第34話 真っ直ぐで、簡単な話
夕方の王都は人であふれていた。
露店から立ち上る煙が傾いた橙色の光と混ざり、焼いた穀物と香辛料の匂いが鼻の奥へ絡んでくる。
行き交う人々の声はそれぞれ温度を持ち、荷車の軋む音がそこかしこで重なり合っていた。
いつも通りの賑わいがそこにある。
だが、通りの端に並ぶ露店のいくつかが、品はまだ残っているのに、いつもより早く店仕舞いを始めている。
俺はリラを背負ったまま、人の流れを避けるように進んでいる。
背に預けられた身体は軽い。以前、酔い潰れたのを運んだ時とは、重さの質がどこか違っている。
「……うぅ、ハルも来てくれればよかったのに……」
耳が近いぶん、抑えようとして抑えきれなかったものまで、そのまま伝わってくる。
「ハルは別件と言っていただろう」
すぐ横をタマとアウルが手を繋いで歩いている。
タマの眉は寄っていて、視線はリラの顔に向けられたまま離れない。
「やっぱりまだ、教会を出るには早かったんじゃない?」
リラが首を横に振り、その動きが背中に伝わる。
「もう平気平気。これでも元騎士だし……それに、泊まると高くつくし」
語尾だけを呟くように濁した後、「それに、ほら」と片手を上げようとして、
「……くっ」
声が途中で詰まり、持ち上げかけた腕が途中で止まる。
痛みを飲み込むように、腕が下りると、そのまま背中が静かになった。
俺は歩みを止めないまま、少し考える。
「元騎士というものは、傷の治りが早いのか?」
「……そういう意味じゃないわよ。痛みに耐えられるってこと……無理だったけど」
「そうか」
「絶対分かって言ってるでしょ」
……分かっていない。
タマが即座にアウルの手を離し、後ろからリラの腕を支える。
アウルが空いた手をしばらくそのまま宙に残し、それから静かに下ろす。
その手のひらが、自分の衣の裾を小さくまさぐる。
「無理しないで。まだ全然治ってないんだから」
「……ごめんね」
その言葉は掠れて、消え入りそうだった。支える手の丁寧さが、その分、増している。
リラが小さく笑う。
「さっきも言ったけど、タマさんのせいじゃないわよ。わたしは自分で選んだの。だから、もう気にしないで」
タマの視線が少し下に落ちる。答えないまま、支える手だけを離さない。
背中から伝わってくる身体の重みを、俺は改めて量り直す。
軽い……軽すぎる。
「肉だな」
「「え?」」
タマとリラの声が重なった。
その空気を置き去りにするように、俺はふいに道を曲がる。
「どうしたの?」
タマの声が後ろから飛ぶ。
「今日は肉の特売日だ。リラに肉を食べさせよう」
「何でいきなりその結論になるの?」
「血も肉も足りていない」
「治療って、そんな真っ直ぐで簡単な話じゃないからね?」
「う、うん。いいけど……でも、イバラキさんが夕飯の準備してるんじゃない?」
「あいつは今、忙しい」
「そうなの?」
自分の衣の裾をまさぐっていたアウルの手が、いつの間にか止まっている。
タマへ伸ばしかけて行き場をなくした手が、隣を歩く俺の袖へと迷うように動く。
考えるような間があってから、その指先がそっと袖を掴む。
……俺でもいいらしい。
曲がった先の通りは少し狭く、露店が両脇に並んでいる。
網の上で弾ける脂の音と、甘いタレの香り、香ばしい炭の煙が夕暮れの街に広がっている。
馴染みの肉屋の看板が視界に入ってくる。
「あれ? 今日はイバラキさんは?」
店主が手を止めてこちらを見る。日に焼けた顔に人の良い皺が刻まれている。
「ああ、今日は俺たちだけだ」
「大丈夫かよ? イバラキさんかレオンさん呼んできた方がいいんじゃないか? ちょっと前だって、俺があれだけ肩肉だって言ったのに、二人して別々の肉抱えて帰っていったろ。あのあとイバラキさんに何て言われたんだったっけ?」
俺がタマの方を向くと、タマは視線を店主から逸らしていた。
背中でリラが小さく笑う。
「やっぱりイバラキさん呼んだ方がいいんじゃない?」
俺は並んだ肉を視る。脂の乗り方、色味、繊維。
……適当に見えるかもしれないが、これでもちゃんと視ている。
そして指を差す。
「これをくれ」
店主が眉を上げる。
「いや、これは臭みがあるから下処理しないとすぐ食えないぞ。今夜の夕飯用じゃないのか?」
仕方がないので、別の肉に指を移す。前は大きいものを選んで失敗した。今回は、違う。
「これは?」
「だから、安い順番に選ぶなって! 夕飯は何にする予定なんだ?」
「これは?」
「煮込み用だ」
「なら煮ればいい」
「今から煮たら夜中になるぞ」
「では、これは?」
「干し肉用」
「焼けば食えるだろう」
「食えるか食えないかで肉を選ぶんじゃねえ!」
背中でリラが震えている。傷が痛むのかと思ったが、どうやら笑っている。
タマはもう口を挟まない。なぜか店主と同じ顔で俺を見ている。
「……ゲドーマル」
「なんだ」
「また、イバラキに怒られる未来が見えてきた」
……それは困る……また、夕餉が人参だらけになる。
「怪我人に効く肉料理がほしい」
店主がリラを見て、それから俺の顔を見ると、何かを察したように頷く。
「なるほど……なら、巷で噂のポーションの方がいいんじゃないか?」
「……巷で噂の?」
リラが聞き返す。
「なんでも、たったの一口で傷がたちまちに治るうえに体力も回復するらしいぞ。貴族様たちの間ではずいぶんと前から流行ってるらしい」
「一口で……傷が治るの?」
背中から聞こえた声が、先ほどまでより低い。
俺は今のうちに、今夜の肉を見繕っておくことにする。
肩越しに視ると、リラは店主の口元を見つめたまま、次の言葉を待っている。
タマが首を傾げる。
「一口で、傷も体力も? ……そこまでのは、聞いたことない」
「さあな? だがお陰でこっちは商売あがったりだ」
店主が商品を指差すと、確かに、いつもなら夕方には半分以上が消えているはずの棚に、まだ多くの肉が残っている。
「このままじゃ、今日も半分残るな」
店主が棚の奥へ目をやる。
「日が落ちたら畳む。残った分は今夜のうちに干し肉へ回すしかねえ。昨日もそうした」
近くの露店や他の店から、威勢のいい呼び込みの声が耳に入る。
……いや、威勢がいいというより、必死に声を上げているように聴こえる。
通りの向こうで、別の店がまた一つ、旗を降ろし始めている。
タマが視線を落とす。
「確かに今日はやけに売れ残ってるね。でも、なんで肉が余るの?」
「なんかここ数日、冒険者たちにも出回り始めたらしいな。一口飲むと腹も膨れる優れもんなんだとよ」
店主の声に皮肉はないが、棚へ戻った目は、残った肉からなかなか離れなかった。
「この辺りの夕商いは、貴族様のお屋敷から入るまとめ買いと、依頼帰りの冒険者で成り立ってる。煮炊きの手間も、飯を食う時間もいらねえ便利なもんが出回ったせいで、この有様さ」
「ならばここでその噂のポーションを売ればいい」
店主が目を剥く。
「バカタレ! 肉屋が肉を信じられなくなったら誰が肉を信じるんだよ」
その声が、通りの音を一つ押しのけた。
俺は少しだけ口の端を上げる。
肩越しに視ると、リラの顔から笑いが完全に消えている。
「そのポーションとやらにするか。店主の話が本当なら……明日にでも動けるかもしれない」
タマが俺や店主の顔へと視線を動かし、眉を顰めながら首を傾げる。
「待って。そんな都合のいいもの、おかしいよ」
俺はそこでリラへと顔を向ける。
「リラ」
「なに?」
「お前はどうしたい」
リラが目を見開く。しばらく、答えは返ってこない。
夕暮れの喧騒と近くの店が戸板を立てる音が、その間を埋めていく。
「……肉がいい」
タマの頬が緩む。
「いいの?」
「うん。早く治りたいけど……何が入ってるかも分からないものを飲んで、また倒れたら笑えないもの」
少し間を置いて、俺の肩越しに店先を見る。
「それに、ゲドーがここでどうやって肉を選んだのか、イバラキさんに伝えないといけないし」
「それは言わなくていい」
タマが吹き出し、アウルもくすくすと笑っている。
……失敗はできない。
「ならば、とっておきをくれ」
サエが買い物をするときは必ず信頼できる店主に任せていたことをふと思い出す。
「いいのか? 噂どおりなら、そいつの方が早く治るぞ」
俺はもう一度リラへ視線をやると、肩越しに目が合った。
さっきよりも真っ直ぐな目でこちらを見たあと、しっかりと頷く。
「俺は店主が信じる肉を信じることにする」
店主の手が止まり、俺をじっと見る。
「……そうか」
声が少しだけ掠れた。だがすぐに手が動き出す。
選んだ肉を慣れた手つきで包み、それをタマに差し出す。
俺ではなく、タマに。
「ほらよ」
「ありがとう。これは私が責任持ってイバラキに渡すよ」
タマが受け取りながら言う。
「なら安心だな」
店主は満足そうに頷き、それから俺を見る。
「毎度あり……だな」
「ありがとう。楽しみだ」
通りを抜ける風が、店の奥で焼けた炭と肉の脂の匂いを運んでいく。
……悪くない。
アウルが俺の袖を引く。
「……ゲドーマル。甘いもの」
先程のことをまだ覚えている目をしている。
タマが振り返り、アウルの顔を見てそれからほんの少しだけ笑う。
「帰りに寄ろうか。甘味処、まだ開いてるよ」
アウルが頷く。その頷き方が嬉しそうで、リラが背中で小さく笑い、その笑いの振動が俺の肩に伝わった。
だが、頷いたはずのアウルの目は、すぐにまた通りの先へ向いている。
夕暮れに紛れて、また一つ、店の旗が降りていく。
「……閉まる」
タマが一瞬きょとんとし、それから小さく頷く。
「それは大変。急ごうか」
そう言いながら、タマは俺の墨色の直垂の裾を指先でつまむ。
その手はまだ少し震えている。
背負われたままのリラが、笑いを堪えるように肩を震わせる。
「ちょっと、怪我人背負ってるんだから走らないでよ」
「走ってはいない」
「今、明らかに揺れが強くなったからね」
「騎士なら耐えられるのだろう」
「今、それ言わないでよ」
アウルが俺の袖を掴む指に、わずかに力がこもる。
……甘味というものは、随分と急を要するものらしい。
夕陽が石畳を染める中、俺たちはまた歩き出す……少しだけ早足で。
足音はやはり揃わない。背後では、肉屋の呼び声が、暮れかけた通りにもう一度だけ響いていた。
*
夜の空気は、不自然なほど乾いて澄んでいた。
天網の狂帝の居城。
レグナ王国よりはるか北にあるこの地では、薄く伸びた雲の合間から星が覗いている。
月はやけに近く浮かんでいるように見え、眩しさを残したまま、丸い輪郭を夜へ刻んでいる。
深い堀に囲まれた城は、その光を受けて静かに佇んでいる。
石壁には月明かりを弾く雪が厚く積もり、その下の壁はさらに厚く、高く、どこから見ても隙がない。
その威容は誇示するためというより、そこに在るものとして夜の色と馴染んでいる。
カラスが城の周囲を旋回している。羽ばたきは見えるのに、鳴き声はない。
*
室内に満ちる灯りは、外の闇と切り離された温度を保っていた。
白を基調とした壁面に魔道具の光が均一に行き渡り、影らしい影がどこにもできていない。
ヒルドは入口に近い定位置で長槍の石突を床へ突き立てている。
身に纏っているのは、戦場で用いる黒銀の全身鎧ではない。
黒の詰襟から足元まで続く裾長の衣に、胸元から腰を覆う白い前掛けを重ねた、女官としての城内用の装束。
長い裾にも足運びを妨げない切れ目が入り、槍を振るうための動きを損なうものはない。
金の瞳が室内の隅々を巡り、玉座、居並ぶ幹部たち、隣に控えるゲルやシグ、その他の狂帝の騎士たち、そのすべてを一枚の絵として頭の中へ収めていく。
ゲルはいつもの槍を肩に預け、退屈そうに顎を上げているが、瞳の先は玉座を離れない。
纏う装束はヒルドと同じ黒と白を基調としているものの、両袖は捲り上げ、刻印の走る腕が露出している。
シグも同じ意匠の装束をきちんと纏い、魔導書を胸の前で抱えている。
狂帝の騎士たちは息を殺し、長衣の裾や装甲の留め具が鳴ることすらない。
玉座の傍らでは、ヒルドたちと同じ黒と白の装束を纏った女が、両手でガグンの左肩から腕へ触れている。
皺一つない白の前掛けは身の回りの世話を担う女官の姿だが、腰には細身の剣が収まっている。
ガグンの腕の動かし方には、ほんの少しぎこちなさが残っている。
女はその動きの遅れを見て取ったのか、手のひらの魔力を強めながら頭を垂れる。
「申し訳ございません。まだ、完全にはお戻しできておりません」
「お前が詫びることではない。続けろ」
あれだけの傷を負いながら、ガグンの表情には、焦燥感や疲労は漂っていない。
「……かしこまりました」
力の入った手の甲には血管が浮き出ており、彼女が必死に集中しているのが見て取れる。
扉が開いたのは、そのすぐ後だった。
大きくはない音が、それでもこの部屋では耳障りなほど明確に響き、若様が姿を見せる。
歩幅は一定で、迷いも揺れもなく、視線は上げないまま玉座の前まで進み、そのまま滑らかに膝をつく。
ちらりと見えた顔からは、居城に戻ったという安堵どころか、何の感情も読み取れない。
無駄な気配を一切残さないその動きを、ヒルドは何度見ても見飽きることがない。
「久しいな、我が息子ザビルよ」
ガグンの声は軽く、しかし、室内の隅々までよく通る。
「ご報告に参りました。目覚めた古竜の件ですが__」
ガグンの手が空気を切るように動き、続きを止める。
「それはもうよい」
治療中の腕を持ち上げると、この場の視線がそこに集まる。
「お前とヤグやミルザが相手にしたゲドーマルは、枠から外れた男だ」
その口元が緩み、笑う形を作った。
「見ろ」
治療中の腕を軽く振るが、やはりまだぎこちない。
「俺もこの有様だ」
女の手のひらが動きに合わせて力を込め直す。
魔力の流れが濃くなり、小さな音を立てて肌の下へ流れていく。
少しの間、ガグンの腕をじっと見ていた若様だったが、小さく二、三度頷くと、頭を深く下げる。
「ゲドーマル……ご存知でしたか」
ガグンの眉間に皺が寄り、若様の目を睨むように見つめる。
「俺に知らぬことはないと知れ」
誇るわけでもなく、ただ口にしたその言葉で、室内の空気が重さを増す。
「俺は一度、レグナから離れる。少しばかりやることができた」
列を成す幹部たちの肩が同時に強張る。それでも、ざわめきは生まれない。
ヒルドの視界の端でも、隣に立つゲルの肩が揺れるのが見えた。
玉座の傍らでは、女が治療の動きを止めかけ、すぐにそれまでより強い力で流れを送り直す。
「ご出立までには、必ず」
女はそれだけを口にして、視線を腕へ戻す。ガグンはその声へ目もくれない。
「お前は引き続き、風の古竜を手に入れる方法を探せ」
若様は何も言わず、深く頭を垂れる。一度も表情が揺れることはない。
扉がもう一度開いた。今度は乱暴だった。
首元の辺りを青い血で汚したヤグが現れる。
妙に軽い足音でゆっくりと近づいてくる。
ヒルドは自分の視線がその姿を捉えた瞬間から違和感を拾い始めている。
ヤグは歩きながら魔道具に触れる。いつもなら指先が留め具の縁を確かめ、歪みや緩みを探る癖がある。
今日はその指が留め具に触れないまま、力なく垂れている。
その静けさは、ヒルドの知るヤグの静けさとは種類が違っていた。
ヤグは絨毯の中央を進み、若様の隣で足を止めると、跪くことはせず、そのまま口を開く。
「始祖様からの伝言です……」
いつもの、囁くような小さな声が静かに広がる。
室内の者たちは誰もヤグから視線を外さない。ヒルドも、槍の柄を持つ手の位置を変え始める。
「よろしくとのことです」
言い終わると同時に、ヤグの口の端が裂けるように吊り上がり、犬歯が伸びる。
目を剥き、腰を落とす。手は魔道具ではなく、そのまま襲うため、身体の後ろへと伸ばされる。
ガグンの傍らの女がヤグとの間に身体を滑らせる。
ヒルドの右足が床を蹴る。石突を軸にしていた重心を、前へ、玉座へ向けて叩き出す。
柄が手のひらの中で回転し、穂先が下から弧を描いて上がり始める。
だが、その一歩が着地しきる前に、空気が変わった。
横合いから伸びた腕が、ヒルドの視界を丸ごと塗り潰す。
丸太を思わせる太さの腕が、ヤグの跳躍の軌道へ割り込み、その頭を鷲摑みにした。
ヒルドが一歩を踏み切るその間に、あの巨躯はすでに三歩分を潰し終えていた。
摑んだヤグの頭を、そのまま床へ叩きつける。
骨の砕ける鈍い音と、石の割れる乾いた音が重なり、床の一角が弾ける。
押し出された空気が壁際の光を揺らし、それもすぐに元の形へ戻る。
ヒルドは踏み出した足を止め、振り上げかけていた穂先を、ゆっくりと下ろす。
「乱心か、ヤグ!?」
居並ぶ幹部の誰かが声を張り上げる。だがその声もすぐに沈黙する。
ヤグは石床に顔を埋めたまま、動かない。
玉座の傍らの女が、伸ばした魔力を細く絞ってヤグの方へ這わせる。
生命の反応を探るその糸が、しばらく揺れたのち、ふつりと途切れる。
「……すでに、こと切れております」
ガグンはゆっくりと目を細める。
「……クロウゼルの奴め……《血の鎖》を取り戻したか」
その声には、怒りの熱がない。混じっているのは、予定を狂わされた者の苛立ちだけだった。
「しかし、事を構える相手を間違えている」
治りきっていない手のひらに力が込められる。
「”奴”が動き始めようとしている今、この時にやることではないだろう」
視線がどこでもない場所へ向く。
「たわけ者めが」
暖かいはずの光まで、温度を落としたように感じられた。
ガグンは肘掛けに手を置くと、声を張る。
「命じる! 引き続き戦士を集めろ。まだ足りん。急げ」
一斉に膝がつく音が重なる。それもすぐに沈黙へ吸い込まれ、部屋は再び静けさに包まれた。
ガグンの視線が、ヒルドを見つけて留まる。
「ヒルド」
名を呼ばれ、すぐさま彼女はガグンの目を見る。
「血の痕を辿れ。居場所だけでいい。相手はクロウゼルだ。まだ手は出すな」
「承知しました」
ヒルドは槍を引き、穂先を下げて低い位置で止める。
まだ手は出すな。その一言を、頭の中の絵の上へ置き直す。
位置を確かめるだけの任なら、本来ここまでの数は要らない。
それでも彼女は、必要な人数を目で選び、他の狂帝の騎士たちへ合図を送る。
誰もが無言のまま、それぞれの得物を鞘へ、あるいは背へ収め、静かに玉座の間を辞していく。
外ではカラスがまだ飛んでいる。
それでも、鳴き声は聞こえない。




