第33話 見えないもの
森は、完全に静まり返っていた。
風は確かに流れている。枝の先が微かに揺れているのが、エルヴィナの目に映っている。
生まれつき葉一枚の擦れる音まで拾い上げるはずのハイエルフの耳が、森が返してくるはずの音を、今は何一つ拾わない。
足元にあるはずの土の匂いさえ、ひどく遠い場所から漂ってくるように感じられる。
……五感そのものが、森の底へ沈められてしまったみたい。
どれだけ息を吸っても、肺の奥まで届かない。
空気が重くて、胸の浅いところで押し止められている。
「……これが、魔王の側近……なの」
木々の向こう側で”それ”は足を止めたまま、まだ姿を現してはいない。それなのに奥から押し寄せてくる圧が、先に肌へ届いている。
理屈や狩人の勘というより、生き抜くための本能そのものが警戒している。
腰を低く落としたルヴィンの喉の奥で低い唸りが震え続け、覗いた牙の先が微かな光を弾く。
弓を引いたまま、エルヴィナは指の位置をわずかに調整する。
アクアリスが応えて水が形を変え、透明な矢尻がふるりと震える。
……弦を引く指が、冷たい。
水で生み出した矢なのだから冷たいのは当たり前のはずなのに、今はそれが矢から伝わる冷たさなのか、自分の指先が勝手に冷えているだけなのか、エルヴィナ自身にも判断がつかない。
……嫌な感じ。
魔力の大きな相手なら、これまでにも幾度となく見てきたつもりだった。
実際に、ゼノンも本気を出せばかなりの魔力量がある。それを超える者を、つい先刻まで見たことがなかった。
けれど、目の前のこれは、何かが違う。ただ強いものが、そこに立っているのではない。
森という場所そのものの中に、本来あってはならない何かが一つ、紛れ込んでいる。
ゼノンは一歩下がった位置で、胸元にいくつも下げた計測器と森の奥とを、交互に見比べている。
いつもなら、こういう時こそ真っ先に何か言い出す男だ。
作戦だと称してただの思いつきを、効率だの、最適解だのと、聞いてもいない御託を並べたてる。
結局、後から力任せに帳尻を合わせる。
それが今は、彼の口から何一つ出てこない。
その沈黙が、エルヴィナには一番気味が悪かった。
「……どうするの、ゼノン。今回ばかりは分が悪いわよ」
抑えたつもりの声は、それでも震えを殺しきれていない。
「いま、作戦を考えている。少しだけ待ってくれ」
ゼノンの手が、《大断罪斧》の柄を強く握り込む。
クロウゼルは優雅な佇まいのまま、興味深げに眺めていた。
「では、また会いましょう」
先ほどと同じように、貴族のように左手を胸に当て、右手をゆるやかに流しながら、深く頭を下げる。
クロウゼルが背を向けたそのとき、エルヴィナの矢先に、無防備な背中が入る。
指を離すか、離さないか。迷った時にはもう、銀狼の脚が地を踏み締める。
次の瞬間には飛びかかっているはずの、その土を踏む音までが、はっきりと耳に届いていた。
だが、森がざわめいた。
空気が一瞬、ふわりと軽くなり、耳に届いていたはずの音のすべてが、まとめて途切れる。
そして、ここへ向かって来るはずだった圧が、跡形もなく失せた。
ルヴィンの踏み込んだ足がその場で固まり、行き場を失った力が散っていく。
クロウゼルの足も止まっている。
こちらに背を向けたまま、顔が森の奥へと向けられている。
「……何なの、これは。魔力が消えたわ」
自分の声が震えているのが分かった。それを止めることができない。
「これは……どうやら血の血統にとっても想定外のようだ」
ゼノンの言葉は揺れていなかったが、表情に浮かぶ動揺までは隠しきれていない。
森は一見すると何も変わっていない。ただ、何かが”抜けた”ような空間が、そこに取り残されている。
その中で、小さな足音が聴こえる。ゆっくりと、だが確実にこちらへ向かってくる音が、二つ。
視線を向けた時には、すでに木々の間に姿を現していた。
アルティシア”元”第一王女が歩いてくる。
白い衣の裾が、土を払う。動きは緩やかで、急ぐ気配は一切ない。
それなのに、一歩進むごとに、この場にいる者たちの緊張が一段ずつ引き絞られていく。
弦を握る手に、さらに力がこもっていく。
……なぜ彼女が、こんな所に……追われる身のはず。
彼女の肩には、黒い影が乗っている。闇精霊がじっと、こちら側を見ている。
クロウゼルの口元が、わずかに緩む。
「ほう……闇の精霊ですか……これは、珍しい」
視線が闇精霊ノクティスを捉える。
「人に馴れるものなのですね……中々に興味深い」
その声が消えるより前に、もう一つの足音が遅れて追いついた。
全員が視線を向けた先で、木々の影が揺れ、藍色の髪の女が現れる。
濃褐色をした異国の服を纏い、木漏れ日の中で揺れることもなく、ただそこに、在る。
気づけば、誰もが呼吸を整え直していた。
何事もなかったかのように、ただ歩いてくる……その手には、一人の男の足が無造作に握られている。
地面を擦る音が響き、男の背が乾いた土を削り、線を引いていく。
そのまま歩み寄り、手を離すと、どさりと重い音が森に落ちる。
転がった男の胸は浅く上下しているが、動かない。
クロウゼルの目が開く。ルヴィンの呼吸が一瞬止まる。
エルヴィナの指先から、力が抜けた。
ゼノンが機器を取り出し、無言でイバラキへと向ける。
針が揺れ、そして止まる。
「……ありえない」
エルヴィナはゼノンを見る。
「どういうこと? また計測できないの?」
ゼノンは首を何度も細かく振る。
「……逆だ。どノーマルだ。測ったかのように平均的冒険者だ」
言われても、すぐには意味が繋がらなかった。
エルヴィナは地面に転がる男と、それを片手ひとつで運んできた女とを、何度も見比べる。
「その機械、本当に壊れていないでしょうね」
「壊れていない。数値としては正常だ」
「……それが一番、気に入らないわ」
平均的な冒険者が、ヴァンパイアの王の護衛を軽々と引きずってここまで運んでくる。
そんな道理があってたまるかと思う一方で、目の前の女の佇まいには、数字を疑うより先にこちらを黙らせるだけのものが備わっている。
クロウゼルが視線を藍色の髪の女に向ける。
「貴方は?」
その声のトーンは変わらない。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
女は答えないまま、隣に立つアルティシアを見る。
アルティシアの視線が、クロウゼルの胸に当てられたままの左手へ、流れる。指が一度動いて、止まる。それから、わずかに首を傾ける。
「女性に名前を聞く前に、まずはご自分の名前をおっしゃるべきでは?」
エルヴィナは、一瞬だけ自分の耳を疑った。
……今この女、魔王に礼儀を説いたの?
隣でゼノンの手が計測器の上で止まり、ルヴィンまでもが唸ることを忘れている。
エルヴィナ自身、弓を構えたままの姿勢で、しばらく声が出なかった。
透明な矢尻の輪郭が、少しずつ緩んでいく。
アルティシアの声は、大きくはない。それなのに、木々の間を抜けて、この場の重さを入れ替えていく。
「血の血統、クロウゼル殿」
クロウゼルは切り替えるように、少しだけ間を置く。それからゆっくりと頭を下げる。
「これは失礼いたしました」
……本当に、下げるのか。
エルヴィナは、何とも言えない気持ちのまま、弓を構え続ける。
魔王が、目の前で元王女に向かって律儀に頭を下げている。
その光景のほうが、彼の魔力よりもよほど信じがたい。
相変わらず、手本のとおりだった。
「お初にお目にかかります、レグナ王国第一王女アルティシア殿下」
クロウゼルは顔を上げ、そこで首を傾ける。
「……失礼。今は、そうお呼びしてはいけないのでしたか」
エルヴィナの目が細くなる。
……嫌な男だ。
アルティシアの姿勢は、少しも変わらない。
クロウゼルは右手を口元に置くと、こほん、とわざとらしく咳をする。
「ご存知の通り、私はクロウゼル・ヴラド。ヴァンパイアの始祖でございます」
アルティシアは頷く。
「そう」
それだけ言い、そのまま隣を見る。
「彼女はイバラキ。今は私の護衛をしてくれています」
エルヴィナは小さく息を吐く。
「……で、どうするおつもり、リーダー?」
ゼノンは視線をイバラキと呼ばれた女から外さない。
「……とりあえず、様子を見る」
「お前は肝心な時に役に立たないのね。それを作戦とは呼ばないのよ」
言いながらも、他にどうしろというのか、エルヴィナ自身にも答えは浮かばない。
クロウゼルの顔が、こちらへ戻る。
「アルティシア殿下と従者イバラキ殿は、なぜこのような場所に?」
アルティシアは倒れている男へと視線を落とし、そしてクロウゼルを見る。
「貴方には関係のないことです。今すぐ彼を連れてレグナを出ていきなさい」
静かな声だが、エルヴィナはその声が森中に届くような気がした。
クロウゼルが肩をすくめる。
「私もそうしたいのは山々なのですが……」
クロウゼルの目が、こちらを順に確かめていく。矢を構えたままのエルヴィナ、いつでも飛びかかれるルヴィン、斧槍を構えたゼノン。
「そう」
その声と同時に、アルティシアの周囲で空気が変わる。
冷気が地を這うように広がり、雨の降る前のような匂いが、森の匂いを塗り替えていく。
風が大きく揺れ、木々の葉が一斉に音を立てる。
……こ、これ、どうなっているの……一国の王女が出せる力ではないでしょう。
冷気が広がりきったあと、白い袖の陰で、片方の手がもう片方の手首を握る。
ルヴィンが目を見開く。エルヴィナの指先が弦を引き締め直し、緩んでいた矢尻が形を取り戻す。ゼノンの機器の針が振り切れる。
クロウゼルの口角が上がる。
「これはこれは……流石でございます、殿下」
姿が消えた、と思った時にはもう、イバラキの足元に転がっていた男がいなくなっている。
そしてクロウゼルは元の位置に戻っている。腕の中に、男を抱えたまま。
イバラキの視線が、空になった足元へ向く。
「……これは、速いですね」
クロウゼルは微笑む。
「では、また会える日までごきげんよう」
空気が揺れ、次の瞬間にはもういなかった。
重かった空気がゆっくりと散っていき、鳥の声が、ようやく戻ってくる。
ルヴィンの肩が落ちる。
「……何もできなかった」
その視線は、クロウゼルの消えた場所から動かない。
こういう時、彼にかけていい言葉を、エルヴィナは持っていない。
何も言わずに、そっとその肩へ触れる。
鳥の声に混じって、遠くから低い音が届く。
エルヴィナの耳が、わずかに動く。
王都のある方角から、一度。
「……追手?」
誰に聞かせるつもりもない呟きだったが、アルティシアが応える。
「おそらく、私の魔力に王都の計測器が反応したのでしょう」
その答えがあまりに落ち着いていることのほうが、エルヴィナには気にかかった。
「王都の騎士団がここへ来るまで、それほど時間はかかりません」
それから、アルティシアは改めてこちらを見る。
「ですので、今ここで、お話を聞いていただきたいのです」
ゼノンが息を吐く。
「それで、殿下は……なぜここに?」
アルティシアが視線をエルヴィナへと向けると、エルヴィナの肩がぴくりと強張る。
「そちらのハイエルフの皇女に、相談がございます」
弓を下ろしかけていたエルヴィナの手が、途中で止まる。
……よりにもよって、今それを言うの。
「……皇女はやめて頂戴」
言ってから、少しだけ間を置く。
「わたくしは冒険者よ。《残響の楔》のエルヴィナ。それ以上でも、以下でもありませんわ」
言い切ってから、エルヴィナは何となく居心地が悪くなった。
背筋を伸ばし、顎を上げ、完全に皇族の発音でそれを宣言してしまっていたことに、口にした後で気づいたからだった。
隣でゼノンが何か言いかけたので、視線で黙らせる。
アルティシアは、何も指摘しない。
「そうですか」
ただ、それだけを受け取ってから続ける。
「では、冒険者エルヴィナさんにお願いいたします。ただし……お答えいただくことになるのは、おそらく皇女としてです」
エルヴィナは、視線を逸らした。
遠くの角笛が、また鳴った。
*
教会の最上階、外壁に沿って伸びる白い回廊を、カイランは静かに進んでいた。
沈みかけた陽が橙に滲んで差し込み、並んだ柱の影を同じ方向へ長く伸ばしている。
いつもならこの時刻、下の階から祈りの声が重なって聞こえてくるが、今日はない。
回廊の端に、セレスティアが立っている。
《聖なる長杖》の石突きを床に置いたまま、白い衣の裾を風に揺らしながら、夕陽に染まる王都の屋根と塔、遠くの城壁までを見下ろしている。
カイランが隣に立っても、彼女は振り返らない。ただ、杖に預けていた姿勢が少し変わる。
自由な方の手が衣に触れては離れ、何かを言おうとするように唇が開きかけたが、結局何も言わない。
「彼らは帰って行ったよ」
「……そう……無理しなければいいけど」
それだけを返したあと、セレスティアはまた口を閉じた。
夕陽が横顔を照らしている。怪我の痛みを堪える顔には見えない。
カイランは先を促さずに待つことにする。
彼女が大事なことを伝えたい時に、言葉を選ぶのに時間がかかることは、昔から知っている。
やがて、セレスティアが杖の柄を握り直す。
「カイラン。明日、時間があればどこかに__」
その言葉の先に、別の足音が重なる。
静けさを壊さないほど軽く、妙に落ち着いた歩調が近づいて来る。
白い手袋が視界に入り、その手が胸元へ伸びると、細い鎖に繋がれた懐中時計が引き出され、蓋の開くかちりと小さな音が回廊に落ちる。
王都リュシア大教会を預かる司教、ベネディクト・ヴァイン。
日が傾く時間になっても、皺ひとつない純白の司教服をまとい、濃い栗色の髪を乱れなく後ろへ流している。
狐のような細い目が、まずセレスティアを捉え、次にカイランへと移る。
「聖女様」
その呼び名が語られた瞬間、セレスティアの背筋が伸びた。
つい今し方、何かを言いかけていた少女の顔が消え、巡道教の聖女がそこに現れる。
カイランは視線を伏せ、ゆっくりと息を吐く。
「明朝より、王都の施療院へ新たな薬が運び込まれます。その前に、聖女様の認可をいただければと存じます」
白手袋に包まれた指の間で、小さな薬瓶が夕陽を弾いている。
「何の薬です?」
「傷を塞ぎ、失った体力を取り戻し、一時的ながら魔力まで高める。実に素晴らしいものですよ。貴族にはすでに随分と広まっておりますし、いくつかの冒険者の間でも使われている。効き目については、もう十分に証明されております。あとは明朝、教会が正式に扱い、聖女様のお名前をいただければ、”奇跡”として完成する」
カイランは瓶の中身ではなく、司教の迷いのない手つきを見ている。
……淀みがない。
セレスティアの目が細くなる。だが、彼女が何かを答えるより先に、カイランの口から声が出る。
「値が高すぎる」
ベネディクトは表情を変えることなく、視線をカイランに向ける。
「市井の回復薬として出せる額じゃない。効果も過剰だ。回復も強化も、持続もな。それに、一度使った者の中には、傷が塞がったあとも次を求めている者がいる」
「流石でございます」
司教は頬を緩め、ゆっくりと頷く。
「教会の盾は、見るべきところを違えない。実によくお調べになられている」
「出所はどこだ」
「さて。仕入れ先までは、私も存じ上げませんので」
……やはりはぐらかすか。
ベネディクトと薬の出所を繋ぐ決定的な証拠がない。
この程度の言葉では、彼を捕らえる理由にはならないし、大司教への報告にも足りない。
ベネディクトは薬瓶を司教服の内側へしまい、そのまま懐中時計の蓋を閉じてから、感心したように大きく頷いてみせる。
「大司教猊下も、随分と疑り深いお方だ」
そう口にした直後、頬の緩みが引く。
「王都で広がる薬の出所と金の流れを探らせるために、聖域騎士に並ぶ腕を持つ貴方を、ただの聖騎士として、この私の膝元へ送り込むとは」
セレスティアの顔が、カイランへ向いた。
カイランは何も言わないまま、ベネディクトを見ている。
大司教から命じられていたのは、王都に出回り始めた薬と、その流れの中心にいるベネディクトを調べること。
誰にも悟られてはならない仕事であり、セレスティアにさえ黙ったままでいた。
密命を知るのは、大司教と自分だけのはずだった。
カイランの口が開きかけるが、その言葉が声になる前に、ベネディクトの声が重なる。
「貴方にも使命がおありでしょう。ですが、余計なことはなさらない方がよろしい。巡道教にとって必要なことなのです」
声は穏やかでありながら、その穏やかさは何ひとつ和らげない。
「聖女様の敗北が、どれほど教会へ影を落としたことか。信者は揺らぎ、貴族たちは我々の力を疑い始めている。今必要なのは、分かりやすい勝利なのです」
ベネディクトの視線が、セレスティアの肩へ向けられる。
「魔王の首がまだ難しいのであれば、人を救う奇跡の方が容易い」
石突きが石床を擦り、短い音を立てる。
「それに、聖域騎士団はすでに本部を発っております。数日もしないうちに王都へ到着するでしょう。聖女様がお戻りになれば派遣を止められる、という段階はもう過ぎております」
セレスティアの手が杖の柄を強く握る。
身体の傷が治るまでは、まだ間に合う。セレスティアはそう思っていたのだろう。
その猶予が今、目の前で消えていく。
「明朝から……公に発表するのですか」
「ええ。助けを待つ者は大勢おりますので」
夕陽がさらに沈み、白い回廊から温度が抜けていく。
セレスティアは自分の手を見つめ、それから、回廊の向こうに広がる王都へ目を向ける。
「明朝、私も行きます」
ベネディクトの眉が上がり、狐の目がわずかに細くなる。
「施薬を始める前に、薬も、使う相手も、私自身の目で確かめます。それまでは、聖女の名も印も使わせません」
「教会の求心力を取り戻す機会を、お捨てになると?」
「信じてもらうために嘘をつくなら、取り戻したことにはなりません」
今度は言葉を選ぶのに時間がかからない。
ベネディクトはしばらくセレスティアを見つめたあと、薄い唇をわずかに持ち上げる。
「承知いたしました。聖女様ご自身が施薬へ立ち会ってくださるのであれば、それ以上の後押しは必要ございません」
「立ち会うのではありません。調べに行くのです」
「信者がどちらとして受け取るかは、私どもには決められませんので」
セレスティアの表情から、温度が消える。
それでも言い返すことはせず、身を翻す。石突きが石床を叩き、乾いた音が回廊へ落ちる。
少し進んだところで、その足が止まる。
「カイラン」
振り返らないまま、セレスティアは続ける。
「明日、一緒に来て」
先ほど、彼女が言おうとしていた”明日”は……もう来ない。
「分かった」
セレスティアはもう一度歩き始め、杖の音をひとつずつ重ねながら、夕陽の届かない回廊の奥へ消えていく。
最後の音が聞こえなくなってから、白い手袋がカイランの肩へ触れる。
「期待しております」
耳元へ、静かな声が落ちた。
「聖女様を動かせるのは、貴方だけなのですから」
肩に置かれた手を振り払いたい……その衝動を、カイランは息を吐いて逃がす。
腕力だけなら、その手首を掴み、懐中時計が次の時を刻むより早く石床へ伏せさせられる。
だが、倒したところで、薬そのものが消えるわけではない。
貴族と交わされた約束も、明朝に荷を運ぶ者たちも、薬を待つ信者たちも、そのまま残る。
ベネディクトは、剣の届く場所に立ちながら、斬れない場所へ身を置いている。
ここで剣を抜けば、残るのは司教を襲った聖騎士と、その男を庇った聖女だけだ。
「大司教猊下ではなく、巡道教の役に立ってください」
白い手袋が離れると、司教は何事もなかったように踵を返す。
カイランはその背を追わなかった。腰にある剣の柄の硬い感触を手のひらで確かめてから、セレスティアが消えた回廊の奥へ身体を向ける。
証拠を掴むために残されたのは、明朝の鐘が鳴るまで。
もう、一晩しかない。




