座り、やや離れた席に、第四団《影護》団長ナギ・フェンが控えている。
……ナギの奴め、ようやく戻ってきたようだな。
残る椅子には、地位と血の順に並べられた重鎮たちが収まっている。
壁際には、グラウ・アイゼンが鎧姿のまま、微動だにせずに立っている。
ナギが口を開くと、すぐ近くの席で欠伸を噛み殺していた貴族の一人が、遅れて声のする方へ顔を向けた。
最初からそこにいた男を、声によって初めて見つけたらしい。
ワイスはその反応をぼんやりと見ていた。
ナギがいつこの部屋へ入ったのか……おそらくグラウ以外は誰も覚えていない。
必要な時にはすでにそこへ収まり、必要がなくなれば足音一つ残さず消える。
それが、貴族でもないこの男が第四団の団長までのし上がれた最大の理由だ。
灰色の執務服を寸分の乱れもなく纏ったナギの声は抑えられているが、耳へは素直に届く。
「ここ数日、冒険者の動きに違和感が見られます」
……ここ数日? そんなにも前に帰っていたのか。
慎重に言葉を選びながら、一つひとつ丁寧に話していく。
依頼の消化が滞っていること。身の丈に合わない依頼に手を付ける者が増えていること。
そして、教会由来とされる薬が急速に市中へ広まり、食事の代わりとして扱われ始めていること。
報告に抑揚はない。それでも、長机の上には見えない重みが一つずつ積まれていく。
「……加えて」
言葉が切れると、居並ぶ全員の視線がナギへ集まる。
「一部の貴族が、それを大量に買い占めています」
室内が一段静まり、何人かの背が椅子から浮きかけて、すぐに座り直す。
この男の報告に対して、声を上げられる者など、この場にはいない。
この部屋に座っている以上、誰もが叩けば埃の出る身であり、そしておそらく、その埃の在処までナギは把握している。
ワイスは、椅子から浮きかけた背も、伏せられた目も、順に数えるように追っていたが、そのどれにも興味は向かなかった。
宰相が報告を継ぐ。抑えた声は静かに進み、視線は書類の上から動かない。
「教会の薬に関しては、いくつか不自然な点が見受けられます」
流通の経路が辿れず、価格と効能の釣り合いも取れておらず、しかも薬の呼び名は、市場を一つ跨ぐごとに変わっている。
そして何より、特定の貴族と教会の結びつきが、通常より深く絡み合っている。
宰相はそれらを並べたあと、言葉を止める。
「ただ……どれも、証拠が不足しております」
その一言で、積み上げられていた重みが宙へ浮く。
安堵したように息を吐く者、視線を伏せる者。緩んでいく空気を、ワイスはただ眺めている。
宰相の指が、書類の端で止まる。
「王権の名で流通を止め、買い占めた家を改めることは可能です……ただし、その時点で教会と複数の家を同時に動かすことになります」
ほどけかけた空気が、ここでもう一度絞られる。
「そして明朝、聖女立ち会いのもと、その薬が公に配られる予定です。教会から正式な発表はありません。ですが、市中ではすでに、聖女の認可を得たものとして受け取られ始めております」
宰相は書類から初めて目を上げ、短く喉を鳴らしてから、ワイスへと視線を向ける。
「明朝を越えれば、薬だけを止めることは難しくなります。聖女の名と、教会の権威まで否定することになるでしょう」
居並ぶ貴族たちは、下を向く以外の反応をどこかへ置き忘れてきたように、黙っている。
沈黙を破ったのは、ナギだった。
「現状の均衡は、保たれております」
声は平坦で、抑揚も感情も乗らない。だがワイスには、その一言が何を測って発せられたものかが分かる。
市場で職を失う者が出ていようと、店が潰れ始めていようと、国家という機構そのものが揺らいでいない限り、それは均衡と呼べる。
少なくとも、ナギの秤では。その見方を、ワイスは嫌いではない。
証拠のない多少の異変のために、いま保たれているものを動かす。
……そちらの方がよほど問題だ。
ワイスは宰相の方を見ないまま、口を開く。
「教会の薬だ。教会に調べさせろ。聖女が認めるのなら、その責任も教会に背負わせればよい。薬は放っておけ。貴族には触れるな。冒険者ギルドへは注意だけでよい」
……聖女が余の領域へ兵を入れることと、市井の者が何を口にするかは、別の話だ。
ワイスは肘掛けへ腕を乗せたまま、指先を一度、木へ落とす。
宰相の手が机の上で止まり、そのまま顔だけがワイスへ向く。
「……特定の家が、流通そのものに関与している可能性がございます」
誰に向けられた言葉かは、この場の誰もが察している。
数人の喉が、小さく鳴る。
ワイスは、名を伏せられた貴族の方へ、視線を短く一度向け、すぐに戻す。
それ以上、表情も言葉も動かさない。
グラウの視線が、宰相の書類から、名を伏せられた貴族へ移り、最後にワイスで止まる。
口を開くことはない。
「現状維持だ」
ワイスは姿勢を変えないまま、それだけを通達した。
椅子が引かれる音が、一つ、また一つと重なっていく。それ以外の音はない。
誰も言葉を交わさないまま、それぞれが部屋を出ていく。ワイスは肘掛けから腕を下ろさないまま、その全てが済むのを待っている。
最後の貴族が扉の向こうへ消えると、会議室は始まる前と同じ静けさを取り戻した。
*
会議が終わり、開いた扉から出てきた者たちは、部屋を離れるなり、眉間に指を当てる者、首の裏を揉む者、それぞれが違う動きをしていたが、最後には揃って深く息を吐き出した。
物陰のすき間から、片目をのぞかせてその様子をうかがう男がいる。
最後の一人が去っていくのを見届けると、ハルは柱にもたれる。
腕を組み、目を閉じたまま動かない。先ほど盗み聞いたナギの報告と、宰相が最後まで名を伏せた家とを、頭の中で並べ直す。
小さく息を吐き切る前に、ハルの目が細くなり、視線が石床へ落ちる。
柱の影が音もなく生き物のように揺れながら形を変えていく。
その気配が遅れて伝わってきたときには、もう女の姿ははっきりとそこにあった。
艶のある灰色の髪は無造作に束ねられ、ほどけた一房が頬へかかっている。
メアリ・ヴァイン、第四団副団長。
足音はなかった。衣擦れもない。どちらの方角から歩いてきたのか、それとも最初からこの闇に紛れていたのかすら、ハルには判別がつかない。
「ねぇ……何、悪さしてるの?」
退屈そうな声が、廊下の空気を重く塗り替える。
ハルは柱から背を離し、考えるより先に、片足がすっと後ろへ退く。
……こいつも戻っていたのかよ。仲がいいな、おい。
ハルは肩をぐっと耳の近くまで引き上げてから、ゆっくりと落とす。
「……副団長殿かよ」
喉の奥で一度、声を作り直してから続ける。
「人聞きが悪いな。廊下にいただけだ」
一度退いた足が、そのまま止まらない。
その動きを見た時、メアリの口元の片側が、嬉しそうに持ち上がる。
指先で爪をなぞりながら、首を傾ける。こちらを向いた目は、少しも笑っていない。
「ふーん……まぁ、いいわ」
メアリは笑みをハルへ向けたまま、その脇を通り抜ける。その背が廊下の闇へ馴染み、輪郭を失う。
メアリの姿が完全に消えてから、ハルはようやく詰めていた息を吐く。
どこまで知られているのかは分からない。
ただ、あの女はつい最近まで王都にいなかったはずだ。
報告するつもりなら、この場で済ませればいい。それをしなかったことの方が、よほど質が悪い。
王都リュシア大教会の司教、ベネディクト・ヴァインの妹。
追えば、あの女の思う壺だろう。かといって、ここで立ち止まっていれば、明朝には薬が公に配られる。
ハルは口元にいつもの笑みを戻す。
それから、メアリの消えた闇とは反対、王城の出口へと足を向けた。
*
森を抜けると、夕陽が大地へ半ば沈み、残された赤い光が洞窟の入口と、真新しい小屋の壁を橙色に染めていた。
昼の暖かさは残っているが、土と草の匂いのする空気には、夕方の冷たさが混じり始めている。
洞窟前の広場では、ジェネラルを中心にゴブリンたちが本日の仕事を片付けている。
木材を積み、道具を仕舞い、掘り返した土を均していく。
小さな身体が規則正しく動き、互いに声をかけ合いながら手際よく進んでいる。
以前よりも数が増えている。棲家の横に新しく組まれた小屋がいくつか並び、まだ木の香りが残っている。
その傍らでは、ゴブリンキッズが遊んでいる。木製の杖で鞠を打ち合い、相手の陣地へ転がし入れることを競っている。
あれは、毬杖だな。懐かしい。
鞠が地面を跳ね、杖が振り回され、歓声と悲鳴が入り混じる。泥だらけの手で杖を握り直し、また走る。
「……降ろして」
背中に伝わってくるリラの熱は、体温のものだけではなさそうだった。
「もう歩けるって」
肩を掴んでいた手や足が動き、強引にでも降りようとする。だがその前に、タマの声がそれを遮る。
「部屋に入るまではダメ」
有無を言わせない強さがある。背中の動きが止まる。
反論の言葉を探しているのが伝わってくるが、タマはもう前を向いている。腕には、肉屋から持ち帰った包みが抱えられたままだ。
アウルがふいにリラの手を掴んで、自分が持っている紙袋を握らせる。甘味が入っている袋だ。
そのまま俺たちの横を駆け抜けると、毬杖に興じるキッズの輪へそのまま飛び込み、手を振り、何かを叫び、杖を受け取る。
鞠を追って走る姿は、あれが古竜だと聞かされても誰も信じないだろうと思えるほど、輪に馴染んでいる。
洞窟の入口で、扉が静かに開く。俺たちが揃って顔を向けた先に、イバラキが立っている。
濃褐色の直垂は整えられ、姿勢は崩れない。土の匂いも、森の湿りも残っていない。
……戻っていたか。
俺たちの姿を確認したイバラキの視線が、背中のリラで止まると、呼吸と顔色を確かめるような短い間の後、深く頭を下げて道を開ける。
「お帰りなさいませ。リラの部屋はアルティシアの隣の客間をお使いになってください」
穏やかで、どこか安心を含んだ声が通る。
そのまま視線が広場へ流れ、毬杖に興じるキッズと、その中に混じったアウルの上で止まる。それから、イバラキの足がそちらへ向く。
広場に着くと腕を組み、キッズの動きをじっと見つめる。
一人の子供が転がる鞠を追い、力任せに杖を振ると、それは明後日の方向へ飛んでいく。
イバラキの視線が、広場の縁を越えて、森の側で止まる。それから沈みかけた陽へ目を移し、広場へ声を響かせる。
「次の一点で仕舞いです。日が落ちる前に決めなさい。終わった者から、泥を落として中へ入るように」
途端に、キッズの動きが止まる。
「ただ打つだけでは、まだまだです」
泥だらけの顔が一斉に上がり、鞠を追っていた足が、そのまま地に貼りついたように動かない。
「相手の動きを読みなさい。重心が崩れた瞬間に打ち込むのです」
遊びに対する助言ではない。どう視ても、実戦を教える者の立ち方だ。
キッズの小さな背が、一斉に伸びる。
「はい、姉さん!」
一斉に返事をし、先ほどまで以上の勢いで鞠へ殺到する。
泥まみれになりながら杖を振り、一人が転び、起き上がり、また走る。
足元はぐちゃぐちゃで、顔にも泥が飛んでいるが、目は真剣そのものだ。
……子供の無邪気さが消えていく。いいのか、これで。
イバラキはそれを腕組みのまま眺めている。口元が緩み、満足そうに頷く。
アウルだけは返事をしなかった。杖を両手で握ったまま、イバラキとキッズを交互に見ている。
それまで足元の土を遊ぶように撫でていた風が、ぴたりと止まっている。開いたままの口だけが、動かない。
タマは俺の墨色の直垂の裾を指でつまむ。
「ほら、先にリラを」
俺は入り口に向かって歩き出す。背中で、リラが呆れた声を漏らす。
「……そこまで本気でやらなくても……子供の遊び、でしょ?」
「相手を見ることは間違っていない……おそらく」
語尾が知らぬうちに小さくなった。
「あなたまでイバラキさんの側に立たないでよ」
イバラキは振り返らない。
*
リラをイバラキに預け、草履を脱いで棲家に入る。
魚の焼けた脂の匂いと香草の甘い香りが、廊下の途中まで出てきている。
火の温度が奥からゆっくりと流れてきて、肩の力が自然と抜ける。
玄関から続く廊下を抜けると、天井が遠くなる。イバラキが《大宮の間》と名付けた大広間。
天井は高く、壁際に並ぶ柔らかい灯りが広間を優しく包んでいる。
その中央で、レオンが水を飲んでいる。頭に手拭いを巻き、作業着姿で慣れた所作で胡座をかいている。
鎧も槍もない。袖を捲った腕には汗の跡が残り、傍らの陶製の水差しから、木杯へ水を注ぐ。
顔を上げ、こちらを見る。
「おぉ、帰ったか。おかえり」
手にした木杯を軽く掲げる。表情には、門番だった頃の堅さはもうない。
俺に続いてリラがイバラキとタマに両脇から支えられて大宮の間に入ってくる。
リラの視線がレオンで止まり、そのまま剥がれなくなる。
「……レオン殿」
水差しを手に持ったまま、レオンが首を傾げる。
リラは間を置いてから、小さく言う。
「……いや、ずいぶん印象が変わったと思って」
レオンは自分の格好を見下ろし、手拭いの端を直しながら笑う。
「隊長こそ」
リラの視線が下がり、軽く下唇を噛む。
「……もう近衛騎士でも子爵令嬢でもないわ。ただのリラよ」
下を向いてはいたが、声に悲観は混じっていない。軽く息を吐くと、視線をレオンに戻し、口元が緩む。
「レオン殿もリラって気軽に呼んでもらえると助かる」
穏やかな声の奥に、晴れ晴れとした響きがあった。
レオンは目を細め、それから木杯を目の高さまで掲げる。
「分かった……じゃあ、リラだな。改めて、おかえり」
その時、リラの隣でタマの足がぴたりと止まる。
視線の先を追う。大宮の間の奥に、ギルドにいた三人が並んで正座している。
背筋は伸び、手は膝の上に揃えられ、顔は伏せられている。その姿勢には、自発的なものではない緊張が滲んでいる。
服や装備もかなり汚れている。
……眼鏡の大蛇……なぜここに。
タマが呆れた声で呟く。
「大蛇でも妖でもないって言ったでしょ」
……なぜ、わかる。
タマがイバラキの方へ顔を向ける。
「それより……彼ら、いったい?」
奥から足音が近づき、アルティシアが静かに入ってくる。
薄い灰青の瞳がタマを見て、それから正座する三人に向けられる。
「エルヴィナは、エルフの皇女として扱われるのが嫌だったらしく、話をする前に、逃げ出そうとしました……それで、イバラキが」
エルヴィナの視線が斜め下に落ちる。膝の上の拳が握り込まれていたが、反論する気配はない。
タマの視線が狼の獣人に移ると、イバラキがリラを椅子に座らせながら、背を向けたまま答える。
「狼は、ここへ着いた折、入口を守る武装したゴブリンを敵と見誤り、襲いかかりましたので」
瞼を腫らした狼の獣人の顔が、さらに伏せられる。耳が倒れ、尾が足の間に巻き込まれている。
タマの目が大蛇に向く。大蛇だけが傷だらけの顔を上げる。眼鏡の奥の金色の瞳がタマを真っ直ぐに見返す。
「初めまして、私の名前はゼノン。隣のこの男はイバラキ様の仰る通り、犬ではなく銀狼のルヴィンです。私は、先だっての計測結果を確かめたく、イバラキ様へ模擬戦を申し込みました」
伏せられたままの狼の耳が、一度だけ動く。
ゼノンの声は落ち着いていたが、正座を崩す気配はない。
タマは三人を順に見渡し、それから額へ手をやる。
「イバラキ、やりすぎじゃない?」
イバラキの背中が硬くなる。振り返らないまま、間を置いて答える。
「……最初が、肝心です」
声はいつもより小さかった。
三人の背後で、一箇所だけ影が不自然に盛り上がっている。正座を真似たノクティスが、金色の目をきちんと揃えてこちらを見ていた。
タマが俺を見る。俺はその視線を受け止め、正座のまま微動だにしない三人をもう一度視る。
どの背にも、無理に曲げられた跡が残っている。だが、芯まで断たれてはいない。
肩から力を抜き、腰を下ろす。
……色々と話はあるが。
「まず、飯にするか」
その言葉で、大宮の間の空気が動いた。
イバラキが小さく、本当に小さく息を吐くのが視えた。
……珍しいな。
正座を崩してよいと悟ったのか、エルヴィナが真っ先に腰を浮かせる。だが立ち上がろうとした足に力が入らず、腰が浮いた位置で止まる。そして、固まったまま横に倒れる。
隣ではルヴィンの耳が立ったものの、足の間に巻き込んでいた尾しか動いていない。
ゼノンは自分の膝へ手を置き、落ち着いた声で告げる。
「足が痺れ、感覚がほとんどありません」
「長く座っていれば、そうなります」
イバラキの返答に、ゼノンは納得したように頷く。
「なるほど。正座とは、相手の移動能力を奪うための作戦でしたか。確かにこれでは逃げ出せません」
「違うよ」
タマが即座に否定した。眉間へ指を軽く当て、そのまま天井を仰ぐ。
そして、俺を睨む。
……俺が何をした。
タマはため息を吐いたあと、頬を緩めると手に持っている袋を掲げる。
「お肉買ってきたよ」
はにかんだ笑顔で言うと、その声で広間の空気が和んだ。
イバラキの視線が袋へ落ち、それから俺へ向けられる。
「お館様が選んだのですか」
「店主が選んだ」
背後で、椅子に座ったままのリラが小さく笑う。
「最後は、ね。最初は安い順に選んで、煮込み用を今から煮るって言ってたけど」
「それは言わなくてよい」
イバラキの目が、もう一度こちらへ戻る。
「お館様」
「店主が選んだ……最後は」
「あの店主が選んだのなら、問題はなさそうですね」
イバラキが袋を受け取り、そのまま厨房へ向かう。
ほどなくして包丁がまな板を叩く音が始まり、魚と香草の匂いの中へ、火に落ちた肉の脂が爆ぜる音と香りが加わっていく。
レオンは何も言われないうちに棚から器を取り出し、卓へ並べ始める。数を口の中で勘定しながら手を動かし、そこでリラへ目をやって、もう一つ増やす。
卓の下のノクティスの影がふくらみ、そこから小さな手が伸びて、箸を一膳、危なっかしく卓の端へ押し上げる。位置は少しずれている。誰も直さない。
正座を解かれた三人は、まだ痺れの残る足を庇いながら、それぞれ空いた場所へ腰を下ろしている。
アルティシアも厨房から濡れた布巾を持ってきて、卓を拭いていく。
リラは椅子の上で、アルティシアの方へ手を伸ばしかけ、そのまま止めた。震える手が、行き場を失って膝へ落ちる。目は見開き、口は開いたまま閉まることを忘れている。
俺は大宮の間から縁側に出て天穿ち庭の前に立つと、いつも通り空を見上げる。
茜色が引き、かすかに曇る宵の空に、もう淡い月が浮かんでいる。
肩の上で影がひとつ、身じろぎをする。それから、するりと重さを落として、俺の足元の暗がりへ移った。
タマが俺の隣へ戻ってくる。特に何をするでもない。ただ隣に立ち、俺の肩へそっと寄りかかる。
俺は、かすかに震えの残るその手を握る。肩が少し跳ねたが、タマは俺の手を離すことはなかった。
*
椅子に腰を下ろしたリラが、甘味の入った紙袋を両手で包みながら、タマがゲドーマルの隣へ戻っていく様子を目で追っている。
二人は何も話さず、ただ、肩の触れた分だけ、どちらの背中からも力が抜けていく。
リラの唇が動く。ほとんど声にならないほど小さく呟く。
「……セレスティアさんも、うまくいくといいな」
「ん?」
レオンが器を並べる手を止め、顔を上げる。
「……なんでもない」
リラは紙袋を胸元へ軽く抱え、それ以上は続けなかった。
泥だらけのアウルがジェネラルに連れられて戻って来て、そのまま風呂場の方へ連れていかれる。
縁側から入り込んだ風に、棲家の灯りが揺れる。
天穿ち庭に、最後まで残っていた夕陽が消えていく。
夜が始まっていた。




