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第32話 その前に、すこしだけ


 王都近郊、西側の平原。


 風が抜けるたびに、焦げた草の匂いが濃くなったり薄くなったりする。


 目の前には、大地に定規を当ててそのまま焼き割いたような、一本の黒い筋が伸びていた。


 ところどころにまだ火が残り、ぱち、ぱちと小さく爆ぜている。


 あの筋を作ったのは自分の水刃ではなく、ゲルの炎だ。


 何度、目にしても、見慣れることはないだろう。だが、それ以上の感慨は、シグの中には湧かなかった。


 すぐ脇では、ゲルが両手を宙に上げ、大きく口を開けてあくびをしている。


 視線は辺りをさまよい、この場のどこにも、もう興味は残っていないらしい。


 足元には、引き裂かれたように歪んだ鎧と、焼け落ちた破片が無造作に散らばっている。


 その黒い地面の上で、わずかに影が動く。


 エルネストと呼ばれた魔導士が地面に手をつき、這うようにして進んでいる。


 手で土を掴むようにして、肩を細かく震わせながら、それでも、指の分だけ土を手繰り寄せる。


 視線の先には、重騎士のガルムと呼ばれた男が倒れている。だが、荒れた土の上を這っていくには、まだ距離がある。


 その向こう側に、団長のヴァルクス・エーベルハルトが倒れている。


 目は閉じたままだが、胸の上下は、手前の二人よりずっと深い。


 エルネストが息を吸おうとするたびに顔が引き攣り、その一呼吸ごとに、シグの喉の奥も勝手に狭くなる。


 それでも腕を止めずに、少しずつガルムの方へ進んでいく。


 「やめなさい。そのまま続ければ貴方の命に関わるわよ」


 その声は、自分でも思っていたより高いところから出た。


 それでもエルネストは応えない。


 ガルムの元へ辿り着くと震える手のひらから、弱々しい光が滲み出す。


 揺れながら、今にも消えてしまいそうでありながら、その光は確かに形を保とうとしている。


 地の底から、かすかな震えが伝わってくる。風のうねりと大差のない、その程度の揺れでしかない。


 「やめなさいって言ってるの!」


 今度は声が荒れ、抑えていたものが、わずかに溢れてくる。


 エルネストの光が、一瞬だけ止まる。


 「聞こえているのね……それなら、今すぐやめて、自分を守りなさい。貴方にも執行すべき任務が残っているでしょ」


 それでも次の瞬間には、消えかけていた光がもう一度強くなり、震える魔力がガルムへと注がれていく。


 止めれば止めるほど意固地になる。そういう性分の男なのかもしれないと、シグはこの期に及んで初めて悟った。


 やがて光が一瞬だけ大きく膨らみ、そのまま静かに消える。


 エルネストの身体から力が抜け、崩れるように地へ伏す。


 それでも、その背中はかすかに上下している。


 それを確認した直後、地面を伝う震えが、はっきりと形を持ち始めた。


 ひとつ、ふたつと数えられるほどの間を置いて、それは王都の方角から、馬の脚とは思えない速さで近づいてくる。


 ゲルの口角が上がり、顔が真っ直ぐ振動の方へ向く。あくびで緩んでいた顎が、音を立てて閉じた。


 「お? 新手か?」


 ゲルの声に新しい期待が滲んでいる。


 ヒルドは近づいてくる方角へ一度だけ目をやり、それきりエルネストから視線を外す。


 「引きます」


 いつもと同じで、声に揺れはなかった。


 「あれは団長のグラウです。今、あの方と戦うのは得策ではありません。それに、あの方はこちらに靡くことはないでしょう」


 言い終える前に、身体はもう戦場へ背を向けている。


 「任務を考えれば、ここに残る必要性はありません」


 槍の柄を持ち直し、そのまま踵を返す。


 「ちぇっ」


 ゲルが舌打ちをし、つまらなそうに肩を回しながら、ヒルドを追って歩き出す。


 足取りは名残惜しげだが、それでもゲルは、ヒルドとの距離を一定より広げない。


 蹄の音は、もう風の音と聞き違えようがなくなっている。


 土煙の向こうにレグナ王国の旗が見え、いくつもの鎧の影が浮かび上がる。


 先頭を駆けるのは、他の誰よりも揺れのない、静かな一騎。


 「シグ。撤退します」


 ヒルドが振り返り、短く告げる。


 シグはエルネストを見つめたまま、動かない。


 倒れたまま動かないガルムの向こう側でヴァルクスの指がわずかに揺れる。


 ヒルドの金色の瞳が、もう一度、倒れたエルネストとガルムの上を通り過ぎ、止まる。


 だが、ヒルドは何かを語ることはなく、そのまま前を向き直り、歩みを緩めることなく去っていく。


 先頭を駆ける一騎、グラウが、王国の紋章の刻まれた長剣を鞘から抜く。


 金属の擦れる音が、まだ距離のある空気を渡って届く。


 ……王国が代々抱えているという宝剣。狂帝の御方の口から、以前聞いたことがある。


 耳元で何かが淡く光り、その光がグラウの輪郭を走り抜けると、馬の律動に合わせていた身体から、揺れが消えていく。


 後ろに続く第一団の騎士たちも次々と剣を抜き、同じように隙のない構えへと整っていく。


 「早くしろ、シグ。任務を忘れるな!」


 ゲルの苛立ちの混じった声が飛ぶ。


 蹄の音は、もう地面越しではなく、空気を通して直接肌を叩くようになっていた。


 シグの脚が、ヒルドを追う方へ向く。


 ヴァルクスの目が、うっすらと開く。


 任務はもう終わっていて、敵は倒れている。グラウたちがここへ着けば、後は勝手に運ばれていくだけだ。


 自分がこの場に残る理由など、本来ならどこにもない。


 一歩目を踏み出そうとした、その時。


 背後で、頼りないながらもそれまで確かに続いていた浅い呼吸が、ふいに途切れる。


 去っていくヒルドの背、迫る強敵の蹄、そして目の前で消えかけている命。


 そのすべてが同時に押し寄せてきて、それなのに、視界がやけにゆっくりと動いているように感じられる。


 気づいた時には、シグはしゃがみ込んでいた。


 迫り来る一団からは、詠唱が聞こえ始め、空気が張り詰めていくのが肌でわかる。


 「……なるほど。あれは、三人で相手をする数じゃないわね」


 シグは魔導書を開かず、エルネストの背へ手をかざす。


 「血よ巡れ、息よ繋がれーー《治癒》」


 震える手のひらから、命を繋ぐための魔力を流し込む。


 「……《狂智》を、こんなところで無駄遣い出来ないの」


 すでにヴァルクスは目を覚ましている。あの男が立ち上がれば、次に地へ伏すのは自分かもしれない。


 過不足なく、ただ二人の呼吸を保たせるためだけの、小さな光。


 光が静かに広がり、エルネストとガルムの胸が、揃ってわずかに上下する。


 「……馬鹿みたい」


 小さく零れた声は、風の中へ溶けていく。


 シグは立ち上がり、一度だけ振り返って、エルネストの胸が確かに上下しているのを確かめてから、踵を返して走り出す。


 背後で、蹄の音が地を割るように轟く。


 もう振り返る余裕はない。シグはヒルドの背を追って、風の中へ駆け込んでいく。


 *


 入れ替わるように、騎士団が到着する。数人が馬から飛び降り、倒れた三人のもとへ迷いなく駆け寄っていく。


 グラウは馬上から、王国の宝剣を抜いたまま、その光景を静かに見下ろしている。


 風が、焼けた土の匂いと、日暮れ前の冷えと、回復魔法の残した淡い温みを、いちどきに運んでいく。


 ふと、グラウの視線が上がる。


 空に、黒い影が散っている。カラスが三つ、四つ……いや、まだ増えている。


 王都の方角からも新たな影が湧き、ひとつの塊になりながら西へ抜けていく。


 重なり、離れ、また重なり、数はとうとう最後まで定まらなかった。


 その軌跡を、グラウは少しの間目で追っていた。


 遠ざかる影へ、第一団の何人かが顔を上げる。


 グラウの視線はすぐ、地に伏した三人へ戻る。


 やがて、剣を鞘へ収める乾いた音が、焼け跡の匂いの中にひとつ響いた。


 *


 教会の中は、外の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。


 夕刻へ傾いた光が、高い天井へと伸びる白い壁に、細長い帯を落としている。


 乾いた薬草の匂いと、洗い立ての布の清潔な匂いが、動かない空気の中で混じり合っている。


 その中を、セレスティアは窓まで行っては引き返し、扉の近くまで来てはまた窓へ戻ることを、さっきから何度も繰り返している。


 早足になるたびに、まだ塞がりきらない肩の傷が鈍く疼いたが、今はそれすら気にする余裕がない。


 ベッドの上では、リラが横になっていて、その胸は浅いながらも一定の間隔で上下している。


 その呼吸の数を、意識せずとも数えている自分に気づいて、セレスティアは唇を軽く噛む。


 傍らの椅子には、ハルが腕を組んだまま、指一本動かさず、腰を下ろしている。


 視線はリラへ向けられているが、焦点はどこか彼女の顔よりもっと遠くにあるように見えた。


 先ほどまでの軽さからは想像もつかない静かさで、何を考えているのかはセレスティアにも読めない。


 足を踏み出すたびに、徐々に早く、強く音が響く。


 何往復もしたあとで、それが自分の苛立ちそのものだと、ようやく気づいた。


 「……遅い」


 ぽつりと落ちた言葉は、誰に向けたものでもないつもりだった。


 だが、口にした瞬間、心の内側に留めきれていない不安を、自分自身で聞き取ってしまい、セレスティアは下唇を噛み締める。


 シーツの擦れる音がした。目を開けたリラが、ゆっくりとこちらへ視線を向けている。


 「聖女殿、あなたと__」


 「聖女って呼ばないで」


 リラの呼びかけは最後まで続かない。セレスティアの足が止まり、その場で振り返っていた。


 リラは言葉を失い、瞬きする。


 どうしてそこまで強く言い返したのか、セレスティア自身もうまく説明がつかない。


 ただ、あの呼び名のまま扱われることに、今はどうしても耐えられなかった。


 セレスティアは小さく息を吐き、視線を少し逸らす。


 「セレスティア……私の名前はセレスティア」


 今度は言葉が強くならないように意識しながら話す。


 「セレスティア……さん?」


 リラが確認するように呼ぶと、セレスティアは短く頷く。


 名前を、名前のまま受け取ってもらえた。それだけのことで、セレスティアの頬から力が抜けていく。


 リラは少しだけ身体を起こそうとして、しかし諦めたように力を抜く。


 「セレスティアさんとカイランさんは……その」


 セレスティアは肩をすくめるようにして口を開く。


 「幼馴染」


 それだけ言ったあと、何かに気づいたように突然、目を細める。


 「何? カイランに手を出そうとか思ってる?」


 セレスティアの声が低くなり、その奥にはっきりと棘が混じった。


 リラは慌ててブンブンと首を横に振る。枕がずれるほどの勢いで何度も否定した。


 ……今のは、少し早かったかもしれない。彼女は何も言ってなかった。


 そのやり取りを横で見ていたハルが、口を開く。


 「聖女と聖騎士が何故王都に?」


 ……今、聖女って呼ばないでって言ったんだけど。


 セレスティアは視線をハルへ向けると、悪びれる様子もなく腕を組んだままの横顔が見えた。


 聞いていなかったのかと思ったが、目が合った瞬間、口元が軽く緩む。


 ……絶対、聞いていた。余計に腹が立つ。


 「聖女は本来、巡道教本部にいるもんじゃないのか?」


 聖女という言葉に、セレスティアの眉がぴくりと動く。


 視線が鋭くハルへと向けられるが、ハルはそれを気にした様子もなく続ける。


 「しかも、あんたたちが来てすぐ魔王が現れた。それも二人同時にだ」


 空気が少し引き締まる。


 セレスティアは一度、視線を外し、考えるように間を置く。


 魔王の名を並べて出されると、さすがに軽口では返せない。


 「本部がどう考えたかは知らないけど……私はカイランが《狂帝》にやられたって聞いたから来ただけ」


 自分の声が思ったより硬いことに、話しながら気づいた。


 「……結局、私もボコボコにされたけど。でも《血の血統》が現れるなんて知らなかった」


 ハルがわずかに顎を引く。


 「カイランは?」


 セレスティアは肩を落とし、小さく息を吐く。


 「さぁ? あの人は理由を一々言ってくれる人じゃないから」


 「本当に?」


 セレスティアの顔に苦笑が混じる。


 ……分かっていて聞いているくせに。


 その苦笑に、リラの目がわずかに和らぐ。


 「セレスティアさんも、苦労してるんだ……」


 セレスティアは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく頷く。


 「……うん」


 ハルが腕を組み直す。


 「俺には、あの人の方があんたに振り回されてるように見えたけどな」


 セレスティアの肩がぴくりと動く。


 「……そんなこと、ない。私は……いっつも、彼を追っかけてるだけ」


 言いながら視線を下へ落とし、窓から床に伸びる光を靴先でなぞる。


 リラがその様子をじっと見ていた。


 「好きなの?」


 思わず顔を上げた、セレスティアの耳が一気に赤くなる。


 「な!? ち、違……」


 違う。そう言えば終わるはずなのに、その一語がなぜか喉を通らない。


 「……わない、けど。でも……」


 言ってから、自分の口を押さえるように手で塞ぐ。


 口から出た言葉を自分の耳が拾い、セレスティアは固まる。


 ……今のは、何。


 言うつもりのなかった言葉が、傷と不安から勝手に滑り出ていた。


 セレスティアはふと、部屋の中を見回す。呆れるほど、普通の空気が流れている。


 妙な取り合わせだと思う。魔族と正面から戦える者が三人も揃っていて、話しているのは、年頃の男女のありふれた恋の話だ。


 詰めていた肩の力が、少しだけ抜ける。


 「どうせ、カイランは私なんて見てないし、興味もない」


 顔が下を向き、視線も完全に落ちる。声も、最初と比べてはっきりと小さくなっていた。


 ハルは何も言わずに、そのやり取りを横から見ている。


 「これからどうするんだ?」


 セレスティアは顔を上げないまま答える。


 「私は傷が治ったら本部に帰る……ことになると思う」


 言葉の最後が少しだけ曖昧になる。


 口にした瞬間、まるで、自分に罰を言い渡したような重さが喉に残る。


 「じゃないと、聖域騎士が来ちゃうし……」


 ハルが短く息を吐く。


 「狂帝や血の血統はいいのか? 魔王たちは巡道教の宿敵だろ」


 セレスティアは少しだけ顔を上げる。


 「……血の血統はもう王都にはいないと思う。三日と同じ場所にいないから。いつも逃げられる」


 「……そうか」


 そのやり取りを静かに聞いていたリラが、ゆっくりと口を開く。


 「傷が治って帰る前に……デートしたらどう?」


 空気が止まる。


 セレスティアが顔を上げる。


 「……え?」


 「せっかく王都に来たんだから、少しくらい楽しんじゃダメなの?」


 その言葉は軽く聞こえるが、視線はまっすぐだった。


 ……あまりにも、普通な意見……聖女にする提案じゃないでしょ。


 セレスティアの口が開いて、閉じる。


 「……わかんない」


 窓から差し込む夕方の光が、セレスティアの琥珀の髪を温かく染める。


 一度、視線を落とした、リラがほんの少しだけ微笑む。


 「気持ちは伝えないと……始まる前に終わっちゃうよ……」


 その声に、椅子が小さく軋んだ。


 視線を向けると、組んでいた腕がほどけかけたまま、ハルの目がリラの横顔へ長く留まっている。


 何かを言いかけたようにも見えたが、結局その口はまた閉じ、腕は元通りに組み直される。


 セレスティアの目が確かに揺れる。


 「え……?」


 リラの視線がどこか遠くを見る。


 「伝えないと伝わらない……始まる前に終わると……やっぱり辛いよ」


 言い終えたリラの指が、シーツの上でほんの少し縮こまる。


 ただの思いつきで口にした言葉ではないことくらいは、セレスティアにも分かる。


 けれど、踏み込んでいいのかわからなかった。誰の胸の内にも、簡単には触れさせない場所がある。


 本部に帰れば、また聖女に戻る。カイランも聖騎士に戻り、こうして軽口を叩き合う時間も、名前で呼び合う時間も、きっと……なくなる。


 分かっていたはずのことが、今更のように重みを持って胸の内に降りてきた。


 ……その前に、一度くらい。


 聖女でも聖騎士でもない時間を、ほんの少しだけでも。


 セレスティアは何も言えず、ただ小さく頷く。


 「……うん」


 先ほどよりも、ほんの少しだけはっきりとした声が出た気がする。


 肩の傷が、朝ほどには疼かない。それに気づいてしまって、セレスティアは口を閉じた。


 廊下の向こうで足音がして、セレスティアの顔が扉へ向く。


 だが、その足音は部屋の前を通り過ぎていった。




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