第31話 昨日とは違う一歩
冒険者の数はいつもと変わらないのに、ざわめきの質が違っていた。
どのテーブルの話も同じところを堂々巡りするだけで、そのくせ誰ひとりとして席を立たない。
普段なら食事処から流れてくるはずの酒の匂いが、今日はどこか薄い。
この場所を冒険者ギルドだと言われても、今は素直に頷けそうにない。
「行くべきだろ。《残響の楔》が戦ってるんだぞ」
「行ってどうする。足手まといになるだけだ」
「近衛騎士が動いてる。任せればいい」
「この間の狂帝の時の二の舞だけは勘弁だぞ」
いくつもの声が、同時に立ち上がっては己の正しさを主張する。
ラグスは腕を組んだまま、扉の方へ視線を固定している。
木で作られた扉の隙間から差し込む光が、やけに白く、いつもよりも眩しく目に映る。
開けて、外へ出るだけなら自分にもできる。
……上へ行った連中と、未だCランクの自分との差。
文字にすれば、たった一つ隣。そのBランクにすら、手が届かない。
「どうするっスか」
Sランクの連中があの扉をくぐっていってから、隣でセインはずっと貧乏ゆすりを続けている。
落ち着かない時の癖だと、ラグスはもう何年も前から知っている。
焦る気持ちを落ち着かせるため、ラグスは一度、目を閉じる。
行けるかどうかと、行くべきかどうかは違う。
それくらいは、何度もこの身に痛い目を見てきて、いい加減身に付けている。
五十階層へ届かなかったあの日、自分より遥かに強い男から告げられた声が、嫌でも耳の奥へ戻ってくる。
『進めば、誰かが死ぬ』
あの時は、他人に止めてもらった。
なら、今日は自分で止まらなければならない。
……それでも、何もしない理由にはならない。
目を開けると、集まりかけている視線に向かって口を開く。
腰の剣に触れることはしない……ただ、地につけた脚の向く方角は決まった。
「……戦わない」
その一言に、冒険者たちの息が止まる。
「DランクやCランクの俺たちが行っても、Sランクの喧嘩に手を出せない……それに、相手はヴァンパイアだ。あいつらは強さの次元が違う」
冒険者たちの視線が一斉に落ちて、それぞれの拳が、腰に提げた得物の隣で固くなる。
「……それでも、負傷者は運べる。逃げてきた奴を誘導することもできる。それだけでも、やれることはある……はずだ」
口を半開きにしたまま固まっていたセインが、遅れて、何度も頷く。
「それでも無理なら、その時は退けばいい」
カウンターの奥から、鋭い声が割り込んでくる。
「待ってください」
いつもの愛想をどこかに捨て去ったリーネの視線が、まっすぐにラグスたちを射抜いている。
その目に、前の列にいた何人かが、半歩下がる。
「今向かっているのは、《残響の楔》とヴァンパイアが交戦しているとみられる区域です。それに、救援依頼も出ていません。あなたたちが入れば、救助される側が増える可能性があります」
返す言葉を探したが、どこにも見当たらない。
ラグスは握りしめた拳に目をやり、それから答える。
「分かってる。だから戦わない。近づけないなら退く。俺たちがやるのは、逃げてきた奴を拾って、怪我人を運ぶところまでだ」
リーネはしばらくラグスを見据えたまま、何も言わない。
「……それでも、依頼は出ていません……ギルドの受付として、行っていいとは言えません」
「分かってる」
「本当に?」
リーネの手の中で、羽ペンが軋むほど強く握られている。
「あなたたちが戻ってこなかったら、私は今日ここで止めなかったことを、ずっと覚えていることになります」
「戻ってくる」
ラグスはそう言い、まっすぐリーネの目を見る。
リーネの手が、カウンターに開いたままの帳面へ伸びかけて、途中で止まる。
やがて小さく息をつくと、背を向け奥へ屈み、担架を取り出してラグスの前へ置いた。
「……なら、救護用の担架を持っていってください。回復薬も」
小瓶をいくつか、担架の上へ重ねる。
「戦いに行くんじゃなくて、連れ帰るために行くんでしょう」
小瓶を置くその手つきに、もう迷いはなかった。
「戦闘区域へは入らないこと。負傷者を見つけても、追って敵の方へ踏み込まないこと。退路が塞がれる前に戻ってください」
「心得てる」
ラグスはセインの肩を叩こうとして、止めた。
自分が前へ出れば、セインは後ろから付いてくる。危ない時には止め、魔法が必要なら頼む。
それで何年もやってきた……。
「セイン、お前はどうする?」
セインがラグスの目を見る。
「……ラグスさんが行くなら」
そこまで言った口が閉じる。
扉を見て、次にラグスを見る。そして、自分の手の中にある杖へ視線を落とす。
「……いや……俺も、行きたいっス」
貧乏ゆすりが、そこでようやく止まり、セインは顔を上げる。
「戦えるとは思ってないっス。でも、怪我人を運ぶくらいならできる。火を起こすことも、道を照らすこともできる。だから……」
セインの口が一度開き、それでも続く言葉は出てこない。
やがて、何年も隣で聞いてきた言葉が、小さく零れた。
「……心得てるっス」
思ったより小さく出た。それが自分でも分かったのか、セインはもう一度、今度は無理に大きく言い直す。
「心得てるっス!」
その声に引かれるように、周囲からいくつもの声が重なっていく。
「俺も行く」
「俺もだ」
「この街は俺らのもんだろ」
誰かが笑いながら言うと、場の温度がまた一段上がる。
「守るぞ!」
「冒険者舐めるんじゃねぇ! 近衛騎士にばっか負けてられるか!」
「《混沌の庭》に出来て俺らに出来ないわけないだろ!」
その勢いに、すぐさま横から水が差される。
「いや、あいつらSランクだぞ」
「知ってるよ!」
「じゃあ比較すんな!」
いつものギルドに戻ったかのように、どっと笑いが起きる。
だがその笑いの余韻の中で、最初に叫んだ男自身が続ける。
「だから俺らは戦わねえ。怪我人担いで帰るだけだ」
ラグスはそれを見て、口の端をわずかに緩める。
輪の中にいる男のひとりが、急に胸を張る。
「俺は回復魔法が使える!」
「お前、擦り傷しか治せねえだろ」
「擦り傷も怪我だ!」
「胸張って言うことじゃねえ!」
また笑いが弾ける。
「……それでも、何も出来ずに待ってるよりはいい」
笑い終えた男の声が、今度は少し小さくなっていた。それでも、誰もそれに茶々を入れない。
その静けさを破るように、一人の男が前へ進み出る。
手にした袋から小瓶をいくつも取り出し、テーブルの上へ並べていく。
ガラス同士がぶつかり合い、カチン、と硬い音を立てる。
その音に、ラグスの視線がテーブルの上へ落ちる。
「……これは?」
「最新の魔力増強剤だ」
セインの手がすぐに伸びる。
「助かるっス」
だが、その手が瓶に届く前に、ラグスの手が手首ごと掴んでいた。
「ちょっと待て」
「ちょっと待ってください」
ラグスとリーネの声が重なる。
視線がテーブルの上の瓶から、それを置いた男に流れる。
男は軽く笑って肩をすくめる。
「安心しろ。闇や裏で手に入る粗悪品とは別物だ」
周囲の何人かが顔を上げる。
「大きな声じゃ言えないが……聖騎士が使ってるのと同じものだ」
一瞬、場の熱が止まり、音がなくなる。だが次の瞬間には、堰を切ったようにまた声が押し出される。
「じゃあ問題ねぇな」
「教会製だろ?」
「なら安心だ」
教会の名前ひとつで、止まっていた場の空気が元に戻っていく……それをラグスは黙って見ていた。
いつかも、こんなふうに全員の判断が一斉に同じ方へ傾いた。あの時、聖女に剣を振った中のひとりは自分だった。
「出所は」
「だから、聖騎士が使ってるやつと同じだって」
「誰から聞いた」
男の口が、一瞬止まる。
「……そう聞いてる」
「誰にだ」
男は視線を落とすだけで、答えが返ってこない。
周囲に残っていた熱が、ほんの少し冷めていく。
セインも瓶へ伸ばしかけていた手を引き戻し、杖の柄を握り直す。
「ラグスさん」
「心得てる」
いつもの言葉を返しながら、ラグスは瓶に視線を戻す。
透明なガラスの内側で、鈍い色をした液体が、かすかに揺れている。
「今は、飲まねえ」
誰かが、小さく息を吐く。
その直後、ラグスの手が伸びて、瓶を一本だけ取り上げる。
……思っていたよりずっと軽い。
こんなものひとつで、あの扉の向こうとこちらを隔てている線が、少しでも薄くなると言うのなら……。
「持ってくだけだ」
「持ってくんスか?」
「使うかどうかは、現場を見てから決める」
セインが少し困った顔をする。
「その魔力増強材、本当に大丈夫ですか?」
リーネが眉を顰め、瓶を覗き込む。
セインが胸を張って、手のひらで叩く。
「ラグスさんは、そんな柔じゃないっス!」
「お前が言うな」
「それに、使うかどうかは現場で決めるって……あれ、それ、使う人が言うやつじゃないっスか?」
「心得てる」
「今の『心得てる』、全然安心できないっス」
周囲から、わずかに笑いが漏れる。
ラグスの口元も同じように緩みかけるが、手の中の瓶を見た瞬間、固く結ばれる。
「とりあえず、急ぐっス!」
セインの声に押されるように、人の流れが動き出す。
誰かが担架を担ぎ、誰かが小瓶の入った鞄を肩に掛ける。
扉が開き、光とともに外の冷えた空気が室内へ流れ込んで、こもっていた熱を押し出していく。
誰も振り返らないまま、次々と外へ出ていく。
*
扉が閉じると、人の声で満ちていたはずのギルドに、耳の奥がまだ鳴っているような静けさが残る。
リーネは扉から目を離さないまま、胸の前で両手を組んだ。
帳面には、まだ何も書かれていない。
テーブルの上に、数本の瓶が置き去りにされている。
*
頬を撫でていく風があるのに、木の葉は一枚も揺れていない。
弓を引く者にとって、それがどれほど不気味なことか、エルヴィナは誰よりもよく知っている。
……風が読めない。
葉の揺れや風の流れを拾い、その細い道筋に沿って矢を通す。
それが彼女の仕事の半分を占めていると言っていい。
だが今、この森は呼吸を忘れたまま、静かで動きがない。
倒れている魔族は動かず、呼吸ももう止まっている。
少し離れた場所では羅刹が横たわり、血の匂いと重い空気の中で、胸だけが小さく上下している。
その中心に、異質な魔力を纏っている男がいる。
弓を引き絞ったまま、エルヴィナはその男から目を離さずにいる。
……どこかに消えてほしい。
普段なら絶対に考えないことが、頭をよぎる。
隣では、ルヴィンが背を低く落とし、全身に力が満ちていく。
牙がわずかに口元から見え、喉の奥では低い唸り声をあげている。
視線は一点に据えられ、そこから微動だにしない。
もう一方の隣、少し引いた位置にはゼノンが立っている。
指で眼鏡の位置を整え、表情は落ち着いて見える。
だが正直言って、その落ち着いた顔の下で、本当に今必要なことを考えているのかは疑わしい。
エルヴィナは短くない付き合いの中で、何度もあの表情に裏切られてきた。
その対面に、異質な魔力の男、《血の血統》クロウゼルがいる。
ゆっくりと両腕を広げるその仕草が、余裕の表れのように見える。
「銀狼の生き残り、ハイエルフの皇族、それに竜人……」
その柔らかい声が、森の空気を歪ませている。エルフのエルヴィナにはそれがわかる。
クロウゼルは左手を胸元にあて、右手をゆるやかに流しながら、深く頭を下げる。
「残念ですが、今日は先約があるのです」
寸分の狂いもないそのお辞儀は、洗練された貴族そのものの気品を纏っている。
エルヴィナの弓を引く手に力が入る。
角度も、指の位置も、手本のとおり。
……あの国で、嫌というほど習わされた形だわ……無性に癇に障るわね。
隣で、ルヴィンの踏みしめた地面に、細い亀裂が放射状に走る。
「……お前たちをずっと探してきた……逃がさない」
低い唸りを抑えることなく話すルヴィンを見て、エルヴィナは彼がこんなふうに怒りをあらわにするのは初めてだと思う。
ゼノンが小さく咳払いをする。
「ルヴィン、落ち着きなさい。ここで死ぬのは作戦にない」
顔だけをルヴィンへ向け、視線はクロウゼルから外さないまま、普段と変わらない口調で口を開く。
「私が作戦を立てる。いつも通りやろうじゃないか」
だが、ルヴィンの呼吸は変わらないまま、牙がさらに伸び、背がわずかに低くなっていく。
足元の亀裂が大きくなる。
「ルヴィン、落ち着きなさい」
クロウゼルが小さく顎を傾ける。
「ふむ、怒りで合理的な考えを失っていますか」
……キレたルヴィンを目の前にしてこんなにも冷静でいられるものなの?
「所詮は獣ですね。確かに銀狼の村を襲った時もそんな感じでした」
……こいつ、自分で村を襲っておいて、その程度の記憶なの?
「古い記憶なもので忘れていましたよ」
その言葉が届いた瞬間、ルヴィンの瞳の奥に、赤い光が滲むのが見える。
「私たちの天敵として生まれた一族という割には、随分と弱かった。それでは、私たちを狩るなど夢のまた夢でしょう」
エルヴィナの指先に力が入り、弓が軋む音がする。
「なんか、お前は嫌……狂帝の前にお前を倒す」
「二人とも落ち着きなさい」
ゼノンが静かに制する。
「作戦を立てます」
普段のエルヴィナなら、そんなものは必要ないと鼻で笑っていたはずだ。
一人で片付けると言い、二人を下がらせ、あとは力で押し切る。
でも今は、その言葉が出てこない。
弓を引いたまま、エルヴィナはクロウゼルから目を離さずに言う。
「……早くなさい」
ゼノンの眼鏡が、信じられない速さでこちらへ向く。
「……珍しいですね」
「黙って、今すぐ考えなさい」
そう言いながら、ゼノンは首元から小さな機器を取り出し、手のひらに収まるそれをクロウゼルへ向ける。
針が一瞬だけ震え、止まる……それきり動かない。数値が出ない。
手袋の中で、ゼノンの手がゆっくりと拳を作っていく。
「……これは」
言いかけた言葉を、ゼノンは自分で飲み込む。
「二人とも、今度こそ私の作戦を最後まで聞いてください」
「お前の作戦が長いのよ」
「最後まで聞かない二人に原因があります」
「短くしなさい」
「善処します」
「まずルヴィン、正面から__」
言い終わる前に、隣の気配が消えている。
風を置き去りにするほどの速さで、銀色の影が一直線にクロウゼルへ飛びかかっていく。
「……まだ説明の途中なのですが」
「だから、遅いのよ!」
叫びながら、エルヴィナは弦をさらに引き絞る。
クロウゼルまでは一直線。指を離せば、そのまま水の矢が届く。
だが、その道筋の上に、銀色の背中が割り込んでくる。
「ルヴィン!」
離れかけていた指を、もう一度強く握り直す。
一度手を離れかけた矢は震え、形を崩しながら勢いを失っていく。
撃てたはずの好機が、目の前で消えていく。
代わりに、ルヴィンの爪がクロウゼルの喉元を切り裂く……はずだった。
だが、触れる直前、ルヴィンの身体が空間ごと固定されたかのように、止まる。
クロウゼルが、ルヴィンの手首を片手で掴んでいる。
背後で羽ばたく音がして、視線を向けると、ゼノンの背から翼が広がり、魔力に押された空気が周囲の葉を震わせている。
翼が開くのとほぼ同時に、背負われていた巨大な斧槍、《大断罪斧》がゼノンの手へ収まる。
だがクロウゼルは視線すら向けない。
まるでそこに何も存在していないかのように、言葉を続ける。
「先ほどもお伝えしたとおり、私は忙しい。そこで、提案があります」
ルヴィンのもう片方の手が動く。だが、その爪も最後まで届かない。
クロウゼルの膝が無造作に鳩尾へ入り込む。
「……っぐ」
声にならない音が漏れ、ルヴィンの膝が折れる。そのまま蹴り飛ばされた身体が、一直線にエルヴィナへ突っ込んでくる。
「え?」
衝撃に息が詰まり、声にならない悲鳴が喉の奥で潰れる。
二人まとめて木へ叩きつけられ、幹が軋み、葉がばらばらと降ってくる。
「エルヴィナ、三歩右へ。ルヴィンはそのまま」
背後から届くゼノンの声は、いつも通り落ち着き払っている。
「そのままって……木に埋まってるわよ!」
「動けるでしょう」
「動ける」
木に押し付けられたまま、ルヴィンが低く答える。
「なら問題ありません」
クロウゼルは軽く音を鳴らしながら、汚れを落とすかのように、手をはたく。
「話を続けさせていただきますね」
ゆっくりと手を下ろす。
「実は先ほど、カルミラを逃さないために、私の眷属を一体ここに呼んでおいたのです。彼は元々、私の警護担当です」
丁寧に話すその声には楽しげな色が混じっている。
「もうすぐにここに到着するはずです」
地面に膝をついたルヴィンが、血の滴る口元のまま顔を上げる。
「……逃げるつもりか?」
息が荒いが、それでも視線は逸らさない。
「っ……ルヴィン! せめて一言くらい謝りなさい!」
だが、ルヴィンはこちらを見もしない。クロウゼルだけを見据えたままだ。
「聞きなさいよ!」
その瞬間、空気が止まる。
クロウゼルから、凄まじい魔力が滲み出てくる。
音が消え、風が消え、森が息をするのをやめた。
「失礼。彼が迷わないようにするための、目印です」
押し潰されそうな魔力の漂う中で、横たわった羅刹の指がわずかに動く。
……まだ、こんなに隠していたの。これは、まずい。
「私の代わりに彼と戦ってください」
ゼノンが視線をクロウゼルに向ける。
「いいだろう。その彼は、もう近いのか?」
クロウゼルが、ほんの少しだけ微笑む。
「ええ、着きました」
その言葉と同時に、森の奥から魔力の“塊”が近づいてくる気配がする。
密度が空気を押し潰していく。形はまだ見えない。
*
夕刻へ傾いた光を受けて、王都の石畳が徐々に橙色へ染まり始めていた。
行き交う人々の声も、遠くで軋む馬車の音も、いつもと何一つ変わらない。
それでも今日はどこか、現実味だけが欠けている。
西の方角で、氣と魔力がぶつかり合っている。その気配が、街の景色から現実味だけを削いでいるのかもしれない。
だが、その違和感よりも、今は繋いでいる手の方へ意識を向けていた。
細い指が、俺から離れないよう、しっかりと俺の手を掴んでいる。
狐の耳も九本の尾も、今は表に出ていない。
俺の手を握る右手首には、外れていた水色のブレスレットが戻っている。薬指の金も同じだ。同じ手首に、俺が結んだ守りの紐が、まだそのままになっている。
手のひらに、まだ塞がりきっていない爪の跡がある。握り返すたび、乾いた血が触れる。
それに、その指には止めきれない震えがある。
歩幅も、石畳を踏む音もほんの少しだけ遅れている。
いつもは決してずれないその歩幅を無理に合わせようとするたび、わずかに手に力が入る。
それでもタマは顔を上げ、形だけつくった笑みをこちらへ向ける。
「……大丈夫」
その言葉は、俺にではなく自分自身へ向けているように思える。
抑えているものがまだ定まらず、わずかなきっかけひとつで、また暴れ出してしまいそうな危うさが残っている。
俺は何も言わず、その手を包むように握り返す。
無理に力を込めるのではなく、”ここにいる”ことを伝えるように。
タマの手のひらの震えが一瞬だけ強くなり、それからゆっくりと落ち着いていく。
反対側では、アウルもタマの手を握っている。いつものように少し近すぎる距離のまま、何も言わず歩いている。
少し後ろを歩くカイランが、何も言わないまま、一定の距離を保ってついてくる。
いま向かっているのは教会。リラがそこにいる。
八百屋の店主が上げる威勢のいい呼び込みを背に聴きながら、俺はふと口を開いた。
「……少し寄るか」
誰に向けたわけでもなく、ただ思いついたまま呟いた。
「この先に、いつもの甘味処がある」
タマのお気に入りの店が視界に入っている。
特に深く考えたわけではなく、いつも通りへ戻すための、ただの提案のつもりだった。
甘味を少し買う、そのわずかな時間だけ………それくらいなら障りはないだろう。
「先に行っていてくれ。すぐ追い__」
「……ダメ」
言い終わる前に、タマに遮られる。
隣を視ると、額に汗を滲ませたタマが俯いたまま、下唇を噛んでいる。
「……何故だ」
「一人にしちゃダメ」
「甘味を買いに行くだけだぞ」
「そういう時が一番ダメなの」
聴こえていたはずの声や喧騒が耳に入ってこない。
さっきまで肌を撫でていた風の冷たさも、タマの声と同時に消えている。
握られた指の力が、わずかに強くなる。
「ゲドーマルを一人にすると……絶対、何か起こる」
視線は上がらないまま、それでも、声には迷いの欠片もない。
俺には最初、その確信の理由が理解できなかった。
だが昔、京の都へ出るたびに、茨木が同じようなことを言っていた。
……あの時も、俺は何もしていなかったはずだ。
タマの向こう側でアウルも短く頷く。
「……うん。ダメ」
「お前までか」
「ゲドーマル、一人だと、何か増える。何もしなくても、増える」
アウルが少しだけ胸を張る。
「イバラキが、ドゥールに言ってた」
「何がだ」
アウルが、手で顎を押さえるようにして頭を傾ける。
「……人?」
「人とは限らないよ」
タマがいつもの調子に近い返答をする。
だが、手を握る力が、俺を離さまいと言わんばかりに、また少し強くなる。
カイランの口の端に小さく笑みが浮かぶ。
「何をしてきたんだ、君は」
「何もしていない」
嘘ではない。本当に何もしていない。
カイランの笑みが、そこで一度薄れる。俺の手を握るタマの手を見て、眉間に皺が寄る。
「……そんなにか?」
「そんなに」
タマが顔を上げないまま、今日いちばんの返事の速さで答えた。
カイランの口元に残っていた笑みが、完全に消える。
「そうか……なら、一人にするのはやめよう。教会にも、軽く口に入れられるものくらいはある。それで済ませよう」
俺も、少し考えてから頷く。
「……そうか」
完全に、腑に落ちたわけではない。
いつもの甘味処の旗が、視界の端で風に揺れている。
ほんの少し寄るだけで済む距離にいる。だが、俺の手の中には、まだタマの震える手がある。
もう一度、俯いたままのタマを視た。
「……なら、そうしよう」
甘味処の入り口から、視線を外す。
四人の距離は、わずかに離れては、また近づく。
夕刻の橙が俺たちの影を長く伸ばし、その先で、教会の塔が影へ沈みかけている。




